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「情報革命の意味するもの」

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1996年7月7日

「情報革命の意味するもの」

『論争東洋経済』96年8月発行号掲載」

公文俊平

今日の情報革命の最大の特徴は、それが"ハイパー近代化革命"だという点にある。それは近代文明をその進化の新たな(そして恐らくは最終の)局面に引き上げるような社会変化であって、近代そのものを超えさせるような社会変化ではない。

ただし、今日の情報革命には、それ以外にもいくつかの面で"ハイパー化"、すなわち事物の本来の性質を残しながら、より高次の機能をそれに付け加えるような変化、としての特徴が付随している。本稿では、八つの側面について、今日の情報革命の意味するものを示してみたい。

1)ハイパーネットワーク化

情報革命の技術的な基盤をなしているのは、"ハイパーネットワーク"とよぶことが適切な、高度情報通信システムの急激な成長である。情報通信システムとしてのハイパーネットワークは、今日の"インターネット"をその原型とする、分散協調型のコンピューターの"ネットワークのネットワーク"である。それは、いうまでもなく情報通信システムの一種だが、電話や放送に代表される、長い進化の過程をへて成熟している既存の情報通信システム(とりわけ20世紀に発達した電気通信システム)とは質的に大きく異なっている。それは、いわばまだ生まれたばかりで今後さまざまな方向への進化の可能性を豊富にもっている、新種の情報通信システムなのである。1990年代は、このハイパーネットワークの構築が世界的に急激な速度で進行する"ネットワーク革命"の十年となるだろう。

2)ハイパー産業化

今日急速に進行中の情報技術の革新には、明らかに、過去の技術革新とは不連続な側面がある。技術の"パラダイム・チェンジ"に伴って、経営や産業や雇用にも新しいパラダイムが生まれつつある。20世紀の大企業体制に代わって、"オープン型経営"とか"バーチャル・コーポレーション"などと呼ばれる新しい経営体制が構想されている。"マルチメディア"と総称される21世紀の新しい主導メガ産業が出現してくる過程で、未来の産業組織は、"プラットフォーム型"に転換していくだろうという予想もされている。フレックス・タイムや在宅勤務が普及したばかりか、派遣社員やフリーターのような雇用形態も拡がっている。人々は、何時、どこで、誰のために働くかについての、自分自身の選択の機会や余地を、大きく拡げ始めたのである。こうした一連の変化は、まさに産業革命と呼ぶことがふさわしい。現在は、19世紀の終わりや18世紀の終わりに対応するような、第三次の産業革命の初期局面、すなわち"突破局面"なのである。

3)ハイパー近代化とハイパー進歩主義

しかし、今日の情報革命は、単なる産業革命を超える深さと広がりをもっている。そこには進歩や発展が可能だという信念の通有によって特徴づけられる近代社会の中で起こる、過去の産業化それ自体に匹敵する大きな社会革命としての側面がある。近代社会は、その進化の過程で、軍事革命を通じて近代主権国家を生み出した。これが近代化の"第一の波"である。国家主権の観念に立脚する近代主権国家は、国際社会を舞台として、国威(脅迫・強制力)の増進と発揚をめざして互いに競争した。近代社会はまた、産業革命を通じて近代産業企業を生み出した。これが近代化の"第二の波"である。私有財産権の観念に立脚する近代産業企業は、世界市場を舞台として、富(取引・搾取力)の蓄積と誇示をめざして互いに競争した。そして今、近代社会は、情報革命を通じて近代情報智業とでも呼ぶべき、近代第三のタイプの社会的主体群を生み出しつつある。これが近代化の"第三の波"である。近代情報智業は、国家主権や私有財産権とは性格の異なる"情報権"の観念に立脚し、"地球智場"とでも呼ぶべき情報や知識の普及の場を舞台として、智、すなわち知的影響力(説得・誘導力)の獲得と発揮をめざして互いに競争し始めている。この意味での地球智場の今日における具体的な形が、ハイパーネットワークである。

