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kumon_netizen - April 1, 1996

「第三章:智民革命の展望」

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公文俊平

第一節:問題の提起

・ハーバード・セミナーでの問題提起

ここで、最近アメリカで行われた一つの興味ある議論の実例を紹介してみたい。一九九五年の春にハーバード大学のロー・スクールで行われた「サイバースペースと法」と題する公開セミナーの中で行われた議論がそれである。現在急速に進行している“情報革命”の性格、とくにその予想以上の深さ、広さ、速さが明らかになってくるにつれて、既存の経済体制だけでなく、社会・政治体制のあり方に対しても、真剣な反省が起こり始めていることを、このセミナーはよく示してくれる。

もともとアメリカ人は、英国の植民地であったアメリカを、本国の政府に対する独立をめざした革命戦争を戦って建国した歴史をもっている。だから、アメリカ人は、自国の政府であれ他国の政府であれ、政府というものを信用しない。政府と国民とは、基本的に対立関係にあると思っている。政府が信用できないのは、それが "人間" によって作られているからだ、人間を信用できるわけはないではないか、とほとんどのアメリカ人は考えているようだ。他方、ほとんどの日本人は、政府は民間の世話をなにくれと焼いてくれるやさしい母親親のような存在であって、政府は基本的に信頼できる。なぜならばそれは、 "人間" によって作られているからだ。人間を信用できないはずはないではないか、というのが大方の日本人の考えだろう。(*)

(*)私は、一九九五年の秋に、米国のAT&T社と日本経済新聞社が主催したパネル討論の席上で、ハーバード大学のこのセミナーの模様を紹介し、日本で政府批判、官僚批判が強まっているのとは対照的に、アメリカでは政府をもっと信用すべきだという議論が出始めていると述べたところ、パネルに参加していたアメリカ人たちから、「とんでもない、政府というものは決して信用できないものなのだ」といっせいに反論を受けて、あらためて驚いた経験がある。ちなみに、私は昔、一九六〇年代の後半にカナダのある大学に客員として滞在していた時、ジャマイカ人の同僚から、北米では絶対に人間を信用してはならない、アメリカのコインに「我等神を信ず(In God We Trust.)」と刻印されているのはその意味なのだ、と言われて仰天したことがある。彼は、親切にも私が車を買う仲介役をしてくれたのだが、初対面の私を自分の車で誘導してアパートまで連れていってくれたさいに、私の車を先行させることによって、その主張を実証してくれた。バックミラーをひっきりなしに覗きながら、それでもなんとか無事アパートについて車から降りてきた私に、彼はにっこり笑いかけながら、「お前の運転技術が分からないのに、先導して追突される危険は冒したくないからな」といったものだ。

ともあれ、このセミナーでは、「情報化の進展は、近代社会の法・政治制度そのものの構造改革を必要としていはしないか」という問題が提起されている。以下、そこでの議論の一端を、私自身のことばで、私流の註釈や補足も加えながら紹介してみよう。

プライバシーの侵害問題など、情報社会の問題はどれをとっても、結局は、「開かれた市民社会にとっての真の敵は誰か」「われわれは誰を信頼するのか」という問題に帰着する。これまでのアメリカ人は、政府をもっとも主要な敵とみなしてきた。だからこそ、市民は武器を携帯する権利を手放さなかったし、法律家に頼って自らの市民的権利を守れるような法治国家体制を作り、憲法の中にも数々の人権条項をもりこんできた。その延長線上に、市民の表現や暗号利用の自由の問題もある。

しかし、今や、政府以上に危険な敵が出現してきているのではないか。米国の市民たちは、自分たちとは大きく異なる価値観や制度 (文化や文明) をもつ“テロリスト”たちの攻撃にさらされるなど、異種の文化や文明との摩擦に直面するようになった。異常性格者による犯罪、その他、多種多様な犯罪や麻薬取引も横行するようになった。そればかりではない。企業でさえ、市民にとって危険な存在になりかねなくなった。今日の市民は、毎日の生活の中で、大量の情報を知らず知らずのうちに外に放出している。それを集めて、うまく利用されると、市民の権利やプライバシーが侵害されかねない。こうした、市民社会の“敵”たちと対決していくためには、これまでの憲法が保障している“人権”の観念は、そのままでは維持できないかもしれない。

たとえば、個人の脳におさめられている情報を、拷問などによって強制的に提供させることは、現在は禁じられている。各人は、自分にとって不利な情報は、開示しない権利(黙秘権) を認められている。しかし、“脳の延長物”としてのコンピューターの中に暗号化して収められている情報への鍵を強制的に提供させる政府の権利も、同様に否定してしまっていいものだろうか。あるいは、個人の犯罪よりもはるかに危険な集団の犯罪やテロ行為に対抗するためには、個人主義的な刑法だけで足りるだろうか。異種の価値観に立脚し、集団としての情報の交流や保持のネットワークを開発・利用している集団やその成員に対しても、個人の場合と同じような人権保護措置を適用していいのか。 v他方、われわれの政府は、基本的にはむしろわれわれの味方ではないのか。あるいは、味方でありうるような政府を作らないことには、われわれの生活の安全や豊かさや楽しさは、今後は保障されないのではないか。 (「自分の身は自分で守る」という意気込みは悪くないが、それは現実とは無縁のロマンティシズムにすぎない。現代社会は、他人との相互行為なしにはなりたたない。とすれば、社会の安定した存続・発展を可能にしたいと思えば、基本的にお互いの間の不信ではなくて、信頼を基盤としたシステムを作るしかない。そして、各人はその中で生きるしかない。そうだとすれば、ここでもっとも必要とされるものは、相互の理解と信頼なのだ。そして、それを損なう異分子との断固とした対決なのだ。--大幅な自由を認めてよいのは、思想の自由までではないか。その場合でも、表現の自由は、思想そのものの自由よりはむしろ行為の自由の領域に属するとみなされるべきだろう。つまり、表現の自由に対しては、従来よりもより大きな制約を課さなければならないだろう。--しかし、それと同時に、各人のプライバシーにわたる情報の入手や利用に関しては、十分な自己抑制が必要とされるだろう。それは政府による個人や民間団体にかかわる情報 (統計情報等) の入手と利用に関してもあてはまる。つまり、相互不信と相互攻撃を基盤とする社会システムに代わって、いまや相互信頼と相互自制を基盤とする社会システムを構築しなければならないのではないか。そして、その中に、例外的な要素として、敵に対する不信の体系と、敵への攻撃ないし防御を可能にするシステムとを、組み込んでおくべきではないのか。

私が理解し共感したセミナーの問題提起は、以上のようなものだった。これとの比較でいえば、日本の場合は、基本的に人間性善説や、政府母親説に立脚した社会システムになっていると思われる。つまり、相互信頼と相互自制を基盤とする社会システムの枠組みは、十分以上に強固に形作られている。日本に欠けているのは、後者の側面、つまり、内外の敵に対する不信の体系と、敵への攻撃ないし防御を可能にするシステムの組み込みである。人間や政府には百パーセントの信頼はおけないという事実への、対処の仕組みの構築である。今日のアメリカ社会が、相互の理解や信頼を必要としているとすれば、今日の日本社会は、その各部分や個人の、自立、自治、実験、突破、多様性、開放などをめざす、漸進的な改革が必要だ。(*)

