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kumon_letter - January 1, 1997

公文レター No.14

January 1, 1997 [ kumon_letter ] このエントリーをはてなブックマークに追加

1997年1月10日

「ゾーハ理論紹介」

公文レター 第14号

公文俊平

新年おめでとうございます。私どもは、今年を日本の情報化にとっての正念場の年と考えています。とりわけ、OCN-ODN のようなインターネット型の新しい情報通信サービスがいよいよ全国的に展開され始めるなかで、ADSLやケーブルモデムに代表されるインターネットへの高速アクセス技術が、ようやく日本でも実用化される段階に達したことに注目しています。この両者が相まって展開していくことで、日本にも、これまでの立ち遅れを取り戻す可能性がでてきたといっていいのではないでしょうか。

しかし、その問題は、来月の研究協力委員会で取り上げさせていただくことにして、この「公文レター」では、今月と来月の二回にわたって、アメリカ生まれの哲学者ダナー・ゾーハーの人間論および社会論を紹介してみたいと思います。それらは、次の二冊の著書、

The Quantum Self: Human Nauture and Consciousness Defined by the New Physics. Quill, 1990  ( 邦訳は、『クォンタム・セルフ:意識の量子物理学』 青土社、1991) と                                       、

The Quantum Society: Mind, Physics, and a New Social Vision. 1994,

に収められています(以下では、「前著」および「後著」という呼び方で二つを区別することにします)。

ゾーハーの思想は、20世紀の物理学が発展させた量子論的な自然観を、人間(の意識)や社会に対しても応用しようとするものです。それは、最近にわかに注目されるようになった「複雑系の科学」や社会科学における「進化論的アプローチ」に直接言及こそしていませんが、それらと思想的に強く共鳴するところがあるように思われます。

ゾーハーは1944年の生まれです。まずMIT で物理学と哲学を学び、続いてハーバードの大学院で哲学と宗教学を研究しました。その後イギリスに移住し、精神分析家のI. N. マーシャルと結婚して二児の母となり、オクスフォードに住んでいます。十代の彼女は、アメリカに尽くすことが神に尽くすことだと信じている、典型的なナイーブなアメリカ人でした。しかし、十九歳になった時、ケネディ大統領の暗殺に直面して、その信念は揺らぎます。さらに、マーティン・ルーサー・キングやボブ・ケネディの暗殺やベトナム戦争に出会うにいたって、青年期の理想と自国の現実との折り合いがどうにもつかなくなってしまい、祖国を捨てる決心をしました。ユダヤ教に改宗した彼女は、最初イスラエルに、次にイギリスに渡りますが、どちらの社会にも敢えてとけ込もうとせず、アウトサイダーとして暮らし、同じような境遇にある人々ともっぱら交わっていました。こうして彼女は、20年もの間、親の死に目に際してさえも、アメリカの土を踏まなかったのです。

ところが、いつしか二児の母となり、さらに前著を刊行するに及んで、彼女は異郷での亡命者としての生活には満足できなくなりました。身近な家族や自分自身を、より広い社会の一部として見たいと思うようになり、さらに自分も社会的な役割を果たしたいと思うようになり、政治への関心もよみがえってきたのです。しかし、挫折感や疎外感を覚えることなしに、どうすればそれが可能になるのか、それを考える中から、後著が生まれました。つまり彼女は、この二冊の著書を構想し執筆することで、世界と自分自身とに対する正しいパースペクティブを取り戻し、ニュートンやデカルトの思想的伝統にもとづいた西欧近代文明の個人主義的で機械論的な世界観と、それがもたらした自己疎外とからも、ようやく脱却できたのです。

私事ですが、私も、敗戦と戦後の「逆コース」、そしてそれに反発して走った共産主義の運動や思想・社会に対する幻滅、さらに今度こそはと期待したアメリカの近代経済学理論や個人主義的社会の理念と現実に対する失望、などの経験を通じて、度重なる疎外感を味わってきました。1970年代の後半になって、村上泰亮さんや佐藤誠三郎さんとの日本の社会とその歴史の共同研究を通じて、「文明としてのイエ社会」の近代化・産業化過程の再評価を試みたのも、そうした疎外感を脱却するための努力の一環でした。しかし、まさにそのころから、日本社会は長く続く混迷と閉塞の過程の中に、またしても沈み込み始めたようで、世界との一体感の回復に成功するというわけにはなかなか行きそうにもありません。

