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kumon_jyouhou_kakumei - May 1, 1997
第三章:情報革命の含意
May 1, 1997 [ kumon_jyouhou_kakumei ]
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公文俊平
第一章で述べたように、今日の情報革命には、
という二つの基本的な側面がある。時期的には、どちらも、遅くとも1970年代の半ばからすでに始まっていると思われる。それに加えて、すでに述べたように、近代文明の次の文明としての「智識文明」への模索ないしはその到来の予兆ともいうべき現象も、さまざまな形でわれわれの身の回りに見られるが、これはまだ大きな潮流をなすまでにはいたっていない。
他方、これまたすでに述べたように、近代文明の進化の三つの局面や、その第二局面としての産業化の各段階は、それぞれ時間的に互いに重複している。したがって、情報化の開始(智業や智民の台頭)が、直ちに産業化の終焉(企業や市民の衰退)や軍事化の終焉(国家や国民の衰退)を意味するわけではない。それどころか、国家や企業は今後も長期間にわたってさらなる進化をとげつつ存続し、智業とさまざまな協働(場合によっては対立と競合)関係にたつと予想される。情報化に伴って決定的に終焉するものがあるとしたら、それは、かつての国民国家がその主たるプレーヤーとなっていた侵略戦争と外交のゲームである「威のゲーム(国威の増進・発揚競争)」の正統性であろう。その場合でさえ、新たに独立した国家や、独立を志向する地域的権力集団が、これからの国際社会の中で、ルールを無視した一種の「疑似威のゲーム」とでもいうべき競争的な行動に走る可能性は、常にあるものと思われる。
また、産業化が第三次産業革命の段階に入って、技術・経営・産業の新たなパラダイムや構造が出現してきたからといって、これまで成熟段階にあった第二次産業革命の潮流やそのもとで発展してきた寡占的大企業や供給者優位の市場構造、あるいは大衆消費社会のライフスタイルなどが、にわかに消滅してしまうはずもないだろう。それどころか、第二次産業革命の流れ自体、第三次産業革命のもたらす技術や財・サービスを利用してさらに進化をとげさえするかもしれない。それにしても、それが次の時代の主流になることは決してないだろう。
同時に、これからの産業社会は、情報化に伴う智業や智民、あるいはNGO-NPOや「ボランティア」たちが企業や市場に対して(さらにそれに加えて、行政や政治に対して)およぼす影響力を、もはや無視できなくなるだろう。
そうだとすれば、これからの産業企業にとっての中心的課題は、これまでの市場や産業を支配してきた原則や傾向の存続に過大な期待をもつことなく、いわば適切に忘れ去る(unlearn)一方で、第三次産業革命が生み出している産業社会の新たなパラダイムを身につけると共に、新興の智業や智民立ちとの緊密な協働関係 (智業=企業協働) を発展させていくことだろう。
近年のアメリカに見られる「ゴールドラッシュ」とそれへの幻滅は、まさにこれらの点に関する基本的な理解の欠如に由来していると思われる。とくに、既存のケーブルテレビや電話事業者たちは、1992年から93年にかけての「第一次ゴールドラッシュ」の波にいち早くのって、「情報スーパーハイウェー」の構築の主導権を、政府から民間の手に奪い取ろうとしたのだが、そのさいの未来イメージは、第二次産業革命の下ですでに成熟して大衆消費段階に入っていた20世紀の産業化の傾向を、そのままさらに未来に引きのばしたものにすぎなかった。当時華々しく飛び交っていた「双方向テレビ」とか「ビデオ・オン・ディマンド」、あるいは「フル・サービス・ネットワーク」といったコンセプトは、それを明らかに示している。新電気通信法が全面的競争の時代の扉を開いたにもかかわらず、既存の業界がむしろ当面は待ちと守りに徹する姿勢を固めているのも、そこから生じた幻滅のしからしむるところだろう。
また、コンピューター産業やコンテント産業の一部は、情報革命がテレビに代わる新たな「情報家電」の出現をもたらすと期待して、CD-ROMやDVDなどのハードやソフトの開発に狂奔したが、これまた思い通りの結果は得られなかった。もともと、ようやくその突破段階に入ったにすぎない第三次産業革命(ディジタル革命)のまだまだ粗削りな新技術が、既に成熟段階に達している第二次産業革命がこれまで多年にわたって育んできた大衆消費市場を、一気に席巻できるような質と価格の製品・サービス群を直ちに創出しうると期待したこと自体、あまりに早計だったといえよう。かつて数千のCD-ROM用ソフトの制作者たちが蝟集していたサンフランシスコのマルチメディア・ガルチでは、CD-ROM産業の「大絶滅」が始まっている。それに代わって、いまやこの地域の花形となっているのは、WWWのホームページの制作業者たちだそうだが、彼らの栄華の時代がいつまで続くかも定かではない。
なぜならば、情報社会の智民たちは、すでにかつての国民や市民とは異なる価値観や行動様式をもつ存在であることを、日増しにあきらかにしつつあるからである。彼らは、かつての国民のように「選良」としての政治家を選んで彼らに国家社会の運営をまかせるだけでは、もはや満足できない。自分たちが美しい、善い、面白いと考える目標を共有し、その実現をめざして互いに協働するのが、智民の特色である。智民はまた、かつての市民のように産業社会での生産者あるいは消費者としてとどまるだけでは、もはや満足できず、みずから積極的に情報や知識を探求・創造し、智業をつうじたその普及や通有にたずさわっていく。実は20世紀の市民たちも、すでに物質的な消費生活の中での機械の利用(乗用車や各種の家電製品)や財・サービスの大量消費という面では、積極的な生活を営むようになっていた。しかし、情報生活の面では、彼らは、「カウチポテト」と嘲られたように、専門家の提供するコンテントの受動的な利用に甘んじていた。あるいは、作家や芸術家と称する人々の権威に従順に従ってその作品を市場で入手して保蔵・鑑賞・享受するだけで満足していた。ところが、今日の智民たちは、自らゲームを積極的に楽しみ、カラオケで歌い、さらには作曲や著作から社会的な発言や行動にまで、積極的にたずさわる存在として進化しつつある。そればかりか「智業」という形で、そのような行動を自分自身の「業務」とする人々さえ、日増しにその数を増やしている。
そのような智民や智業の主たる活動の場は、自由な「競争市場」というよりはむしろ自由な「競争智場」である。あるいは、三次元の物理的空間を超える新次元の空間としての、サイバースペースである。自由市場では、企業が自分の販売したいと思う製品やサービスを、「商品」の形で競って提供するように、自由智場では、智業が自分の普及させたいと思う知識や情報を、「通識」の形で競って提示する。市場での商品の自由な販売が、産業社会の企業や市民にとっての基本的な権利であるように、智場での通識の自由な普及は、情報社会の智業や智民にとっての、基本的な権利とみなされなければならないのである。また、市場では貨幣が商品交換の一般的な媒介物としての役割を果たしているのと同様な意味で、智場においては、標準的な通信プロトコル(TCP/IP等)あるいは情報表現言語(HTML等)が、通識普及の一般的な媒介物としての役割を果たすのである。産業社会の市場にあたる情報社会の智場の具体的な形としてインターネットの上でのWWWのホームページを想定して見るならば、その意味は明らかだろう。
実際、もともと科学技術者たちの間で双方向のコミュニケーション手段として発達したインターネットの本領は、この意味での智場あるいはサイバースペースにとっての、インフラストラクチャーないしゲートウェーとしての役割にあるといってよいだろう。インターネット接続サービスの提供が、政府の支援を離れて完全に民営化しただけでなく、インターネットの市場としての利用がますます盛んになりつつある今日でも、インターネットのこの基本的な特性は失われていないし、失われてはならないものである。産業社会では、教育や医療などといった本来営利事業の対象としてはふさわしくないような社会的活動まで、市場をいわば「プラットフォーム」とする営利事業の形を取って行われることが普通になった。その結果さまざまなゆがみも生じたとはいえ、結果的に多くの人々が、それなしには考えられないほどの規模とレベルの教育や医療を受けられるようになったことは、誰しも否定できないだろう。同様に、これからの情報社会では、営利事業が、智場をプラットフォームとして行われる度合いがますます強くなっていくだろう。つまり、商取引が、これまでの市場の論理と競争の倫理ではなく、智場の論理と協働の倫理に立脚して、展開されるようになっていくだろう。市場の論理が取引と販売の論理だとすれば智場の論理は説得と普及の論理である。競争の倫理が、一種の完全情報の仮定の下に見ず知らずの顧客をも平等公正な取引をしようとする倫理だとすれば、智場の倫理は、相互の知己と信頼の間柄を基盤として互いに情報や知識を通有し、その基盤の上に、より緊密な協働行為を展開し組織を進化させて行こうとする倫理である。
つまり、これからの情報化社会を特徴づける人々の行動原理は、近年(おそらくは現在の社会変化の性質の誤解に基づいて)唱道されているような「大競争」の原理ではなく、いってみれば「大協働」の原理になるだろう。
近年、とくに日本でだされている新聞・雑誌の記事や各種の文書の中で、大競争とかメガコンペティション(megacompetition, mega-competition)という言葉をよく目にする。最近発表された電気通信審議会の「情報通信21世紀ビジョン」に関する中間報告も、その第一章が「大競争時代の到来」となっていて、そこでは「大競争( メガコンペティション) とは、新たなプレイヤーの登場とプレイヤー間の体力格差の拡大により、一層熾烈な段階を迎えたグローバルな競争状態を表している」と述べられている。文脈から判断すると、そこでいう新たなプレイヤーとはアジアおよびラテンアメリカ諸国を意味している。また、プレイヤー間の体力格差の拡大とは、なかんずく、景気拡大を続けるアメリカと停滞が続いている日本の間の格差の拡大を意味しているらしい。
しかし、「大競争」という言葉のこのような意味での使い方は、私にとっては目新しいものである。そこで、この言葉の使われ方を調べてみようと思って、インターネットを検索してみた。そうすると、英語でも、日本語でも、たちまち多数の用例が見つかった。しかも、驚いたことに、どちらの場合にも、日本の文書の割合が圧倒的に多かった。どうやらこの言葉は、世界の他の場所に比べて、日本の中でもっとも広く普及しているのかもしれない。しかも、個々の用例をずっと見ていくと、どうやらその意味も微妙に、しかもなかなか興味深い形で、次第に変化してきているように思われる。
もともと「大競争」ということがいわれるようになったのは、冷戦の終焉が契機だった。それまでの世界は、政治的にはもちろん経済的取引の面でも、西の自由主義陣営と東の共産主義陣営という二つの世界(とそして、両陣営にとっての草刈り場としてのいわゆる第三世界)に大きく分裂していたのだが、冷戦の終焉がその壁を取り払ってしまった。とりわけ、西側のアメリカやヨーロッパのビジネスマンの目からすると、共産圏の広大な市場が一気に参入可能になったのである。つまり、彼らにとっては、競争的な企業活動の展開できる領域が、にわかに「グローバル」に拡大したことになる。電通総研の福川伸次所長は、この間の事情をこう説明している。「東西冷戦が終わり、市場経済システムと自由貿易主義は、国際社会において、経済運営の共通の認識となった。ボーダーレス経済の下では、企業は、利益を目指して、商品、資本、技術、情報を世界中に自由に移転させるばかりでなく、地球上の最も有利な条件のところに立地することが可能となった。企業の取引は、ますます国境を超えて活発となり、どの国のマーケットも国際社会と介離した動きや価格形成は許されなくなる。正に、世界大の大競争というべき状況を招来しているといってよい。」(福川伸次の目、http://www.dihs.co.jp/CHAIRMAN /CHAIRMAN1.HTML)
ここで、「どの国のマーケットも国際社会と介離した動きや価格形成は許されなくなる」と福川氏がいう場合の「国」とは、さしあたり、これまでは「市場経済システムと自由貿易主義」を採用していなかった共産圏の国々をさしているに違いない。その意味では、「大競争」とは、もともと、新しく開かれた旧共産圏の (あるいは共産主義の影響下にあった第三世界の地域の) 市場に競って参入しようとする、自由世界の企業にとっての進軍ラッパのような響きをもった言葉だったはずである。