(*)井沢元彦がその一連の作品(『「言霊の国」解体新書』や、『逆説の日本史』など)で精力的に指摘し続けているように、日本の伝統文化のなかには、言葉はそれに対応する現実を生み出すという牢固とした信念がある。「不吉な事態について語ればそれが現実化する」あるいは「望ましい事態について語ればそれが現実化する」のである。だから戦争や災害の研究や備えのような不謹慎なことは、してはならないのである。逆に、「平和、平和」と謹んで称えていれば、平和は守られるのである。

・情報化と "エンパワーメント"

次に、やや違った視点から、同じ問題に接近してみよう。情報化は、国家や大企業ばかりでなく、個人や各種の小集団の "エンパワーメント" をもたらす。その結果、近代社会を構成する個人を含めた各種の主体の間の力のバランスが、大きく変わる可能性がでてくる--それも、小規模な主体にとって有利な方向に。ピーター・ヒューバーがその近著(* ) で的確に指摘したように、ジョージ・オーエルが『1984年』で描き出したビッグ・ブラザーによる管理社会の悪夢は、産業化の20世紀システムの突破局面に出現した全体主義化の傾向をそのまま未来に延長した結果、180度方向を誤った予想にすぎなかった。実は、すでに産業化の20世紀システム自体、その成熟と共に、自由民主主義への傾向を確かなものにしていたのだ。そして、産業社会が産業化の21世紀システムに向けての突破の局面に入り始めた1970年代の半ば以来、管理社会よりはむしろ無政府社会に向かう新しい傾向が現れていた。その底流をなしているのが、情報化による個人のエンパワーメントに他ならない。

(*)Peter Huber, Owell's Revenge. ※

このエンパワーメントは、さしあたり二つの方向に個人の能力を拡大させる。その一つが情報の発信力だ。社会の他のメンバーにとって下品だ(indecent) とか不快だと思われる情報でも、そうしたければ勝手にどんどん流せるようになる。もう一つが情報の秘匿力だ。強力な暗号化システムが誰でも手軽に入手できるようになると、自分の持っている情報や自分の行う通信の内容を、第三者にとってまったくアクセス不能なものにしてしまうことが、容易に可能になる。そこから、この種の個人のエンパワーメントを無条件に歓迎容認するよりはむしろ、それに一定の枠をはめようとする動きが、他の社会的主体、とりわけ国家の側に、出てくるようになる。一九九六年の二月に米国で成立した新テレコム法に含められたCDA (Communication Decency Act,通信品位法) はその一例にすぎない。州のレベルでは、ワシントン州やニューヨーク州などに、同様な法律がすでに成立・施行されている。近年米国政府が執拗といいたくなるまでに繰り返している暗号化技術の利用の法的規制の試みは、そのもう一つの例だ。いずれ日本でも、この問題にどのような姿勢で対処するかが、大きな政治的イシューになってくると思われる。

実は、過去の近代化の歴史の中では、似たような問題が何度も繰り返し現れてきている。近代化の過程は、さまざまな形での主体のエンパワーメントの過程に他ならなかったからだ。近代主権国家の出現の大きな契機となった軍事革命は、同時に社会の中の個人を含むさまざまな下位主体の、軍事的エンパワーメントの過程でもあった。その結果、 "下克上" の時代とか "戦国時代" と呼ばれる時代が、到来したのである。そこから、私的主体による武力の保有や行使をどこまで制限すべきか、逆に私的主体の "革命権" を保障するためには武力の保有や行使をどこまで認めるべきか、という重要な政治的イシューが発生した。そして、アメリカを除くほとんどの近代国家では、私的主体による武力の保有や行使は、国家による安全の保障や人権の擁護と引き換えに、全面的にあるいは原則的に禁止された。つまり、軍事力は近代国家が独占することになった。

産業革命は、社会的主体の経済的エンパワーメントの過程だった。さまざまな試行錯誤の後、多くの近代国家が標準的に採用した解決策は、国家による社会福祉プログラムの実施と引き換えに、私的主体への経済力の過度の集中や、環境汚染的なその利用を、抑制するというものだった。つまり、経済力に関しては、より分権的な解決方式がとられたわけだ。私的財産権が確立し、企業活動の自由が原則としては保障される一方で、産業での独占が禁止されると共に、巨大な富の相続や高額の所得に対しては、次第に高度の累進的な課税が行われるようになった。また、環境保全のためのさまざまな規制も導入された。他方、経済力自体を国家が独占しようとする社会主義的な試みも一部では行われたが、これは結局破産に終わったことは周知の通りだろう。

現在進行中の情報革命は、社会的主体の知的エンパワーメントの過程だ。知的エンパワーメントが何を意味するかという点については、二つの方向から考えてみることができる。その一つは、知的エンパワーメントとは、結局軍事的あるいは経済的エンパワーメントなのだという見方だ。冷戦後のアメリカの主敵は、コンピューター・ハッカーで、これからの戦争は対ハッカー戦争の側面を重視しなければならないというような、米国の軍部の一部にあると言われる見方は、その一例だ。ディジタル革命の時代には、ディジタル・コンテンツを握るものが経済を制するといった見方は、もう一つの例だ。いずれも、情報化によってこれまでの軍事力や経済力のバランスに大きな変化が起こりかねないことに着目している。

そうした見方に、少なくとも一面の真理があることは疑いない。しかし、知的エンパワーメントを、軍事的あるいは経済的なエンパワーメントとは別の範疇に属するものだと考えることも、もちろん可能だ。社会関係の中での知力とは、ひっきょう知的影響力であり、知的影響力とは、何よりも他人を説得し、他人を自分の信奉者にしてしまう力のことなのだ。あるいは、ケネス・ボールディング流にいえば、知力は、脅迫力と経済力に並ぶ第三のパワーとしての "統合力" に他ならない。(*) 日本の官僚の権力は、官僚がもっている知識や情報を基盤にした知的説得力によるところが大きいといわれるが、近年の情報化はまさに日本社会の知的影響力のバランスを、個人や企業からなる民間部門にとって有利な方向に、変化させているのではないか。そこから官僚の力の低下が生じ、官僚への批判もようやく高まってきたのだろう。

(*)ボールディング前掲書。

民主主義社会の建前では、それがどのような形のものであれ、個人のエンパワーメントは歓迎すべきものだ。知的エンパワーメントとなれば、なおさらそうだろう。しかし、他のあらゆる力と同様、知力もまたそれが社会の一部に過度に集中してしまうと、さまざまな問題を引き起こす。そうだとすれば、国家であれ個人であれ、大きすぎる知力(あるいはその基盤となる知識や情報)の保有や利用に対しては、何らかの制限を課する必要がでてくる。

一つの方策は、知力の国家独占をはかる "情報社会主義" だ。しかし、それは経済の社会主義化以上に弊害が大きく、しかも、先に述べたように、究極的な実効性には欠けると思われる。軍事力や経済力に比べると、知力は、それを奪うことが極めて困難な力なのだ。同じことは、 "知的財産権" の強化という形で、企業に知力を集中させようとする試みについてもいえる。情報社会のネティズンたちは、さまざまな形で、国家や企業による知力の独占の試みに抵抗したり裏をかいたりしようとするだろう。そうだとすれば、知力の場合には、経済力の場合以上に強い分権的な解決を工夫する以外になかろう。

