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公文レター 97年 7月号

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1999年 7月10日

「インターネットに賭けるアメリカ」

公文レター 97年 7月号

公文俊平

今年の梅雨どきは、空梅雨のまま明けそうですが、お変わりはございませんでしょうか。もっとも他方では、6 月に二度も台風が上陸するという珍しい年になり、台風が運んでくれた雨のおかげで関東地方の水瓶はほぼ満杯ということだそうですから、夏の水不足は心配しないですみそうです。

 今月の公文レターでは、今年に入って非常にはっきりしてきた、第二期クリントン=ゴア政権の情報通信政策の特徴に注目してみたいと思います。一言でいえば、それは、インターネットへの全面的なコミットメントを中核にしたものだといえるでしょう。

すなわち、第二期クリントン=ゴア政権は、「インターネット」を今後の国際政治社会――それはまさに「パックス・アメリカーナ・マークⅡ」と呼ぶのがふさわしい体制になりそうですが――にとっての新しい理念としてグローバルに推進する一方、その基本的な「哲学」を明確にして国内国際両面での合意の基盤を作ろうとしています。また、「次世代インターネット」イニシァティブを発動して、インターネットそれ自体のいっそうの進化を促進させる一方、インターネットをプラットフォームにする生涯学習や電子政府、およびグローバルな商取引の仕組みを構築していこうとする動きを、はっきりと見せているのです。以下、それらの点についてもう少し詳しく検討してみましょう。

 一、インターネットと国際政治

 まず、これは今のところ私の仮説にすぎないのですが、今や、「インターネット」という言葉自体が、単なる技術や経済の言葉としてのレベルを超えて、今後の国際社会での21世紀に向けての政治的な指導理念として、カール・シュミットの意味での「政治」の言葉になりつつあるように思われます。つまり、「インターネット」という言葉は、「理念の共和国」アメリカの政治的なリーダーシップの下で、国際社会での「敵」と「味方」を分けるための符丁あるいは踏み絵になりつつあるといってもいいように思われます。

 それを象徴的に示しているのが、今年の二月に発表された(そして初めてインターネットで同時中継された)米国大統領教書の中での、この言葉の使われ方です。

 教書は言います。「わが同胞たちよ。わが国は強力です(拍手)。しかし今こそ私たちは決定的な瞬間に向かって上昇し、この国と世界を未だかつてなかったほど立派なものにしていかねばなりません。グローバルな経済や情報時代、想像もつかなかったような新しい仕事や生活を高度化する技術――これらが新たに約束してくれるもののすべてが我々の眼前にあります。それをつかみ取ることが私たちにとっての栄光であり挑戦です。私たちは、事態の観察者ではなく形成者にならねばなりません。今行動しなければ時は過ぎ去り、私たちの未来がもつ最善の可能性が失われてしまうのです。」「わが国が直面するさしせまった脅威は、今や存在しません。しかし、敵はいます。現代の敵は、無行動です。ですから今夜私は、行動への呼びかけを出したいと思います。」

クリントンはそこで、当面の課題として財政の均衡化や民主主義の回復(つまり超党派的な協力の実現)、福祉制度改革の遂行などをあげた後で、「さて、先を見渡しますと、最大の一歩――今越さなければならない未来の敷居――であり、次の四年間での私の最優先課題は、すべてのアメリカ国民に世界最良の教育を保証することです(拍手)」と述べ、「次の三つの目標の実現のために共に働きましょう。すなわち、すべての八歳児が字が読めるようにし、すべての12歳児がインターネットにログオンできるようにし、すべての18歳児が大学に進学できるようにしましょう。また、すべての成人が生涯学習を続けられるようにしましょう」と呼びかけています。 そしてクリントンは、アメリカの教育がこれらの目標を実現する行動に立ち上がるさいの十原則を提唱しているのですが、インターネットはその最後にでてきます。すなわち

「第十。私たちは情報時代の力をすべての学校に取り入れなければなりません。私は昨年アメリカを促して、2000年までに全国の教室と図書館をインターネットにつなげよう、それによってわが国の歴史上初めて、最も孤立した田舎町や最も快適な郊外の子供たち、最も貧しい都心部の学校の子供たちが同じ知識の世界に同じようにアクセスできるようにしようではないかと呼びかけました(拍手)。これが私の計画――アメリカの教育のための行動の呼びかけ――です。大統領が教育に対してここまで注目するのは尋常ではないという人がいるかもしれません。あるいはまた、そのわけは単に、大統領とそのすばらしい妻とは、思い出すこともできないほどの昔からこのテーマのとりこになっているからだという人もいるかもしれません。しかし、これらの提案の背後にある力は、そんなものではないのです。

