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公文レター 97年2月

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1997年2月10日

「公文レター 量子的社会(上)」

公文レター 2月

公文俊平

年が明けたと思ったら、もう月が変わってしまいました。しかし、ペルーの人質事件は膠着状態で、なかなか打開の道が見えないようです。青木大使のご苦労、ご心痛も並々ならぬものがおありでしょう。一日も早い人質の解放を祈りながら、今月の公文レターでは、先月に続いて、ゾーハーの量子的社会論を取り上げることにします。(この話題は次号完結の予定です。)

***

面白いもので、ゾーハーに取り組んでいる間に、次々と彼女の議論と似た波長をもつと思われる文献にであいました。先週四半世紀ぶりに再会した米国の友人は、手みやげにミッチ・カポーアの推薦の言葉つきの Ken Wilber の新著、A Brief History of Everything(Shambhara, 1996) を持参してくれました。

新宿高島屋の紀伊国屋書店をのぞきにいくと、James F. Moore, The Death of Competition: Leadership & Strategy in the Age of Business Ecosystems (Harper Business, 1996) という本が勝手に私の視野に飛び込んできました。早速買ってきてぱらぱらと中身をのぞいてみると、とても魅力的な情報化時代の新しい企業戦略を論じている本のようです。この本についても、いずれ熟読の上、得心がいけば内容を紹介してみたいと思います。

また、ある研究会では、佐々木 正人、『知性はどこに生まれるか:ダーウィンとアフォーダンス』(講談社現代新書、1996)が面白いと教わりました。

もうかなり前に出た本ですが、今でも広く読まれている、

Peter M. Senge, The Fifth Principle: The Art & Practice of Learning Organization (Currency Doubleday, 1990)

も見ておくといいという示唆も受けました。著者のセンゲは、MIT のスローン・スクールにある組織学習センターの所長です。

こういう思潮に接すると、いささか我田引水かもしれませんが、「情報文明」に向かう動きは着々と進んでいるのだなという感慨をあらためて抱かされます。

ゾーハーの人間観と社会観

前著『量子的自己(クォンタム・セルフ)』で展開されたゾーハーの量子的人間・社会観は、今回取り上げる『量子的社会(クォンタム・ソサィティ)』では、いっそう明確な形をとっています。ゾーハーのいう量子的な人間と社会のモデルを、彼女自身の言葉で、もう少し詳しく語ってもらいましょう。

まず、人間(person)とは、この地球での共同生活に参加する中で、それを通じて私たちが成っていくもののことです。人間には、自分自身の個別的な真実や、独自のスタイルがあり、一群の感情やごく個人的な良心もあります。だがそれと同時に、私たち人間は、自然と、また毎日交際する相手と、さらにまた自分たちがその一部をなしている文化と、私たちとを結びつけている複雑な関係の集まりを通じてのみ、真に自分自身を知り、真に自分自身になりうることを感じてもいます。

その意味では、人間性(personhood) 、つまり関係のなかにある個人性こそ、私たち人間の本性を示す性質の一つです。しかし、それは同時に、自己および共同体についての既成の理論によっては、説明するのがもっとも困難な性質でもあります。とくに原子論や個人主義は、人間の個人性ばかりを切りはなして強調するために、上述のような人間の本性の説明がいっそう困難になっています。(実は、人間が作る集団だけでなく、個々の人間自体も、その内部に多様な部分的人格を含む、複雑なシステムなのです。)

古典力学的世界観では、世界を結びつけているものは力(force) ――引力と斥力――です。同様に、古典力学的社会観では、社会を結びつけているものは権力(power) ――誘惑と強制――だとみなされます。しかし、このモデルは悪いモデルです。現実を充分説明できません。社会を結びつける要因はそれ以外にもあります。古典力学的な社会科学が還元主義的に引き出してきた「習慣」や「愛他心」や「合理的利己主義」は、いずれも部分的な説明原理にすぎません。

社会には超自我(フロイト)、あるいは高次自己(ユング)とでも呼ぶべき次元があります。ただし、その次元は、フロイトが考えたような階層的で外的(両親に象徴される)なものではありません。また、ルソーの言う「一般意志」でもありません。それは、通有された生活様式、すなわち、共通の価値観であり、それに対する忠誠心、「思考と感情と行動の集団的なパターン」なのです。それは単なる擬制でもなければ、私たちの外からくる抑圧でもなく、私たち自身の内にある現実です。それらは、個々人がもっている多様性や個性と同じ程度に、現実的なものなのです。