とはいえ、そのことは知力の保有や行使を、完全に私的主体の自由に委ねてよいことを意味しない。やはり、制限すべきある一線があるはずで、私には、 "暗号化技術" の利用の制限がそれではないかと思われる。私たちは、自分が "下品" だと思う表現や情報に対しては、比較的に容易に対処することができる。見ない、受け取らない、という仕方もあれば、中身を吟味してから捨てるという仕方もある。しかし、 "下品" さの基準は人によって違うだろう。だから、それへの対処は、各人、各集団の自由に委ね、互いに、それぞれの判断を尊重するという "分権的解決" に委ねるのが最善だと思われる。(*) しかし、第三者には解けない暗号となると、ほとんど打つ手がない。したがって、国家が、いや恐らくはなんらかの超国家的な主体が、国や国民の安全保障を目的として私的主体の暗号利用に一定の制限を加えることには、十分な正当性があるといえよう。少なくとも、私的主体による知力の行使の自由を無条件無制限に主張する立場は、経済力の行使の自由、つまり独占や汚染の自由を無条件無制限に主張する立場と同様に、支持しがたいものだといわざるをえない。

(*) 国際社会全体として見れば、個々の国家による規制、ないしはある種の表現に対しては規制が必要だという国家的意思の表明も、そうした各個別集団による分権的な規制の一種だと見ることができる。その限りでは、国家によるそうした規制の意図や姿勢は、その実効性に関する論議は別にして、個々の家族やコミュニティの内部での規制の権利と同様に、容認・尊重されてしかるべきものだろう。

一方で、国家に知力や情報が集中しすぎることは望ましくなく、他方で私人が暗号を無制限に利用することも望ましくないとすれば、そこに一つの新しい社会契約の可能性が開けてくる。それは、私人による暗号の利用には一定の制限を課することと引き換えに、国家による私人に関する情報の収集や利用を厳しく制限する、という契約だ。個人情報の一方的な収集・利用は基本的人権 (の一部としての情報権) の侵害とみなす、とりわけ、個人の思想や信条はもちろん、学歴や病歴や家族暦、資産や所得や職業などに関する情報は、特別な場合を除き、当該個人の同意なしには収集も利用もしないことにするのだ。そうすると、国の政策立案上、さまざまな不便が生ずるかもしれない。徴税が困難になる場合もでてきそうだ。しかし、その場合には、変更されなければならないのは、国の政策や税制の体系の方だろう。たとえば、納税額を資産や所得に依存させるといった、応能課税の原則は捨てるのだ。そのかわりに、コミュニティが提供する快適な生活環境や資源の享受や消費に対する受益者の負担という原則を採用して、頭割りなり、あるいは消費の度合いに応じて、課税をするのもよいだろう。実際、智民が台頭し智業が普及する時代になってくると、資産や所得の拡大は人生の目標としては二の次だと考える人々も多くなる。金を稼ぐよりは好きなことをする方を選ぶ智民たちを、担税能力のない人々だから社会福祉の対象とみなすべきだというのは、ほとんど彼らを侮辱するものだろう。同じように、営利を直接の目的としない型の--つまり智業型というかNGO-NPO型の--集団活動の比重がますます高まる社会で、もっぱら営利法人のあげる利益への課税に大きく依存し続けるのは、国家としては自分で自分の首を締めるようなものではないだろうか。

情報社会でのこのような新しい社会契約やそれに基づく社会制度の内容や仕組みを工夫するにあたっては、日本の歴史的な経験が役にたつのかもしれない。日本はかつて、いちはやく庶民の刀狩りを行って、戦国時代を終わらせ "徳川の平和" の礎を築いた。さらに幕府や諸藩は、鉄砲を事実上捨ててしまった。先に述べたように、日本には、官民の相互信頼の文化がある。これに対し、米国には、自国であれ他国であれあらゆる政府に対する不信感が根強く残存している。米国の場合、ハーバード・セミナーでの問題提起にもかかわらず、情報化がもたらしつつある広汎な知的エンパワーメントという事態への対処としての、私人の知力の制約を含むような新しい社会契約は、なかなか結びきれない可能性がある。そうだとすれば、情報化時代の社会契約の新しいモデルをいち早く世界に提供する役割は、むしろ日本の方に期待されはしないか。しかし他方、 "お上依存" 意識にどっぷりつかり、 "平等" 指向の強い日本では、税負担の構造を大きく変えたり、自己責任原則を強化したりすることは、米国よりもはるかに困難かもしれない。多分、日本と米国は、いや世界のすべての諸国は、情報化に対応した社会改革というか文明の再構築を構想し実現していく上では、互いに学びあい、新しい工夫を取り入れあうのがよいだろう。それが私のいう文明の諸要素の "コエミュレーション(相互受容)" にほかならない。

第二節:先駆者たち

・ゴアとギングリッチ

"智民革命" ということばこそ使っていないものの、今日の情報化がかつての市民革命に匹敵する政治革命をももたらすだろうという認識を最も明確にもっているのは、パソコン通信やインターネットなどの新しいコミュニケーション・メディアを政治の舞台で積極的に活用し始めた、アメリカの一部の政治家たちではないだろうか。アメリカの政治システムそのものが一大変革期を迎えつつあるという認識をもつ彼らにとっては、リベラリズムの退潮はもちろん、これまでのアメリカ政治を支えてきた二大政党制の動揺や崩壊も、特に驚くべきことでも悲しむべきことでもないようだ。(*)

(*)このような論点を扱っているネットワーク上の興味深い記事の一例として、Phil Agre, "The Conservative Revolution," The Network Observer, 2-1 (January 1995), をあげておこう。

たとえば、米国民主党のアル・ゴア副大統領は、1994年の3月にブエノスアイレスで開かれたITUの世界開発会議で行った演説の中で、 "情報革命" の到来についてふれ、「アメリカでNII〔全国情報インフラ〕を提唱し始めた時の私の期待は、革命によって生まれた国、アメリカ合衆国が、この新たな平和革命のリーダーとなることでした」と述べている。彼はまた、国家の政府組織の全面的な改革・再編成の必要を主張して、「政府の再発明」運動を主導している。(*)

(*)本文で言及したゴア演説の本文や、NPR関連の資料などは、インターネットを通じて容易に入手できる。例えば前者は、www.whitehouse.gov/WH/EOP/OVP/html/telunion.htmlというURL に収録されている。

クリントン=ゴア政権はまた、 "ネットデー" と呼ばれる催しも推進している。今の子供たち、つまり未来のネティズンたちのために新たなコミュニケーション環境を整えよう、具体的には、今世紀の終わりまでに全国のすべての学校をインターネットに接続すしよう、というのがこの政権の大きな政策の一つなのだが、この催しはその一環として計画されているものである。それは、1995年の9 月21日にクリントン大統領ととゴア副大統領がカリフォルニアを訪問して、教育関係者やハイテク産業の経営者たちと会談したさいに承認したもので、州の教育長や多くの企業もこれに賛意を表した。そこで、1996年の 3月 9日をNetDay96と定めて、何万人もの親や技術者、その他のボランティアに、土曜日一日をカリフォルニアの学校にネットワークを展開するために参加しようと呼びかけることにした。これに協賛するAT&T, MCI, AOLなどの企業は、ザ・ネット (インターネット) へのアクセスを一年間無料で提供すると発表した。すでに、ワールド・ワイド・ウェブのwww.ne tday96.com という名前のサーバーには、カリフォルニアの一万の学校のホームページが入っている。