しかし、この意味での"情報化"は、産業化を超える社会変化ではあっても、近代化を超えるものでは必ずしもない。むしろ、情報化は、近代化をその新たな進化の局面に進めるものであり、その結果は"ポスト近代社会"ならぬ"ハイパー近代社会"の出現であろう。つまり、情報化とは"ハイパー近代化"に他ならない。

そうだとすれば、進歩や発展は終焉したどころか、今まさにわれわれの眼前で瞠目すべき進歩や発展が生じ続けていると言わざるをえない。その限りでは、近代文明を特徴づけている"進歩主義"の思想も、まだ当分完全に否定されることはなかろう。否定されつつあるのは、かつて村上泰亮が『反古典の政治経済学要綱』の中で定義した意味での進歩主義、すなわち、理想的な秩序とそれに至る経路が一義的に確定可能と考える進歩主義である。これに対し、情報化局面で広く信奉されることになると思われる"ハイパー進歩主義"は、理想的な秩序もそれに至る経路も決して一義的に確定することはできず、人間は不確定な未来に向かって、現状の絶えざる改善をめざして多面的な努力を続ける存在であり、その努力はさまざまな形で報われる、という相対的により謙虚な信念に立脚したものになるだろう。それは決して、脱進歩主義ではない。むしろ、進歩主義の思想にその本来の面目を与えるような、それこそ"ハイパー"な思想に他ならない。

4)ハイパー市民としてのネティズンとハイパー・コミュニケーション

産業化を主導し、産業社会を支えたのは、都市に棲んで商工業に従事する市民(シティズン)たちだった。同様に、今日の情報化を主導し、情報社会を支えて行くのは、ネットワークに棲んで智業、すなわち知識や情報の創造・普及活動に従事するネティズン(智民)たちになるだろう。もちろん、産業社会の到来以前にも、初期近代社会の三つの社会的身分の一つとしての市民身分があったように、情報社会の到来以前にも、いわば旧式の智業に従事する在来型のネティズン--"文人"、"学者"、"芸術家"など--は存在していた。しかし、今日のネティズンたちは、ハイパーネットワークを積極的に活用して智業に従事する。あるいは、多種多様なコミュニケーション(交流)やコラボレーション(協働)を行うようになる。彼らは、ここでの用語法を適用すれば、まさに"ハイパー市民"と呼ぶことがふさわしい。情報社会は、ハイパー市民が主導する社会なのである。

それと共に、二十世紀の近代社会に支配的であった、マス・コミュニケーションとパーソナル・コミュニケーションに代表される個人指向型のコミュニケーションのパラダイムは、コミュニティ指向型の新しいコミュニケーションのパラダイムによって置き換えられていくだろう。こうして出現する"ハイパー・コミュニケーション"の形態は、"パブリック・コミュニケーション"と"グループ・コミュニケーション"にひとまず分けてみることができる。前者は、これまでのマス・コミュニケーションを補完もしくは代替するものであって、人々が、自分の公開したいと思う情報を、いわば控えめな形で自分のサーバーの上において、公衆の自由なアクセスやダウンロードを許すものである。WWWのホームページはその典型である。マス・コミュニケーションに対するパブリック・コミュニケーションの特徴は、一方では発信者の数の多さと発信の仕方の控えめさに、他方では受信者の積極的な情報探索・入手行動に見いだすことができる。

また後者、すなわちグループ・コミュニケーションは、グループの中での緊密なコラボレーションの支援を目的とする双方向型のコミュニケーションであって、電子メールや電子会議、あるいは各種のグループウエアの利用によって特徴づけられている。恐らくそう遠くない将来に、これらのハイパー・コミュニケーションのほとんどは、インターネットの上での統合されたアプリケーションを通じて、行われるようになっていくだろう。それに伴って、これまでの広告・宣伝業や編集・出版業は、ハイパー・コミュニケーションの支援産業へと、その姿を変えていくだろう。

5)智場がプラットフォームとなるハイパー市場

これまでの産業社会では、市場での取引活動がそれ以外の社会活動にとってのプラットフォームとなる傾向があった。その結果、良くも悪くも、教育や医療は営利事業となり、政治は金権政治となっていった。また、産業化の特に初期にあっては、近代国家と産業企業の間に協働関係が成立して、国家は企業の安全を保障して、企業が営利活動に専念できるようにした。企業は国家のために税金を支払うと同時に、国家が必要とする優秀な武器を含む各種の財やサービスを供給した。

