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kumon_letter - March 1, 1997

公文レター 97年3月

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1997年3月10日

公文レター 「量子的社会論(下)」

公文レター 3月

公文俊平

研究協力委員会の会員の皆様、この冬は流感が大流行したようですが、いかがでしたでしょうか。二月から三月にかけて、グローコムでも流感が猛威を振るい、ほとんど全員がやられてしまいました。私も、このころは風邪を引かなくなったと思ったその日から、まず普通の風邪を引き、それが治ったと思ったら今度は本格的な流感にかかってしまいました。でも、ようやく陽気も春めいてくる中で、それも快方に向かっているところです。来週は、通常通りの仕事に復帰できるでしょう。

二月の研究協力委員会では、インターネットへの高速アクセスの技術の中での有望な物として、既存のメタルの電話回線を利用して数百キロ~数メガの高速伝送を実現するXDSL技術の可能性をとりあげました。当日の会の席上では、かなり慎重なご意見も多かったように記憶していますが、その後情勢は急展開しているように見えます。まず、二月二七日に、郵政省の通称「自由闊達委員会」で、NTT の加納常務理事(ネットワーク部次長)から、XDSL技術をめぐるNTT の取り組みの現状の説明があり、それをめぐって活発なという、それこそ自由闊達な意見交換が行われました(グローコムからは、会津が委員として参加していますが、当日は海外出張のため、金村が代理出席しました)。続いて三月六日には、やはり郵政省で「ネットワークの高度利用に関する懇談会」(座長は斉藤忠夫東大教授)の第一回が開催され、その席上でもXDSLについての意見交換がありました。そして、この懇談会の中に、

  1. ネットワーク技術部会(主査は斎藤座長)
  2. FTTH部会(主査は月尾嘉男東大教授)
  3. XDSL(高速デジタル加入者線)部会(主査は私)

が置かれることになりました。最初の部会は一二月までに、後の二つの部会は六月までに、それぞれ報告を出すことが決まっています。グローコムとしても、それに連動する形で、地域における高度情報通信基盤の構築の推進をめざす「CAN フォーラム」を、なるべく早急に発足させたいと考えていますので、ご関心の向きは、ぜひメンバーとしてご参加いただきたいと存じます。 さて、今月の「公文レター」は、ダーナ・ゾーハーの量子的社会論の紹介の完結編ということにしたいと思います。二月のレターでゾーハーの考え方によく似たアプローチが少なからず目についたともうしましたが、その後も、東大の薬学部を定年になって金沢工大に行かれた清水博さんの「場所」の理論、たとえば、

  • 生命と場所(NTT 出版、九二年)
  • 生命知としての場の論理:柳生新陰流に見る共創の理(中公新書、九六年)

も、ほとんど同じような考え方だなということに気づきました。清水さんは、「即興劇」を社会システムのメタファーにしています。また、昨年の一〇月に日経とAT&Tのセミナー(企画は電通)で講演者として招待された若い中国系アメリカ人のジョン・ケーオーは、経営の新しいパラダイムのためのメタファーとして、ジャズのジャム・セッションをあげていました。(前号で紹介したように、ゾーハーも、自由型のダンス仲間と並んで、ジャズのジャム・セッションを、これからの社会関係のモデルとみなしていました。)私には、この一致が興味深く思われたので、早速ケーオーさんに電子メールを出して、ゾーハーの本のことは知っていますかと尋ねたところ、「知らなかった、早速調べてみる」という返事がかえってきました。

真のポストモダン社会の構築戦略

本題に戻りましょう。ゾーハーの量子的社会論の大筋は前号で要約したので、今回は、そうした理論をもとにして彼女が試みている「真のポストモダン社会」を構築していくための行動原則の提案をご紹介してみましょう。まず、五つの基本的ポイントがあります。