しかし、日本人は反省を好む。バブルの崩壊に呆然となり、景気の回復がいっこうにはかばかしくない中で、「なぜ、どうして」と思い始めた1990年代の日本で、「国際社会と介離した動きや価格形成」が行われている国とは、実はわが日本のことに他ならないのではないかといった反省や、新たな「大競争」の時代に、あらためて苛烈な競争にさらされざるをえなくなっているのは、もと共産圏もさることながら、実は、これまでは政府の手厚い保護や指導の下にあった日本の市場や企業自身なのではないかといった認識が、広く定着するまでにはさほどの時間はかからなかったように思われる。
たとえば、NTTのある文書は、世界をおおう大競争の潮流は日本をも巻き込んでいると指摘している。現に、移動体キャリアー、ケーブルテレビのオペレーター、第二種通信事業などの分野では、外国事業者がいっせいに日本に進出してこようとし始めた。すでに衛星放送では、外国勢の大々的な参入が起こっている。とくに日本の場合、ケーブルテレビやインターネットのような通信インフラの整備が遅れている、というのである。(NTT、 www.nttinfo.ntt.jp/nttformat/NTT%20format/text/text.html )
そこから今度は、「大競争」の時代に第一に必要とされるのは、それに対応しうるための自己改革だという自覚、あるいは危機意識が生まれてくる。第一勧銀の企業計画を説明した文書には、こんな表現が見られる。「21世紀に向かって、われわれは市場経済化と規制緩和の動きの増大を目にしている。そのどちらも、世界中で貿易障壁を減少させ、グローバル経済での「大競争」を生み出している。その結果、国際金融市場にも、統合の増大、技術革新、および自由化といった形での転換が進行している。それゆえ、21世紀においても栄えて行こうとする金融機関たるもの、変化する状況へのすばやい対応と、変化する顧客のニーズの充足とが必要となる。」( 第一勧銀、www.infoweb.or.jp/dkb/hajimeni/issues-e.html)
そこからでてくるのは、自己再強化努力のよびかけである。なによりもまず、新時代に対応するための努力は、日本産業の基幹をなしている生産システムそのものの再編成を通じて行われなければならない。(さくら銀行、www.sakura.co.jp/sir/research/mreview/ mr9601-e.htm )
しかし、それだけでは足りない。さらに、「競争」行動のみられる分野そのものの範囲を、もっと拡げて行かなければならない。つまり、この大競争時代にあっては、競争に成功した分野がこれまでは工業生産に限られていたのを、今後はマーケティングや流通の分野にも拡げていくことによって、日本経済全体の高コスト構造を是正していくことが急務なのである。(経団連、www.keidanren.or.jp/english/policy/pol039/p039-01.html)
もちろん、競争を制限していたこれまでの規制のシステムは撤廃されなければならないし、新しい技術分野や事業、とりわけ創造性に富んだソフトウェアの開発や、ベンチャー・ビジネスの展開を妨げてきた社会的文化的要因の除去にも留意する必要がある。そうでないと、情報通信分野での日米格差はますます拡がっていきかねないのである。 (NTT、前掲文書)。
こうした方向への「大競争」の意味の変化をおそらくもっとも極端にまで押し進めた例の一つは、1997年の4月に電気通信審議会の通信政策部会が発表した中間報告「情報通信21世紀ビジョン――21世紀に向けて推進すべき情報通信政策と実現可能な未来像――」である。三章構成のこの報告書は、その第一章が「大競争時代の情報通信の役割」となっており、その第一節が「大競争時代の到来」となっている。
そしてそこで言われる「大競争」とは、
の二つの要因が生み出した、日本にとっての重大な事態だと認識されている。すなわち、「新たなプレイヤーの登場とプレイヤー間の体力格差の拡大により、一層熾烈な段階を迎えたグローバルな競争状態」が「大競争」に他ならないというのである。さらに、目を情報通信分野に向ければ、ここでの「大競争」のあり方は、より深刻なものになっている。すなわち、「国境を越えた連携を図る企業の通信需要の増大を背景に、世界の大手通信事業者は国境を越えた連携を進め」ているという「グローバルアライアンスの急進展」が見られる中で、(はっきりそうだと明文で述べているわけではないにしても)わが国の情報通信企業、とりわけNTTはその蚊帳の外におかれているから、早急に何とかしなくてはならない、という認識がみてとれるのである。
これは、自分をとりまく環境の変化を認識した上で、(その環境状態自体は変えられないものと考えて)自らの状態を変えていくことで「変化への対応」をはかるという日本の伝統的な政策決定姿勢を、忠実に踏襲している。しかし、先にも指摘した通り、この電気通信審議会の報告書には、こうしたギャップの拡大の本質はインターネットに代表される新種の情報通信システムの誕生と急成長にあり、したがってわが国の対応の最大の力点もインターネット型の情報通信システムの本格的かつできる限り急速な全国展開におかれなければならないという、もっとも重要な認識すべきポイントが欠如している。もちろん、報告書がインターネットのことを無視しているというわけではない。インターネットへの言及は、これまでの類似の報告書以上に、随所に行われている。問題は、それがいわば他のさまざまな変化や変化への諸対応策の中の一つとして言及されているにすぎないところにある。つまり、事態の本質が的確に認識されていいないのである。
私はここで、「大競争」という見方がまったく誤っているといいたいのではない。競争の時代が終わったというつもりもない。確かに、一面において文明間や国家間、企業間や地域間の競争はいっそう激しくなっている。しかし、「大競争(メガ・コンペティション)」が「大」競争であるゆえんは、単に競争がグローバルになったとか熾烈になったといういわば量的なことではなくて、競争のあり方が、これまでとは次元の異なる局面に入りつつある、いわばこれまでとは質的に異なる高次の競争の時代、協働をベースにした競争の時代が始まりつつある、という点にある。少なくともアメリカの中には、単なる量的な競争の範囲の拡大というよりも、さらに先を見越した考え方が生まれつつあるようだ。たとえば、ビジネス・コンサルタントのジェームズ・ムーアの近著(『競争の死』、ハーパー・ビジネス社、1996)と、複雑系の経済理論の開拓者ブライアン・アーサーの最近の論文(「複雑系の経済学を解き明かす" 収穫逓増" の法則」DHBDec.-Jan.1997)は、「競争」そのものの意味を見直せという視角から、ほとんど同じ趣旨の議論を展開している。すなわち、今日のような急激で全面的な技術革新の時代には、これまでのような同業者を相手にした競争の観念は意味を失ってしまうという。今日の経営者になによりも必要なのは、一つの製品で競争したり一つの会社を起こしたりすることではなくて、多種多様な企業群や、はては消費者・ユーザーをも巻き込んだ新しい「ビジネス生態系」を構想し、多くの人々にその可能性と意義とを信じ込ませ、彼らと協働しつつその実現を主導して行こうとする、明確なビジョンと強い意欲だというのである。
私も、このような見方に賛成である。それにつけ加えるとすれば、かりに自分にはそのようなビジョンを生み出す力がないとしても、誰か他の主体が始めたその種の試みの意義をいち早く理解して、協働に参加していく能力(つまり、大きな新しい流れに乗っていく能力)もまた、極めて重要かつ有意義だという点だろう。
そこで、次節では、私の目にとまった限りでの、近年の社会科学や経営学のパラダイム変化を示唆しているように議論の趣旨を、簡単に説明してみよう。
まず、アメリカ生まれの哲学者ダナー・ゾーハーの人間論および社会論を紹介しよう。彼女の議論は、次の二冊の著書、
The Quantum Self: Human Nauture and Consciousness Defined by the New Physics. Quill, 1990 ( 邦訳は、『クォンタム・セルフ:意識の量子物理学』 青土社、1991)
The Quantum Society: Mind, Physics, and a New Social Vision. 1994,
に収められている。(以下では、「前著」および「後著」という呼び方で二つを区別することにしよう)。本節ではまず彼女の人間論を紹介し、次節では社会論を紹介しよ。
ゾーハーの思想は、20世紀の物理学が発展させた量子論的な自然観を、人間(の意識)や社会に対しても応用しようとするものである。それは、最近にわかに注目されるようになった「複雑系の科学」や社会科学における「進化論的アプローチ」に直接言及こそしていないものの、それらと思想的に強く共鳴するところがあるように思われる。
1944年生まれのゾーハーは、まずMITで物理学と哲学を学び、続いてハーバードの大学院で哲学と宗教学を研究した。その後イギリスに移住し、精神分析家のI. N. マーシャルと結婚して二児の母となり、オクスフォードに在住している。十代の彼女は、アメリカに尽くすことが神に尽くすことだと信じている、典型的なナイーブなアメリカ人だった。しかし、十九歳になった時、ケネディ大統領の暗殺に直面して、その信念は揺らいだ。さらに、マーティン・ルーサー・キングやボブ・ケネディの暗殺やベトナム戦争に出会うにいたって、青年期の理想と自国の現実との折り合いがどうにもつかなくなってしまい、祖国を捨てる決心をした。ユダヤ教に改宗した彼女は、最初イスラエルに、次にイギリスに渡ったが、どちらの社会にも敢えてとけ込もうとせず、アウトサイダーとして暮らし、同じような境遇にある人々ともっぱら交わっていた。こうして彼女は、20年もの間、親の死に目に際してさえも、アメリカの土を踏まなかった。
ところが、いつしか二児の母となり、さらに前著を刊行するに及んで、彼女は異郷での亡命者としての生活には満足できなくなった。身近な家族や自分自身を、より広い社会の一部として見たいと思うようになり、さらに自分も社会的な役割を果たしたいと思うようになり、政治への関心もよみがえってきたのである。しかし、挫折感や疎外感を覚えることなしに、どうすればそれが可能になるのか、それを考える中から、後著が生まれた。つまり彼女は、この二冊の著書を構想し執筆することで、世界と自分自身とに対する正しいパースペクティブを取り戻し、ニュートンやデカルトの思想的伝統にもとづいた西欧近代文明の個人主義的で機械論的な世界観と、それがもたらした自己疎外とからも、ようやく脱却できたのである。
ゾーハーは、世界を形作っている根元的な要素としての量子のふるまい(qantum process)と、人間の意識の働きの間に見られる強い類似性にまず注目する。そして、その類似性は単なるメタファーのレベルに留まるものではなくて、両者に共通するある物理的な基盤(後述する「ボース=アインシュタイン凝縮体(Bose-Einstein Condensate)」としての特質)に由来しているのではないかと考える。
量子物理学が明らかにしたのは、物質がもっている根元的な二重性でだった。物質は同時に波動でもあれば粒子でもあるという二重性(wave/particle duality)をもつ。物質の存在性(「ある」もの)を表しているのが、その粒子としての性質であり、関係性ないし生成性(「なる」もの)を表しているのが、その波動としての性質である。物質のこのような二重性は、シュレディンガーの波動関数によって統一的に表現されるが、そこには、この物質がとりうるすべての可能性の形(事物)、つまりバーチャルな諸状態(virtual states) が、確率の波として含まれている。それらは、時空のあらゆる領域にわたって拡がっている。このような波動関数に従っている物質は、その観測者との間にある特定の間柄(context)が形作られた時にのみ、波動関数が崩壊(collapse)して現実的存在の特定の形が選択されて確定し、そこに、古典物理学の記述の対象となるような決定論的な粒子的現実(個体)と、それらの間の「外的関係」の世界が、具体性をもって出現する。
しかし、そのような個体といえども、決して決定論の世界にとどまってばかりはいない。個体の波動性(関係性)は完全に失われるわけではなく、あるレベルでの個体は、その波動性を通じて、他の個体との結びつきの中で、より高次のレベルでの波動関数に従う二重性を示すようになり、その関数が再びある間柄の中で崩壊すると、より高次のレベルの個体が出現する。原子から分子が生まれるのは、その一例である。この高次のレベルの個体が示すさまざまな特性は、低次のレベルの個体の特性に還元することはできない。