そんな次第で、少なくとも私自身は、ゾーハーの二冊の本を、単なる新たな知の地平を開く書物としてだけではなく、深い個人的な共感をも覚えながら、読み進んできました。そしてその中で、新しい希望があらためて湧いてくるのを感じてもいます。「公文レポート」の題材として今回これを取り上げて見たいと思った主な理由も、そこにあります。

ちなみに、私がゾーハーを知るきっかけになったのは、京都にある将来世代総合研究所長の金泰昌先生との出会いでした。昨年の五月、電通総研がハンベック財団との共催でソウルで開いたシンポジウムに、たまたまごいっしょしたのです。その時に、金先生から、ゾーハーを囲む国際会議を京都で開いたばかりだが、非常に興味深いものだったというお話をうかがいました。私は、金先生が手短に紹介されたゾーハーの考え方が、私が展開しようと試みてきた社会システム論の方法と深く通ずるものがあるらしいことに気づき、その旨を申し上げると、金先生はご帰国の後、すぐさま上記の二冊の本を送って下さったのです。金先生のご厚意にあらためて感謝しながら、ゾーハーの議論の要約にとりかかりましょう。(今回は、まず前著の方を取り上げます。)

ゾーハーは、世界を形作っている根元的な要素としての量子のふるまい(qantum process)と、人間の意識の働きの間に見られる強い類似性にまず注目します。そして、その類似性は単なるメタファーのレベルに留まるものではなくて、両者に共通するある物理的な基盤(後述する「フレーリッヒ型のボース=アインシュタイン凝縮体 (Froelich-style Bose-Einstein Condensate)」としての特質)に由来しているのではないかと考えるのです。

量子物理学が明らかにしたのは、物質がもっている根元的な二重性です。物質は同時に波動でもあれば粒子でもあるという二重性(wave/particle duality) をもっています。物質の存在性(「ある」もの)を表しているのが、その粒子としての性質であり、関係性ないし生成性(「なる」もの)を表しているのが、その波動としての性質です。物質のこのような二重性は、シュレディンガーの波動関数によって統一的に表現されますが、そこには、この物質がとりうるすべての可能性の形(事物)、つまりバーチャルな諸状態(virtual states) が、確率の波として含まれています。それらは、時空のあらゆる領域にわたって拡がっています。このような波動関数に従っている物質は、その観測者との間にある特定の間柄(context)が形作られた時にのみ、波動関数が崩壊(collapse)して現実的存在の特定の形が選択されて確定し、そこに、古典物理学の記述の対象となるような決定論的な粒子的現実(個体)と、それらの間の「外的関係」の世界が、具体性をもって出現します。

しかし、そのような個体といえども、決して決定論の世界にとどまってばかりはいません。個体の波動性(関係性)は完全に失われるわけではなく、あるレベルでの個体は、その波動性を通じて、他の個体との結びつきの中で、より高次のレベルでの波動関数に従う二重性を示すようになり、その関数が再びある間柄の中で崩壊すると、より高次のレベルの個体が出現します。原子から分子が生まれるのはその一例です。この高次のレベルの個体が示すさまざまな特性は、低次のレベルの個体の特性に還元することはできません。

さまざまなレベルの存在の中には、存在(粒子)としての性格の強いものと、関係(波動)としての性格の強いものとがあります。「量子的真空」の中から生まれてくる基礎的な粒子の場合でいえば、前者がフェルミ粒子(fermion) で、後者がボース粒子(boson) です。しかし、フェルミ粒子(電子、陽子、中性子等)も、ある条件のもとでは互いに結びついてさまざまなレベルの物質を作ります。現実世界に見られる物質は、基本的にフェルミ粒子の複合体なのです。とはいえ、それらの波動関数は決して全面的に重なり合うことはありません。したがって、それらが複合した高次のレベルの物質においても、それらを構成する要素の個体性は、消滅してしまうことはありません。他方、ボース粒子(光子と仮想光子、W および Z 粒子、グルオン等)は、本質的に結びつきやすい粒子であって、宇宙を結合する力をもっています。それらの波動関数は全面的に一体化するために、ボース粒子はその個性を失ってしまいます。フェルミ粒子が存在の基体だとすれば、ボース粒子は生成と進化の媒体だといえるでしょう。


    |--ある(存在)--粒子性(物質性)   ...フェルミ粒子
物質--|             (肉体性)
    |--なる(生成)--波動性(エネルギー性) ...ボース粒子
                  (精神性)

