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kumon_letter - June 1, 1996

公文レター No.8

June 1, 1996 [ kumon_letter ] このエントリーをはてなブックマークに追加

1996年06月10日

「分散型高等教育システムの可能性」

公文レター 第八号   

公文俊平

先月二一日の研究協力委員会には、多数のご出席を賜り、有り難う存じます。これからもさらに実のある対話ができるように、次回の準備にも今から取り組んで参りますので、ぜひいろいろとご意見を頂戴したいと存じます。

さて、五月の終わりに、ハーバード大学で、「インターネットと社会」をテーマにしたコンファレンスが四日間にわたって開かれました。グローコムからも会津企画部長がパネルの一つに参加しました。ハーバード大学は、情報化の動きにいささか立ち遅れていたのですが、二年ほど前からインターネットの重要性に漸く気づき、今や全力をあげてその導入と利用に取り組んでいるそうです。

このコンファレンスの冒頭で、ニール・ルーデンスティン学長が行ったスピーチを会津経由で入手しましたが、その内容は非常に興味深いものがあります。今回は、このスピーチの概要をご紹介しながら、私の感想を申し上げてみたいと思います。

学長によれば、今日のインターネットの導入が高等教育にもたらしている劇的な影響は、これまでの高等教育の歴史上始めてのできごととしての側面と、これまでにも何度か経験した大きな変化の一つとしての側面を併せもっています。

まず、過去との類似でいえば、それは百年ほど前の、高等教育への "研究図書館" システムと呼ばれる巨大な情報システムの導入と、良く似たところがあります。研究図書館の導入は、十九世紀の第四四半期から二十世紀の第一四半期に至る半世紀にわたって行われました。つまり、私のことばでいえば、第二次産業革命の "突破局面" に行われたのです。この時の最大の課題は、急激に増え続ける大量の図書の最適な利用の方式の開発でした。購入された図書を分類して整理収納すると同時に、なるだけ早く研究者の利用に供するための仕組み、さまざまな分野にわたる多種多様な図書や論文の間の相互連関をつけるための仕組み、原則としては各一冊か二冊しか購入されない図書を、何十人もの学生が聴講するコースの参考文献として効果的に利用させるための仕組み、等々が開発されなければならなかったのです。しかし他方では、学生や研究者が、この研究図書館の魅力にとりつかれて図書館にいりびたるようになり、実生活とのつながりを忘れてしまう危険も指摘されました。そうかと思うと、図書館に行って本から本を眺めてまわるだけで、本当の読書はいっこうにしなくなる学生にたいする憂慮の声もあがりました。

同じような事態は、さらにその百年ほど前、つまり私流にいえば第一次産業革命の "突破局面" にも起こっていました。書物が工業的に大量生産・販売される時代がやってきたのです。当時、あの百科全書派のディドロさえもが、書物が増えすぎたために、書物から学ぶことが世界から直接学ぶのと同じくらい困難になる時代がやってきた、世界は書物の海に溺れようとしている、と嘆いたそうです。有用な情報と、下らぬ情報の区別をどうつけるかという問題も指摘されました。また、一七九五年にドイツで出版された論文の中には、過度の読書は「風邪、頭痛、視力低下、あせも、痛風、関節炎、喘息、卒中、肺疾患、消化不良、神経症、偏頭痛、癲癇、気病み、ふさぎこみ」などのもとになる、と述べられているそうです。対策としては、食後すぐには読書しないこと、どうしても読書する場合には立って読むこと(座っての読書は消化を妨げる)、新鮮な空気を入れ、頻繁に散歩し、冷水で定期的に洗顔すること、などが推奨されました。しかし、そんなことよりも最大の危険は、読書に溺れると正常な対人関係が持てなくなり、社会的な不適応者になってしまうことだ、と言われたそうです。

つまり、今日の情報化の進展、とりわけインターネットの普及にさいして指摘されている危険のほとんどは、過去二回の産業革命の突破局面で恐れられた危険と同種のものです。その多くは時間の経過と共に解決されていくか、あるいは単にそれに慣れっこになる--例えば多くの人が眼鏡をかけなければならなくなっても当然のこととして怪しまなくなる--のでしょう。

