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「社会の情報化と行政の情報化」

February 1, 1996 [ kumon ] このエントリーをはてなブックマークに追加

96年2月9日

「社会の情報化と行政の情報化」

公文俊平

1980年代の後半から90年代の初めにかけて、わが国の行政の情報化は、ほとんど停頓していた。しかし、ここに来て、一昨年暮れの行政情報化推進基本計画の閣議決定や、昨年の「高度情報通信社会推進に向けた基本方針」の発表を受けて、各省庁の共通実施計画や個別計画が次々に策定、発表されてくるなど、ようやく行政の情報化にはずみがついてきたように見えるのは、すばらしいことだと思う。

私がとりわけ期待しているのは、昨年の暮れに各省庁が合意した個々の省庁のLANを相互接続する "霞が関WAN" の整備だ。これが実現すれば、中央省庁間の電子メールの交換はもちろん、電子文書の交換や、共通に利用できるさまざまなデータベースの整備などが、本格的に推進可能になる。ただし、この霞が関WANが、中心にネットワーク・オペレーション・センターを設け、それに各省庁のLANをそれぞれ直結させるいわゆる "スター型" の構成を取ることにされた点は、やや疑問が残る。確かにその方がネットワークの集中管理には便利かもしれないにしても、逆に集中的な攻撃や破壊に対しては弱いことになってしまうからだ。

それはともかくとして、この霞が関WANは、できる限りオープンに運営されることが望ましい。それが、各省庁の出先機関だけでなく、地方公共団体や各種の特殊法人とも接続されていなければならないことは当然として、さらに民間のさまざまな組織や個々の国民にも、少なくとも部分的なアクセスを許すものとなってほしい。費用やセキュリティに名を借りてそれがなおざりにされることがあっては、本末転倒である。まして中央省庁だけが、情報化のもたらす "エンパワーメント" の恩恵を受けることになってはならない。行政の情報化は、日本全国のすべての組織やコミュニティの情報化と、歩調を合わせて進行することが理想的なのである。

しかし、行政の情報化は、行政機関を相互接続する情報通信基盤の構築や、行政事務の電子化、行政情報の公開、国民や外国とのより緊密な情報交流や協働関係の発展などに尽きるものではない。今日のいわゆる "情報化" は、近代主権国家の形成をもたらした過去の "軍事化" や近代市民と産業企業の形成をもたらした "産業化" に匹敵する深い広がりと影響をもつ、近代社会の進化の歴史の中では三度目の主要な社会革命なのだ。

かつての産業化が市民や企業の経済的な "エンパワーメント" をもたらしたように、今日の情報化は、個人やその集団の知的な "エンパワーメント" をもたらしつつある。情報化のもたらす "エンパワーメント" を享受できるのは、何も政府や巨大企業だけとは限らない。むしろ、広く中小企業やボランティア・グループ、あるいは個人たちにまで、情報化の力は及ぶのだ。その点で、ピーター・ヒューバーが指摘したように、ジョージ・オウエルの『1984年』の未来予測は決定的に誤っていた。

近年では、都市に棲んで商工業、すなわち財やサービスの生産や販売に従事していたかつての市民 (シティズン) たちの間から、コンピューター・ネットワークに棲んで智業、すなわち知識や情報の創造や普及に従事する智民(ネティズン)たちが、急速広汎に台頭してきている。1980年代以来、国家のように国威の増進や発揚を追求するでもなく、企業のように富の蓄積や誇示に励むのでもない組織、すなわちNGO(非政府組織)やNPO(非営利組織)の活躍が、世界的に極めて顕著になってきているが、これは私の言葉でいえば、 "智業" にほかならない。これらの組織に参加している人々(智民たち)は、個人としての自分の "自己実現" よりは、自分たちが社会的に実現したいと考える価値の実現に強い関心をもち、そのためにグループあるいはコミュニティを組織して、緊密なコミュニケーションやコラボレーションを行っている。また、かつての市民たちが主権国家のあり方に異議を称え、人権や民主主義の理念をおしたてて "市民革命" とよばれる政治革命の担い手になったように、今日の智民たちは、20世紀の間接民主政や大企業体制のあり方に異議を唱え、新しい政治理念や企業理念をおしたてた "智民(ネティズン)革命" とよぶことが適切な、政治・経済革命の担い手となっていく可能性が高い。その暁には、近代社会は、その政治・経済体制そのものの大変革を経験することになるだろう。

そうなると、当然行政のあり方も、抜本的に変革されざるをえなくなるだろう。それこそが、究極的な意味での "行政の情報化" に他ならないのである。20世紀の行政に見られたほとんど不可逆的な肥大傾向やそれがもたらした政府財政の破綻は、それ自体が20世紀の大衆民主主義の政治的要求の帰結に他ならなかった。このような行政の「死にいたる病」の治療は、単なる行政の効率化や電子化によっては達成できない。それは、行政をその一部とする政治体制全体の、さらには政治・経済・社会体制全体の変革を通じてのみ、達成されるだろう。それは同時に、人々の意識や価値観の大変革をも伴っていなければならない。いいかえれば、20世紀の市民たちが通有していた政治・経済的な "真理" や "常識" の少なからぬ部分が、挑戦を受け、放棄され、取り替えられていくことになるだろう。私は、今日の日本の行政の担当者の方々にも、そうした問題意識を自分自身のものとして受け止め、回答を模索していっていただきたいと思う。なぜなら、情報革命が引き起こす "智民革命" のうねりの中では、行政そのものの形や姿も、行政官あるいは公務員の資格やあり方も、あらためて問いなおされることが確実だと思うからだ。今日の "官僚批判" は、その端緒にすぎない。