米国国民経済評議会のトム・カリル議長によれば、その次のステップは、学校へのより多くのコンピューターの導入、カリキュラムに関連した教育用アプリケーションの開発、教師たちがこの技術を効果的に利用できるための訓練などだという。生徒はコンピューターによって、より "アクティブ" な学習スタイルに転換できる。バーチャルな野外調査、世界中の仲間との協働、ディジタル図書館の閲覧などができる。科学について読むだけでなく "科学する" ことができる。成果をインターネットで発表できる。「科学者に質問しよう」計画に参加できる。教師も経験を交流したり、親とコミュニケートしたり、自分の分野の発展に遅れないようにできる、云々。そればかりではない、カリルたちは、このネットデーのようなプロジェクトは、新しい形の政治のための有効なモデルにもなるかもしれないという予感をもっている。それこそ、ネティズンたちが主導する政治のモデルにほかならないのだろう。

1994年の中間選挙で大勝利をおさめた共和党の中にも、旧式の保守主義への単なる回帰とは言い切れない新しい政治的な動きが見られる。たとえば、共和党のニュート・ギングリッチ下院議長らは、有名な評論家のトフラー夫妻やジョージ・ギルダーたちの支援をも得て、農業化と工業化に続く人類史上の "第三の波" としての情報化を推進するための政治運動を展開している。彼らは、この主張に共鳴するならば民主党の政治家とも協力する用意があるという "新連立" 構想を発表している。ギングリッチたちもまた、その政治運動の意義をかつての独立革命に比肩させているのである。彼らのシンクタンクである進歩・自由協会(PFF) が発表している文書「サイバースペースとアメリカの夢:知識時代のマグナカルタ」は、トフラー夫妻の近著『新文明の創造:第三の波の政治』と共に、このような認識を明確に表明している。(*) 彼らが大きな政府や企業に反対するからといって、別に昔の農業社会に帰ろうとしているわけではないのである。

(*)Cyberspace and the American Dream: A Magna Carta for the Knoledge Age. 1994. Prepared by Esther Dyson, George Gilder, George Keyworth, Alvin Toffler.Alvin and Heidi Toffler,Creating a New Civilization: The Politics of the Third Wave. Washington: The Progress and Freedom Foundation, 1994. (日本語版は、アルビン・トフラー、ハイジ・トフラー著、徳山二郎訳、『第三の波の政治--新しい文明をめざして』、中央公論社、1995年。

だが、残念なことに、このような歴史把握は、今日の日本の既成の政治家たちの間には、まだほとんど見られない。しかし、1995年の東京都知事選挙にさいして発表された大前研一氏の「東京都知事立候補宣言」やその関連文書(*) の中には、京浜運河や東京湾岸地域を "マルチ・メディア出島" として規制緩和を先行させ、世界中から先端企業が集まる "シリコン運河" を創設しようという構想や、パソコン通信を都民一人一人の都政に対する建設的提言の手段として利用するなどの公約が見られた。そこにはまた、情報化の進展とともに、 "国家" や "主権" なるものの定義があいまいとなり、十九世紀型の中央集権国家や協議の連邦国家が崩壊する中で、世界に開かれた地域国家が出現するようになるという歴史認識も述べられていた。今後、こうした認識がさらに拡がり深まっていく中で、智民革命をめざす自覚的な運動が、日本でも展開されていってほしいものだ。

(*)『文芸春秋』、1995年 4月号に発表されている。なお大前氏の最新の時代認識は、『インターネット革命』 (プレジデント社、1995年) 、『地域国家論』 (講談社、1995年) などに、より詳しく示されている。

・ミークス、バーロー、スタールマン、ブリン

政治家ばかりではない。アメリカのネティズンたちの中にも、 "革命運動家" と呼びたくなるような人は少なくない。

ゲリラ的なミニコミ、『サイバーワイアー・ディスパッチ』を主宰するジャーナリストのブロック・N・ミークスの活躍ぶりは、その中でも群を抜いている。その数々の鋭い政府批判のゆえに、ホワイトハウスでコンピューター・ネットワーク政策を担当しているマイケル・ネルソンによって、「ネットワーク上のもっとも危険な人物」と呼ばれているミークスは、後述する通信品位法を含む改正通信法が成立しようという当日、直接ホワイトハウスの入口に押しかけて、クリントン大統領に会わせろと要求し、警備員に押し戻されたこともある。

このミークスは今、インターネット上のオンライン雑誌として有名な『ホットワイアード』の「ネティズン」というセクションの編集を担当している。その中には、今日の "ディジタル・ヤング" たちは、マスメディアが言うようには無気力でもなければ孤立して市民社会から疎外されているのでもない、といった主張が見られる。その逆に、彼らこそ、教育があり、豊かで、技術を知っていて、これから政治的に強力な存在として自分たちを組織していこうとしているというわけだ。『ホットワイアード』のようなオンラインの媒体は、単に新しい風俗やライフスタイルを代表するだけでなく、今後急速に政治化していく若いネティズンたちの結集の拠点としての役割を果たしていくのかもしれない。(*)

(*)John Katz, "Growing Up Wired," Media Rant, Netizen, Hotwired, 6 June 1996.

電子フロンティアー協会(EFF)の創立者の一人で、作詩家として知られるジョン・ペリー・バーローは、米国の新電気通信法の中にインターネットでの自由なコミュニケーションを抑圧しようとする条項が含まれていることに抗議して、法案が成立すれば一人の確信犯として、 "違法" なソースへのアクセスや "違法" なコンテントの配付を始めると予告していた。その彼は、法案成立の翌日、この法律はサイバースペースへの宣戦布告にほかならず、今や自衛の戦いに立ち上がって "バーチャルな港に茶箱を投げ込む" べき時がきたとして、次に訳出するような「サイバースペース独立宣言」を発表した。

     

サイバースペース独立宣言

誤謬のみが政府の支持を要する。真理は自立しうる。

トマス・ジェファースン、バージニア・メモ

産業社会の諸政府よ、肉体と鋼鉄の疲れたる巨人たちよ、わたしは精神の新たな住処、サイバースペースから来た。未来のために、過去を担うあなた方にいう。われわれをほっておけ。あなた方は歓迎されざる者だ。われわれが集うところには、あなた方の主権はない。われわれは選挙された政府を持たぬ。今後ももちそうにない。よって私は、自由それ自身が語るときに常にもつ権威と同じ権威のみをもって、あなた方に語りかけ、そして宣言する。われわれが建設しつつあるグローバルな社会空間は、あなた方がわれわれに課そうとしている圧政からは、当然に自由だ。あなた方には、われわれを支配する何の道義的な権利もなければ、われわれが真に恐れねばならぬほどのいかなる強制力もない。

政府のもつ公正な権力は、被治者の同意に由来する。あなた方は、われわれに権力の委任を求めたこともなければ、受けたこともない。われわれは、あなた方を招いたことはない。あなた方は、われわれのことも、われわれの世界のことも知らぬ。サイバースペースは、あなた方の国境の中には存在しないのだ。あなた方は、サイバースペースを何か公共事業のように建設できると考えてはならぬ。そんなことはできないのだ。それは自然の働きの産物であって、われわれの集合的な行為を通じて自ずと成長するものなのだ。