しかし他方では、歴史的にまったく始めてと思われる事態も生じています。それは、ラジオや映画やテレビのような過去の新しいコミュニケーション・メディアが遂になしとげることのできなかったほどの大きな影響を、インターネットが教育に対して与え始めているという事態です。それはなぜでしょうか。ルーデンスティン学長によれば、それは、インターネットが他のメディアとは違って、本来的に高等教育過程での教育と学習に適合したメディアであるからです。インターネットが生み出している教育・学習環境は、実は、これまでの図書館や教室、講堂や演習室、あるいは実験室や机のような伝統的な教育・学習環境と、質的に同じものであり、密接不可分に関連させることが可能なのです。インターネットは、これまでの研究図書館よりもはるかに巨大で強力な図書館システムとして機能します。教材の作成や使用にも威力を発揮します。たとえばビジネス・スクールでのケース・スタディー用教材の質は、インターネットの利用によって格段に向上します。中国への企業進出の問題点を学ぶマルチメディア・ケース・スタディーには、さまざまに異なる意見をもつ人達とのインタビューや現場での実際の仕事の模様などを、各種の文書やデータやグラフと共に提供することができるようになります。それによって、学生は、限られた観点から切り取られた現実世界の僅かな断片というよりは、さまざまに異なる観点から観察され経験された多様な素材を含んだ、現実世界そのものとほとんど同じくらいに豊かな内容の教材に、接することが可能になります。

インターネットはまた、対話型のコミュニケーションに適したメディアです。ところが教育・学習の本来の形は、教師と生徒との間の、また生徒相互間の不断のコミュニケーションに他なりません。インターネットは、対話型のコミュニケーションがもっている時間と距離の制約を、大きく取り払ってくれます。対話のための心理的な壁を取り除いてくれる場合もあります。教室では満足に発言できない内気な学生が、インターネットだとしっかりした内容の対話を積極的に交わすようになるケースは、しばしば見られます。電子的なコミュニケーションは、対面型のコミュニケーションに取って代わるものではありえないにせよ、後者を強力に補完するものにはなりうるのです。

ここで、ルーデンスティン学長は、単純化のしすぎかもしれないがと断った上で、私にとって最も重要と思われる指摘をします。それは、アメリカの高等教育界の中で、一八七〇年代以来徐々に生じてきている教育観の変化です。古い教育モデルでは、教師と生徒の関係を、知識の一方的で権威主義的な与え手と従順な受け手との間の関係と見るものでした。ところが、新しい教育モデルでは、学生を、能動的な主体、精力的な学習者と見る見方が、次第に支配的になってきているというのです。教師は学生の手助けはしてやっても、特定の方向に学生を導こうとはしません。カリキュラムや教材を準備はしますが、それは正しい答えを与えたり、どれか一つだけの立場を示したりするものではなくて、いろいろな立場からの見解を示して、それらを批判的に検討させるための素材にすぎません。そうだとすれば、インターネットは、まさにこの新しい教育モデルにぴったりと合ったコミュニケーション・メディアだということができます。

ルーデンスティン学長のスピーチを読んで、私はあらためて近代日本の高等教育が抱えてきた基本的な問題点に思いをいたさざるをえませんでした。一言で言えば、近代日本は西欧流(とりわけ米国流というべきかもしれません)の教育システムの受容を、初中等教育についてはともかく、高等教育については、しごく不真面目にしかやってこなかったのではないでしょうか。逆に、米国の高等教育は、第二次産業革命に見事に適応しただけでなく、今日の第三次産業革命(情報産業革命)や情報社会革命にも、たくましく適応しようとしているという感を深くします。またまた私流の表現でいえば、米国の在来型の智業の中には、情報革命の成果を自家薬籠中のものとして、近代情報智業に向かっての自己再組織に成功するものが少なくなく、そのことが二一世紀におけるアメリカの覇権へのといわぬまでも国際的リーダーシップへの "返り咲き" を保証する主要な要因になるかもしれません。

