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kumon_letter - February 1, 1996

公文レター No.4

February 1, 1996 [ kumon_letter ] このエントリーをはてなブックマークに追加

1996年2月10日

「公文レター 第4号」

公文レター 第4号

公文俊平

情報化は、国家や大企業ばかりでなく、個人や各種の小集団の "エンパワーメント" をもたらします。情報化のもたらす新しい力は、近代社会を構成する個人を含めた各種の主体の間の力のバランスを大きく変える可能性があります。それも小規模な主体に有利な方向にです。ピーター・ヒューバーがその近著で的確に指摘したように、ジョージ・オーエルが『1984年』で描き出したビッグ・ブラザーによる管理社会の悪夢は、産業化の20世紀システムの突破局面に出現した全体主義化の傾向をそのまま未来に延長した結果、180度方向を誤った予想にすぎませんでした。すでに産業化の20世紀システム自体、その成熟と共に、自由民主主義への傾向を確かなものにしていました。そして、産業社会が産業化の21世紀システムに向けての突破の局面に入り始めた1970年代の半ば以来、管理社会よりはむしろ無政府社会に向かう新しい傾向が現れたのです。その底流をなしているのが、情報化による個人のエンパワーメントに他なりません。

このエンパワーメントは、さしあたり二つの方向に個人の能力を拡大させます。その一つが情報の発信力です。社会の他のメンバーにとって下品だとか不穏当だ(indecent) と思われる情報でも、そうしたければ勝手にどんどん流せるようになります。もう一つが情報の秘匿力です。強力な暗号化システムが誰でも手軽に入手できるようになると、自分の持っている情報や自分の行う通信の内容を、第三者にとってまったくアクセス不能なものにしてしまうことが、容易に可能になってしまいます。そこから、この種の個人のエンパワーメントを無条件に歓迎容認するよりはむしろ、それに一定の枠をはめようとする動きが、他の社会的主体、とりわけ国家の側に、出てくるようになります。今月米国で成立した新テレコム法に含められたCDA (Communication Decency Act) はその一例です。近年米国政府が執拗といいたくなるまでに繰り返している暗号化技術の利用の法的規制の試みは、そのもう一つの例です。いずれ日本でも、この問題にどのような姿勢で対処するかが、大きな政治的イシューになってくると思われます。

似たような問題は、過去の近代化の歴史の中で、何度も繰り返し現れてきました。近代化過程は、さまざまな形での主体のエンパワーメントの過程に他ならなかったからです。近代国家の出現の大きな契機となった軍事革命は、同時に社会の中の個人を含むさまざまな下位主体の、軍事的エンパワーメントの過程でもありました。そこから、私的主体による武力の保有や行使をどこまで制限すべきか、逆に私的主体の "革命権" を保障するためには武力の保有や行使をどこまで認めるべきか、という重要な政治的イシューが発生しました。そして、アメリカを除くほとんどの近代国家では、私的主体による武力の保有や行使は、国家による安全の保障とひきかえに、全面的に禁止されたのです。つまり、軍事力は近代国家が独占したわけです。

産業革命は、社会的主体の経済的エンパワーメントの過程でした。さまざまな試行錯誤の後、多くの近代国家が標準的に採用した解決は、国家による社会福祉プログラムの実施とひきかえに、私的主体への経済力の過度の集中を抑制するというものでした。つまり、経済力に関しては、より分権的な解決方式がとられたわけです。すなわち、産業での独占が禁止されると共に、巨大な富の相続や高額の所得に対しては、累進的な課税が行われるだけにとどめられました。他方、経済力自体を国家が独占しようとする社会主義的な試みも一部では行われましたが、これは結局破産に終わったことは周知の通りです。

現在進行中の情報革命は、社会的主体の知的エンパワーメントの過程です。知的エンパワーメントが何を意味するかという点については、二つの方向から考えてみることができます。その一つは、知的エンパワーメントとは、結局軍事的あるいは経済的エンパワーメントなのだという見方です。冷戦後のアメリカの主敵は、コンピューター・ハッカーで、これからの戦争は対ハッカー戦争の側面を重視しなければならないというような、米国の軍部の一部にあると言われる見方は、その一例です。ディジタル革命の時代には、ディジタル・コンテンツを握るものが経済を制するといった見方は、もう一つの例です。いずれも、情報化によってこれまでの軍事力や経済力のバランスに大きな変化が起こりかねないことに着目しているのです。

そうした見方に少なくとも一面の真理があることは疑いありません。しかし、知的エンパワーメントを、軍事的あるいは経済的なエンパワーメントとは別の範疇に属するものだと考えることも、もちろん可能です。社会関係の中での知力とは、ひっきょう知的影響力であり、知的影響力とは、何よりも他人を説得し、他人を自分の信奉者にしてしまう力のことなのです。あるいは、故ケネス・ボールディングが『21世紀権力の三つの顔』で採用している分け方によれば、知力は、脅迫力と経済力に並ぶ第三のパワーとしての "統合力" だともいえます。日本の官僚の権力は、官僚がもっている知識や情報を基盤にした知的説得力によるところが大きいといわれますが、近年の情報化はまさに日本社会の知的影響力のバランスを、個人や企業からなる民間部門にとって有利な方向に、変化させているのではないでしょうか。

民主主義社会では、それがどのような形のものであれ、個人のエンパワーメントは歓迎すべきものだといえます。知的エンパワーメントとなれば、なおさらそうでしょう。しかし、他のあらゆる力と同様、知力もまたそれが社会の一部に過度に集中してしまうと、さまざまな問題を引き起こすでしょう。そうだとすれば、国家であれ、個人であれ大きすぎる知力(あるいはその基盤となる知識や情報)の保有や利用に対しては、何らかの制限を課する必要がでてきます。

一つの対応策は、知力の国家独占をはかる "情報社会主義" です。しかし、それは経済の社会主義化以上に弊害が大きく、しかも究極的な実効性には欠けると思われます。軍事力や経済力に比べると、知力は、それを奪うことが極めて困難な力ではないでしょうか。同じことは、 "知的財産権" の強化という形で、企業に知力を集中させようとする試みについてもいえます。情報社会のネティズン(智民)たちは、さまざまな形で、国家や企業による知力の独占の試みに抵抗したり、裏をかいたりしようとするでしょう。おそらく、知力の場合は、経済力の場合以上に強い分権的な解決を工夫する以外にないでしょう。