  1. 近代の多元的民主主義は、結果的に、富の不平等などよりももっと根深い対立、つまりライフスタイルや価値観の対立と、人々のアイデンティティの危機を、生み出してしまったようです。近代社会は、そのような対立への対処の方策として、これまで三種のもの、すなわち
    1. 征服と強制的な同化ないし抑圧
    2. 隔離
    3. リベラルな共存ないし慈善・福祉
    を考え出しましたが、そのすべてが機械論的な方策にすぎません。そんなやり方では、社会は、多様性を養分として進化していくことはできません。社会の進化のためには、他者との対話、異文化間の対話がどうしても必要です。寛容だけでは足りません。ですから、私たちは、「他者」もまた「自己」の一部であるという認識を明確に持つ必要があります。[公文注:ちなみに、私は、今日のいわゆる「グローバリゼーション」には、企業活動のグローバル化という以上の意味があると考えています。近代の最初に起こったことは、近代主権国家による「国際社会」を舞台とする国威の増進・発揚競争でした。そこでの「国際化」の主役となったのが、外交官や軍人でした。その次に起こったのが、近代産業企業による「世界市場」を舞台とする富の獲得・誇示競争でした。そこでの「世界化」の主役となったのが、貿易商であり産業人でした。この世界化の過程は、第三次産業革命の到来によって、さらに広くて深いものになっています。しかし、それだけが今日の「グローバリゼーション」なのではありません。今日の「グローバリゼーション(地球化)」の中心にあるのは、私のいう近代情報智業(もっと普通の言葉でいえば、NGO-NPO )が主役となって展開される、智のゲーム、つまり説得力の入手・発揮競争です。いまや、人々は、自分が正しい、善い、美しい、楽しいと思う理念を世界に普及させるとともに、その理念に合致した状態を自分たちの力でこの地球上に(サイバースペースも含めてというべきでしょうが)実現しようとして、活発なコミュニケーションやコラボレーションを繰り返し始めています。その過程で、異なる文化や文明の間の、これまでよりは深いレベルでの接触が恒常化しています。それは相互理解だけでなく、相互の誤解や反発をも増幅させる危険があります。相互受容だけでなく、相互の圧殺の試みをも増大させる危険があります。そのような状況下では、ゾーハーも指摘しているように、単に「寛容」をとなえたり、「棲み分け」をはかればよいといっているだけでは、すまないことは確かです。]

  2. とはいうものの、多元的民主社会では、価値の多様化が進むにつれて、相互の対話や合意の形成はますます困難になります。人々を結びつける紐帯は消滅し、政治はミクロ化し、都市での犯罪は多発し、相互の尊敬はなくなります。多元主義は民主主義によって可能にされると同時に、民主主義の基盤をほりくずすのです。こうして今日、民主主義的自由は単なる形骸と化し、政治への幻滅がいたるところにみられます。まさに、現代社会は深刻な精神的-政治的危機に直面しているのです。人々は、なんのために自分が自由なのかが分からなくなり、それゆえに絶望しています。人々は、自分自身よりも偉大なものとの結びつきを見失ない、魂をなくしてしまったのです。生きることの「意味」を喪失してしまったのです。

    ゾーハーの考えでは、今日のこのような危機の根元は、実は極めて深いところにあります。それは、イエスが行った「シーザーのもの」と「神のもの」の分離、彼岸と現世の峻別にあるのです。そのような分離や峻別は、ギリシャやユダヤの伝統にはありませんでした。加えて、今日のキリスト教組織は、人々の良心をかき立てたり公的な想像力を鼓舞したりするものではなくなってしまっています。逆に、一六世紀のイタリアのマキャベリ以来の政治的現実主義は、現世のみを一方的に強調する結果をもたらしました。

    こうして、今日では、自分の居場所を闘い取るための政治が、全体の共通の善のための政治よりも優位に立つに至っています。しかも、リベラルな民主主義の伝統がそれに輪をかけています。それは、個別利害の追求を当然視し、そうすることが全体の善の実現に資するという[マンデビル=スミス的な]思想なのです。だが、そこからはグローバルな合意など生まれようがありません。

  3. 意味の断片化と私化をもたらした現代社会では、折衷主義が支配しています。宗教まで私的なものになり、人々は容易に改宗するようになりました。宗教にかわって官僚制(手段的理性)が、中立的・非個人的な規則にもとづいて、利害対立を調整しています。官僚制は、今日の社会には不可欠なものかもしれませんが、明らかにそれだけでは不十分です。さらにその基盤をなす共通な原理(社会の超自我次元--通有された価値、仮定、行い、目的--が必要なのに、現代社会はそれを欠いています。個人主義者は自由ですが、なんのための自由かを知りません。他人の自由といかに関わるべきかを知りません。官僚の調整は公正かもしれませんが、それは真の融和ではありません。人々は、官僚の調整には不承不承従うにすぎないのです。