さまざまなレベルの存在の中には、存在(粒子)としての性格の強いものと、関係(波動)としての性格の強いものとがある。「量子的真空」の中から生まれてくる基礎的な粒子の場合でいえば、前者がフェルミ粒子(fermion) で、後者がボース粒子(boson) である。
しかし、フェルミ粒子(電子、陽子、中性子等)も、ある条件のもとでは互いに結びついて、さまざまなレベルの物質を作る。現実世界に見られる物質は、基本的にフェルミ粒子の複合体なのである。とはいえ、それらの波動関数は、決して全面的に重なり合うことはない。したがって、それらが複合した高次のレベルの物質においても、それらを構成する要素の個体性は、消滅してしまいはしない。
他方、ボース粒子(光子と仮想光子、W および Z粒子、グルオン等)は、本質的に結びつきやすい粒子であって、宇宙を結合する力をもっている。それらの波動関数は全面的に一体化するために、ボース粒子はその個性を失ってしまうのである。フェルミ粒子が存在の基体だとすれば、ボース粒子は生成と進化の媒体だといえよう。
さらにいえば、物質のもつ粒子性は、人間のレベルの言葉でいえば、物質のもつ根元的な「肉体性」にあたるだろう。同様に、物質のもつ波動性は、それがもつ根元的な「精神性」ないし「意識」に対応する。(たとえば、粒子/波動二重性の例証に用いられる有名な二つの隙間の実験においては、光子は、開いている隙間の数に応じてその振る舞いを変えることができる。そればかりか、二つの隙間をすでに通過してしまった後でさえ、その前方に置かれている装置の種類――粒子検知器もしくは干渉スクリーン――に応じて、その飛跡を変えることができる。それはあたかも、光子が、開いている隙間の数を見て、この実験で自分に何が求められているかを知った上でそれに対処したり、前方にどんな装置が置かれているかをあらかじめ予想した上でしかるべきふるまいを選択したりしているようなものである。つまり、光子ですら、すでにある種の「意識」ないし「意思」をもっているかのように見える。)
他方、人間もまた、かなりの高次のレベルにあるとはいえ、物理的な個体の一つだということができる。つまり、量子のレベルの言葉でいえば、人間の肉体は、人間がもつ粒子性を示している。同様に、人間の精神は、人間がもつ波動性を示している。だから、物質がより高次のレベルの存在へと生成・進化していくにつれて、意識もまたより高次のものになっていくといえよう。物質も意識も、共に、量子的実在の中にその「母」をもっているのである。[ゾーハーのこのような思想的立場は、唯物論でも唯心論でもない。デカルト的な、物質と精神を峻別する二元論でもない。彼女自身のいうところによれば、それは、一種の汎心論である。]
そればかりか、人間の意識自体にも、量子に似た二重性がある。自由意志に従う人間の思考ないし直観は、漠然とにすぎないにしても、ありとあらゆる可能性を一気に見てとることができる。あるいは、ありとあらゆる可能性の間を絶え間なくゆらいでいるといってもいいかもしれない。そこでは、人間の思考も、ハイゼンベルグの不確定性原理にしたがっているように見える。しかし、そこにある統一的な集中力というか覚醒力が働いた時、漠然としていた直観的イメージの総体の中から、ある特定の可能性が選択固定され、論理操作に従う個々の観念が生まれてくる。意識が持つ直観の性質は、物理的には右脳と結びついている。論理操作の性質は、左脳と結びついている。後者の性質にもっぱら注目した意識のモデルが意識の「コンピューター・モデル」だとすれば、意識の「ホログラム・モデル」は、前者の性質にもっぱら注目したモデルだといえよう。
ゾーハーは、量子的事象と思考過程とのこのような類似性の背後には、量子物理学的な基盤があると主張する。凝縮相(condensed state)にある物質の中では、それを構成する原子や分子は一体としてふるまうようになる。磁石やレーザー光、あるいは超伝導などは、そうした一体化したふるまいの例である。その最も極端なケースが、構成要素がその個性を失って文字どおり一体となってしまう、ボース粒子からなる「ボース=アインシュタイン凝縮体(Bose-Einstein Condensate)」である。ゾーハーは、ニューロンの構成要素のなかに生ずるボース=アインシュタイン凝縮こそが、意識(覚醒)の物理的基盤だと考えている。しかし、凝縮体それ自体は、意識の内容そのものではない。凝縮体は意識の内容が書き込まれる黒板のようなもので、内容それ自体は凝縮体の励起(exitement) として出現する。凝縮体の励起によって出現するさまざまな意識内容のパターンは、コンピューターとしての脳の機能を担当している個々のニューロンに送られて処理される。これがゾーハーの考える意識のモデルである。
他の物質と同様、人間の意識も、さまざまなレベルの意識の複合体だとみることができる。それらを統合している最高次の意識が、個人の「自己」にほかならない。肉体や精神の疲労や病気のために、自己による統合が失われたり弱まったりする時、人間は、鈍感になったり、自分自身のうちにさまざまな低次の意識(人格)が分裂出現したり支配的になったりすることに気づく。
量子の物理学が明らかにした驚くべき作用は、時間と空間の制約を超えて働く事物間の「即時的遠隔作用 (instantaneous action-at-a-distance) 」ないし「非局所性」である。このような作用の存在は、前述した波動関数の性質から想像がつくが、人間の意識が時に発揮する「テレパシー」のようなESP能力の物理的基盤も、事物の間のこの「遠隔作用」にあるのかもしれない。
人間の自己は、さまざまな低次のレベルの意識を現在という時点で統合しているだけではない。それは、過去のさまざまな時点での自己をも統合している。この統合は、時点を異にするそれぞれの自己が「記憶」によって結びつけられている、といった単純な構造のものではない。自己は、絶えず過去の自分を再想起し、新たな解釈を加えた上で、現在の自分の中に重ね込んで行く。あるいは、過去の「私」は、現在の「私」の中で、日々新たに生まれ変わっているといってもよい。さらに、個々の自己は、他者とも関わりをもつ。それも、古典物理学あるいは個人主義哲学が考えるような「外的関係」ではなく、自己の波動としての性質が互いに他の自己と重なりあい、共鳴し合うような内的関係なのである。だからこそ、恋人同士の間のような極めて親密な関係や、母子関係のような二つの自己がほとんど一体化してしまうような関係も、ありうることになる。
自己は、そのような多様な対自己関係や対他者関係の生成と展開を通して、自分自身をより豊かで成熟した存在に作り上げていくことができる。少なくとも、いやおうなしに、自分自身を変えていかざるをえない。また、とくに他者との関係でいえば、自己は、他者をみずからの内部に再解釈して投影し重ね込むことを通じて、自己を変革すると同時に、ある意味で他者を他者としてみずからの内に生きながらえさせることも可能になる。さらに、個々の自己のレベルを超えるより高次の存在、つまり社会的存在を生み出してもいく。[ゾーハーのこのような考え方は、村上泰亮が『反古典の政治経済学』で示した「解釈学的思想」のあり方と非常によく似ているように思われる。]しかし、このテーマ、つまり量子論的社会論の紹介は、次節に譲ろう。
結局、ゾーハーのいう「意識」は、決して決定論的な意識ではない。それは現実世界との関わりの中で自己のもつ可能性の実現に対するさまざまな制約(波動関数の確率分布の変更)を受けながらも、あくまでも自由な意思に基づいて自分自身の選択や決定を行うことのできる存在である。もちろん、所与の環境条件や履歴の中で、高い確率が付与されるにいたっている可能性をあえて否定して、低い確率の可能性を選ぶためには、強い意思のエネルギーを必要とするだろう。しかし、それは決して不可能事ではない。その限りにおいて、自由な自己の選択は、責任(とそして名誉や恥辱)を伴う。量子論的自己とは、みずからがその生活経験の中で彫琢してきた世界観や道徳律や美学にもとづいて、世界と自分自身をを絶えず再創造し続ける自己なのである。
ゾーハーは、このような世界観を築き上げることによって、これまでの近代文明とそこでの支配的なニュートン・デカルト的世界観と、それが近代人にもたらした現実世界からの自己疎外や不毛なナルシシズムからの脱却を試みようとしている。
私は、ゾーハーのこの態度には深い共感を覚える。ただ、この報告書の冒頭で示した私自身のの理論的立場からすれば、こうした試みを、ただちに「近代を超える」ものだとは捉えたくない。むしろ、このような試みは、近代が近代として成熟をとげていく中で必然的に生じてきた反省であり発展であると解釈したい。「神の死」を宣言し、「個人の実存」だけに立脚しようとする思想は、思想としての自立性はともかく、永続性をもちえない。それでは、近代文明自体、文明として完結し得ないだろう。もちろん、近代文明はいつの日にかは「成長の限界」に達して、私のいう「智識文明」にとってかわられるだろう。しかし、そこにいたるまでには、まだまだ年月がある。近代文明には、依然として発展と成熟の余地が残っているのである。
三菱マテリアルの秋元勇巳社長がその近著『しなやかな世紀』で強調しているように、量子物理学もカオスや複雑系の理論も、20世紀の近代文明が生み出した偉大な成果であって、それが今ようやく、われわれの世界観にも影響を及ぼしつつあるのだろう。われわれの前に待っているのは、近代文明がその中でさらに成熟する「しなやかな世紀」に違いないと私も思う。
次に後著の内容を要約紹介してみよう。
まず、ゾーハーの考えでは、「人間(person)」とは、この地球での共同生活に参加する中で、それを通じてわれわれが成っていくもののことである。人間には、自分自身の個別的な真実や、独自のスタイルがあり、一群の感情やごく個人的な良心もある。だがそれと同時に、われわれ人間は、自然と、また毎日交際する相手と、さらにまた自分たちがその一部をなしている文化と、われわれとを結びつけている複雑な関係の集まりを通じてのみ、真に自分自身を知り、真に自分自身になりうることを感じてもいる。
その意味では、人間性(personhood) 、つまり関係のなかにある個人性こそ、われわれ人間の本性を示す性質の一つである。しかし、それは同時に、自己および共同体についての既成の理論によっては、説明するのがもっとも困難な性質でもある。とくに原子論や個人主義は、人間の個人性ばかりを切りはなして強調するために、上述のような人間の本性の説明がいっそう困難になっている。(実は、人間が作る集団だけでなく、個々の人間自体も、その内部に多様な部分的人格を含む、複雑なシステムなのである。)
古典力学的世界観では、世界を結びつけているものは力(force) ――引力と斥力――である。同様に、古典力学的社会観では、社会を結びつけているものは権力(power) ――誘惑と強制――だとみなされる。しかし、このモデルは悪いモデルであって、現実を充分説明できない。社会を結びつける要因はそれ以外にもある。古典力学的な社会科学が還元主義的に引き出してきた「習慣」や「愛他心」や「合理的利己主義」は、いずれも部分的な説明原理にすぎない。
社会には超自我(フロイト)、あるいは高次自己(ユング)とでも呼ぶべき次元がある。ただし、その次元は、フロイトが考えたような階層的で外的(両親に象徴される)なものではない。また、ルソーの言う「一般意志」でもない。それは、通有された生活様式、すなわち、共通の価値観であり、それに対する忠誠心、「思考と感情と行動の集団的なパターン」なのである。それは単なる擬制でもなければ、われわれの外からくる抑圧でもなく、われわれ自身の内にある現実である。それらは、個々人がもっている多様性や個性と同じ程度に、現実的なものなのだ。
普遍的進化原理:量子論的な考え方は、より高いところ、深いところをめざして進むという意味での進化を肯定する。進化という言葉は、それ自身の中に進歩、つまり、より良いものに向かう変化を含んでいる。あらゆる進化は、ダーウィン以来の共通なパターン、つまり、変異→選択→変異という過程をへて進んでいく。しかし、ここで問題なのが、選択の基準、つまり「良い」ものの基準はなにかということである。ダーウィン的な選択の基準は「生存」、すなわち環境への適応力である。しかしそれは、環境にしばられすぎた局所的で相対的な基準でしかない。それだと、環境状態が元にもどると生命の方も元に戻ることになってしまう。そこには、進化の絶対的な方向性はみあたらない。
この進化論では、社会はもちろん、生命の発生した理由や、生命の形態が複雑化していった理由も説明できない。(実際、環境に最もよく適応しているのは細菌なのではあるまいか?)生命は、状況に適応しているだけでいいのだろうか?真の成長とは、環境への適応と環境への反逆とのバランスにあるのではないだろうか?