同様に、これからの情報社会では、智業による知識や情報の普及の場としての智場での説得活動が、それ以外の社会活動、とりわけ国家や企業の活動にとってのプラットフォームとなる傾向が強くなっていくだろう。国家の統治行為は、官民の相互信頼を前提とした国民との緊密な双方向のコミュニケーションなしには、ますます困難になっていくだろう。企業の営業活動も、顧客やベンダーの説得に、あるいは双方向のコミュニケーションに、あるいはそれを前提とした長期的な相互信頼関係や協働関係に依存する度合いが、ますます強まっていくだろう。つまり、統治やビジネスは、智業との協働に支えられて展開していく結果、そのあり方を大きく変化させていくだろう。とりわけ、既成の国家の財政難がますます深刻になる情報化の初期にあっては、企業・智業協働関係が、極めて重要になってくる。すなわち、個々の企業は、自らの判断と責任において、さまざまな智業を経済的に支援して、智業が情報や知識の産出と普及に専念できるようにしなければならない。智業は智業で、企業が必要とする情報や知識の提供を惜しんではならない。ただし、そうした協働関係が、特定の企業と特定の智業の"癒着"に陥らないような、協働環境の整備、とりわけ公正なルールの制定と執行とが必要とされよう。

6)ハイパー生活領域

コンピューターは、もともと数学的な計算、あるいはより広義には"記号"間の論理的な関係の操作・処理のための機械として作られた。しかし、1960年代には、コンピューターがもつもう一つの機能、すなわち、人間を取り巻く"現実"あるいは生活環境の"シミュレーター"としての機能の有用性が広く認識されるようになった。1990年代に入って、コンピューターはさらに重要な機能を発揮しうることが明らかになった。人間の観念に対してバーチャルなリアリティを付与する"観念のバーチャライザー"としての機能がそれである。それによってコンピューターは、"サイバースペース"と呼ばれる新空間次元を、人類の生活領域に追加し、人類の生活をより豊かで多彩なものにしようとしている。

観念のバーチャライザーとしてのコンピューターは、一方では人間の観念を、人間の感覚器官にとって現実の事物に劣らない、いや時としてそれ以上に生々しい現実性をもつ"バーチャル・リアリティ"として具象化してくれる。他方では、人間の観念をもとに、コンピューター・ネットワークの上で、自由に移動して人間の要求するさまざまな機能を果たすとともに増殖や進化すらする、さまざまな"エージェント"を生み出してくれる。これらのエージェントは、"生命体"がもっているさまざまな特質を備えているので、"人工生命体"ないし"バーチャル・ライフ"と呼ぶことができよう。

振り返ってみれば、近代化とは、まさに人類のエンパワーメントとそれに伴う生活領域の拡大の過程に他ならなかった。軍事的なエンパワーメントをもたらした軍事革命は、新大陸の発見を含むいわゆる"地理上の発見"と密接に関係していた。その結果、近代人はこの地球上の全地表空間を自らの生活領域として獲得した。また、経済的なエンパワーメントをもたらした産業革命は、人類の生活領域に、"工学的空間"とでも呼ぶことができる新しい空間次元を付け加えた。都市に代表されるこの新たな生活領域では、人類の活動は人工の時間のリズムに従って、必要ならば人工の照明やエア・コンディショニングの下で、建築物から機械、工業製品から合成物質にいたる多種多様な人工物に囲まれて、昼夜や四季の区別を無視して、空中から海中・地中に至る三次元の物理的空間の中で展開されるようになった。さらに今日、人類の知的なエンパワーメントをもたらす情報革命によって、部分的には物理法則からも自由な新次元の空間へと、人類の生活領域は拡大しようとしている。それが"サイバースペース"に他ならない。