さらにいえば、物質のもつ粒子性は、人間のレベルの言葉でいえば、物質のもつ根元的な「肉体性」だといえるでしょう。同様に、物質のもつ波動性は、それがもつ根元的な「精神性」ないし「意識」だといえるでしょう。(たとえば、粒子/波動二重性の例証に用いられる有名な二つの隙間の実験においては、光子は、開いている隙間の数に応じてその振る舞いを変えることができます。そればかりか、二つの隙間をすでに通過してしまった後でさえ、その前方に置かれている装置の種類--粒子検知器もしくは干渉スクリーン--に応じて、その飛跡を変えることができます。それはあたかも、光子が、開いている隙間の数を見て、この実験で自分に何が求められているかを知った上でそれに対処したり、前方にどんな装置が置かれているかをあらかじめ予想してしかるべきふるまいを選択したりしているようなのです。つまり、光子ですら、すでにある種の「意識」ないし「意思」をもっているかのように見えるのです。)他方、人間もまた、かなりの高次のレベルにあるとはいえ、物理的な個体の一つだということができます。つまり、量子のレベルの言葉でいえば、人間の肉体は、人間がもつ粒子性を示しています。同様に、人間の精神は、人間がもつ波動性を示しているのです。ですから、物質がより高次のレベルの存在へと生成・進化していくにつれて、意識もまたより高次のものになっていくといえましょう。物質も意識も、共に、量子的実在の中にその「母」をもっているのです。[ゾーハーのこのような思想的立場は、唯物論でも唯心論でもありません。デカルト的な、物質と精神を峻別する二元論でもありません。彼女自身のいうところによれば、それは、一種の汎心論なのです。]

そればかりか、人間の意識自体にも、量子に似た二重性があります。自由意志に従う人間の思考ないし直観は、漠然とにすぎないにしても、ありとあらゆる可能性を一気に見てとることができます。あるいは、ありとあらゆる可能性の間を絶え間なくゆらいでいるといってもいいかもしれません。そこでは、人間の思考も、ハイゼンベルグの不確定性原理にしたがっているように見えます。しかし、そこにある統一的な集中力というか覚醒力が働いた時、漠然としていた直観的イメージの総体からある特定の可能性が選択固定され、論理操作に従う個々の観念が生まれてきます。意識が持つ直観の性質は、物理的には右脳と結びついています。論理操作の性質は、左脳と結びついています。後者の性質にもっぱら注目した意識のモデルが意識の「コンピューター・モデル」だとすれば、意識の「ホログラム・モデル」は、前者の性質にもっぱら注目したモデルだといえるでしょう。


      |--論理的思考--男性的原理 ...左脳
  意識--|
      |--直観的思考--女性的原理 ...右脳

ゾーハーは、量子的事象と思考過程とのこのような類似性の背後には、量子物理学的な基盤があると主張します。凝縮相(condensed state) にある物質の中では、それを構成する原子や分子は一体としてふるまうようになります。磁石やレーザー光、あるいは超伝導などは、そうした一体化したふるまいの例です。その最も極端なケースが、構成要素がその個性を失って文字どおり一体となってしまう、ボース粒子からなる「ボース=アインシュタイン凝縮体(Bose-Einstein Condensate)」です。生体組織内でのその例は、ハーバート・フレーリッヒが示した、一定限度以上のエネルギーを注入することで分子の一斉振動とマイクロ波信号の放射を常温で引き起こす「ポンプ・システム」です。フリッツ・ポップは、この種の凝縮と細胞の光子放射を関係づけて考えています。ゾーハーは、ニューロンの構成要素のなかに生ずるボース=アインシュタイン凝縮こそが、意識(覚醒)の物理的基盤だと考えます。しかし、凝縮体それ自体は、意識の内容そのものではありません。凝縮体は意識の内容が書き込まれる黒板のようなもので、内容それ自体は凝縮体の励起(exitement) として出現します。凝縮体の励起によって出現するさまざまな意識内容のパターンは、コンピューターとしての脳の機能を担当している個々のニューロンに送られて処理されます。これがゾーハーの考える意識のモデルです。[公文注:並外れた強い意識の持ち主に「後光」がさしているのは、光子放射の強さと関係があるかもしれません:-) ]

他の物質と同様、人間の意識も、さまざまなレベルの意識の複合体だとみることができます。それらを統合している最高次の意識が個人の「自己」にほかなりません。肉体や精神の疲労や病気のために、自己による統合が失われたり弱まったりする時、人間は、鈍感になったり、自分自身のうちにさまざまな低次の意識(人格)が分裂出現したり支配的になったりすることに気づくのです。