あなた方は、われわれの大いなる話し合いに加わったことはない。われわれの市場の富を創り出したこともない。あなた方のとるいかなる措置が生み出しうるよりも多くの秩序をわれわれの社会にすでにもたらしている、われわれの文化、倫理、不文律も知らない。

あなた方は主張する。われわれの間には、あなた方が解決すべき問題があると。そして、その主張を口実にして、われわれの境界に侵入してくる。だが、そのような問題の多くは、ありもしないものだ。真の対立がある時、不正がある時、われわれはそれを自分で見つけ出し、われわれ自身の手段によってそれに対処する。われわれは、自分自身の社会契約を作りつつある。この契約による統治は、あなた方の世界ではなく、われわれの世界の事情に則って行われる。われわれの世界は、別の世界なのだ。

サイバースペースは、取引や関係や思想それ自体から成る。それらは、われわれのコミュニケーションの網の中に、動かぬ波のようにならんでいる。われわれの世界は、どこにでもあると同時にどこにもない世界であって、肉体の住む場所にはないのだ。

われわれが創りつつある世界は、だれでもが、人種や経済力や軍事力あるいは生まれによる特権や偏見なしに、入ってこられる世界だ。われわれが創りつつある世界は、だれでもが、どんなに変わったものであれ、自分の信念をどこででも、沈黙させられたり別の見解に従わせられたりする恐れなしに、表明できる世界だ。財産や表現、本質や運動、および文脈などに関するあなた方の法概念は、われわれには妥当しない。あなた方の概念は物質に基づいているが、われわれの世界には物質はないのだ。

われわれの本質には、身体は含まれない。それゆえ、あなた方とは違って、われわれは物理的な強制によっては秩序を獲得できない。われわれの信念によれば、この世界での統治は、倫理と見識ある利己心と、公共の福利の理念から生まれるのだ。われわれの本質は、あなた方の世界の多くの  管轄分野に分散している。われわれの世界を構成する諸文化のすべてが遍く承認する唯一の法は、黄金律(*) だ。それを基にして、さまざまな特殊ケースについての解決策が作りだせるとわれわれは期待している。他方、あなた方がわれわれに課そうとしている解決策は、受け入れられない。

アメリカ合衆国政府よ。あなたは、今日、一つの法律、電気通信改革法、を制定した。この法律は、あなた自身の憲法を否定するものであるばかりか、ジェフアースン、ワシントン、ミル、マディスン、トックビル、ブランダイスらの夢に無礼を働くものでもある。彼らの夢は、今やわれわれの間で新たに生みだされなくてはならぬ。あなたは、あなた自身の子供たちを怯えさせた。なぜなら彼らは、あなたが未来永劫移民にとどまるはずの国の、土着の民であるからだ。あなたは彼らを恐れているので、あなた自身がそれに取り組む勇気をもてないような親としての責任を、あなたの官僚たちに委ねた。われわれの世界では、人間のあらゆる感情と表現は、卑しいものから高貴なものまで、継ぎ目のない全体としてあるビットによるグローバルなコミュニケーションの中に、含まれている。人を窒息させる空気と翼を羽ばたかせる空気とを分けることは、われわれにはできないのだ。

中国、ドイツ、フランス、ロシヤ、シンガポール、イタリー、そしてアメリカ合衆国において、あなた方は、サイバースペースのフロンティアーに監視哨を建てることで、自由というウィルスを防ごうと試みている。それによって、一時は蔓延を防げるかもしれない。しかし、ビットを運ぶメディアによってまもなく覆われるはずの世界では、結局うまくいかないだろう。

ますます陳腐化するあなた方の情報産業は、アメリカやその他の場所で法律を制定して、世界中の言論を所有すると宣言させることで、自らの永続化に努めている。これらの法律は、アイデアなるものは、高貴さにおいて銑鉄とえらぶところのない、もう一つの産業製品だと述べる。だがわれわれの世界では、人間精神の創り出すものはなんであれ、無償で、無限に複製し配付できる。思想のグローバルな伝達の達成には、もはやあなた方の工場は不必要なのだ。

われわれをますます敵視し植民地化するこれらの措置は、遠隔の地にあって情報をもたなかった権力を拒否しなければならなくなった、自由と自決を愛した先人たちと同じ立場に、われわれを置いた。われわれは今、よしんばわれわれの肉体におよぼすあなた方の統治には従い続けるにせよ、われわれのバーチャルな自己に対してはあなた方の主権は及ばぬ、と宣言せざるをえないのだ。われわれは、この地球上のいたるところに自分自身を押し広げ、何人といえどもわれわれの思想を捕らえられぬようにするだろう。

われわれはサイバースペースの中に精神の文明を創り出すだろう。この文明が、あなた方政府がかつて作り上げた世界よりも、より人間的でより公正なものとなることを願う。

ダボス、スイスにて
1996年2月8日
ジョン・ペリー・バーロー

  

(*)キリストが山上の垂訓で示した、キリスト教の根本倫理のこと。「なにごとも人びとからしてもらいたいことはすべてそのとおり人びとにしてあげなさい。」(マタイ伝、7:12)

バーローはこの "独立宣言" に付記していう。この宣言は、いくらでも複写転載が自由だ。それどころか、起草者としてのクレディットさえ無用であって、自分の名前を落としてもらってもいっこうに構わない、と。私は、これこそ最も純粋なネティズン精神の発露だと思う。自分がコミットした思想の普及のためには、著作権はもちろん、私のいう "情報権" さえ放棄してもいいとバーローは言っているのだから。

ところで、ネティズンたちは、いうまでもないことだが決して哲学的、政治的に一枚岩なのではない。バーローのこの "独立宣言" は、発表されるやたちまち、もう一人のネティズンの厳しい批判の的となった。ニューメディア・アソシエーツのマーク・スタールマンがその人である。スタールマンによれば、バーローの立場は、国民にとっての安全の保障者としての国民国家と、市民の経済的豊かさの保障者としての国民経済を否定するものであって、到底受け入れがたい。バーローは、国民国家を否定することによって、人間の精神を支配する技術を駆使して世界を一つの牢獄に転化しようとしている独裁者の支配を許すことになる。物質的要素を否定することによって、大衆的虐殺を正当化するために造られたイデオロギーである反成長論に手を貸すことになる。そればかりではない。バーローは、電子フロンティアー協会(EFF)の創立者の一人として、FBIとEFFが協力して推進しようとしている "盗聴法案" に対して、個人的な責任がある。もともと民主党の支持者だったバーローは、いつのまにかトフラーやギングリッチの進歩・自由協会(PFF)と同盟を結んで、独占的大企業の手先になってしまったのではないか。

 スタールマンは、未来のサイバースペースが人びとの批判力を高めて自由の拡大に貢献するものとなるのか、それとも収拾のつかない論議と混乱の場となって、大衆を操作するメディアの必要度がかえって増す結果となるのかといった観点から、『サイバースペースのための戦い』という本を執筆中だそうだ。インターネットから容易に入手できる彼のメッセージのいくつかを見る限りでは、彼は、トフラー流の "第三の波" 的思考や "ニューエージ" 的グローバリズムを強く嫌悪している。そして、ローマクラブ的反成長論は、自己の独占的立場の喪失を恐れる20世紀の独占的大企業のイデオロギーだとする解釈をとっている。情報スーパーハイウエーを双方向テレビ用のインフラあるいは電子商業のプラットフォームとみなす立場に反対して、 "研究ネットワーク" としてのインターネットの意義を強調する。だとすれば、彼の立場は、ほとんど19世紀的な古典的国民国家/国民経済の擁護論というか回帰論に近いようにも思われる。だがそれにしても、「左翼は死んだ。右翼は死んだ。イデオロギーは死んだ。何の公式の布告もない間に、われわれはすでにネットワーク化された世界経済の中に生きている」と主張するスタールマンは、やはり現代を代表するネティズンの一人といっていいだろう。