普遍的進化原理

量子論的な考え方は、より高いところ、深いところをめざして進むという意味での進化を肯定します。進化という言葉は、それ自身の中に進歩、つまり、より良いものに向かう変化を含んでいます。あらゆる進化は、ダーウィン以来の共通なパターン、つまり、変異→選択→変異という過程をへて進んでいきます。しかし、ここで問題なのが、選択の基準、つまり「良い」ものの基準はなにかということです。ダーウィン的な選択の基準は「生存」、すなわち環境への適応力です。しかしそれは、環境にしばられすぎた局所的で相対的な基準でしかありません。それだと、環境状態が元にもどると生命の方も元に戻ることになってしまいます。そこには、進化の絶対的な方向性はありません。

 この進化論では、社会はもちろん、生命の発生した理由や、生命の形態が複雑化していった理由も説明できません。(実際、環境に最もよく適応しているのは細菌なのではないでしょうか?)生命は、状況に適応しているだけでいいのでしょうか?真の成長とは、環境への適応と環境への反逆とのバランスにあるのではないでしょうか?

生命や意識の発生は、決して単なる偶然ではなく、説明可能な出来事であるはずです。前回のレターで取り上げた波動関数の収縮には、必ず何かの選択原理が働いているはずです。今日の量子力学はそれが何であるかを言えないのですが、いずれは言えるようになるはずです。(現在、波動関数がなぜ、いかにして収縮するかに関する理論は六つありますが、そのいずれも、生命の発生の必然性は説明できません。)

ゾーハーの仮説は、波動関数は、その位相差オペレーターの固有状態に向かって収縮するというものです[もっとも、私には、それが何を意味しているのか、残念ながらよく理解できないのですが。]。それによって、宇宙は、複雑性と可能性を増大させる方向に向かって進化するというのです。つまり、この選択原理は、生命や意識を生み出す方向を選び取るのです。

粒子/波動二重性

ゾーハーは、さまざまな宇宙から生命、さらには人間にいたる万物は、その複雑性を増加させる(そして存在としてはますます豊かな内容のものになる)方向に向かって無限の進化をとげつつある、と考えています。あらゆる事物の根元にあるのは、「量子的真空 (quantum vacuum, void) 」すなわち、低エネルギー状態にある「ボース・アインシュタイン凝縮体」[この言葉の意味については、前回のレターをご参照ください]です。人間がもっている「神」の観念は、この「量子的真空」をさしていると解釈できます。

 この意味での「神」の自己表現ともいうべき事物(現存する存在)は、この量子的真空にエネルギーが加えられることによって生ずる「励起」として、「出現(ex-ist)」します。出現してくる事物はすべて、「粒子/波動二重性」をもっています。前著でも述べられていたように、人間の意識の根源にあるものも、物理的には量子的真空と同様な、脳内のボース・アインシュタイン凝縮体であり、人間の思考とはこの凝縮体の励起に他なりません。また、人間自身も、他のすべての事物と同様に、「粒子/波動二重性」をもっています。(人間は、その「自由意思」によって、「神」の意図したような進化の正しい方向の実現をめざして創造的に努力する能力をもっています。その限りで、人間は、「神の似姿」、神に最も近い進化のエージェントだということができるでしょう。)

真実の複雑性

真実には多くの次元とレベルと側面があります。単純な一つの真実などありません。人間の言語は、真実のすべては語りつくせないのです。たとえば、物理学は、事物の「始め」や「量子的真空」それ自体を、確定的には記述できません。西欧の一神論は、真実の一面だけを見ようとするもので、真実の単純性と一義性に固執する西欧文化の中でうまれました。近代文明もその伝統の中から生まれました。デカルトも明晰判明な理性に固執し、曖昧な経験を排除しました。ニュートンは逆に物理的世界に固執し、精神を排除しました。(共に心身二元論に立ち、一方を取って他方を排除したのです。)フロイトの精神分析学も、今日の人工知能論も同じ流れの中にいます。究極的な単一の答えの存在への信仰がそれなのです。

こうして西欧文明の歴史は、真実の半分を抑圧する試み(とそれへの反逆の試み)の歴史となりました。不寛容と流血の、十字軍と聖戦の、宗教裁判の、ギロチンの、ユダヤ人大量虐殺の、歴史となったのです。20世紀の大規模組織体制や全体主義は、その頂点だといえます。そして複雑性の反撃を受けて崩壊の危機に瀕しました。しかし、科学や思想の転換は、実はすでに20世紀に始まっていたのです。

その間、しつけの厳しい親への子供っぽい反抗のような試みもありました。18世紀のロマン主義や、20世紀の「非構成主義的ポストモダン」などがそれですが、それらはいずれも、抑圧された反面による支配的な他面の否定の試みにすぎませんでした。あらゆる「意味」の否定の試み、人を混乱させるだけの試み、外界を否定した言語ゲームの世界への没入、進歩そのものの否定、相対主義と折衷主義のごく単純な楽観論の裏返しの単純な悲観論、にすぎなかったのです。(こうした思想の起源となったニーチェは、神だけでなく、理性も、人間も否定してしまいました。)