 私たちは、この種の努力が持っている意義を理解しなければなりません。冷戦時代を通じて、私たちの力の最大の源泉は超党派的な外交政策にありました。私たちの未来がかかっていることについては、〔党派〕政治は水際で立ち止まったのです。そこで私は今、皆様にお願いします。また、全国の知事たちに、親たちに、先生方に、アメリカ全土の国民の皆様に、お願いします。今度は教育に対して、あらためて超党派的にコミットして下さい。なぜならば、教育こそ私たちの未来にとって決定的な重要性をもつ国家安全保障上の問題だからです。〔党派〕政治は、学校の校門で立ち止まらなければならないのです(拍手)。

 21世紀に向けてアメリカが準備するためには、科学と技術の強力な力を制御してすべてのアメリカ人のためになるようにしなければなりません。今年の大統領教書は、インターネット上でライブのビデオ画像で流される最初の教書になります。とはいえ私たちは、技術革命の便益をやっと普及させ始めたところです。それは、あらゆる国民にとっての生得の権利にならなければなりません。

 すべての教室を〔インターネットに〕つなごうとする私たちの努力は、そのほんの始まりにすぎません。今度は、あらゆる病院をインターネットにつないで、医師たちが自分の患者についてのデータを、各分野の最良の専門家に即座に見せられるようにしなければなりません。私は今夜、民間部門にこう申し入れたい。すなわち、できるかぎり速やかにあらゆる児童病院を〔インターネットに〕つないで、入院している子供たちが学校や家族や友人たちと連絡が取れるようにしてやっていただきたい。病気の子供は、もはやひとりぼっちでいることはないのです。(拍手)

 私たちは第二世代のインターネットを構築して、わが国の一流の大学や研究所が今よりも千倍も早い速度で交信し、新たな治療法や新エネルギー源、新たな共同作業方式などを開発できるようにしなければなりません。

 しかし、そこでとどまることはできません。インターネットはいずれ、新しい町広場になり、すべての家庭に入ってあらゆる学科の教師になり、あらゆる文化への接点になります。それはもはや夢ではなく、必要事なのです。私たちは、次の十年間には、それらの実現を目標にしなければなりません(拍手)...」

 これを見る限り、アメリカが情報革命の成果を享受するためには、インターネットの普及と改善が不可欠だ、とクリントン=ゴア政権が信じていることは間違いないでしょう。しかし、この教書は別に、他国に対してまで、アメリカと同様なインターネットの評価や普及努力を要求しているわけではありません。ですから、「インターネット」が国際政治の敵と見方を分ける政治語になったという私の解釈は、性急すぎるかあるいはあまり根拠のない見方かもしれません。しかし、アメリカがインターネットに賭ける熱意と自信、そしてアメリカに伝統的な普遍主義的政治姿勢や理念重視の文化基盤から考えると、今はまだそうではなくても、そう遠くない将来に間違いなくそうなるのではないかというのが、私の仮説なのです。

 実際、誰でも知っているように、20世紀の「パクス・アメリカーナ」の下では、「平和と繁栄」が国際社会の追求すべき二大目標とされ、それを実現するための政治的な手段が、多元的民主主義と自由競争市場だとされていました。近年、多元的民主主義と自由競争市場の政治的手段としての普遍妥当性については、ほかならぬアメリカ自体の内部でもさまざまな反省がおこりつつありますが、クリントン=ゴア政権は、依然としてこの二つの理念を高く掲げ続けるつもりでいることは、今回のデンバー・サミットが証明した通りです。そして1994年3 月のITU のブエノスアイレス会議でゴア副大統領が行った演説の中で示された「ゴア・ドクトリン」 (これは私の命名であって、ご本人はそういう言い方はしていませんが) は、新しい情報通信技術を具現した NII-GIIは、民主主義の普及や持続的経済発展や環境問題の緩和にとってのグローバルなインフラとなるという認識を、すでに示していました。私の仮説は、第二期クリントン=ゴア政権は、このような見方をさらに発展させて、「インターネット」を新情報通信技術のシンボルとして、政治的に採用することを決めた、あるいは決めるに違いないというものでもあります。