二人に発言の場を提供しているデービッド・ファーバーは、意見の違いがあるのは結構だとはいえ、共に自由と権利章典の支持者である二人が互いに激しく争ったあげく、自由の敵が栄える結果になることを懸念して、一斉射撃型の激論ではなく、穏やかな意見の交換をしようと呼びかけている。(*)

(*) ファーバーはまた、このところ "ザ・ネット" の上で、その検閲に抗議  する大量の電子メールを役人に送りつける運動が広まっていることを憂慮  して、その種の電子メールの転送はしないようにとネティズンたちに呼び  かけ、こう付言している。「役人たちは、電子メールの仕組みを理解していないと想定すべきだ。皆さんは、まだこの道に入っていない人に説法しようとしている。彼らに会うのは、彼ら自身の生活空間でにしよう。労を厭わず印刷し、本物の手紙を郵送しよう。感じのいい手紙を書こう。丁寧に書こう。それなら心にぐさっとくるだろう。彼らのメールボックスを何トンもの電子メールで溢れさせれば、彼らは「 "ザ・ネット" は良くない場所だ」という安全な信念に閉じこもってしまうだろう。彼らはまず、われわれがポルノの配付者だと聞いた。今度は、われわれのことを野蛮人だと思うだろう。電子メールは手っとり早すぎる。プリンターを持っているなら、そっちを使うことだ。」(1996年2 月27日)

他方、『ガイア』(*) その他のSFの著者として知られるデービッド・ブリンは、バーローたちが、ザ・ネットのもつ人間の自由や可能性の拡大力を高く評価するのはよいとしても、なにか自分たちだけが自由を護る英雄だと勘違いしているのではないかという。自らIAAMOAC(I Am A Member Of A Civilization =私は文明人の一人だ) と称するブリンによれば、欧米の文明は、これまでの文明の中では最善のものだ。それは、多くの自由を人びとに与えてきたばかりか、ザ・ネットという共有地の成長と普及にも概して好意的に対応してきたのであって、テレビへのVチップの装着を何か大変な事件のようにいうのは騒ぎ過ぎだし、そもそもアメリカ市民の能力を過小評価していることになる。アメリカの子供たちは、Vチップの制約などさっさとくぐり抜ける手を覚えるだろう。バーローたちは、過去何十年にもわたってアメリカの映画などで行われてきた反権威主義の宣伝に毒されているだけのことではないか。EFFの活動は貴重だが、行動には優先順位というものがある。サイバースペースの開拓地を荒らしているのは、政府というよりは巨大な資本家たちだろう。さらに危険な敵は、インターネットの利用者に警察への登録を命じた中国政府のような、自由な批判を許さない専制政体なのだ。われわれが今しなければならないことは、中国政府の造ろうとする防壁をかいくぐって、中国にインターネットと民主主義をを入れることではないのか。軍拡に狂奔する中国政府がたくらんでいる戦争を、防止することではないのか。

(*) デイヴィッド・ブリン著、酒井昭伸訳、『ガイア。母なる地球』 (上・下) 、早川書房、1992年 (原題は EARTH。)

先に紹介したハーバード・ロースクールのセミナーでの問題提起を想起させるようなブリンの立場からは、軍拡には軍拡で対抗するのでなくて、インターネットで対抗すべきだという見方がでてくるだろう。しかし、それこそまさに今日の中国政府からすれば、もっとも危険で悪質な攻撃そのものかもしれない。そうだとすれば、政治理念での対立と軍事的対立とは、結局のところ容易には区分できなってくるだろう。だからこそ、一見穏当に見えても、ネティズンたちの政治運動は、やがて国内では政治革命を、対外的には軍事紛争を、引き起しかねないものになっていかざるをえないのかもしれない。ともあれこういうブリンのような立場も、ネティズンの間に当然ありうる立場の一つだろう。

この節を終わるにあたって、バンダービルト大学のドナ・ホフマンが調査したザ・ネットやネティズンの現状を紹介しておこう。彼女は、『タイム』誌に掲載されたマーティン・リムのレポートの厳しい批判者としても知られている。(*)

(*) 以下この節に示すデータは、ホフマン (Donna L. Hoffman) があるメーリング・リストに投稿したメールからの再引用である。原資料は、Times Mirror Center for the People and the Press (現在は名称を Pew Research Centerに変更), "Technology in the American Household" 1995 調査、である。なお、これと似たような調査として、ヤンケロウイッチ・パートナーズが1995年の10月に行った "サイバーシティズン" の調査があり、それによると「サイバーシティズンはもはや少数のギーク (オタク族) のものでなく、クリティカル・マスにリーチし始めている」という。ただし、そこでは、 "サイバーシティズン" (本書の用語で言えばネティズン) の平均学歴や収入は、米国全体と比べると依然としてやや高いという結果が示されているそうだ。(楓セビル、 "サイバーシティズン" 『月間アドバタイジング』 1996.3:56-61)。

第一に、 "情報スーパーハイウエー" を流れているポルノ的な情報の割合は、ごく少ない。画像でいって、全体の 0.5% にも達しない。ワールドワイド・ウェブ(WWW) を利用している人びとのうち、結婚もしくは同棲している人びとは51% にのぼる。世帯の35% には子供がいる。しかも、世界のウェブ・ユーザーの29% がすでに女性になった (米国では33 % ) 。40% が36歳以上だ。所得水準も決して高くはない。米国の場合、約1/3 は年所得が 3 万ドル以下だし、5 万ドル以下となると半数がそうである。これらの人びとは、中流階級ないし勤労階級に属しているとみてよい。職業別に見れば、多いのは学生、セールスやサービス労働従事者、退職者、その他種々雑多な職業 (日雇い労働、職人、主婦等) に従事している人びとである。つまり、サイバースペースの住民は、もはや少数のハッカーでも一部のエリートでもなく、社会の主流あるいは多数派になりつつあるわけだ。

 さらに、インターネットのユーザーたちの政党支持分布を見ると、非常に興味深い事実が浮かび上がってくる。ネティズンの大方は民主党を支持するリベラルなエリートたちだという通念に反して、非常に多くの人びとが共和党支持か無党派なのである。その意味では、彼らの政党支持分布は、1992年の大統領選挙のさいにみられたそれと、ほとんど違っていない。すなわち、ネティズン(オンライン・ユーザー)の政党支持分布は、民主党・無党派・共和党で{25,43,32}であるのに対し、非ネティズンのそれは{29,40,31}となっている。また、クリントン、ペロー、ブッシュの三人の大統領候補者への投票は、前者が{44,18,37}なのに対し、後者は{45,17,38}であって、ほとんど見るべき違いはない。唯一違うところは、ネティズンたちの投票率が、その他の人びとに比べて有意に高いことである。1994年の下院議員選挙のさいの投票率を、18~29歳、30~49歳、50~64歳の年齢階層別に比べてみると、前者が{32,58,80}なのに対し、後者は{15,46,58}と、各階層で10~20ポイント低くなっている。