このサイバースペースは、人類自身が発見し構築していく新空間であると同時に、人類に開かれた新たなフロンティアでもある。それは、現在ではほとんど無法地帯に等しく、その性質もほとんど明らかにされていない。この新空間を探検し、植民し、秩序を構築していくことが、今後少なくとも数十年にわたる人類の課題となるだろう。その意味ではサイバースペースの発見の意義は、新大陸の発見や工業技術の発見に勝るとも劣らない。

近代の政治経済体制の中心課題は、私的主体のエンパワーメントの促進と規制の間のバランスをどう取るかという問題だった。軍事的エンパワーメントに対しては、私人による武力の保有や使用を禁止するという集権的解決が広く採用された。経済的エンパワーメントに対しては、生産手段の国有化という集権的解決方式(社会主義)と、私有財産と私企業の自由を認めるが独占は規制するという分権的解決方式(資本主義)とが競合し、結局は後者が優勢となった。知的エンパワーメントに対しては、"ビッグ・ブラザー"による知識や情報の集権的管理体制は人々にとっての悪夢だったが、ピーター・ヒューバーも指摘しているように、それはそもそも実現不可能だろう。知識や情報の保有や利用には、経済財の場合以上に分権的な解決方式を採用する必要がある。知識や情報の表現と秘匿の自由は情報社会の基本的人権でなければならない。しかし、一切の規制が無用というわけではない。現に最近のインターネットの爆発的成長に伴って、インターネット上での表現の自由や秘匿(暗号化)の自由をどこまで認め、どこまで規制すべきかという問題が、大きな政治問題になりつつある。規制に対する各国の姿勢の違いは、国際紛争さえ引き起こすかもしれない。いずれにせよ、経済財の場合と同様、知識や情報についても、反独占政策や再分配政策が、やがて導入されることになるだろう。

7)ハイパー世界秩序

サイバースペースをもその不可欠の一部として含む、未来の人類の拡大された生活領域を律する世界秩序は、どのような秩序軸から構成されることになるだろうか。近代世界はこれまで、もっぱら二つの秩序軸の上での理想的状態の達成をめざしていた。すなわち、国家と国民にとっての平和と、企業と市民にとっての繁栄とが、それであった。二十世紀のパクス・アメリカーナは、前者を民主主義的な政治秩序によって、後者を自由主義的な経済秩序によって達成しようとしていた。未来の情報社会においても、平和と繁栄は依然として理想でありつづけるだろう。しかし、その達成の手段が、民主主義と自由主義にのみ限られるかどうかについては、とりわけアジア地域に関していえば、論議の余地がありそうだ。だが、ここではその点の議論はさておいて、むしろ、情報社会では、これまでの二つの秩序軸に加えて、智業と智民にとっての楽しさを理想とする第三の秩序軸が加わるべきことを強調したい。理想状態としての平和や繁栄には、他の理想の実現のための手段としての側面が含まれている。しかし、それに比べると、楽しさは、それ自体が目標とされる度合いがはるかに強い。今日急速にその数と影響力を増しているNGOやNPOは、自らが正しい、善い、あるいは美しいと考える目標を実現しようとして行動している智業だといってよいだろう。それを別の言葉でいえば、そうすること自体が楽しいからであり、楽しく自分の好きなことができる状態を理想としている、といってよいのではないか。そして、楽しさを達成する手段となるものこそ、開かれたコミュニケーション秩序ではなかろうか。つまり、未来の"ハイパー世界秩序"として、ここでは、平和を目指す政治、繁栄を目指す経済に加えて、楽しさを目指すコミュニケーションをその第三の秩序軸に据えることを提案したい。さらにいえば、それら三つの秩序軸のさらに基盤となるものとして、文化の相互理解と文明の相互受容を理想とする社会秩序軸を、追加しておきたい。

もちろん、現実の世界には戦争もあれば不況もあるように、退屈で単調な状態はいくらでもある。しかし、楽しさの享受こそ生の積極的な意味に他ならないとすれば、少なくとも情報社会にとっての理想としては、平和と繁栄に並んで楽しさを掲げる意味はあるだろう。いや楽しさこそ、第一の理想として掲げられるべきだろう。