 もちろんその場合には、これまでの「民主主義」や「自由競争」などの符丁と同様、「インターネット」という言葉の正確な定義は二の次なのであって、何はともあれ、それを理念として熱烈に支持するかどうかが、政治陣営を分ける踏み絵になるでしょう。昔よく見られたことですが、アメリカの下風に立ちたくないなどの理由で、「哲人政治」や「計画経済」の理念を、「民主主義」や「自由競争」の理念に対抗して掲げることは、熱い冷たいを問わず「戦争」を引き起こすきっかけになりました。すくなくとも、アメリカをはっきり敵にまわす結果になりました。私は、今回も同じことが起こりはしないかと懸念するのです。つまり、アメリカ原産の「インターネット」という言葉はなんとしても使いたくないので、「B-ISDN」とか「統合ディジタル・ネットワーク」等々、何か別の言葉を自分たちの理念としては掲げようとしたとしましょう。そうすると、いつのまにかそれが、国際政治のレベルでの敵対行動あるいは分派行動とみなされるようになる、といった事態の発生を惧れるのです。

実は、このレベルでは、アメリカのリーダーシップは、そこまで強引なことはしなくても、すでにほぼ確立しつつあるといってよいように思われます。すでに東南アジアの諸国は、シンガポールやマレーシアをも含めて、この点ではアメリカ的インターネット・イデオロギーの全面的な支持に回る姿勢を鮮明にしているといってよいのではないでしょうか。一年前のシンガポール政府のもたつきぶりや、インターネットに時に示していた反感が嘘のようです。(私は、昨年シンガポールのNCB(National Computer Board)の方の講演を聞いたことがありますが、その時には、インターネットの重要性を強調しながら、しかしその全面的な導入は憚られるといったトーンが顕著でした。後で、なぜそんな態度なのかと質問してみたら、民間の業界、とくに銀行部門がインターネットの利用を快く思っていないからだ、という返事でした。) そのシンガポールが、一年の建設期間の後、この 6月から商用サービスを開始したばかりの「シンガポール・ワン」は、少なくとも現時点で見る限り、新たに建設されたATM 幹線網に既存の電話あるいはケーブル回線からADSLあるいはケーブルモデムの技術を使って高速接続する、インターネット網そのものになっています。

二、新しい「生命系」としてのインターネットの哲学

 インターネットは第二に、他のさまざまな情報通信政策、とくに情報通信システムの規制にかかわる政策の是非を評価するための基準をそこから引き出してくる事のできる「哲学」にもなりました。クリントン=ゴア政権は、インターネットを「 (人工) 生命系」あるいは「複雑系」のメタファーで理解しようとしているのです。それは、たとえば、イーサーネットの開発者として有名なエンジニアのボブ・メトカーフがインターネットを外側からの制御や修復を常に必要とする「機械系」だと考えているのとは、対極の立場にあります。インターネットが (自律分散的な) 生命系であるならば、それは、基本的にそれ自身の力で存続し進化していく能力をもっているということができます。四六時中監視の目を光らせ、少しでも予定のコースをはずれれればただちに制御するといった必要はないわけです。

 とはいえ、そのようなインターネットが、常に人間 (少なくともある一部の人間) にとって有用なものとなる方向に向かって進化し続けるという保証は、もちろんありません。また、生命系の常として、カオスや停滞に向かって発散あるいは収縮して、死んでしまう可能性もあります。だから、人間 (というかインターネットの外部にある主体としての「政府」) がしなければならないなことは、インターネットがその中で生存し続ける事が可能なような「環境」を整備することと同時に、インターネットを人間にとってより有用な存在としうるような、「遺伝子操作」 (品種改良) の努力です。たとえばハッカーの攻撃に強い体質を、インターネットの中に組み込んでやる必要があります。混雑に強い体質も同様です、等々。これが、クリントン=ゴア政権の「インターネット政府規制論」の根本にある哲学なのです。良くも悪くも、米国政府のインターネットの規制 (ないし無規制) に対する姿勢は、このような「哲学」によって裏打ちされているのです。 (もちろん、かりにそのような「哲学」のレベルでの合意がえられたところで、6 月下旬に米国最高裁が下した「通信品位法」の違憲判決に見られるように、インターネットの具体的な規制のあり方をめぐる米国の議会や行政府のこれまでの判断を、米国民であれ、外国の私たちであれ、そのまま受け入れるべきだとする理由はありません。大きな合意の枠の中での論議は、大いに行われてしかるべきだと思います。)