    多元主義を真に生かすためには、多様なローカルな意味を含んだ(つまり差異を否定しない)共通な原理が必要となります。これが多元主義の逆説です。だがこの逆説を解決するには、多元主義それ自身の中に、あらためてパブリックな意味を見いだす必要があります。つまり、今日の課題は、差異性に対して共通の意味を与えることです。もう昔の単一の宗教には戻れません。前近代には戻れないのです。そうだとすれば、私たちは、今こそ新しい意味の共有をめざしていかなければなりません。 政治とは、社会における利害対立の融和の過程に他なりませんが、それを可能にする基盤は、宗教的なもの、つまり共通の社会的な信念やシンボルや行い、なのです。政治も、この「共通の天蓋」の下で始めてうまく機能しうるのです。この意味での宗教と政治の統一がもっともよく見られるのは、一つの「盟約(covenant)」を通じて結びついた人々の間です。西欧の歴史でもっともよく知られているのは、神とユダヤ人との、あるいは神とイスラム教徒との盟約です。しかし、キリスト教世界では、その聖俗分離の思想のために、盟約はうまく機能していません。他方、「契約」は限定されすぎています。今日の文明が必要としているのは、新しい盟約なのです。

  4. そこでゾーハーは、新たな量子論的な盟約をよびかけます。すでに述べたように、反省意識をもつ人間は、神(ボース・アインシュタイン凝縮体)の似姿です。だから人間には進化の正しい道を歩む責任があるのです。

    量子論的真空は多様な可能性を含んでいます。つまり多元主義的です。私たちは皆、その可能性の一つの顕現なのです。万人が、この可能性のコミュニティのメンバーです。そして万人は、その可能性をさらに展開させていく責任を負っています。これが私たちと「神」との間の、量子論的な盟約に他なりません。それは聖なる宗教的盟約(私たちは皆、自分の中に「神」をもつ、したがってすべての他者をもつ)であると同時に、政治的な盟約(多様な可能性は互いに融和されねばならぬ)でもあります。私たちは互いに違っていればこそ、パブリックな進化の企てのパートナーなのです。私たちは、この共通の企てに貢献しうると同時に、真の自己になるためにも他者を必要としているのです。 政治過程は、理解できない新事態に直面した脳が、反省を通じて行う認識の枠組みの再構成の過程とよく似ています。それは、人々が自分の立場に固執しないで、いろんな立場を重ね合わせてみようとする自由な対話の過程です。やがて、もとの個々の立場は解体され、新しい共通の立場が生まれてくるのです。これに対し、敵対的ディベートから生まれるのは、勝ち負けです。あるいは高々妥協にすぎません。しかし、対話からは合意が生まれます。対話では皆が勝つのです。前六世紀半ばまでのギリシアの民主主義は、対話と合意にもとづいて物事を決めていました。敵対的なディベートと投票が行われるようになってから、真の民主主義は失われたのです。

  5. 私たちは、新しい「盟約」を結ぶことによって、これまでの敵対的政治や寛容の政治から、パートナーシップの政治へと移っていくことが可能になりま。:政治における新たな優先順位や構造は、異なるもの(集団、新環境、新技術等々)との出会いを通じて、出現してきます。古い価値や制度は、その意味や権威を失って、新しいものに変わっていくのです。しかし、もともとの政治基盤が、個人主義的、対立的、私的なものである社会では、政治構造は変わりにくいのですが、それは対話が起こりにくいからです。イギリス流の対立的議会政治に政党化が加わり、さらに政党組織が中央集権化して指導者が民意から分離してしまうと[垂直距離の増大]、対話はますます起こりにくくなり、政治は退屈な過程になってしまいました。お互いに変わりようがなくなったためです。ですから、もう一度、対話の用意のある、開かれた政党になることが必要です。もう一回ボトム・アップでやり直すことです。 しかし緊急事態で対話のひまのない時もあります。あるいは、利害がどうしようもなく分裂している時もあります。そんな時には、上から決定を押しつける以外にないのですが、それから生じるトラウマの一つの治療は、後になって委細を尽くしてその時の決定の妥当性や責任を論じ合うことです。