生命や意識の発生は、決して単なる偶然ではなく、説明可能な出来事であるはずである。前節で見た波動関数の収縮には、必ず何かの選択原理が働いているに違いない。それによって、宇宙は、複雑性と可能性を増大させる方向に向かって進化している。つまり、この選択原理は、生命や意識を生み出す方向を選び取るのである。
粒子/波動二重性:ゾーハーは、さまざまな宇宙から生命、さらには人間にいたる万物は、その複雑性を増加させる(そして存在としてはますます豊かな内容のものになる)方向に向かって無限の進化をとげつつある、と考えている。あらゆる事物の根元にあるのは、「量子的真空 (quantum vacuum, void) 」すなわち、低エネルギー状態にある「ボース・アインシュタイン凝縮体」である。人間がもっている「神」の観念は、この「量子的真空」をさしていると解釈できる。
この意味での「神」の自己表現ともいうべき事物(現存する存在)は、この量子的真空にエネルギーが加えられることによって生ずる「励起」として、「出現(ex-ist)」する。。出現してくる事物はすべて、「粒子/波動二重性」をもっている。前著でも述べられていたように、人間の意識の根源にあるものも、物理的には量子的真空と同様な、脳内のボース・アインシュタイン凝縮体であり、人間の思考とはこの凝縮体の励起に他ならない。また、人間自身も、他のすべての事物と同様に、「粒子/波動二重性」をもっている。(人間は、その「自由意思」によって、「神」の意図したような進化の正しい方向の実現をめざして創造的に努力する能力をもっている。その限りで、人間は、「神の似姿」、神に最も近い進化のエージェントだということができよう。)
「真実」のもつ複雑性:真実には多くの次元とレベルと側面がある。単純な一つの真実などない。人間の言語は、真実のすべては語りつくせないのである。たとえば、物理学は、事物の「始め」や「量子的真空」それ自体を、確定的には記述できない。西欧の一神論は、真実の一面だけを見ようとするもので、真実の単純性と一義性に固執する西欧文化の中でうまれた。近代文明もその伝統の中から生まれた。デカルトも明晰判明な理性に固執し、曖昧な経験を排除した。ニュートンは逆に物理的世界に固執し、精神を排除した。(二人は共に心身二元論に立ち、一方を取って他方を排除したのである。)フロイトの精神分析学も、今日の人工知能論も同じ流れの中にいる。究極的な単一の答えの存在への信仰がそれだ。
こうして西欧文明の歴史は、真実の半分を抑圧する試み(とそれへの反逆の試み)の歴史となった。不寛容と流血の、十字軍と聖戦の、宗教裁判の、ギロチンの、ユダヤ人大量虐殺の、歴史となったのである。20世紀の大規模組織体制や全体主義は、その頂点だといえる。そして複雑性の反撃を受けて崩壊の危機に瀕した。しかし、科学や思想の転換は、実はすでに20世紀に始まっていたのである。
その間、しつけの厳しい親への子供っぽい反抗のような試みもあった。18世紀のロマン主義や、20世紀の「非構成主義的ポストモダン」などがそれだが、それらはいずれも、抑圧された反面による支配的な他面の否定の試みにすぎなかった。それらは、あらゆる「意味」の否定の試み、人を混乱させるだけの試み、外界を否定した言語ゲームの世界への没入、進歩そのものの否定、相対主義と折衷主義のごく単純な楽観論の裏返しの単純な悲観論、にすぎなかった。(こうした思想の起源となったニーチェは、神だけでなく、理性も、人間も否定してしまった。)
われわれが本当にしなければならないのは、相対主義自体を相対化し、折衷主義自体を他の主義と折衷することではないだろうか?でないと、ポストモダンは原理主義への回帰によって反逆されることになる。現に今、それが起こっているのだ。人間の精神は、外界からさまざまな情報を取り入れることで、みずからの「世界観」を維持している。それは、肉体が、外界からさまざまな物質を取り入れて(また外界に排出して)、みずからの全体性を維持しているのと同じことである。この統合性が危機にさらされると、強い反発が起こる。非構成主義に反対する原理主義の台頭は、まさにそれだといえる。しかし、こうした動きは、まさに古典力学的な作用―反作用の法則に従う、非創造的な動きでしかない。必要なのは、このような作用―反作用の呪縛自体の超克である。
多面性をもつ量子論的真実は、世界との間断なき対話の中で見いだされる。量子論的現実は、不確定で、確率論的であって、現存性と可能性の二つの次元をもっている。量子論的システムは、「あれか/これか」ではなく、「あれも/これも」含んで、時空の全域に拡がっている。それは環境(状況・文脈)依存的ではあるが、まったく客観性をもたないものでもない。それはまさに、量子力学の記述するような客観性をもっているのである。ニュートン力学は現存する世界の形而上学だが、量子論的形而上学は可能性の世界のそれなのである。
意識の役割は、可能性の世界と現存する世界との間の架け橋となるところにある。人は、意識を集中させることで、現存を現出・定着させる。あるいは現実を、高い客観性をもつ客体として固定させる――それが現実の客体化にほかならない。(しかし、それは非構成主義者の言うような意味での現存の「創造」ではなく、可能性の現実化、可能性の創造的な「発見」である。シュレディンガーの猫の箱を開いても、そこから犬を取り出すことはできない。われわれは現実の客体化を助ける助産婦にすぎないのだ。)
だから、「真実」は、観察者・解釈者としてのわれわれだけが作り出すものではない。それは、われわれと現実との関係の中に、現実との対話の中に、生まれてくる。われわれの解釈が多様になりうるのは、現実それ自身が多様性をもっているからである。われわれがえた観察・解釈結果は、われわれの幻想ではなくて、現実それ自体がもっている多面的な顔の一つなのである。つまり「相対的真実」なのではなくて、「部分的な真実」なのである。
そうだとすれば、人は、一つの宗教に関与(コミット)しつつ、同時にそれが一つの可能な道にすぎないことを認めることができるはずだ。
創造的社会関係の構築にむけて:こうした考え方に立つならば、これまでの近代文明で支配的だった二つの種類の社会観、つまり、個人主義的(粒子オンリー的)社会観と集団主義的(波動オンリー的)社会観は、ともに偏った社会観だといわざるをえない。(かといって、個人の尊厳も全体の権威もすべてを否定して、既成のあらゆる社会的構造を解体し、いっさいを相対主義の海に溶かし込んでしまおうとする非構成主義的というか解体主義的な「ポストモダン」の社会観は、そもそも社会観というに値しない。それは既成の権威や構造の欠陥を白日の下にさらす効果はあるにしても、それ自体としては新しい進化・創造を生み出す力を欠いている。)
そこでゾーハーは、それらに代わる真の「ポストモダン」の――私に言わせれば、近代後期の――社会観として、量子的社会観を提唱する。それは、いってみれば、この社会を、ジャズのジャム・セッションの仲間、あるいは自由型のダンス仲間が作り上げている関係の総体として見ようという立場である。自由型のダンスでは、各人はソロを踊るのだが、常に他者と調和して創造的に動いている。(誰かの指示に従ったり、いちいち他人の動きを目で見て確かめながら自分の動きをそれに合わせたりするのではなく、いわばある種の「非局所的相互作用」の力によって、各人は、他のすべての仲間と、ある創造的に調和した関係を保ちながらソロを踊り、それによって個々人のレベルでは実現できない、新しいレベルでのアイデンティティー(集団としての踊り)を作り上げているのである。この意味での量子的社会は、その法則や原理を、その自己イメージやメタファーを、この宇宙の中の他のすべてのものを律しているのと同じ法則や原理から引き出している。これからの人類は、このような量子的社会観に立って、新たな量子的社会を創造していくべきではないか、というのが、ゾーハーが本書の読者に送ろうとしているメッセージである。
1960年代以降の社会は、つかの間の快楽ばかりを追い求める衝動的「イド社会」に転落してしまった。かつてそれなりの合理性をもっていた、理性的「エゴ社会」でさえなくなったのである。このような状況の中では、集団主義と個人主義をともに超越した、新しい関係のパラダイム、成熟した成人とその家族の関係に似た社会モデルが、とりわけ必要とされる。それが、上述した、ジャズのジャム・セッション、あるいは自由型のダンス仲間の社会モデルに他ならないのである。
ただし、このような新しいモデルに立脚した社会を創造していこうとすれば、各人は、それなりの犠牲を払わなければならない。
粒子(個人)と波動(全体)の二重性をもっている量子的人間は、「観測」されると(つまり、他者とのコミュニケーション関係の中に入ると)、しばしばその二重性を失う。論理的に問いつめられると粒子になって、自由な連想やニュアンスをなくしてしまう。逆に、ひたすら共感して聞いてもらっていると波動になって、話には明確な内容がなくなってしまう。
つまり、各人は、より上位の全体レベルでの新しい現実(デュルケームのいう「社会的現実」)の獲得と引き替えに、自分のもっている不確定なポテンシャル(個人の波動性)を捨て去らねばならない(波動関数の収縮)のである。もちろん、その場合でも、各個人がすでに自分自身の中に現実化していた定まった性質(個人の粒子性)は、そのまま残る。だから、個人の個人性がすべて失われてしまうことはない。粒子(個人)と波動(全体)の両方がうまくバランスしている時(ブレーンストーミングや自由型ダンスなど)にのみ、各人は内的自由をもち、互いの関係の中から創造的全体(コミュニティ)を生みだすことができる。その過程で、各人自身も、新たな経験をして成長していくのである。
各人が、個人としても確立し、コミュニティの中でも自己を実現していくすべは何だろうか?全体意識は、個人に押しつけることはできない。共同体を創出するための明確で手っ取り早い規則など存在しない。個人には自由を与えることが必要だが、外的自由は共同体を育む上での必要条件にすぎない。個人の内部の不確定性と結びついている、関係を創るための内的自由もなくてはならないのだ。
つまり、われわれは「観測」を互いに回避しなければならない。量子論的世界での観測に対応する人間世界の事態は、人が状況の中でとる「態度」である。自由主義者的態度をとれば、自分自身の成長の可能性が失われる。他方、集団主義者的態度をとれば、自分の個人性が失われ、集団への貢献もできなくなってしまう。
一例をあげてみよう。会議に出るときに、自分のアジェンダ(提案する議題)なしに出るのはよくないが、それに固執するのもよくない。各人は、状況の不確定性(内的自由)が展開(unfold)するのを許容しなければならない。状況を信頼すること、そして状況にうまく「乗る」ことのできる自分の個人としての能力を信頼することが大切なのだ。真の対話とは相手(や状況)を制御することでもなければ、相手(や状況)に屈服することでもない。創造は真の対話の中で生まれる。状況を注意深く見ていて、いつでもそれに乗れる「構え」、そこから新しい可能性を引き出して現実化するための「構え」をとっていること(poised and alert)が大切なのだ。交渉の場にのぞむ際にも、同じことが言える。
