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「公文 公 先生の思い出」

February 1, 1996 [ kumon ] このエントリーをはてなブックマークに追加

96年2月5日

「公文 公 先生の思い出」

公文俊平

公文公先生の謦咳に最初に接したのは、私が土佐中学の二年生になった春のことだった。二十歳台の若い先生方が多かった中では、やや年配の物静かな先生が見えたなというのが第一印象だった。

直接先生の授業を受ける機会に恵まれたのは、高校に進学してからのことだった。当時土佐中の数学の授業といえば、生徒たちの親や祖父の世代まで教えたことのある怖い吉本 (かます)老先生や、ご自分でいろいろな仕掛け (ピタゴラスの定理の証明用の切り板など) を作って活弁もかくやの名調子を振るわれる谷熊彦先生、そしてもちろん老巧そのものの講義の片鱗をたまに見せて下さる大嶋校長ご自身などの人気が高く、その中では公文先生はそれほど目立たなかったように思う。どちらかといえば、ぼそぼそとした、生徒たちを退屈させかねない語り口だった。

だから後年、あの公文先生が公文数学研究会を率いて華々しく活躍していらっしゃると聞いても、も一つしっくり来なかった。しかし、一度、公文式の先生方の研修会というのだろうか、そこに来て話をするようにと先生から言われ、その機会に先生ご自身の講話を拝聴したことがある。その時の先生の若々しく情熱的な話ぶりと指導者としての堂々たる貫祿ぶりには、目が洗われる思いがした。

というのは、公文先生の周りには、三十歳台ですでに老成した大人の雰囲気が漂っていたからである。なにしろ先生は、旧制の高知高校を昭和八年に卒業され、続いて阪大理学部数学科の第一期生として大学生活を送られている。この時代はまだまだ戦前の古き良き時代だったはずで、先生は専門の数学だけでなく、自然科学一般、さらには哲学や文学の領域も広く渉猟しておられた。蔵書も豊富にお持ちだった。つまり、先生は当時の土佐ではまさに大インテリだった。先生の授業を受けるようになってから、私は時々夜分にお宅に伺っては、何冊かずつまとめて先生のご本を拝借して貪り読み、感想など申し上げたものである。そうすると、先生はほとんど照れておられるような感じで、そうかあの本が面白かったのか、じゃ今度はこれを読んでみたらどうだと、ぼそっといわれては本棚から別の本を抜き出されるのだった。しかし、そうした言葉の端々から先生の深い教養がそこはかとなく滲み出てくるような気がして、私は先生と言葉を交わせることがとても幸せだった。

そんなある日、先生が例のぼそっとした口調で、「どうだね、君、しばらくうちにやってこないか」といわれた。「ええっ、それで何をするんですか」、「いや別に何もしなくてもいい、座って本でも読んでいればいい」。私はよく事情が飲み込めないままに、翌日の授業の後、先生のお宅にまわってみた。そこには、中学生が何人か来ていて、静かに数学の問題を解いていた。私はちょっと会釈だけして、後は本に読みふけった。私に話しかけてくる者は一人もなく、先生のお姿もどこにも見当たらなかった。

こうして、ただでかけていっては座って本を読んでいるだけの繰り返しが、十日ばかりも続いた後だったと思う。私は公文先生に教員室に呼ばれた。何事かといってみると、「ああ君、どうもご苦労だった。明日からはもう来なくていいから」とおっしゃる。そしてポケットから五百円札を一枚取り出して、「これは取っておきたまえ」といって私の手に握らせてくださった。

私はそれでもまだ事態が良く飲み込めなかった。そもそもこんな形でお金をいただくということ自体、私にとっては初めての経験だった。どうやら、勉強の手伝いをするアルバイトを頼まれていたらしいということに、しばらくたって気がついた。カンの悪い私は、すぐにはそのことがピンときていなかったのである。先生にも、直接仕事を命ずることには、きっと躊躇いがおありだったのだろう。つまり私たちの間には、コミュニケーションが成立していなかったことになる。

後年になって、私はまことに遅まきながら、自分が公文数学研究会の生誕の現場に立ち会おうとしていたかもしれないことに気がついて、慙愧に耐えない思いがした。もしあの時、私がもう少しまともに後輩たちの質問に答えることができていれば、あるいは先生と相談して、そんなことならもう二三人アルバイトをする気のある連中を連れてきましょうか、といったようなことが言えるだけの才覚があれば、公文式算数教室は、大阪でなく高知で最初に開設されることになっていたのかもしれない。申し訳ない限りである。