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「ネットワーク革命と日本」

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1995年12月10日

「ネットワーク革命と日本」

公文俊平

世界は今、技術・経済・社会面での革命的な変化を経験しつつある。「ネットワーク革命」あるいは「ディジタル・ネットワーク革命」がそれである。1970年代から80年代にかけて、小型化し分散すると同時に高機能化していったコンピューターが、1990年代に入って、いっせいにネットワーク化し始めた。その結果、ひとりひとりの個人や集団が、情報処理や通信の面での巨大なパワーを手中におさめるようになった。1990年代の半ばにいたって、コンピューター・ネットワークがもつ巨大なパワーは、誰の目にも明らかになったばかりか、依然として「爆発的」といいたいような急速なパワーの拡大が続いている。

最近のある雑誌のインタビュー(Internet World, 9511)の中で、ジョージ・ギルダーが述べているところを整理しなおしてみると、コンピューター・ネットワークのパワーの増大速度は、二つの理論則

  1. 個々のコンピューターのパワーは、チップの集積度の自乗に比例する
  2. ネットワークのパワーは、その規模 (ノード数) の自乗に比例する、

と、二つの経験則

  1. チップの集積度は、18カ月ごとに倍増している
  2. コンピューターのネットワークの規模は年々倍増している

の合成によって示される。すなわち、それは、3 年で1000倍、つまり年々10倍という、にわかには信じがたいほどの速度になる。5 年で10万倍、10年で実に100 億倍である。

ただし、上記の四つの「法則」のうち、二つの経験則の方は、そういつまでも妥当し続けるはずはない。しかし、少なくとも、後まだ 5~6 年は妥当すると見てよいだろう。だとすれば、「ネットワーク革命」は、おもに1990年代の特異な出来事として歴史に記録されることになりそうだ。

つまり、1990年代の初めと終わりとでは、われわれを取り巻く情報通信環境はまったく一変してしまっているに違いない。これからの五年間に、このネットワーク革命の波にうまく乗ることができれば、21世紀初頭のわれわれは、その10年前には想像もつかなかったような高度な情報通信環境の中で生活していることだろう。逆にもしそれに取り残されてしまえば、波の先頭にある地域とのあいだの情報通信格差は、それこそ目もくらむばかりの大きなものになっていることだろう。そのどちらになるかは、今後一、二年の間に、われわれがいかに賢明に行動しうるかにかかっている。

今世界に拡がりつつあるのは、これまでの電話や放送とは種類を異にする新たな情報通信ネットワークである。その原型は、双方向のデータ通信のシステムとしての「インターネット」なのだが、このネットワーク自体さらに進化を続けているので、やがてはそこに電話や放送の機能も取り込まれていくに違いない。アメリカのエヌルネサンス(NRENAISSANCE)委員会は、近未来のコンピューター・ネットワークの理念像を「オープン・データ・ネットワーク(ODN) 」という言葉で特徴づけている。それは、

  1. ユーザーを限定したり囲い込んだりせず、電話のように誰でも使えるという意味でどんなユーザーに対しても、
  2. 誰でもそこに参入し競争することが可能だという意味で、どんな情報通信サービスの提供者に対しても、
  3. 他とつながって全体の一部となるための要求事項をみたしていさえすればよいという意味で、どんなネットワーク提供者に対しても、
  4. 新しいアプリケーションやサービス (伝送・交換・制御) の導入が常に可能だという意味で、変化に対しても、すべて開かれた(オープン)ネットワークなのである。このようなネットワークは、多数のローカルなネットワーク(LAN)が互いにいわば対等な形で接続し合った構造をもつことになるだろう。電話のように、各加入者から市内電話局の交換機にそれぞれ一本ずつの回線が集線され、そこから中継交換機へ、幹線へと進むような集中階層的な構造が取られることはないだろう。

残念なことに、現在の日本での情報通信政策をめぐる論議は、既存の電話事業をどうするか、それも市内電話網を独占しているNTTの経営形態をいかに変更してそこに競争が導入されうるようにするかという論点に、もっぱら集中している。しかしそれはたかだか第二義的な論点でしかない。