三、進化するインターネット

 インターネットはさらに、より具体的なレベルでいえば、未来の情報社会の基盤をなす新種の情報通信システムでもあります。その意味では、「情報化」や「ディジタル化」の核心は何よりも「インターネット化」にあり、「マルチメディア」とは実は「インターネット」のことであり、これまで言われてきたNII やGII の具体的な中身もまた、インターネットにほかならなかったのです。新種の情報通信システムとしてのインターネットは、既存の電話や放送とは質的に (種として) 異なっています。ところが、1996年に改正された米国の電気通信法は、 (日本でのNTT の「経営形態論」などと同様) 1980年代の旧いイシューに答えるための、いわば後ろ向きの制度的枠組みを与えるものにすぎません。つまり、既存の市内と長距離電話、ケーブルテレビ、放送などの産業の間の、垣根を越えた競争の枠組みを準備しようとするものにすぎないのです。いいかえればそれは、新しく台頭してくる情報通信システム、とりわけインターネットを対象にした規制 (あるいは非規制) の枠組みを作ったり、インターネットと他の伝統的情報通信産業との間の関係を定めたりするための、法律ではないのです。ということは、これから改めてそのような法律の制定が検討されなければならないことを意味します。

 なぜなら、上に見たような新種の生命系ともいうべき情報通信システムとしてのインターネットは、今後長期間にわたって進化を続けていくと見られるからです。あるいは、進化や変容を続けながらも、インターネットのインターネットとしての本質は変わらないと考えられるからです。クリントン=ゴア政権は、昨年の10月に「次世代インターネット」イニシァティブを発動し、次世代インターネットの開発推進にかかわる三つの目標、

  1. 高性能のネットワーク組織
  2. 高度なネットワーク・サービス技術
  3. 革命的な各種のアプリケーション

を示しました。そして、その開発を支援するために、当面、今後三年間にわたって毎年一億ドルずつ支出することにしました。

 私はここで、現在のインターネットの先にでてくる情報通信システムのことを、米国の政権がやはり「インターネット」という名前で呼ぼうとしている――だからこそ、この新政策イニシァティブは「次世代インターネット・イニシァティブ」と名付けられている――ことに注目したいのです。つまり、「インターネット」という観念の同一性自体は、なんとしても保持しようとする政治的な意思の表明がそこに見られるのです。なぜなら、「インターネット」はアメリカが生み出したものであり、そこにアメリカの優位が集中的に現れているものだからです。「次世代インターネット・イニシァティブ」について説明している政府文書(www.hpcc/ngi-concept-08Apr97/ngi_vision.html)には、次のような一節があります。

「このイニシァティブがもたらしうる経済的便益には巨大なものがある。インターネットはアメリカで生まれたので、さまざまな通信や情報の市場での実質的な主導権はアメリカの会社が握っている。インターネットの爆発は、経済成長と高賃金の職を生み出したし、ハイテク会社の新規操業数の劇的な増大をもたらした。次世代インターネット・イニシァティブは、アメリカの技術的なリーダーシップを強化し、新たな食や市場機会を創出するだろう。」

このような認識と期待の下に、米国の政権が次世代インターネット・イニシァティブを推進していることは、私の仮説の一つの傍証にもなっているのではないでしょうか。

四、手段としてのインターネット

 それでは、このインターネットは、他のどのような政策目的にとっての重要な手段とみなされているのでしょうか。第一にそれは、今年の大統領教書でクリントンが訴えた教育あるいは生涯学習にとっての、最も重要な手段となります。これについては、先の教書からの引用をもう一度見て頂ければ十分でしょう。

インターネットはまた、「政府の再発明」のための必要不可欠なインフラともみなされるようになってきました。つまり「電子政府」とは実は「インターネット政府」にほかならなかったことが、次第に明らかになってきたのです。ゴア副大統領は、今年の初めに公表された報告書『アクセス・アメリカ』への序言の中で、この点についての認識が不十分だった事を、事実上認めています。この序言には、次のようなことが述べられているのです。