そうだとすれば、21世紀の智民たちが、20世紀の市民たちとどこがどう違うかという点は、慎重に検討してみる必要がありそうだ。少なくとも、智民たちが何かこれまでの市民たちとはまったく違う価値観や政治理念をもった特異な存在あるいは政治的少数者だと考える理由は、どこにもないというべきだろう。

第三節:革命の予感

 情報産業革命と情報社会革命が進展する中で、これまでの国家や産業社会のあり方を前提としたさまざまな社会制度が、いっせいに機能不全に陥り、人びとの信頼を失いつつあるようだ。米国の代表的な新聞の一つであるワシントン・ポスト紙がこのほど連載したシリーズ「不信の政治」は最新の世論調査の結果を紹介しているが、その冒頭で、アメリカが怪しい余所者たちの国になりつつあることが指摘されている。人びとが互いに不信の念を抱くようになったことが、連邦政府や軍部、議会や最高裁などほとんどあらゆる国の機関に対して、アメリカ人が信頼を失うにいたった大きな理由である。後述するように、人間とそれが作る組織や制度に対する不信感は、建国以来のアメリカの文化の底流をなしているのだが、それにしても1950年代以来、 成年に達する各世代は、人間不信の念をますます強めている。そのさらに背景にあるのが、犯罪への恐怖、経済的な不安、未来の生活水準に対する悲観論などであって、その集中的な表現が、政府は事態をますます悪化させているか、あるいは事態を改善する能力がないという信念なのである。(*)

(*) The Politics of Mistrust, Washington Post, 28 Jan. 1996.

もちろんこのような人間不信・未来不信は、産業化の20世紀システムや、近代化の第一局面において形成された主権国家のシステムなどが、歴史の転換期にあたっていわばその耐用期間を終えつつあるために、いっそう増幅されているとみることもできる。やがて新しい情報社会が本格的に到来すれば、新しい信念や制度の体系が形作られ、アメリカ人たちは--そしてわれわれも--急速に自分自身と他人に対する信頼を取り戻す可能性がある。いや必ずそうなるに違いない。しかしそれにはかなりの、恐らくは何十年かの時間を必要とするだろう。

社会学者のダニエル・ベルは、すでに1970年代の半ばに、脱工業社会の直面する問題は、グローバルな問題とローカルな問題に二極分化していく傾向があるが、これまでの近代社会が生んだ唯一の公的権力組織である国民国家は、グローバルな問題解決のためには大きすぎ、ローカルな問題解決のためには小さすぎる、と指摘していた。(*) 人類社会の発展を、農業化の "第一の波" 、工業化の "第二の波" 、情報化の "第三の波" によって区分するアルビン・トフラーたちも、先に言及したように、工業化の時代に合わせて構築された "第二の波" の政治システムの機能不全化を、いち早く主張した。しかし、私に言わせれば、 "情報化" とそれが生み出す "情報文明" は、軍事化と産業化に続く近代文明の中での進化の波の一つにすぎないのであって、近代を特徴付ける進歩の思想は、これから二一世紀にかけてさらに洗練されることはあっても、完全に放棄されることはまだまだないだろう。(**)

(*) しかしだからといって、他に適切な権力組織がない間にいきなり国民国家無用論を唱えるのは性急にすぎるだろう。
(**)私は、村上泰亮の政治経済学へのコメントを試みた論文の中で、彼のいう "進歩主義" すなわち、究極の理想あるいはそれに到達するための経路が一義的に認識しうるという立場にたつ思想を、 "強い進歩主義" と呼び、それに対して、究極の理想もそれへの到達経路も一義的には認識できないが、それでも現状の改善可能性を信じ、何らかの改善目標をたててはその実現に努めようとする立場にたつ思想のことを、 "弱い進歩主義" となづけた。そして、近代化の第三局面では、強い進歩主義はすたれるにしても、進歩主義一般がすたれることはなく、むしろ弱い進歩主義が台頭してくると論じた。Shumpei Kumon, "Some Reflective Comments on the Thought of Murakami Yasusuke," in Kozo Yamamura, ed., Anticlassical Political Economy. Stanford University Press (forthcoming).

それにしても、この十年ばかりの間に機能不全状態を呈するにいたった政治システムは、何も社会主義のそればかりではない。アメリカでもヨーロッパでも日本でも、産業化の先進国の政治システムは、ひとしなみに混乱し停滞している。にもかかわらず、希望の光はいっこうに見えてこない。政治の行き詰まりは、単に財政赤字や雇用不安、あるいは家庭やコミュニティの崩壊や治安の悪化、といった現象面に見られるだけではない。それらの問題がが情報技術の発展によって解決の方向に向かうよりは、むしろそれと軌を一にして、あるいはさらにいえば、まさにその結果として、噴出し深刻化しているように見えるところにある。(*)

(*)米国を震撼させた爆弾テロリストのユナボンバーなどに代表される "新ラダイト主義" とでも呼ぶべき反機械化、反情報化、反近代の思想は、まさにこの点をついている。

たとえば、カナダを代表する新聞の一つである『グローブ・アンド・メール』紙は、次のような指摘をしている。(*)

最近、中国やドイツや米国、さらに今ではフランスも気づいたように、インターネット上で電子的に送られるデータは、その各ビットが、かつての軍隊と同様に、一国の法制度や文化にとっての脅威となりうるのだ。だが電子的データはつかまえどころがないために、それを調べだすことは困難で、根絶することは不可能だ。そこから、インターネットの存在それ自体が国民国家にとっての脅威ではないかという懸念が、ひましに高まっている。

われわれは、国家は統一された機関だと思っている。だが実際にはそれは、経済的主権、軍事的主権、文化的・社会的主権等、さまざまな主権の束にすぎない。この束が今、ほどけている。あるいはサッフォー氏のいうように、「ディジタル技術は、今日知られているような国家を固めている糊を溶かしだす溶剤なのだ」。

諸国の政府が憂慮しているのは、単なる文化的・社会的主権のみにとどまらない。徴税力もまた、インターネット上で行われる経済的取引の拡大によって浸食されている。そうした取引のいくつかは暗号化されているために、税務検査官が幸運にもそれに行き当たったところで、税務当局にはそれを読み解くすべがないのである。麻薬取引人やテロリストたちは、その資金のますます多くを、この方法で動かすようになりつつある。にもかかわらず、規制なきサイバースペースの唱導者たちによれば、そのことは、現在のところ暗号化プログラムを利用しているのが違法行為をしている連中だけだということを、意味するにすぎないのだ。それはカナダで銃の規制に反対する人びとがしばしば取る論法に似ている--悪い奴らはすでに武器をもっているではないか、というあれだ。
(*)「各国は、インターネットを安全にとっての脅威と見ている」、Globe and Mail, February 3, 1996. なお、私はこの記事のことは、あるメーリング・リストで、Mike Ang氏が行ったその紹介から知った。ちなみに同氏は、銃の規制には賛成だが、暗号化技術の規制には反対だという立場を取っている。私自身のこの問題に対する立場は、すぐ後で示すことにしよう。

また、カリフォルニア州議会には、月12% にも達するインターネットの爆発的な成長がもたらしたネット上での州際商取引の普及が、州内での雇用の維持や拡大、あるいは州やその他の地方政府の消費税収入の減少につながることを恐れて、「インターネット検討委員会」を組織させようとする法案が審議されている。(*)