四つのコミットメント

ゾーハーは、以上のような分析と戦略に基づいて、新しい政治の実現のために、私たちは次の四つのコミットメントをしようではないかと呼びかけます。 その第一は、多様性へのコミットメントです。それは、多様性を認めつつ、その中に創造的統一の可能性を探る決心をすることに他なりません。なぜなら、多様性や差異性は、高次の合意にとっての養分となりうるからです。

私たちがしなければならない第二のコミットメントは、対話へのコミットメントです。先に見たように、創造のためには固定した多様性(粒子)だけでは不足であって、対話(波動、つまり、既存の構造の解体→内的関係への移行→新構造の構築)が必要なのです。そのさい、人は、自分の姿勢や信念をいったん「待機(on hold)」状態に置き、自分自身がが変化しうるようにして、内的関係に移行できるように準備する必要があります。そこから、新たなレベルへと上昇し、新しい政治的現実を作り出さなければなりません。既存の秩序を出て、新しい関係の構築へと進まなければなりません。ただし、そのさいに行き過ぎて、カオスに陥らないようにする注意が肝要です。新しい秩序は、エネルギーを失って硬直した旧い秩序と、過度のエネルギーの注入によって生ずるカオスの、「縁」においてのみ創造できるのです。

私たちがしなければならない第三のコミットメントは、宇宙の事物にとっての共通の基盤、(低エネルギー状態にある「量子的真空」)すなわちあらゆる可能性の基盤、 へのコミットメントです。万物はこの「真空」の励起によって、そこから外に出現(ex-ist) してきます。それは個人や社会の場合も同様なのです。

私たちがしなければならない第四のコミットメントは、未来へのコミットメントです。世界の万物が自らを展開していく物理的過程が、進化の過程に他ならないのですが、その意味で進化は、宇宙を支配している普遍的な原理なのです。私たちの未来もまた、進化の中にあります。私たちは進化にコミットすることで、みずからの未来にコミットするのです。

私のコメント

以上が、私の理解し得た限りでの、ゾーハーの「量子的社会論」の要約です。ごらんの通り、ゾーハーのいう「進化」とは、秋元さんのお言葉を拝借していえば、「しなやかな進歩」とほとんど同義であるように見えます。また、彼女の言う「真のポストモダン社会」とは、私に言わせれば、近代社会の進化の流れがそこで一つの頂点に達する「真の近代社会」そのものであるように思われます。ゾーハーの議論には、「反進歩主義」的なところや「反合理主義」ないしは「反科学主義」的なところはどこにもないといってよいのではないでしょうか。 私には、ゾーハーの議論は、今日の社会・政治状況のなかなか鋭い分析と、新しい行動への提言になっているように思われますが、いかがでしょうか。私の拙い紹介が、なんらかのご参考になれば幸いです。

なお、ゾーハーが念頭に置いているのは当然のことながら欧米の社会ですが、それでは彼女の分析や提言は、今日の日本社会にとっては、どれだけの適切性をもっているのでしょうか。以下、その点について、私なりのコメントを多少つけ加えて終わりにしたいと思います。 まず、ゾーハー自身が認めているように、欧米の社会と日本の社会は、基本的な点では同一の特質をもっているにせよ、いくつかの派生的な点では互いに異なっています。欧米の近代社会が人々の粒子性の強い「個人主義」社会として特徴づけられるとすれば、日本の社会は、逆に人々の波動性の強い社会[私の言葉で言えば、「集団主義」ないし「全体主義」社会というよりはむしろ「間柄主義」社会]だということができるでしょう。二つの社会の間の違いは、たとえば次のような点に認められます。(ほんの一二の例をあげるだけにとどめます。)