人々の社会関係や交流は不確定性(多義性)にあふれ、多様な可能性に満ち満ちている。われわれは、特定の明確な目的をもって行動したり関係を結んだりすることは、少ないのである。われわれの行動の「意味」は、フロイトが考えたようには行動の背後には潜んでいない。それは、行動の中で、行動を通じて、創られていくのである。
人間は「選択(choice)」によって動き、量子は「偶然(chance )によって動く。しかし、それらが環境に作用(agency)しうるのは、それらが波動状態にある時、つまり、決まったエネルギーと運動量はもっているが、時空の中での位置は不確定である時にかぎられる(レーザー光線はその例である)。[ちなみに、著者は、日本社会は波動状態にあることが多いと見ている。]
意識が、自由意思や責任のような統一的活動能力(agencylike properties) をもっているのは、それが不確定的で波動的な物理的下位層(ボース・アインシュタイン凝縮相)をもっているためである。同様に、集団のメンバーが最高の創造的効果を発揮しうるのは、彼らが規則や手続きにしばられていない時、つまり疎外されていない時である。多義的な神話や伝説は、多義的なコミュニケーションや感情のプールになる。何度も何度も再解釈されることができ、その度に新しい意味が生まれて、創造的な社会関係が生み出されるのである。
それでは、真の「ポストモダン」社会を生み出すためには、われわれはいかに行動すべきか。それにはまず、五つの基本的ポイントがある。
を考え出したが、そのすべてが機械論的な方策にすぎない。そんなやり方では、社会は、多様性を養分として進化していくことはできない。社会の進化のためには、他者との対話、異文化間の対話がどうしても必要になる。寛容だけでは足りないのである。だから、われわれは、「他者」もまた「自己」の一部であるという認識を明確に持つ必要がある。
ゾーハーの考えでは、今日のこのような危機の根元は、実は極めて深いところにある。その根源は、イエス・キリストが行った「シーザーのもの」と「神のもの」の分離、彼岸と現世の峻別にある。そのような分離や峻別は、ギリシャやユダヤの伝統にはなかった。加えて、今日のキリスト教組織は、人々の良心をかき立てたり公的な想像力を鼓舞したりするものではなくなってしまっている。逆に、16世紀のイタリアのマキャベリ以来の政治的現実主義は、現世のみを一方的に強調する結果をもたらした。
こうして、今日では、自分の居場所を闘い取るための政治が、全体の共通の善のための政治よりも優位に立つに至っている。しかも、リベラルな民主主義の伝統がそれに輪をかけている。それは、個別利害の追求を当然視し、そうすることが全体の善の実現に資するという[マンデビル=スミス的な]思想なのである。だが、そこからはグローバルな合意など生まれようがないではないか。
多元主義を真に生かすためには、多様なローカルな意味を含んだ(つまり差異を否定しない)共通な原理が必要となる。これが多元主義の逆説である。だがこの逆説を解決するには、多元主義それ自身の中に、あらためてパブリックな意味を見いだす必要がある。つまり、今日の課題は、差異性に対して共通の意味を与えることである。もう昔の単一の宗教には戻れない。前近代には戻れないのである。そうだとすれば、われわれは、今こそ新しい意味の共有をめざしていかなければならない。
政治とは、社会における利害対立の融和の過程に他ならないが、それを可能にする基盤は、宗教的なもの、つまり共通の社会的な信念やシンボルや行い、なのである。政治も、この「共通の天蓋」の下で始めてうまく機能しうる。この意味での宗教と政治の統一がもっともよく見られるのは、一つの「盟約(covenant)」を通じて結びついた人々の間である。西欧の歴史でもっともよく知られているのは、神とユダヤ人との、あるいは神とイスラム教徒との盟約である。しかし、キリスト教世界では、その聖俗分離の思想のために、盟約はうまく機能していない。他方、「契約」は限定されすぎている。今日の文明が必要としているのは、新しい盟約なのである。
量子論的真空は多様な可能性を含んでいる。つまり多元主義的である。われわれは皆、その可能性の一つの顕現なのだ。万人が、この可能性のコミュニティのメンバーである。そして万人は、その可能性をさらに展開させていく責任を負っている。これがわれわれと「神」との間の、量子論的な盟約に他ならない。それは聖なる宗教的盟約(われわれは皆、自分の中に「神」をもつ、したがってすべての他者をもつ)であると同時に、政治的な盟約(多様な可能性は互いに融和されねばならぬ)でもある。われわれは互いに違っていればこそ、パブリックな進化の企てのパートナーなのだ。われわれは、この共通の企てに貢献しうると同時に、真の自己になるためにも、他者を必要としている。
政治過程は、理解できない新事態に直面した脳が、反省を通じて行う認識の枠組みの再構成の過程とよく似ている。それは、人々が自分の立場に固執しないで、いろんな立場を重ね合わせてみようとする自由な対話の過程である。やがて、もとの個々の立場は解体され、新しい共通の立場が生まれてくる。これに対し、敵対的ディベートから生まれるのは、勝ち負け、あるいは高々妥協にすぎない。しかし、対話からは合意が生まれる。対話では皆が勝つのだ。前6世紀半ばまでのギリシアの民主主義は、対話と合意にもとづいて物事を決めていた。敵対的なディベートと投票が行われるようになってから、真の民主主義は失われたのである。
しかし緊急事態で対話のひまのない時もある。あるいは、利害がどうしようもなく分裂している時もある。そんな時には、上から決定を押しつける以外にないのだが、それから生じるトラウマの一つの治療は、後になって委細を尽くしてその時の決定の妥当性や責任を論じ合うことである。
四つのコミットメント:ゾーハーは、以上のような分析と戦略に基づいて、新しい政治の実現のために、われわれは次の四つのコミットメントをしようではないかと呼びかける。 その第一は、多様性へのコミットメントである。それは、多様性を認めつつ、その中に創造的統一の可能性を探る決心をすることに他ならない。なぜなら、多様性や差異性は、高次の合意にとっての養分となりうるからである。
われわれがしなければならない第二のコミットメントは、対話へのコミットメントである。先に見たように、創造のためには固定した多様性(粒子)だけでは不足であって、対話(波動、つまり、既存の構造の解体→内的関係への移行→新構造の構築)が必要とされる。そのさい、人は、自分の姿勢や信念をいったん「待機(on hold)」状態に置き、自分自身がが変化しうるようにして、内的関係に移行できるように準備する必要がある。そこから、新たなレベルへと上昇し、新しい政治的現実を作り出さなければならない。既存の秩序を出て、新しい関係の構築へと進まなければならない。ただし、そのさいに行き過ぎて、カオスに陥らないようにする注意が肝要だ。新しい秩序は、エネルギーを失って硬直した旧い秩序と、過度のエネルギーの注入によって生ずるカオスの、「縁」においてのみ創造できるのだから。
われわれがしなければならない第三のコミットメントは、宇宙の事物にとっての共通の基盤、(低エネルギー状態にある「量子的真空」)すなわちあらゆる可能性の基盤、へのコミットメントである。万物はこの「真空」の励起によって、そこから外に出現(ex-ist) してくる。それは個人や社会の場合も同様なのだ。
われわれがしなければならない第四のコミットメントは、未来へのコミットメントである。世界の万物が自らを展開していく物理的過程が、進化の過程に他ならないのだが、その意味で進化は、宇宙を支配している普遍的な原理である。われわれの未来もまた、進化の中にある。われわれは進化にコミットすることで、みずからの未来にコミットするのだ。
以上が、私の理解し得た限りでの、ゾーハーの「量子的社会論」の要約である。見られる通り、ゾーハーのいう「進化」とは、秋元勇巳氏の言葉を借りていえば、「しなやかな進歩」とほとんど同義であるように見える。また、彼女の言う「真のポストモダン社会」とは、私に言わせれば、近代社会の進化の流れがそこで一つの頂点に達する「真の近代社会」そのものであるように思われる。だから、ゾーハーの議論には、「反進歩主義」的なところや「反合理主義」ないしは「反科学主義」的なところはどこにもないといってよいのではないだろうか。
なお、ゾーハーが念頭に置いているのは当然のことながら欧米の社会なのだが、それでは彼女の分析や提言は、今日の日本社会にとっては、どれだけの適切性をもっているのだろうか。以下、その点について、私なりのコメントを多少つけ加えて、彼女の思想の紹介を終わろう。
まず、ゾーハー自身が認めているように、欧米の社会と日本の社会は、基本的な点では同一の特質をもっているにせよ、いくつかの派生的な点では互いに異なっている。欧米の近代社会が人々の粒子性の強い「個人主義」社会として特徴づけられるとすれば、日本の社会は、逆に人々の波動性の強い社会[私の言葉で言えば、「集団主義」ないし「全体主義」社会というよりはむしろ「間柄主義」社会――村上・公文・佐藤『文明としてのイエ社会』参照]だということができるだろう。二つの社会の間の違いは、たとえば次のような点に認められる。(ただし、ここではほんの一二の例をあげるだけにとどめる。)
ゾーハーは先に、明らかに欧米社会を念頭に置きながら、緊急事態が発生した場合や利害がどうしようもなく分裂している時には、対話は不能になるので、上からの決定を押しつける以外にないが、それから生じるトラウマの一つの治療は、後になって委細を尽くしてその時の決定の妥当性や責任を論じ合うことだと述べていた。しかし、日本の社会では、そのような場合には、山本七平のいわゆる「空気」が、決定を支配するように思われる。人々はいわば「我を忘れて」、その場の空気の支配に従うのである。後になって我に返った時に生じるトラウマの日本的治療法は、「過去の不幸な出来事のすべてを忘れて水に流す」ことであろう。
日本の社会は、もともと対話志向的な傾向が強いのだが、それが硬直して決定不能に陥るのは、ムラ的な分権化のためだと思われる。集団が派閥に分裂していくと、全体としての対話の可能性が失われてしまうのである。西欧の集団には、放置すると集権的・専制的集団に転化していく傾向があるとすれば、日本の集団では、放置すると権力や資源は下へと分権化し、私物化されていくのではないだろうか。そしてエリートは下に引っ張られて無力化してしまうのである。旧軍の下士官に代表される日本の集団の下層のメンバーは概して有能だが、大局的・戦略的判断能力には欠けているようだ。つまり、その視野はきわめてローカルである。そして、それはそれで、タテワリの集団間の水平距離を大きくし、対話を困難にする嫌いがあるのではないだろうか。
いいかえれば、日本の場合には、旧支配層が全体として追放されて新たなトップの形成が一気に行われて(日本型革命)、その後次第に権力が下に移っていく傾向がある。明治大正時代の民権化の傾向や戦後の革新化の傾向がそれを見事に示している。そして権力は私物化されて(組合等)いき、タテ割の閉鎖的なタコ壺型集団がいたるところにできて、社会は凝集力を失い、全体的決定不能、改革不能の状況に陥る。ここでも、政治家は個別利害の代表者になっていくのだが、欧米に見られるような政党化やその中央集権化は、一部の例外(共産党や公明党)を除いては起こりにくいのである。