第二義的という意味はこうだ。すなわち、第一に、真の中心論点は、既存の電話網や放送網とは異なる構造をもつコンピューター・ネットワークを、いかに速やかに--多分五年以内に--全国的に構築するのかというところに、なければならない。その目的のために、既存の事業者だけでなく、この分野に参入する意欲のある各地域のすべての潜在的に可能なネットワーク提供者や通信サービス提供者(下水道事業者や電力会社から建設会社や電気工事会社まで)が参入して競争・協力するための制度的な仕組みを、いかに準備するかというところに、なければならない。しかし、第二に、そうはいっても、そのようなコンピューター・ネットワークの新たな構築には、かなりの時間がかかる。他方では、それへの需要は現在ただ今、爆発的に増大している。そうだとすれば、その需要に今すぐ応えるためには、既存の電話網やケーブルテレビ網、あるいは無線放送網の回線や通信サービスを、コンピューター・ネットワーク用に当面利用させるという方策も、当然採用されてしかるべきである。それを可能にさせることが、現在議論されているNTTの市内網の開放がもっている最大の意義である。それにくらべれば、第二の市内電話網が構築できるかとか、既存の電話網を競争的な電話サービスの提供業者も利用できるようになるかなどといった論点は、重要性ははるかに少ない。

同じことは電話料金についてもいえる。今の問題は、同種の電話サービス業者間の競争を通じて、電話料金が何割か下がる可能性があるのかないのかといったことではない。インターネットのような既存の電話とは異質のネットワークの上で、電話サービスもまた、これまでの電話の何十分の一、何百分の一の料金で利用可能になろうとしていればこそ、既存の電話料金に対する極めて強い引き下げ圧力が働くわけだ。これが、今開けている真に大きな可能性なのである。

ところで、コンピューター・ネットワークがもつ最も重要な社会的機能は、コミュニケーション(およびそれに支えられたコラボレーション)の手段としての機能である。コンピューター・ネットワークの普及によって、これまでのマス・コミュニケーション(放送など)とパーソナル・コミュニケーション(電話など)を補完・拡充する新たな形のコミュニケーションが可能になってきた。パブリック・コミュニケーションとグループ・コミュニケーションがそれである。

パブリック・コミュニケーションとは、各人が、自分が公開したいと思う情報を公衆に提供する形のコミュニケーションである。コンピューター・ネットワークの上でいえば、WWWのホームページを通じて行われるコミュニケーションが、それにあたる。これまでのマス・コミュニケーションと違って、誰でもが発信者となりうる可能性をもっているが、情報の提供自体は自分のコンピューターの上で、いわば控えめに、そして個別的に行われるので、その分受信者の方が、欲しい情報を探索したり入手したりする努力を積極的に払わなくてはならない。グループ・コミュニケーションとは、共通の目標を実現するための協働行動(コラボレーション)を支援するためのコミュニケーションである。コンピューター・ネットワークの上でいえば、電子メールや電子会議、あるいは各種の「グループウエア」を利用したコミュニケーションが、それにあたる。これまでのパーソナル・コミュニケーションよりは広い範囲の人々を同時に対象とする、密度の高いコミュニケーションが行われるのが、その特徴だといえよう。コミュニケーションのこれら二つの形は、「コミュニティ・コミュニケーション」と総称することもできよう。

