国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)

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レポート:国際大学GLOCOM公開コロキウム「情報社会時代のリテラシー教育が目指すもの」

■講師:小寺信良(MIAU代表理事)、中川譲(MIAU理事) ■日時:2009年7月13日(月)午後1時30分~4時 ■会場:国際大学グローバル・コミュニケーション・ センター ■講師プロフィール:  *小寺信良(こでら・のぶよし)  MIAU代表理事。テレビ映像の編集者としてバラエティ、報道、コマーシャルなどを手がけた後、AV機器評論家、コラムニストなどの活動を行う。2007年に「MIAU」の立ち上げに参画、2009年より代表理事。  *中川譲(なかがわ・ゆずる)  MIAU理事。イラストレーターやプログラマーなどを経て現職。東京大学大学院学際情報学府博士課程在籍中。情報社会論、コンテンツ政策史などを専門としながら、情報通信技術教育にも携わる。多摩大学情報社会学研究所リサーチアソシエイト。 ■小寺による講演 小寺による講演では、IT教育の現状、MIAUが実践した情報リテラシー教育に関する報告、そして最後にそれらを踏まえた問題提起がなされた。その概要は以下のとおりである。 IT教育については既に高校では情報科が開設されているが、当初はPC検定やワープロ検定などを対象とした授業が行われ、現在では改定情報論として情報コミュニケーション論などが教えられている。新旧いずれの情報論を教えるかは、高校の裁量に委ねられている。ただし高校では情報論を専門とする教諭は少なく大半が他の教科との兼任であり、また高校入学から卒業まで同じ検定教科書を使うなど、生徒が卒業した時点で知識が陳腐化するおそれがあることが小寺によって指摘された。 MIAUの教育スタンスとしては、社会的な合意としての携帯電話についてのモラルは未だコンセンサスが得られておらず、モラルやルールの押し付けは極力避けたい。その替わりにMIAUは、メールが伝達される経路やネット網などの仕組みや理屈を子供たちに教えている。そうすることで、例えば必ずしもメールの送信相手が3~5分以内に自分に返信できるとは限らないことが理解され、また理屈を教えることでこれから出会うかもしれない未知の問題にも子供が対応可能となることが期待される。同様にMIAUによる実践例として、学校経由で親に情報リテラシー読本を配布するのではなく、父兄が一同に会する入学説明会のような場で説明をしたことにより、入学後、子供の間にメール依存症の傾向が見られなくなった事例が報告された。 中学・高校の教育現場には満足のいく教材がないことを知り、MIAUは情報リテラシー読本の制作にも取り組んでいる。制作のポリシーとして、アニメや漫画ではなく文章での理解を第一としている。これは、サイト利用契約などはすべて文章で書かれており、トラブルを回避するためには文章の記述に慣れさせることが望ましいためである。また中川によれば、授業の経験上、匿名性についての授業は中学生には理解が難しく高校からが適当である。 地方の教材作りを概観すると、教材のための良い素材を見いだせずにいる例がある一方、良いものを作りながら他の地方にはそれが知られていない例もある。さまざまな教材が今後も作られようが、何か評価軸となるものをいくつか考え、チャート化してそれぞれの長短を見られるようにしてはどうか、との提案が小寺によってなされた。 小寺はまた、(交通安全運動のように)活動の規模が大きくなると問題が単純化されてしまうことがあるが、情報リテラシー教育はもともと単純なものではないことを改めて強調した。さらに規制以外の解決法も探る必要があり、無用に規制に依存しない自然発生的な社会デザインの必要性も問題として提起された。 講演では他に、60歳代以上にはテレビ離れがあまり見られないことから、現代において登場したインターネットというメディアから現代世代が今後もかい離してゆかないと考えられること、また、技術的には可能なPCのペアレンタルコントロールも、膨大なアクセスログにより実際には親の管理能力には相当の負担であること、さらに思春期との関係から子供に携帯をもたせるための適切な時期などについての見解が示された。 ■中川による講演  続く中川の講演では、携帯電話がどのように有害なものとしてメディアで扱われるようになったかについての歴史観が提示され、それに基づく問題の指摘がなされた。まず、現状では携帯電話の利用者は直近の2009年1月では1億1,300万人に達しており、iモードなどのIP接続サービスの契約者は、サービス開始翌年の2000年からは2500万契約/年という劇的なペースで増加している。だが、これを遡る1990年代の新聞記事を見ると、携帯電話を否定する態度と、電気を導入したばかりの明治時代のテクノフォビア(技術恐怖症)とを重ね合わせて揶揄しており、新聞が携帯電話の出現を肯定的に評価していたことが伺える。  その後の携帯電話有害論は、まず電池や電波といった携帯電話に付随する周辺の物理的ファクターを理由として唱えられることから始まる。その時点では、携帯には「かぎっ子」対策などの有用性が認められ、携帯電話の利用が有害であるとの強い主張は認められない。しかしその後、静謐を保つべき場での使用、車の運転中での使用が取りざたされたことに始まり、携帯電話の存在そのものが有害とされるようになり、「心の温かさ」を欠くなど利用に害があるという考え方が示されるようになった。また、講義中に通話する大学生の親の責任を問う声が取り上げられるなど、責任の所在が探索され始めた。  2000年からは携帯電話=インターネットの時代を迎え、電子メールの使用が広がる。2001年に、ツーショットダイヤルを利用した犯罪によって女中学生が死亡した事件などを契機に、今度はインターネット=携帯電話=悪という図式が現れる。これを受け、2002年には携帯電話は犯罪の温床であるとする教育者の主張が登場し、現在の批判的立場がほぼ形成される。その後も「出会い系サイト」、「有害サイト」さらには「自殺サイト」などがネットや携帯電話との関連で論じられ、それらに関する記事件数はとりわけ2006~08年に著増した。かくして、それらのサイトがメディアで取り上げられ始めた2006年後半から、「学校裏サイト」でのネットいじめが大きく報じられた2007年にかけ、携帯電話=有害という世論が完成する。  携帯の普及が進んだ現在、有害論の中心は携帯電話そのものにではなく「携帯を利用して何かをしていること」という価値の問題に置かれている。省みるまでもなく、子供の「しつけ」、「いじめ」や「性犯罪」といった問題はいつの時代も不変に存在するにも関わらず、メディアは上述のように「ネットいじめ」や「出会い系サイト」といった言葉を連ね、これら不変の問題といわゆるネット教育の問題とを連結させあたかも同等であるかのように扱っている。そのため、メディアは問われるべき問題の本質をぼやけさせてしまっているのではないかと中川は指摘する。アジェンダ・セッティング機能仮説が主張するように、メディアがもつ争点を設定する機能は強力である。例えば、昨今メディアが問う携帯電話の危険性やその学校への持ち込みの可否も既にセットされた争点であり、そのため「子供を犯罪に巻き込まない」という本質的な問題は置き去りにされてしまう。   たとえ情報の出入り口であるネットや携帯を規制・遮断しても、実社会の問題は解決しない。中川によれば「『思いやりをもって携帯電話を使おう』という類のスローガンは多いが、そもそも思いやりをもって他人に接する方法を教えずに、思いやりをもった携帯電話の使い方を教えることなどできない」のである。また、教師が情報リテラシーを身につけること自体が難しく、生徒にそれを身につけさせることはさらに困難であるにせよ、それらハードルを乗り越え、子供たちに理性的に行動する力を身につけさるべきであることが、中川によって提言された。

2009-08-24