いずれにせよ、「愛」の理念を掲げる欧米の個人主義社会も、「和」の理念を掲げる日本の間柄主義社会も、共に、結晶化とカオスの縁にあってそれなりの生命力・進化力を示してきた近代社会の亜種だといってよいのではないだろうか。
実は、社会システムを構成する原理は、決して単一ではない。あたかも遺伝子型に優勢遺伝子と劣勢遺伝子とがあるように、たてまえの理念(優勢文化子)の裏側に、表向きは決して承認・容認されることはないが、現実には強力に機能している劣勢文化子が作用しているように思われる。あるいは、すべての社会は表の原理と裏の原理(とそして表の権力と裏の権力)の複合によって成り立っている、といってもいいだろう。たとえば、日本では表向きの「落ちこぼれを出さない」理念と対をなして、異分子を排除し差別する「いじめの文化」が本音では支配している。アメリカの個人主義的競争のたてまえの裏側には、多種多様な強力な「秘密結社」組織による連帯と助け合いの文化がある。(アメリカの成人男性は、平均して一つ以上の「秘密結社」に属しているという話がある。)事情は、かつてのソ連経済でも同様だった。表の計画経済の裏側に、それと密接不可分な形で、闇の私経済が存在していたのである。後者は、前者に寄生する一方で前者にとっての潤滑油として作用していた。
このような秘密結社やいじめ、あるいは「マフィア」の存在を、社会的に容認し難く、そして努力すれば治癒可能な社会病理現象とみるのは、多分行き過ぎだろう。それぞれの社会の病理現象は別にある。結晶化やカオス化の現象がそれである。個人主義社会の場合でいえば、時に硬直した全体主義に走ったり、あるいは逆に相対主義の度がすぎて流砂化してしまうケースがそれにあたるだろう。間柄主義社会の場合でいえば、時に集団全体が我を忘れて同じ方向に突っ走ったり(いわゆる「日本的ファシズム」はその一例だろう)、あるいは逆に白けの度がすぎて「閉塞状況」に陥ってしまったりするのが、それにあたるだろう。
今日の欧米社会がゾーハーのいうような意味での危機にあるとすれば、恐らく日本の社会も、それとはやや違った意味での危機にあるといってよいだろう。一方の社会だけが混乱と衰退の過程をたどっているということではないのである。個人主義がだめになって、間柄主義が生き残るとか、逆に間柄主義がだめになって、個人主義が生き残るということでもない。だとすれば、両方の社会は、いまこそ、お互いに相手の長所から学ぶべき時が来ているというべきではないだろうか。
それにしても、個人主義的な欧米社会では、その変革ないし進化は、個人の自覚と行動から始まると考えざるをえない。では、間柄主義的な日本社会の変革ないし進化は、どこからどのようにして始まるのだろうか。日本の場合、自覚した個人から始めるのは無理で、外圧や環境変動によって集団の全体が一気に変わるのを待つしかないのだろうか。それとも、自覚した個人が、いったん自国・自集団の外に出て活動(脱藩、浪士化)するという道があるのでしょうか。あるいは、個人のレベルよりは高い、下位集団のレベルでの自覚が、変革の契機となるのだろうか。私は、そういった問題意識をもちながら、今日の日本が「閉塞状況」から脱却していく過程をつぶさに観察してみたいと思っている。
3.5 ピーター・センゲの「第五ディシプリン(The Fifth Discipline) 」論
米国MITの経営学教授ピーター・センゲの著書、『第五ディシプリン(The Fifth Discipline: The art and practice of the learning organizations. New York: Doubleday, 1990)』は、1990年代のアメリカで、もっとも広く読まれてきたビジネス書の一つである。それをもとにしたワークブックも出版されている。本書をテキストとする経営セミナーも、全米各地で頻繁に開かれており、センゲが提出した「学習する組織」のコンセプトは、広い範囲にわたって信奉者を獲得している。センゲはまさに現代の智業家の一方の雄だといっていいだろう。
センゲによれば、組織の姿は、そのメンバーの間の思考や相互行為のあり方を反映して形作られていく。成功する組織は、「学習する組織」、すなわち「システム思考」を理解し実践する組織である。そのような考え方は、組織の達成すべき目標に関して通有されているビジョンの中にきちんと組み込まれていなければならないだけでなく、組織内の各個人が達成したいと思うことの中にも組み込まれていなければならない。
在来型の階層的企業には未来はない。これからは、それに代わって、学習する組織(LO)が成功をおさめるようになるだろう。LOは、センゲが「ディシプリン」と呼ぶ、次の五つの相互に関連した要素から構成される。
システムの三つの中心的な特徴は、
という点にある。実際、多くの経営状況において、真の「梃子点」(つまり、最大の動きを起こさせうる点)を見つける能力は、「詳細な複雑性」よりは「ダイナミックな複雑性」の理解に由来する。したがって、パターンや構造を認識する事の方が、特定の事象を細かく調べたり細目にかかわる大量の情報を積み上げたりすることよりも、ずっと重要なのである。だから、根本的な原因にせまらない対症療法からは、たかだか短期的な効果しかえられない。
ビジョンとは、実現したいと思う未来の姿である。目的(あるいは使命)とは、なぜそれが実現されなければならないかという理由である。偉大な組織というものは、株主や従業員の単なるニーズに応えるという以上の、大いなる目的意識をもっている。
センゲにとってチーム学習が決定的な重要性をもつ理由は、「近代の組織にあっては、個人でなくチームが、根本的な学習単位である」ところにある。
センゲによれば、システム思考の根本には、これらの五つのディシプリンがあり、われわれはそれによってのみ、組織が直面する「学習のディレンマ」に対処できる。それは、「人は経験からもっともよく学ぶものだが、にもかかわらず、もっとも重要な決定の中の多くのものの帰結は、決して直接には経験できない」というディレンマである。なぜならば、ほとんどの重要な決定の影響は、一週間後や一カ月後ではなく、何年も、いや何十年もしてから現れることが多いからである。
センゲのこの新たな組織パラダイムにおいては、伝統的なリーダー像も大きく変わってくる。これまでの組織のリーダーは、「方向を定め、中心的な決定を下し、部下に気合を入れる力を持つ特別な人々」だった。しかし、新しいリーダーは、組織的な学習の「デザイナー、幹事、教師」でなければならない。メンバーを鼓舞し、学習過程を設計して、組織の全員が自分の直面する決定的に重要な問題に効果的に対処し、学習にかかわる諸ディシプリンに精通できるようにする人でなければならない。新しいリーダーはまた、組織の目的にかかわる物語をこしらえ上げ、そのビジョンが誰にも理解でき近づけるものにして、その実現にとっての幹事役にならなければならない。つまり、リーダーは、自分の個人的なビジョンを通じて、組織はどこから来て、どこにいて、どこに行こうとしているかを明らかにできなければならない。これからの優れたリーダーは、まわりの人々の心の中に、「自分が本当に欲する結果を実現するために学ばなければならない事を学ぶことができるのだ」という確信を植えつけることができなくてはならないのだ。
ごらんの通り、学習する組織(LO)とそのリーダーに関するセンゲの考え方は、かつての「日本的経営」あるいは私たち(村上泰亮、公文俊平、佐藤誠三郎)のいう「イエ型組織」とそのリーダーに関する日本的な考え方に、きわめて似通っている。センゲの理論は、1980年代の日本的経営の研究から導かれた面が大きいのではないかとさえ思えるほどである。いずれにせよ、これからの日本の社会や経営の改革を進めていくに際して、在来型のアメリカの個人主義的な人間関係モデルや経営モデル、あるいは新古典派流の競争モデルや市場モデルの全面的な採用を試みることは、危険きわまりないことだといわなければならない。センゲの経営理論が、ある意味で日本型経営の長所に一致した面をもっているとすれば、次に見るムーアの理論は、多分にこれまでの日本型経済社会の一面と通ずるものをもっているように思われる。そこで次に、ムーアの「ビジネス・エコシステム」モデルを手短に紹介しておこう。
ジオパートナーズ・リサーチ社長のジェームズ・F・ムーアは気鋭のビジネス・コンサルタントである。彼が1993年に『ハーバード・ビジネス・レビュー』に発表した論文「捕食者とそのえじき:競争の新生態学」は、そその年の同誌の最優秀論文に送られるマッキンゼー賞の受賞作となった。その彼が、1996年に満を持して発表したのが、ここにその概要を紹介する『競争の死(The Death of Competition: Leadership and strategy in the age of business ecosystems. New York: Harper Business) 』である。
ムーアが本書で主張しているのは、これまでの競争観、すなわち主として二つの組織の間に生ずる事象として競争を見、より広いビジネス環境には注目しない競争観は、死んだということである。これからの組織は、競争に対する見方を、競争とはさまざまな産業が相互依存と対立のネットワークの中で進化していくような経済的生態系の中での現象だとみなす方向に、変えていかなければならない。つまり、これからの組織は、自分が属している生態系への理解を深め、その生態系にもっとも良く貢献するにはどうすべきかを決めていかなければならないのである。
この本のなかで、ムーアは、ビジネスにとっての環境を生物の生態系になぞらえて説明している。すなわち、彼のいう「経営生態系」とは、「ビジネス世界の有機生命体にあたる、互いに作用しあう組織と個人の基盤によって支えられた、経済的共同体である。この経済共同体は、顧客にとって価値のある財やサービスを生産しているが、実は顧客たち自身もまた、この共同体のメンバーなのである。この共同体にはまた、 (自企業に対する) ベンダー、主たる生産者、競争相手、およびその他の関係者も含まれている。時と共に、彼らはその能力や役割を共進化させていき、一つあるいは複数の中心的企業が指し示す方向に沿って自分たちを展開していく傾向を示す。リーダーシップを発揮する企業は、時と共にうつり変わっていくかもしれないが、生態系のリーダーとしての機能自体は、共同体によって高く評価され続ける。なぜならば、その機能のおかげで、生態系のメンバーたちは同じビジョンを通有するようになり、それにしたがって投資の方向を決めたり、相互支援的な役割を見つけ出したりできるからである。」
経営生態系の主要な特色は、生命生態系の場合と同様である。すなわち、そこでは、システムのメンバーの間に互恵的な双務関係が形成されるのである。ムーアによれば、技術の進歩によってビジネス機会が拡大する時には、常に、より多くの生態系が出現する余地ができる。とはいえ実際にある新しい生態系が出現し存続するためには、革新的な行為と慎重な計画がなくてはならない。情報中心の組織の場合には、存続の鍵は新たな組織論理の開発である。すなわち、経営生態系の中心部に、革新的な専門的事業者を絶えず配置し続けることである。自分が一番うまくやれる一、二の貢献に特化した企業群、しかも他の企業たちと柔軟に協働していける企業群が出てくると、全体的な解決が可能になるのである。