コミュニティ・コミュニケーションが高度化していくためには、双方向のコミュニケーション基盤が利用可能であること、しかも受信・発信どちらの方向についても同程度の帯域の利用が可能とされていることが必要だろう。テレビやラジオのように受信者はもっぱら受信だけに特化して、発信機能はもたないというわけにはいかない。あるいは、かつてのキャプテンなどに見られたように、受信と発信が非対称的に行われる(いわゆる上り線の帯域は、下り線のそれよりもはるかに小さい)というわけにもいかない。また、この形のコミュニケーションは、グローバルに行われる可能性があるとはいえ、現実の問題としては、物理的にも近距離にいる人々(職場の同僚たちや、近隣のコミュニティのメンバーたち)の間でローカルに行われる割合が圧倒的に大きいだろう。現に、今のインターネットの上での情報の流れの70% 以上は、ローカルなコミュニケーションだという。その意味では、末端ほど帯域が狭く、幹線になるほど広くなっていくといった電話型のネットワークの構造は、コミュニティ・コミュニケーションの基盤としては不適切である。これからのコミュニティ・コミュニケーションは、ネットワーク全体のいたるところに広い帯域と高度なインテリジェンスが遍在しているような、「コミュニティ・ネットワーク」の連結体を基盤として発展していくことになるだろう。そうだとすれば、ネットワーク革命を推進していく上での最も緊急の課題は、この「コミュニティ・ネットワーク」の全国的な構築、それもできるかぎり急速な構築だということになる。

では、どうすればそれが可能になるだろうか。なによりも「管理された競争」の仕組みとして存在している、現行の電気通信事業法およびその施行規則や各種の内規、それらに関連する行政指導の慣行などは、早急に見直して、できる限り多種多様な事業体の参入が可能になるような制度的仕組みを作っていくことが必要だ。そのさいに、新たに構築される局所的なコミュニティ・ネットワーク相互間、および既存の情報通信ネットワークとのあいだの相互接続や相互利用が保障されなければならない。さらに「第ゼロ種通信事業」などと呼ばれる通信回線それ自体を建設・提供する事業活動の自由も、保障される必要がある。しかし、それだけでは、とりわけ地方でのコミュニティ・ネットワークの急速な展開にとっての十分な条件にはならない。そこでは、民間の事業者だけでなく、地方自治体や市民の参加が可能な仕組みを工夫してみなければならないのではないか。

今、NTTのマルチメディア地域実験の対象地域の一つに選ばれた大分県では、コミュニティ・ネットワークの構築と運営を促進・支援する「地域情報化委員会」とでも呼ぶことができるような組織を作るための試みが、物理的なネットワークや通信サービスの提供の実験と並行して、行われている。現在ではまだ委員会の「準備会」が組織されているにすぎないが、そこには、自治体と共に、地域の主要な通信業者や、コミュニティ・ネットワークの構築に強い関心をもつ市民の代表が参加している。また、ネットワークを利用したさまざまなアプリケーションを提供したり、自らの業務自体をネットワーク化することに関心をもつユーザーの協議会も、地域情報化委員会と並んで組織されようとしている。このような委員会や協議会が、そうでない場合には営利事業としての参入に二の足を踏みかねない民間の情報通信事業者を当該地域に引き寄せ、その活動を促進するための制度的基盤(プラットフォーム)として機能することが、期待されているのである。

コミュニティ・ネットワークは、さまざまな側面でわれわれの生活のあり方を変えていく。当面まず大きな影響を受けるのは、企業や政府の業務の進め方だろう。今井賢一氏や国領二郎氏の最近の分析によれば、コンピューターのダウンサイジングとネットワーキングによって生み出された分散処理情報通信システムは、世界の産業組織を、さまざまなインフラやプラットフォームがいくつもの層 (レヤー)をなして重なっている産業活動基盤の上に個々の産業が乗っている形に、変えていこうとしている。それに伴って、これまでの20世紀型の「囲い込み型」、「フルライン型」の経営戦略は有効性を失い、自分の最も得意なところに経営資源を集中し、他はアウトソーシングに頼る「オープン型」経営戦略への転換が必要となってきている。そうだとすれば、私のいうコミュニティ・ネットワークは、このような新しい産業組織とっての、もっとも根源的な基盤となるだろう。