8)ハイパーネットワーク社会

"ネットワーク"といえば、多くの人は、情報通信や物流のネットワークをまず思い浮かべるだろう。しかし、社会システムとしてのネットワークもまたネットワークの重要な一種である。"社会システムとしてのネットワーク"とは何かという点については、社会科学者の間の合意は必ずしもないが、ここでは、

  1. オール・チャネル型のコミュニケーションが広汎に見られ、
  2. その中での相互行為は説得と誘導が支配的であり、
  3. 概してフラットな構造をもつ、

社会システムのことを、"ネットワーク"と総称したい。この意味でのネットワークは、

  1. それ自体としての意思決定・行為能力をもつ主体型の"ネットワーク組織"と、
  2. そうではない非主体型の"ネットワーク社会"、

とに大別できる。未来の情報社会では、前者は"智業"によって、後者は"智場"によって代表されるだろう。それは丁度、産業社会の代表的な社会システムが主体としての"企業"と非主体型の"市場"からなるのに似ている。

この意味でのネットワーク社会が存続・発展するためには、説得や誘導型の相互行為が有効に機能しなければならない。そのためには社会の成員の間に、予め大量の情報や知識とそれらを理解し評価するための枠組みとが通有されると共に、それに基づく相互の理解と信頼の関係が成立していることが必要だろう。つまり、ネットワーク社会は、エドワード・ホールのいう"ハイ・コンテキスト文化"を必要とする。ハイ・コンテキスト文化自体を作りだし維持していくためには、社会の成員の間に、双方向の緊密なコミュニケーションが効果的に行われている必要がある。また、そうしたコミュニケーションに基づく、さまざまなコラボレーションが効果的に行われている必要がある。今日の情報革命は、まさに人々の間のコミュニケーションとコラボレーションを効果的に実現させるための、強力な社会的手段を提供しつつある。その結果として、文化のハイ・コンテキスト化とでも呼ぶことのできる傾向が、情報社会には拡がっていくだろう。あるいは、既存のロー・コンテキスト文化のストックを、緊密で効果的なコミュニケーションやコラボレーションのフローによって、とりあえず代替・補完していくことが可能になるだろう。

ところで、平安末期以来の日本の社会は、イエ社会としての特徴に加えて、"ネットワーク社会"あるいは"ネットワーク文明"としての特徴をも顕著に示している。鎌倉・室町から戦国時代にかけての"党"や"一揆"あるいは"座"、江戸時代以来の"村"、あるいは今日の業界や政界のいわゆる"ムラ"などは、いずれも社会システムとしては"ネットワーク組織"に分類することができるだろう。それどころか、とくに戦後の日本社会は、一応は政府をもち国家の体をなしているとはいえ、国家としての統治力はそれほど強くなく、全体としてはむしろ、マスメディアをその神経器官とする"ネットワーク社会"としての性格をいっそう強めたということさえできそうだ。

しかし、今、情報革命は、日本の伝統的な"ネットワーク社会"を、"ハイパーネットワーク社会"として再組織する可能性を開いている。ハイパーネットワーク社会は、過去のネットワーク社会(たとえば、これまでの日本社会)に比べると、外に対してより開かれた、透明性の高い社会、自らの内部だけでなく外部の社会との間にも緊密なコミュニケーションやコラボレーションの関係を展開していく社会、になることだろう。私達は、未来の日本社会が--その点でいえば、日本だけでなくすべての社会が--まさにこの意味でのハイパーネットワーク社会になることを期待している。なぜならば、情報革命に対応した再組織の必要があるのは、日本社会だけではないからである。実際、デービッド・ロンフェルトらが指摘するように、すでに北米や西欧の一部には、情報革命の進展と軌を一にして、ネットワーク組織やネットワーク社会の出現と普及が進み始めている。日本の社会や文明の特質の少なくとも一部を、より肯定的に評価してそこから学ぼうとする機運もある。その意味では、これから二一世紀にかけて、世界の近代社会の間では、それぞれの文化の相互理解と文明の相互受容が進行していくだろう。その結果、二一世紀の近代社会は、世界的に"ハイパーネットワーク社会"としての特徴をさまざまな面で通有するようになっていくだろう。