私たちが本当にしなければならないのは、相対主義自体を相対化し、折衷主義自体を他の主義と折衷することではないでしょうか?でないと、ポストモダンは原理主義への回帰によって反逆されることになります。現に今、それが起こっているのです。人間の精神は、外界からさまざまな情報を取り入れることで、みずからの「世界観」を維持しています。それは、肉体が、外界からさまざまな物質を取り入れて(また外界に排出して)、みずからの全体性を維持しているのと同じことです。この統合性が危機にさらされると、強い反発が起こります。非構成主義に反対する原理主義の台頭は、まさにそれだといえましょう。しかし、こうした動きは、まさに古典力学的な作用―反作用の法則に従う、非創造的な動きでしかありません。必要なのは、このような作用―反作用の呪縛自体の超克です。

多面性をもつ量子論的真実は、世界との間断なき対話の中で見いだされます。量子論的現実は、不確定で、確率論的です。それは、現存性と可能性の二つの次元をもっています。量子論的システムは「あれか/これか」ではなく、「あれも/これも」含んで、時空の全域に拡がっています。それは環境(状況・文脈)依存的ではありますが、まったく客観性をもたないものでもありません。それはまさに、量子力学の記述するような客観性をもっているのです。ニュートン力学は現存する世界の形而上学ですが、量子論的形而上学は可能性の世界のそれなのです。

 意識の役割は、可能性の世界と現存する世界との間の架け橋となるところにあります。人は、意識を集中させることで、現存を現出・定着させます。あるいは現実を、高い客観性をもつ客体として固定させます――それが現実の客体化にほかなりません。(しかし、それは非構成主義者の言うような意味での現存の「創造」ではなく、可能性の現実化、可能性の創造的な「発見」なのです。シュレディンガーの猫の箱[前回のレターをご参照下さい]を開いても、そこから犬を取り出すことはできません。私たちは現実の客体化を助ける助産婦にすぎないのです。)

ですから、「真実」は、観察者・解釈者としての私たちだけが作り出すものではありません。それは、私たちと現実との関係の中に、現実との対話の中に、生まれてきます。私たちの解釈が多様になりうるのは、現実それ自身が多様性をもっているからです。私たちがえた観察・解釈結果は、私たちの幻想ではなくて、現実それ自体がもっている多面的な顔の一つなのです。つまり「相対的真実」なのではなくて、「部分的な真実」なのです。

そうだとすれば、人は、一つの宗教に関与(コミット)しつつ、同時にそれが一つの可能な道にすぎないことを認めることができるはずです。

創造的社会関係の構築にむけて

こうした考え方に立つならば、これまでの近代文明で支配的だった二つの種類の社会観、つまり、個人主義的(粒子オンリー的)社会観と集団主義的(波動オンリー的)社会観は、ともに偏った社会観だといわざるをえません。(かといって、個人の尊厳も全体の権威もすべてを否定して、既成のあらゆる社会的構造を解体し、いっさいを相対主義の海に溶かし込んでしまおうとする非構成主義的というか解体主義的な「ポストモダン」の社会観は、そもそも社会観というに値しません。それは既成の権威や構造の欠陥を白日の下にさらす効果はあるにしても、それ自体としては新しい進化・創造を生み出す力を欠いています。)

そこでゾーハーは、それらに代わる真の「ポストモダン」の――私に言わせれば、近代後期の――社会観として、量子的社会観を提唱します。それは、いってみれば、この社会を、ジャズのジャム・セッションの仲間、あるいは自由型のダンス仲間が作り上げている関係の総体として見ようという立場です。自由型のダンスでは、各人はソロを踊るのですが、常に他者と調和して創造的に動いています。(誰かの指示に従ったり、いちいち他人の動きを目で見て確かめながら自分の動きをそれに合わせたりするのではなく、いわばある種の「非局所的相互作用」の力によって、各人は、他のすべての仲間と、ある創造的に調和した関係を保ちながらソロを踊り、それによって個々人のレベルでは実現できない、新しいレベルでのアイデンティティー(集団としての踊り)を作り上げます。この意味での量子的社会は、その法則や原理を、その自己イメージやメタファーを、この宇宙の中の他のすべてのものを律しているのと同じ法則や原理から引き出しています。これからの人類は、このような量子的社会観に立って、新たな量子的社会を創造していくべきではないか、というのが、ゾーハーが本書の読者に送ろうとしているメッセージに他なりません。