経営生態系の中にニッチを見いだすには、四つの基本戦略がある。
経営生態系の中に地歩を得ようとする組織のリーダーは、以上の四つの戦略の他に、次の点への配慮も怠ってはならない。すなわち、自分がメンバーとして加わっている生態系の中では、
などといった点を、よく考えてみなければならない。ただし、よしんばどのような答えがでてくるにせよ、生態系にとって決定的に重要なことは、このシステムの全体としての条件を正確に理解することである。自分が属しているシステムのことをよく理解していれば、それが競争力の確保につながるからである。
また、企業が単に既存の経営生態系の一員としてとどまるだけに満足せず、経営生態系についての新たな理解に基づいて、自ら新たな経営生態系の構築に乗り出す場合には、それが次の四つの段階をへて進展していくことに留意すべきだとムーアはいう。すなわち、
の四段階がそれである。実際には、ある生態系の中で操業している企業は、この四つの段階の中のどこか一つに位置していることになる。
見られるように、ムーアの新しい経営モデルの最大の特色は、それが個々の企業よりは、多数の企業群(および消費者を含む顧客)からなる「生態系」に注目している点にある。したがって、「競争」は、一つの生態系の内部よりは、主として併存する複数の生態系相互間の関係として定義されるのである。もちろん一つの生態系の中でも、リーダーとそのライバルとの関係で見られうるように、競争がなくなってしまうわけではない。しかし、一つの生態系を律するもっとも主要な関係は、競争よりも協働の関係なのである。協働は、生態系のライフサイクルの四つの段階のすべてにおいて、必要不可欠な最重要要因となっている。ムーアのいう「共進化」は、何よりも協働の産物なのである。
ムーアのこのような見方は、われわれの立場からすれば、さらにもう一段の深化が可能なように思われる。第一に、協働の実現にさいしてもっとも重要な役割を果たすのは、リーダー企業が示す新しい理念(アイデアやビジョン)である。リーダー企業は、それを共同体の他のメンバーに普及し、対話や討論を通じて、自分自身の理念として通有させようと努める。リーダー企業のこのような活動は、そこだけ見ればまさしく智業としての活動である。その意味では、経営生態系のライフサイクルで智業(的活動)の果たす役割には根本的なものがある。リーダー企業は、真にリーダー企業たりうるためには、みずから智業としての性格を備えるようになるか、他の智業と緊密な協働関係をまず築き上げるかする必要がある。つまり、経営生態系における「協働」は、まず「智業=企業協働」として出発しなければならないのである。
ムーアはまた、この協働・共進化関係の中には生産者としての企業だけでなくて、消費者、生活者としての顧客も加えられなければならないことを強調している。これも非常に重要な着眼点だといえる。われわれの立場からすれば、ここでいう「顧客」は、産業化の時代、とりわけ第二次産業革命の時代の、単なる消費者ではない。情報生活における受け身のカウチポテトではない。彼らは、智民として、自らアイデアの創造や普及にたずさわる存在である。さらに、自ら目的意識をもって、自分たちが選択した目標や理想の協働的な実現をめざす存在である。そうだとすれば、ムーア的な生態系を、「経営生態系」と呼ぶのは狭過ぎないだろうか。むしろ「智業=企業生態系」あるいは単に「社会生態系」と呼ぶ方がより適切なのではあるまいか。
ムーアの議論から導かれるさらにもう一つのポイントは、ある種の「独占」の再評価である。新しい経営生態系の構築の先頭に立ったり、リーダーとして活動し続けたりするためには、それなりの資源が必要である。そのような資源の原資となるのは、市場からの収益であろうが、十分な額の収益は、市場での独占的な地位なしには、確保は容易でない。もちろん、そのような独占的な地位自体は、他人よりもすぐれたアイデアや技術の開発を通じて獲得されるべきものであって、それ以外の力(たとえば暴力や、独占的地位の政治権力による制度的保証)などを通じて維持されるべきものではない。しかし、ある企業が市場において独占的地位をたまたま享受しているというだけの理由で、「独占禁止法」のような規制によって、その地位を権力的に奪うべきものでもないだろう。ムーアの立場からすれば、ある企業がすぐれたアイデアや技術力によって市場での独占的地位を確保し、それによって自分のリーダーとしての地位の維持を可能にすると同時に、自分と協働している多くの他の企業や顧客にもその果実の一部を分与しているとすれば、そのような独占は一概に否定されるべきものではないだろう。とりわけ、協働を実現するための手段として、自社の標準をオープンにして他社の利用を許している場合などは、社会的に称賛され尊敬されてしかるべきだろう。
以上見たような、近年の新しい理論的立場が示唆するところをもとに、市場での競争と独占の問題を、より一般的な角度から見直してみよう。
近年、デカルト的二元論を超えようとする試みが、さまざまな人々によって行われている。村上泰亮の新古典派経済学批判における「超越論的観点」と「解釈学的観点」の区別や、この第三章で紹介したダーナ・ゾーハーの量子的社会論における「粒子(個人)-波動(関係)二重性」的存在としての人間の把握、あるいはジェームズ・ムーアの「経営生態系」の理論における、「競争」と「共進化」の区別の試みなどがそれである。清水博の場所の理論における、自他分離的な「自己中心的視点」と自他非分離的な「場所中心的視点」の区別も、そのような試みの一つである。(第一章でみたような、ジョン・ホランドがあげている「複雑適応系」の特質や、私があげている「複合主体」としての社会システムの特質も、似たような観点からのアプローチの試みである。)
そのような二重性のメタファーとして、ゾーハーは集団的に行われる「自由型ダンス」を、ジョン・ケーオーはジャズの「ジャム・セッション」を、清水は「即興劇」をあげているが、いずれも根本においては同一のアイデアであるように思われる。また、これらのメタファーは、それ自体、「社会システム」のある一側面――社会システムは進化するという側面――を強調したモデルだと考えることもできる。実際、たとえば即興劇で、個々の役者がシナリオを作り劇を作り、その中での自分の役割を作りだしていくのは、非常に早い速度で行われる社会システムの形成と進化の一例だということができるだろう。
さて、あらゆる人間関係が清水のいう「場所」として表現されるとすれば、人間関係の一種である「市場」が「場所」の一種として理解されうることは当然であろう。それはつまり、私の用語でいえば、市場もまた「社会システム」の一つだということに他ならない。しかも、その場合、社会システムには、それ自体が複合主体であるもの(たとえば国家)と、そうではない非主体型のもの(たとえば国際社会)とがあって、市場は後者に属することはここであらためて強調しておきたい。(同様に、ムーア的な「生態系」や、インターネットも、後者の範疇に属する。)
市場を新しい理論的観点から把握しようとする試みの出現と、市場自体の中での新しい試み(たとえば財産や企業の所有をめぐる考え方を変えようとする試み)の出現とは、無関係ではないかもしれないにしても、互いに区別されなければならない。過去の市場についても、新しい理論的観点から見ると、違った見方ができることは当然だからである。ただし、新しい見方は、これまで「市場」としてとらえられてきた対象の範囲を拡大して、これまでは「市場」の外にあった自然環境などと一体化して見ようとするものかもしれない。その場合には、観察の対象としての「市場」自体が、それに対する見方と共に、共進化していくということになる。
他方、自他非分離的な方向への企業の進化は、今初めて起こっていることではない。他のあらゆる社会システムと同様、企業も進化(自己再組織)してきたし、今でも進化を続けている。進化とは、まさにあるレベルでの自他分離状態(粒子的状態)を達成している存在が、再び自他非分離的な状態(波動的状態)をとって、「自己」のレベルをより高くしていく過程に他ならないからである。こうして、産業化の19世紀システムの下での企業は、産業化の20世紀システムの下では、株主や従業員をも「自己」の中に取り込んだ「大企業」となった。(ただし、そこからさらに「カルテル」を作っていく進化経路は、「社会選択」によって拒否された。)そして今再び、企業は、「ユーザー」や「消費者」あるいは「市場」をも含めたこれまでの自分にとっての「環境」の一部とも一体化する方向に、進化しようとしているのである。企業の今回の進化局面が過去のものに比べてなんらかの新しさをもっているとすれば、それは、今回の場合、企業と顧客と市場の協働を通じての「共進化」の可能性や必要性が、自覚的に意識され始めているところにあるといえそうだ。
この新しい進化の過程をグローバルに比較観察したり、それが進んでいく(さまざまな)方向を予測したりするさいに、欧米的個人主義社会と日本的間柄主義社会を、あまりに対立的ないし相互異質的に捉えてしまうことには問題がある。それらは、共に関係/個人二重性をもつ社会システムの中の、ある二つのタイプにすぎない。どちらも「進化」をしていく能力をもっているのだが、前者はどちらかといえば個人性をより強調し、後者は関係性をより強調すると言う、視点の据え方の違いがあるにすぎないのである。(しかも、どちらか一方の視点しかないということは、どちらの社会においてもなかった。そうでなければ、たとえば自意識の弱いはずの日本で「日本人論」がこんなに流行するという事態は説明できないのではないか。あるいは、明治維新以後の社会進化の過程で、国家としての日本が近隣諸国に対してとった行動の特徴は、それが掲げた「大東亜共栄圏」や「八紘一宇」などの間柄主義的理念にもかかわらず、その実態は間柄主義的というよりはむしろ個人・個体主義的な「侵略的」行動だった点にあるのではないか。)ともあれ、両社会の間の違いは、無意識の文化のレベルの違いでもあるが、それ以上に意識的に規範化された文明のレベルの違いであるように思われる。
したがって、日米の文明システムの比較にさいしては、とくに双方の経営システムの比較にさいしては、すぐに文化のレベルに降りてしまわないよう、注意すべきだろう。アメリカの大企業体制も日本の「日本的経営」も、ともに産業化の20世紀システムに適合して形成された「文明」であり、それを律する理念もかなりの程度意識化された「規範」である。それらは、産業化の21世紀システムへの移行の過程において、共に大きな変容を受ける可能性が高い(たとえば、「バーチャル・コーポレーション」や「ネットワーク型組織」への転換等。)また、文明のレベルでの変容は、文化のレベルでの反省や再組織の試みもともなう。アメリカで伝統的な個人主義文化や契約と競争と支配の文化への反省が起こり、日本では伝統的な間柄主義文化や談合と協調ともたれあいの文化への反省が起こっているのは、その例である。そのことは、次のレベルへの社会進化の過程では、両者の収束が進むことを意味しているのかもしれない。