(*)逆に、データ通信を新たな税源として利用する試みもある。すでにフロリダ州の歳入局は、インターネット・サービスやパソコン通信のプロバイダーに対して、売り上げの17.5% にのぼる "テレコム税" の課税を検討している。業界では、これに対抗して、COST (Committee On State Taxation)という委員会を組織して、反対運動を展開しようとしている(www.intnet.net/Tax.html参照) 。

より広くいえば、インターネットの爆発に代表される情報化の動きそのものに対して、恐怖感や反発を覚える人びとも決して少なくない。たとえば、フレッド・ワインガーテンは、そのような状況をこう要約している。

しかし、一般の人びとのなかの恐ろしく多くの部分が、技術の急速な発展に不安を覚えているようだ。彼らは、恐らく正当にも、あらゆる展望がバラ色というわけではなく、万人が等しく恩恵を受けるわけでもないと感じている。そして、自分が取り残される側にまわるのではないかと恐れている。こうした見方からすれば、インターネットは何か異境から来た敵であって、そこにいる傲慢なエリートたちは、社会的な規制の枠を超越した存在だと主張しつつ、もっぱら自分自身の目標や関心を追求するためにのみ、この技術を利用しているように見えるのである。(*)

(*)Fred W. Weingarten, "A 'sound' byte on culture," IEEE Computer Magazine, February 1996 。

 しかし、そうだとすれば、問題は単に情報技術の発展を待っているだけで解決できるというわけにはいかない。技術の発展自体、人間の意識や行動、あるいは社会制度と独立に進むというよりは、それらと相互作用しているのではないだろうか。つまり、意識や行動や制度は、一面では情報技術の影響を受けて変化するが、他面では情報技術の進み方やあり方自体、意識や行動や制度の如何に大きく左右されると思われる。われわれは、意識や行動や制度が情報技術の影響をいわば受動的に受けている側面に注目するだけではなく、情報技術と共存しそれを社会的に有意義なものとして利用していくためには、われわれ自身の意識や行動や制度を積極的にどう変えていくべきかを真剣に考え、実行しなければならないだろう。

それにしても、ネティズン革命ないし智民革命は今始まりかけたばかりであって、そのようなことば自体、まだほとんど普及していない。それは恐らく、過去の市民革命のように、今後かなり長期間にわたって進展していくことだろう。また、国により地域によって、その程度や時期はさまざまなものになるだろう。比較的早く、既存の政治主導勢力との間に妥協が成立して、 "平和革命" が達成される場合もあれば、 "旧勢力" からの抵抗や弾圧が激しいために、ネティズンたちの政治運動が暴力的な形--たとえば政府や企業のコンピューター・ネットワークに対する破壊活動やその上での犯罪活動など--を取るようになっていく場合もないとはいえない。(*) あるいは逆に、今日のアメリカの共和党の政治宣伝に見られるように、新しい政治勢力--必ずしもネティズン・プロパーではないにしても--自身が、憎悪と対決を強調する政治手法を最初から取ろうとして、対話や妥協を困難にしてしまう危険もないとはいえない。

(*)すでにインターネットの中には、高価で見つけ出しにくい雑誌に載った暗号学に関する論文をスキャンして、ネット上に匿名で流す“情報解放戦線(ILF) ”なるグループが出現しているそうだ。彼らは、これによって、その情報を版権から "解放する" と称しているという。

もちろん、新旧両勢力の間の相互理解と協働があることが、もっとも望ましい。その場合に特に重要な役割を果たすことが期待されるのは、既成の企業と新興の智業の間の協働-- "智業=企業協働" --関係である。そのような協働関係が、日常の業務に関してだけでなく、政治活動の面でも緊密かつ広汎に展開されるならば、智民革命には平和的な進展が約束されるだろう。

そのさい注意しなければならないのは、 "情報弱者" という観念である。産業化の進展に際して弱い政治的経済的な立場に立たざるをえなくなったのは、生産手段を奪われて無産階級化した農民だけではなかった。既成の支配階級であった軍人・貴族や聖職者たちの立場もまた脅かされたのである。さらに、新興の産業家たちとの競争に破れて没落していく古い商工業者たちもいた。つまり過去の "産業弱者" には、少なくとも三つの異なったグループの人々が含まれていた。同様に、今日の "情報弱者" にも、中間管理職への途を閉ざされて失業するホワイトカラーたち以外に、既成の支配階級であった官僚や企業経営者層や、新興の智業家たちとの競争に破れて没落していく古い智業家たち--学者、教師、芸術家等々--がふくまれているだろう。智民革命を主導する "情報強者" たちは、これらの多様な "情報弱者" たちの誰とどのような同盟関係を結んだり、中立関係に立ったりするかという政治的な選択を、賢明に行うことが必要になってくるだろう。さもなければ、智民革命自体流産してしまうかもしれない。あるいは、一時的に成功したとしても、産業社会に見られたブルジョワジーとプロレタリアートの階級対立のような対立が、情報社会でも深刻化して、産業社会での "共産主義革命" に似た情報社会の "共智主義(?) 革命" 勢力が台頭してくることになるかもしれない。アメリカの民主党がその情報インフラ構築五原則の一つとして打ち出し、ブラッセルのGIIサミットでも八原則の一つに加えられた "ユニバーサル・サービス" の理念は、そのような新しい階級分裂・対立が未来の情報社会で発生することを予防するためのものだと解釈できる。この理念は、既存の情報通信業界の間では、過大な負担になるとか、実効性をもった制度化は困難だなどとの理由で、必ずしも評判がよくないが、ゴア副大統領他の智民革命の積極的主導者たちは、歴史の教訓に学ぼうとする態度を明らかに示している。もちろん、まだ智民革命がろくに始まってもいないうちから情報面での性急な平等化を要求するのは、革命の到来自体を遅らせてしまうことにもつながりかねないので、この原則は、それ以外の諸原則--たとえば "オープン・アクセス" の原則のように、ネティズンたちに情報活動の大幅な自由を認めようという原則など--とうまくバランスを取らせる工夫が必要だろう。(*)

(*)そのような目からみると、日本の政府がこのほど(1995 年2 月21日) 決定した「高度情報通信社会推進の基本方針」は、行動原則の第一に「誰もが情報通信の高度化の便益を安心して享受できる社会」を、第二に、「社会的弱者への配慮」をあげるなど、平等化を重視する方向に最初からいささか進みすぎてはいないかという印象を受ける。

また、かりに一国あるいは一地域で智民革命が成功したとしても、他の国々や地域が、ネティズンたちの価値観やかれらが作りだす社会規範に反発するために、かりに軍事的な紛争にはならないにしても、ネットワークを通じての情報交流を遮断しようとするかもしれない。あるいは、勢いにのったネティズンたちが、みずからの信条を他の国々や地域に押しつけようとして--“革命の輸出”--対外的な摩擦や紛争を激化させるかもしれない。(*) ここでも、われわれは市民革命の“歴史の教訓”に、今から学んでおく必要があるだろう。

(*)これと似た問題意識を表明している文献の例として、David Faber, Living in the Global Information Infrastucuture--some concerns. Remarks prepared for the AAAS Annual Meeting Panel on Potholes along the Information Superhighway? Feb 18, 1995をあげておこう。