1960年代以降の社会は、つかの間の快楽ばかりを追い求める衝動的「イド社会」に転落してしまいました。かつてそれなりの合理性をもっていた、理性的「エゴ社会」でさえなくなったのです。このような状況の中では、集団主義と個人主義をともに超越した、新しい関係のパラダイム、成熟した成人とその家族の関係に似た社会モデルが、とりわけ必要とされます。それが、上述した、ジャズのジャム・セッション、あるいは自由型のダンス仲間の社会モデルに他なりません。

ただし、このような新しいモデルに立脚した社会を創造していこうとすれば、各人は、それなりの犠牲を払わなければなりません。

 粒子(個人)と波動(全体)の二重性をもっている量子的人間は、「観測」されると(つまり、他者とのコミュニケーション関係の中に入ると)、しばしばその二重性を失います。論理的に問いつめられると粒子になって、自由な連想やニュアンスをなくしてしまいます。逆に、ひたすら共感して聞いてもらっていると波動になって、話には明確な内容がなくなってしまいます。

つまり、各人は、より上位の全体レベルでの新しい現実(デュルケームのいう「社会的現実」)の獲得と引き替えに、自分のもっている不確定なポテンシャル(個人の波動性)を捨て去らねばならない(波動関数の収縮)のです。もちろん、その場合でも、各個人がすでに自分自身の中に現実化していた定まった性質(個人の粒子性)は、そのまま残ります。ですから、個人の個人性がすべて失われてしまうことはありません。粒子(個人)と波動(全体)の両方がうまくバランスしている時(ブレーンストーミングや自由型ダンスなど)にのみ、各人は内的自由をもち、互いの関係の中から創造的全体(コミュニティ)を生みだします。その過程で、各人自身も、新たな経験をして成長していくのです。

各人が、個人としても確立し、コミュニティの中でも自己を実現していくすべは何でしょうか?全体意識は、個人に押しつけることはできません。共同体を創出するための明確で手っ取り早い規則などありません。個人には自由を与えることが必要ですが、外的自由は共同体を育む上での必要条件にすぎません。個人の内部の不確定性と結びついている、関係を創るための内的自由もなくてはならないのです。

つまり、私たちは「観測」を互いに回避しなければなりません。量子論的世界での観測に対応する人間世界の事態は、人が状況の中でとる「態度」です。自由主義者的態度をとれば、自分自身の成長の可能性が失われます。他方、集団主義者的態度をとれば、自分の個人性が失われ、集団への貢献もできなくなってしまいます。

一例をあげてみましょう。会議に出るときに、自分のアジェンダ(提案する議題)なしに出るのはよくないのですが、それに固執するのもよくありません。各人は、状況の不確定性(内的自由)が展開(unfold)するのを許容しなければなりません。状況を信頼すること、そして状況にうまく「乗る」ことのできる自分の個人としての能力を信頼することが大切です。真の対話とは相手(や状況)を制御することでもなければ、相手(や状況)に屈服することでもないのです。創造は真の対話の中で生まれます。状況を注意深く見ていて、いつでもそれに乗れる「構え」、そこから新しい可能性を引き出して現実化するための「構え」をとっていること(poised and alert)が大切です。交渉の場にのぞむ際にも、同じことが言えます。

人々の社会関係や交流は不確定性(多義性)にあふれ、多様な可能性に満ち満ちています。私たちは、特定の明確な目的をもって行動したり関係を結んだりすることは、少ないのです。私たちの行動の「意味」は、フロイトが考えたようには行動の背後には潜んでいません。それは、行動の中で、行動を通じて、創られていくのです。

人間は「選択(choice)」によって動き、量子は「偶然(chance )によって動きます。しかし、それらが環境に作用(agency)しうるのは、それらが波動状態にある時、つまり、決まったエネルギーと運動量はもっているが、時空の中での位置は不確定である時にかぎられます(レーザー光線はその例です)。[ちなみに、著者は、日本社会は波動状態にあることが多いと見ています。]

意識が、自由意思や責任のような統一的活動能力(agencylike properties) をもっているのは、それが不確定的で波動的な物理的下位層(ボース・アインシュタイン凝縮相)をもっているためです。同様に、集団のメンバーが最高の創造的効果を発揮しうるのは、彼らが規則や手続きにしばられていない時、つまり疎外されていない時です。多義的な神話や伝説は、多義的なコミュニケーションや感情のプールになります。何度も何度も再解釈されることができ、その度に新しい意味が生まれて、創造的な社会関係が生み出されるのです。

それでは、真の「ポストモダン」社会を生み出すためには、私たちはいかに行動すべきでしょうか。次回のレターでは、いくつかの私なりの考えをを織り込みながら、その点についてのゾーハーの考えを辿ってみたいとおもいます。