それに引き換え、日本の高等教育の未来は、いかにも暗いように思われます。日本の高等教育は、なによりもまず、第二次産業革命への適応に失敗しました。米国はそれを、 "研究図書館" システムの構築という形でやってのけました。大学でのカリキュラムや学部構成も、それに合わせてシステム化すると同時に、絶えず柔軟に見直していくようにしました。 "教授会自治" ではない形の "マネジメント" のシステムを大学に導入しました。日本の大学も、形だけは大図書館を作ったのですが、そこでは「本」は大切に分類補完すべき宝物、あるいは図書館職員の管轄物( "私物" )であって、教員や学生の利用の対象とはほとんど考えられていないようです。私は昔駒場の東大教養学部にいたころ、ここの図書館職員にとっての理想的な職場のあり方は、閲覧室を閉鎖してそこで職場集会を開き、職員の待遇改善について議論をすることらしいな、と痛感させられたことがあります。日本の大学図書館のそうしたあり方を象徴的に示しているのが、 "ライブラリアン" の不在です。図書が利用の対象、少なくとも高度な利用の対象、でない限り、ライブラリアンは無用なのです。そして日本の大学のほとんどは、今にいたるもマネジメント不在の状態を呈しているといわざるをえません。

第二に、アメリカでこの百年にわたって徐々に進行しているという "教育モデル" の転換についても、日本の高等教育界の対応ははなはだ不十分でした。その点に関していえば、日本の高等教育制度は一種の精神分裂状態にあると言ってよさそうです。つまり、一方では、 "教育" 機能をほとんど放棄して、学生の自主的な学習--といってもその多くはモラトリアム状況でのレジャーの享受--に委ねています。卒業生を受け入れる社会も、高等教育には何ができるかにはほとんど無関心なので、むしろ白紙のままで卒業してきた学生を受け入れて、現場で教育する方がよいと考えてきました。他方では、個々の教員の多く、少なくとも "真面目に" 教育にたずさわっている教員の多くは、過去の権威主義的な教育モデルから一歩も外に出ていません。しばらく前ですが、ある大学のコンピューター科学の教授が、最近の学生はインターネットを使って勝手に資料を取ってきて論文を書くのはよくない、自分はインターネットの利用を学生には禁止した、いやコンピューターの利用も禁止したいくらいだ、と話しているのを聞いてさもありなんと思ったことがあります。

ところで、グローコムは、おかげさまで施設の面ではとみに充実してきました。高速のインターネット接続回線と、充実したLANのシステムをもっていますし、プレゼンテーションのための施設も、まだ完全ではありませんがかなりの質のものを備えています。これらの施設の有効利用がこれからの課題ですが、その一つとして、新しい形での教育というか学習支援プロジェクトを立ち上げてみたいと思うようになりました。いま構想していますのは、

  1. インターネットの性格や活用の仕方を教える啓蒙・普及講義シリーズの提供、
  2. グローコムの研究員が取り組んでいる研究テーマに関連した、よりアカデミックな性格の講義シリーズの提供、

の二つです。どちらもオンラインでのコミュニケーションと教室での対話を組み合わせた形で、実施していきたいと考えています。

前者については、当研究協力会員でいらっしゃるアスキーの西社長が、企画と運営はアスキーがやるので、グローコムは場所と講師を提供してはどうかとおっしゃって下さっています。たいへん有り難いお申し出なので、できるだけ早く開講の運びにもっていくつもりです。

後者については、まだ漠然とした構想の段階にすぎません。私どもとしては、 "寄付講座" 型のご支援をいただいて、できるだけ系統的で継続的な講義シリーズが組めるといいなと思っていることろです。私自身は、『情報文明論』の続編の原稿をもとに講義をしながら、参加者との対話を通じて内容に手を加えて行き、ある程度できあがったところで本の形で出版してみたい、その途中のドラフトは、インターネットのホームページに掲載して、コメントを頂戴すると同時に議論もしてみたい、といった希望をもっています。他の研究員たちもそれぞれに意欲を燃やし始めています。また、そうした活動の基盤として、グローコムがもっている各種のリソースを系統的に整理し、所の内外で利用できるようにするためのデータベース作りにも、積極的に取り組んで行こうとしています。

ご承知の通り、グローコム自身は正規の大学の一部ではありませんので、私どもの方から講義の参加者に対して正規の "単位" や "学位" を差し上げることはできませんが、あるいは他の大学なり大学院が、グローコムでの講義を "単位" として認定してくださることは可能かもしれない、そうなると、新型の高等教育の面白い試みにもなるかもしれないな、などと思ったりもしています。

 なにとぞよろしくお願い申し上げます。