たとえば、橋本高知県知事が提唱して、自治省がその "違法" 性を指摘している、日本国籍をもたない地方公務員の任用の問題がある。今日の日本では、「公権力の執行や国家意思の形成」に携わる人物は当然その国の国民でなければならないという "当然の法理" が通用している。しかし、なぜそれが "当然" なのだろうか。ある国なりコミュニテイが、それが "公的" に必要とする行政サービスの提供を受ける相手、いわゆる "公僕(パブリック・サーバント)" が、どうしてその国やコミュニティのメンバーでなければならないのか。少なくとも "外交や防衛" の分野では "当然" そうだろうと言われるかも知れないが、初期の近代国家では、雇われ大使や傭兵はごく普通の存在だった。公務員の資格を自国の国民に限ろうとする傾向は、近代 "国民国家" の進化の過程に生じた、歴史的にはごく新しく(そして恐らくは一時的な)傾向にすぎないと思われる。実際、自国民なら安心して信頼できるが、他国民は信頼できないという考えは、奇妙といえばはなはだ奇妙である。近代国家における "スパイ" の存在は周知の事実だというのに、である。しかもなぜ "国家" のレベルでだけ、こうした考えがでてくるのだろうか。自治体のレベルだと、他の自治体の住民や出身者でも同国民である限り問題にならないのは、考えてみれば "当然" とはいいかねることではないのか。

実際、どんなコミュニティの場合でも、その管理・運営をすべて自前で行わなければならないという "当然の道理" など、あろうはずがない。企業に "アウトソーシング" があるように、コミュニティも、より有能な人物、より信頼するに足る人物が外部にいれば、お金を払って雇い入れて何がいけないのだろうか。財やサービスは外から買ってもいいが、雇い入れる人は内の人間でなければならないという理由はどこにあるのだろうか。また、賃金のためにというのでなく、ボランティアとして、サービスを提供したいという人が現れた場合にはどうするのか。すべて拒否しなければならないような理由はどこにあるのだろうか。

このように考えてくると、そもそも "行政" とは何であるのか、あるいはそれと密接不可分のように思われている "公務" とか "公務員" とは何なのかを、あらためて考え直してみる必要がでてきていることが痛感させられる。 "行政" とは、さしあたり国家レベルのコミュニティの管理・運営をさす観念だと思われるが、国家が地方自治体になると、その "行政" には何か質的な変化が起こるのだろうか。あるいは、地域や職場のコミュニティになると、さらにその性質が変化して、日本語の "行政" という言葉は適用できなるなるらいしのだが、それはなぜだろうか。そういえば、アメリカには、地方政府の行政の多くの部分は、外部の専門家としての "シティー・マネジャー" に委託するのがよいという考え方がある。わが国でも近年、行政改革論議の中で、これまでは "行政" が担当していたサービスの一部、いや相当部分を民間に委託させてはどうかという声が高まっているが、この種の議論は、単なる行政の効率化、財政負担の削減といった観点からだけでなく、そもそも近代化の歴史の中で、国家・国民とは、自治体・住民とは何だったのか、今後、 "軍事化" と "産業化" に続く近代第三の社会革命にあたる "情報化" が進展していけば、それらは何になりうるのか、その場合には、行政とはどのような仕事になり、誰がそれをいかに担当するのが最善か、といった観点を念頭におきながら展開されるべきものではないだろうか。

行政サービスを支える税制にしても、通念への挑戦はいろいろと考えられる。今日の豊かな社会では、お金のために働くよりは別のことをしたいと考えて、その考えを実行にうつす人が増えてきている。彼らは、自分の "所得" の大きさにはそれほど関心がないのである。しかし、だからといって彼らを、その低所得のゆえに免税や社会福祉プログラムの対象とするのは、彼らを侮辱することにならないだろうか。あるいは逆に、高い所得を得ている人や組織から累進的な税率で税金を取って、コミュニティの財政的な必要を賄うという考え方は、 "智業" が拡大し普及していく時代には、どこまで適切だろうか。企業であれ、智業であれ、サラリーマンであれボランティアであれ、コミュニティが供給する資源や生活環境を利用しつつ生きている以上、その "所得" や "利益" の額とは無関係に、しかるべき財政的な負担を負うのが当然というものだろう。その尺度としては、コミュニティの資源や環境の利用のおおまかな指標としての "消費" に課税するのもよいが、個人の "消費" の率や内容をコミュニティが捕捉することにはプライバシー上の問題がありうるとすれば、いっそのこと、頭わりの "人頭税" を負担しようという考え方もなりたつだろう。それも、コミュニティの正規のメンバーだけでなく、短期滞在者にも滞在期間に応じて負担してもらうという考え方もありうる。あるいは、これからは "情報社会" が来るというのであれば、いっそのこと、海や河川への入漁税などに似た、コミュニティの提供する情報通信ネットワークへのアクセス権に対して一律に課税するのも、一案かもしれない。いずれにせよ、行政の情報化は税制の情報化と不可分であり、情報化の進展とともに税制の抜本的改革もまた不可避となるだろう。近年の間接税重視論や、所得税単一税率論、あるいは人頭税の導入論などは、賛否いずれの立場を取るにせよ、そういった文脈から検討してみる姿勢が大切だと思う。