量子にフェルミ粒子とボース粒子の二種類があるように、人間の個体の中にも、粒子性(男性的性格)の強いものと波動性の強いもの(女性的性格)とがあるという見方ができそうです。量子の物理学が明らかにした驚くべき作用は、時間と空間の制約を超えて働く事物間の「即時的遠隔作用 (instantaneous action-at-a-distance) 」ないし「非局所性」です。このような作用の存在は、前述した波動関数の性質から想像がつきますが、人間の意識が時に発揮する「テレパシー」のようなESP 能力の物理的基盤も、事物の間のこの「遠隔作用」にあるのかもしれません。

人間の自己は、現時点で、さまざまな低次のレベルの意識を統合しているだけではありません。それは、過去のさまざまな時点での自己をも統合しています。この統合は、時点を異にするそれぞれの自己が「記憶」によって結びつけられているといった単純な構造のものではありません。自己は、絶えず過去の自分を再想起し、新たな解釈を加えた上で、現在の自分の中に重ね込んで行くのです。あるいは、過去の「私」は、現在の「私」の中で、日々新たに生まれ変わっているといってもいいでしょう。さらに、個々の自己は、他者とも関わりをもちます。それも、古典物理学あるいは個人主義哲学が考えるような「外的関係」ではなく、自己の波動としての性質が互いに他の自己と重なりあい、共鳴し合うような内的関係なのです。だからこそ、恋人同士の間のような極めて親密な関係や、母子関係のような二つの自己がほとんど一体化してしまうような関係もありうるわけです。

そのような多様な対自己関係や対他者関係の生成と展開を通して、自己は自分自身をより豊かで成熟した存在に作り上げていくことが可能になります。少なくとも、いやおうなしに、自分自身を変えていかざるをえません。また、とくに他者との関係でいえば、自己は、他者をみずからの内部に再解釈して投影し重ね込むことを通じて、自己を変革すると同時に、ある意味で他者を他者としてみずからの内に生きながらえさせることも可能になります。さらに、個々の自己のレベルを超えるより高次の存在、つまり社会的存在を生み出してもいきます。[ゾーハーのこのような考え方は、村上泰亮さんが『反古典の政治経済学』で示した「解釈学的思想」のあり方と非常によく似ているように思われます。]しかし、このテーマ、つまり量子論的社会論は、ゾーハーの後著で本格的に展開されているので、その紹介は来月に回すことにしましょう。

いかがでしょうか。ゾーハーのいう「意識」は、決して決定論的な意識ではありません。それは現実世界との関わりの中で自己のもつ可能性の実現に対するさまざまな制約(波動関数の確率分布の変更)を受けながらも、あくまでも自由な意思に基づいて自分自身の選択や決定を行うことのできる存在です。もちろん、所与の環境条件や履歴の中で、高い確率が付与されるにいたっている可能性をあえて否定して、低い確率の可能性を選ぼうとすれば、強い意思のエネルギーを必要とするでしょう。しかし、それは決して不可能事ではありません。その限りにおいて、自由な自己の選択は、責任(とそして名誉や恥辱)を伴います。量子論的自己とは、みずからがその生活経験の中で彫琢してきた世界観や道徳律や美学にもとづいて、世界と自分自身をを絶えず再創造し続ける自己なのです。ゾーハーは、このような世界観を築き上げることによって、これまでの近代文明とそこでの支配的なニュートン・デカルト的世界観と、それが近代人にもたらした現実世界からの自己疎外や不毛なナルシシズムからの脱却を試みようとしています。

私は、ゾーハーのこの態度には深い共感を覚えます。ただ私の立場からすれば、こうした試みをただちに「近代を超える」するものだとは捉えたくありません。むしろ、昨年の研究協力委員会の席上でも申し上げたように、このような試みは、近代が近代として成熟をとげていく中で必然的に生じてきた反省であり発展であると解釈したいのです。「神の死」を宣言し、「個人の実存」だけに立脚しようとする思想は、思想としての自立性はともかく、永続性をもちえません。それでは、近代文明自体、文明として完結し得ないと思います。もちろん、近代文明はいつの日にかは「成長の限界」に達して、次の文明(私の予想では、「智識文明」と名付けるのが適切なような文明)にとってかわられるでしょう。しかし、そこにいたるまでには、まだまだ年月があります。近代文明には、依然として発展と成熟の余地が残っています。三菱マテリアルの秋元勇巳社長がその近著の中で強調しておられるように、量子物理学もカオスや複雑系の理論も、20世紀の近代文明が生み出した偉大な成果であって、それが今ようやく、私たちの世界観にも影響を及ぼしつつあるのでしょう。私たちの前にまっているのは、近代文明がその中でさらに成熟する「しなやかな世紀」に違いないと私も思います。