市場の話に戻ろう。市場で活躍するのは、「商人」たちである。商人の本質は、彼が商品に対する自分自身の固有の評価を持たない存在であるところにある。(商人が「抽象的な世界に生きる」というのは、その意味に理解すべきではないだろうか。)彼は本来、異なる市場の評価のすき間に生息し、異なる市場、つまり異なる評価の間をつなぐことで利益をうる。端的にいえば、安いところで買って高いところで売ることで利幅を稼ぐのである。商人にとって、市場での「価格」とは、他者、外部環境、他共同体の評価に関する情報のことである。だから、そのさいに彼自身がどんな評価を持っているかは、どうでもよい問題になる。(もちろん、商人の「倫理」という問題は発生しうる。それとの関連では、彼自身の評価が改めて問われることになるかもしれない。たとえば、いかに高く売れる商品であっても、彼はそんな高い価格で販売することをいさぎよしとしない、といったごとくに。)この意味での「固有の評価のない世界」は確かに一つの「虚構」には違いない。しかしそれは、それにしたがって活動する限り「利潤」という現実をもたらしてくれる虚構である。その意味では、この虚構は、商人にとっての新しい「現実」にほかならない。
では、市場が「均衡している」あるいは「満たされている」とはどういうことをいうのか?それは単に、現在の「価格」水準においては主体間の評価に差がなくなっている(市場のエントロピーが最大化している)こと、つまりもうそれ以上の取引は行われようがないこと、を意味するものでしかない。もうどこにも売るべき品物や買おうとする相手がいなくなって市場が物理的に「飽和して」いるということではない。現に、そこに他の評価を持った主体(つまり、現在の均衡価格は、自分の評価からすると高過ぎるとか安過ぎると思う主体)が、あるいはこれまでの市場にはなかった新たな商品を持った主体が登場すると、(その結果エントロピーの低下が起こって)再び交換が始まるのである。
といったようなことを念頭におきながら、ここで、あらためて「市場」をなるべく広い観点から見直し、「市場の熱力学的モデル」とでもいうべきモデルを構想してみよう。それは、次のような想定と、そこからの帰結からなるモデルである。
などをあげることができよう。
以上の考察から、資本主義的競争の本質にかかわる、次のような結論が導かれる。
資本主義的競争の本質は、それが、上述したような市場における独占的地位の入手(つまり他人の独占的地位の打破)および維持(つまり、自己の独占を打破しようとする他人の試みの圧殺)をめざす行動だという点にある。いいかえれば、それは独占(超過)利潤の継続的入手の試みである。
つまり自由競争とは、結局自分(万人)の独占をめざす自由のことである。ただし、その手段には、多くの場合制限がある。たとえば、多くの社会において、暴力・盗み・詐欺はルール違反ということになっている。しかし、商人がそのような手段に訴えないという保証はない。(もちろん、他の面では比較的に安定している社会において、独占利潤を長期的に獲得し続けるための手段としては、とくに他の競争者も存在している状態の下では、暴力・盗み・詐欺といった手段はルールの有無にかかわらず有効とは言えないという「合理的な判断」に多くの商人が達する可能性は決して小さくない。)
現に、すでに第二章で見たように、米国で1996年の2月に鳴りものいりで制定された新電気通信法は、電気通信市場に全面的な「競争」状態を導入するはずだったが、施行後一年の経験は、政府の予想は完全に裏切られたことを示している。とりわけ、これまで独占的地位を享受してきた地域電話会社やケーブルテレビ会社は、競争よりも「デタント」を選んだ(ハントFCC委員長の言葉)のである。これは、「競争」という概念の理解や、商人あるいは資本主義的企業の行動様式に関する理解において、アメリカ政府や経済学者の通念には誤りがあったことを示唆するような事態ではないだろうか。
ここで述べた市場の熱力学的モデルの立場からすれば、商人=資本主義的企業の「競争」は、次のような形で行われると考えられる。その中で相対的により有効と思われるものを、状況に応じて選ぶのである。
それでは、そのような資本主義的「競争」行動がさまざまに試みられると、何がおこるのだろうか。いわゆる「完全競争」状態は、独占状態の固定や入手の可能性が事実上消滅している状態を意味すると考えられる。つまり、既得優位もそれ以上の革新の持続的実現の可能性もなくなった状態である。これでは、新たに市場に参入しても仕方がない。もはや、既存の市場には何のうまみも魅力もなくなっているのである。
この意味での「完全競争」状態には、さしあたり、
の二つが区別できそうだ。
前者の場合に生ずるのが、財・サービスの「商品(commodity)」化だと思われる。そこでは、超過利潤の消失が広く見られるがそれは、
ためであって、これは「過程」でなく「帰結」だということができよう。そうなった経済は、交換・生産のない、あるいは消費以上に生産のない、静態経済となる。これは、実は市場経済の理想状態どころか、その死に他ならないだろう。
静態的な完全競争状態は、自然的・制度的独占のない閉じた市場(自然、社会、脳に対して閉じた市場)では不可避的に生ずる。そこでは、価格の下落や品質の向上は起こらないので、このような「帰結」が生産者にとって魅力がないのはもちろん、消費者にとって利益であるかどうかも疑問といわざるをえない。それは複雑系の「結晶化」にあたる意味での、市場の死である。
その逆に、技術革新のテンポがあまりにも早い社会では、安定した市場秩序は構築しえないと思われる。「動態的完全競争」は、存在するとしても、それ自体きわめて不安定なカオス的状態だというべきではないだろうか。そうだとすれば、そのような社会では、カオス的状態の回避をめざして、明らかに別の秩序の導入が指向されると思われる。最近英国の『エコノミスト』誌が取り上げている「テクノポリー(technopoly) 」は、まさにそのような秩序の一つかもしれない(The Economist, Dec. 26, 1996. Technopolies examined)。同誌によれば、そこでは、先進的な企業が、ムーア的な意味での「経営生態系」構築の先頭に立つ。たとえばインテル社のように、自らが独占力をもつ自社技術や製品をもちながら、それを市場の標準とする。そして、それを利用して他の製品やサービスを生産する産業群や企業群を自分の周りに引き込んだり生みだしたりして行くのである。確かに、ある基幹的な産業分野で断然強力な一社が市場を制覇して標準を生み出したら、そしてそれが全体としての市場の拡大に貢献するなら、関連分野の多くの企業は、それに即した製品を開発すればいい。その方がより安心して競争できる。さらにその標準がプロプライアタリーなものでなく、不断の革新とそれを市場が受容しているという事実に基づくのものであれば――シスコのルーターなどのように――なお結構だ。さらに、一分野での独占を地歩に他の分野に進出することがなければ――マイクロソフトはそれをしたために嫌われている――、その独占は、あまりに不確実性の大きい市場でのリスキーな競争の不安を解消してくれるという意味で、ほとんど歓迎すべきものにさえなる。インチューイット社などは、それに加えてユーザーとの協働を追求する戦略をもとって、ユーザーの信頼をさらに高めている。インチューイット社は、投資信託や保険についての中立的な情報提供や売り手や買い手の紹介などをしているのだが、こうした中立的情報提供は、銀行や証券会社には困難なサービスなのである。だから、「テクノポリー」はまず容認することにして、その上で、かつてのIBMがそうだったように、その独占状態があまりにも利己的に利用される結果になれば、その場合にのみ反撃的競争を挑めばよいのである。
そういうわけで、ある独占的企業の技術や標準の面でのリーダーシップの下に、いったん経営生態系が確立してしまえば、その生態系のメンバーである企業や市民・智民の間からは、独占の弊害を批判する声はほとんど聞かれなくなるだろう。さらに、より先進的なリーダー企業は、たとえばムーアが例として取り上げているABB社のように、自社のある地域のコミュニティや他の企業が直面している問題点や実現したい夢に関する良きコンサルタントとなって、問題の解決や夢の実現に協力する。その過程で、深い信頼と知己関係をコミュニティに確立した当該企業は、コミュニティ内のさまざまな主体との間に、長期安定的なビジネスの基盤を確立していく。これが未来の新たな「経営生態系」の姿に他ならないのである。
以上のような考察にもとづいて、ここであらためて「競争」の概念を定義しなおしてみよう。「競争」には、広い定義から、狭い定義まで、いくつものレベルの異なる定義を与えることが可能なように思われる。すなわち、
などが考えられる。
このような枠組みを前提すれば、たとえば次のような議論ができそうに思われる。電子予約システムの登場は、顧客による諸航空会社間の「比較購入 comparative shopping 」を可能にした。インターネットの利用は、その範囲をさらに拡げた。そのため、利潤が低下し、革新のための投資ができなくなった。つまり、情報技術の発達と普及によって、航空市場は「(完全)競争市場」化したのである。だが、だからといって、「縮小均衡」をはかるのは、航空会社にとっては死滅・消滅への道をたどることを意味するのではないだろうか。むしろ必要なのは新しい市場の創造、ビジネスの開発、つまり既存の経営生態系の再生もしくは新しい生態系の開発である。それには関係者の通有が可能なビジョンの提示にもとづく、協働の組織化が不可欠になる。全員のニーズや期待を知り、システムのいっそうの進化の筋道を見て取って、その実現に貢献することが必要になるのである。そのように考えると、日本でいう「地域振興」や「地域開発」あるいは「地域の活性化」は、まさにこの意味での新たな生態系の開発をめざす試みだと解釈できそうだ。
双方向テレビ・ブームの空騒ぎに懲りて保守的な競争行動に走る米国の地域電話会社は、結局のところ存続できなくなっていくかもしれない。しかし、仮にそうなったとしても、それは「価格競争」に敗れたためではなく、「地域開発競争」に参加しなかったためということになるのではないだろうか。
それでは、「競争の社会的効用」なるものは、どこにあるのだろうか。上にみた競争のさまざまな定義のうちの「広義の競争」が行われる場合でも、生産者の間の秩序維持・安定効果は期待できるだろう。ただし消費者は、市場の高価格に甘んじざるをえないなどの割をくいそうだ。「狭義の競争」だと、その成果の一部は顧客もシェアできる可能性があるが、それはたかだか間接的な効果にすぎず、とうてい十分とはいえない。だとすれば、最も望ましいのは、顧客とも一体化した「協働型競争」ではないだろうか。
ムーアのいう「競争の死」とは、あまりにも技術革新のテンポが早すぎるために、(そして制度的独占化も不可能となった社会状況の下で)従来の意味での競争がすべて効力を失ってしまったカオス的状態をさすと解釈できるだろう。そのような状態を回避するための試みとしても、企業と顧客、さらには政府まで一体となった「協働型競争」には、期待がもてる。あるいは、『エコノミスト』誌のいう「テクノポリー」は、そういう状況の下でなら容認しうるだろう。
このような結論は、NTTの今後の経営戦略を考える上で、十分参考にすべきもののように思われる。