今井・国領の分析は強い説得力をもっていると思うが、それにさらに私なりの視点をつけ加えてみるならば、コミュニティ・ネットワークは、相互の説得を通じて知識や情報を普及・通有する場としての「智場」の、典型的なものである。この意味での智場それ自体は、相互の取引を通じて財やサービスを販売・購入する場としての「市場」とはさしあたり別ものである。しかし、これからの情報社会では、「智場」は、「市場」にとってのプラットフォームとなって、市場を自分の上に乗せるようになっていくだろう。かつての経済理論が想定していたような「完全情報」などどこにも存在しない世界、とりわけ新しい知識の創造と技術の革新が急速に進む世界では、智場は、市場が必要とする情報を提供したり、人々の相互信頼関係を醸成したりするための、不可欠の基盤となるだろう。同様に、政治や行政にとっても、智場はやはり不可欠の基盤となるだろう。

そればかりか、智場を通じて提供される知識や情報は、人々の投資行動や商品の販売・購買行動を、あるいは投票行動を、さまざまな形で制約・拘束するようになっていく可能性がある。たとえば、人々は、投資の収益の大きさを予想する以前に、それが倫理的に "正しい" 投資であるかどうかをまず判断しようとするかもしれない。あるいは、その "面白さ" の有無を、意思決定の重要な要因の一つとするかもしれない。いいかえれば、人々が経済上あるいは政治上の意思決定に際して、それがなんらかの倫理基準や審美基準に合致している証拠を得たいと思うようになるとすれば、それを智場 (とりわけコミュニティ・ネットワーク型の智場) が提供することが求められるだろう。

かつてシュンペーターは、資本主義はその成功のゆえに活力を失って社会主義に道を譲ると予想した。確かに、20世紀の産業社会が生み出した大企業体制は、次第に「官僚制化」して活力の低下傾向を示している。そのような傾向は、今日の日本の「半社会主義的」とさえいわれる経済では特に顕著かもしれない。そこへさらに智場からの余分な制約が加わるとすれば、産業経済の活力はますます低下する恐れがないとはいえない。

しかし、今井・国領のいう新型の産業組織の出現や、私のいう智業 (すなわち、国家や企業とは違って、「智」すなわち知的影響力の獲得や発揮をめざして智場において競争する組織) やネティズン (コンピューター・ネットワークを主な活動の場として智業や企業活動に従事する市民たち) の出現は、そのような恐れを杞憂に終わらせると思う。なぜならば、新しい産業/智業組織の一番上のレヤーを占めるのは、活力に満ちリスクを取ることを恐れない個人あるいは小規模組織としてのネティズンたちであって、彼らの活発な活動こそが持続的な革新の実現を保障してくれると期待できるからだ。おそらく新型の産業組織にあっては、下の方のレヤーほど独占的な大企業の存続する余地が相対的に多く残ると思われる。しかし、より下のレヤーのそれぞれがその上のレヤーにとってのプラットフォームとしての役割を果たすかぎり、また独占的大企業による複数のレヤーにわたる事業活動が有効に制限されているかぎり、未来の産業/智業社会の全体としての活力は、十分維持されうるのではあるまいか。

しかし、そのようなことがこの日本で本当に可能だろうか。ひるがえってそう問う時、私の楽観論はたちまち力を失う思いがしてこざるをえない。確かに19世紀の後半や20世紀の後半の歴史は、立ち遅れを自覚した日本が、国を挙げて、近代化・産業化の先進国に追いつこうと真剣に試みる時には、短期間でめざましい成果をあげてきたことを示している。しかし、トップランナーの一人となって未来を模索しつつ、未踏の領域に進出しなければならなくなると、たちまち歩調の乱れがでてくるように思われる。われわれは、それぞれの帰属(ムラ区分)が明確に規定された秩序の中で、新奇なアイデアや新参者を排除しながら、勝手知った仲間うちで、競争を避け既得権益を侵さないようにして平和に暮らすことを好む。何か既存の秩序を乱すような問題が起これば、行政の規制の強化によって秩序が回復されることを期待する。「規制緩和」に抵抗しているのは、規制権限をもっている行政当局というよりは、規制の恩恵を受けている民間部門である度合いの方が、実はより強いのではないだろうか。