ゾーハーは先に、明らかに欧米社会を念頭に置きながら、緊急事態が発生した場合や利害がどうしようもなく分裂している時には、対話は不能になるので、上からの決定を押しつける以外にないが、それから生じるトラウマの一つの治療は、後になって委細を尽くしてその時の決定の妥当性や責任を論じ合うことだと述べていました。しかし、日本の社会では、そのような場合には、山本七平さんのいわゆる「空気」が、決定を支配するように思われます。人々はいわば「我を忘れて」空気の支配に従うのです。後になって我に返った時に生じるトラウマの日本的治療法は、「過去の不幸な出来事のすべてを忘れて水に流す」ことです。

日本の社会は、もともと対話志向的な傾向が強いのですが、それが硬直して決定不能に陥るのは、ムラ的な分権化のためだと思われます。集団が派閥に分裂していくと、全体としての対話の可能性が失われてしまうのです。西欧の集団が、放置すると集権的・専制的集団に転化していく傾向があるとすれば、日本の集団は、放置すると権力は下へと分権化し、私物化されていくのではないでしょうか。そしてエリートは下に引っ張られて無力化してしまいます。旧軍の下士官に代表される日本の集団の下層のメンバーは概して有能ですが、大局的・戦略的判断能力には欠けているようです。その視野はきわめてローカルです。それはそれで、タテワリの集団間の水平距離を大きくし、対話を困難にする嫌いがあるのではないでしょうか。

いいかえれば、日本の場合には、旧支配層が全体として追放されて新たなトップの形成が一気に行われて(日本型革命)、その後次第に権力が下に移っていきます。明治大正時代の民権化の傾向や戦後の革新化の傾向がそれです。そして権力は私物化されて(組合等)行き、タテ割の閉鎖的なタコ壺型集団がいたるところにできて、社会は凝集力を失い、全体的決定不能、改革不能の状況に陥ります。ここでも、政治家は個別利害の代表者になっていくのですが、欧米に見られるような政党化やその中央集権化は、一部の例外(共産党や公明党)を除いては起こりにくいのです。 いずれにせよ、「愛」の理念を掲げる欧米の個人主義社会も、「和」の理念を掲げる日本の間柄主義社会も、共に、結晶化とカオスの縁にあってそれなりの生命力・進化力を示してきた近代社会の亜種だといってよいのではないでしょうか。

どちらの社会も、表の原理と裏の原理の複合によって成り立っています。自立した個人が外的関係を結んでいるはずの欧米の社会を一皮めくれば、多種多様な「秘密結社」の存在と活動に突き当たります。(アメリカの成人男性は、平均して一つ以上の「秘密結社」に属しているという話があります。)思いやりの心に満ちた間人が内的関係を結んでいるはずの日本の社会を一皮めくれば、いたるところに「いじめ」られたり「ムラ八分」にされたり「落ちこぼれ」たりした不幸な個人たちの群に遭遇します。秘密結社やいじめを病理現象とみるのは、多分行き過ぎでしょう。 それぞれの社会の病理現象は別にあります。結晶化やカオス化の現象がそれです。個人主義社会の場合でいえば、時に硬直した全体主義に走ったり、あるいは逆に相対主義の度がすぎて流砂化してしまうケースがそれです。間柄主義社会の場合でいえば、時に集団全体が我を忘れて同じ方向に突っ走ったり(いわゆる「日本的ファシズム」はその一例でしょう)、あるいは逆に白けの度がすぎて「閉塞状況」に陥ってしまったりするのが、それです。 

今日の欧米社会がゾーハーのいうような意味での危機にあるとすれば、恐らく日本の社会も、それとはやや違った意味での危機にあるといっていいでしょう。一方だけが混乱と衰退の過程をたどっているということではありません。個人主義がだめになって、間柄主義が生き残るとか、逆に間柄主義がだめになって、個人主義が生き残るということでもありません。いまこそ、お互いに相手の長所から学ぶべき時が来ているというべきではないでしょうか。

それにしても、個人主義的な欧米社会では、その変革ないし進化は、個人の自覚と行動から始まると考えざるをえません。では、間柄主義的な日本社会の変革ないし進化は、どこからどのようにして始まるのでしょうか。個人から始めるのは無理で、外圧や環境変動によって集団の全体が一気に変わるのを待つしかないのでしょうか?それとも、自覚した個人は、いったん自国・自集団の外に出て活動(脱藩、浪士化)するという道があるのでしょうか。皆様のご意見をうかがってみたいところです。