「決定的なのは、技術を通じてリエンジニアしようというアイデアだ。われわれは、古くてすり切れた行政過程を自動化しようとは思わなかった。政府の再発明を可能にする偉大な手段は情報技術(IT)だったし、今でもそれは変わらない。情報技術のおかげで、われわれは人々の仕事の仕方や顧客への奉仕の仕方を根本的に考え直すことが可能になるのだ。

 労働を組織化する古いやり方は、工場を模範にした階層的システムだ。このシステムにはトップとミドルのマネジメントと、労働者とがいる。労働者は、ピラミッドの頂上にいる人々が単純な仕事を繰り返しさせるようにプログラムした機械の歯車とみなされている。このアプローチは、組織の最大の資産――すなわち組織に属する男女がもっている未利用の頭脳力、エネルギー、および創造力――を取り除いてしまうアプローチだ。」

 工場モデルが有用だった時代はもう終わった。今日のコンピューターや通信は、労働を新しい仕方で組織することを可能にする。この新しいモデルは、コンピューティングの「分散知能」という考え方にもとづいて、情報とそれを利用するためのツールとを組織中に分散させる。意思決定の権限は、変化に最初に直面する最前線の従業員に与えることができる。

 1993年に提出されたNPR(全国実績評価)の報告書は、この分散知能モデルを使っていた。そこでの勧告は、顧客への電子的サービスの提供から、情報を集めて共同作業をしようとする従業員のためのよりよい通信線の構築にまでわたっていた。

 それから三年と少したった今、これらのアイデアは約束通りの成果をあげていることが明らかになった。作業過程はリエンジニアされ、より良い仕事がより安い費用でできるようになっている。だが、三年たった今では、もっと大胆な計画もたてられることもまた、明らかになった。

 その理由は二つある。第一に、最初の報告書から生まれた各種の計画は、大成功をおさめた。(中略)第二に、技術が劇的に変化し続けている。標準的なPCのコンピューティング・パワーは、三年前の50倍になり、貯蔵能力は十倍になった。いずれもコストの増大を伴わないで、である。通信の費用は減少した。だが中でも最大の変化は、インターネットの利用と能力の爆発的な増大である。連邦政府は今日、数百万の納税書類をオンラインで配布し、退職予想についての要求を受け付け、ビジネスへの序言を行っている。だがわれわれはまだ、この新たな道具をようやく活用し始めたばかりなのだ。」

インターネットはさらに、これからのグローバルな電子商取引の具体的な枠組みを与えるものにもなります。この七月一日に最終版が発表されたばかりのクリントン=ゴア政権の『グローバルな電子商取引の枠組み』と題する政策文書では、GIIとインターネットが事実上同一視され、「電子商取引(e-commerce)」とは「インターネット商取引(i-commerce)」にほかならないという観点が取られています。たとえば、この文書の幹部用要約(Executive Summary)の最初の二つのパラグラフは、こう書かれています。

「インターネットは、何百万もの高賃金の職を生み出すことで、今後十年以内に、米国にとっての最も積極的な貿易手段となるポテンシャルをもっている。それに加えて、インターネット・ショッピングは、自宅に座っている消費者が世界中から多種多様な製品やサービスを購入できるようにすることによって、小売業を革命的に変えてしまうかもしれない。

しかしながら、ビジネスを広範に電子的に行うことに慎重である企業や消費者は少なくない。それは、インターネットが取引を支配する予測可能な法的環境を欠いているためであり、また政府がインターネット商取引を窒息させるような規制や課税を課しはしないかと恐れているためである。」

今回の文書は、まさに企業や消費者のこのような懸念を払拭し、インターネット上で安心して商取引を営めるようにするための枠組みを、米国政府がリーダーシップをとって提言しようとしているものなのです。念のため、この文書の本文の最初の三つのパラグラフも引用しておきましょう。

「グローバルな情報インフラ(GII) は、まだその発展の初期にありながらも、すでにこの世界を変えつつある。次の十年間には、GII の進展は、教育、保健、勤労およびレジャー活動にわたる、日々の生活のほとんどあらゆる側面に影響をおよぼすようになるだろう。かつては距離と時間によって隔離されていた人々の集団は、これらの変化をグローバルなコミュニティの一員として経験するようになるだろう。

単一の力で、われわれの電子的な転換をもっとも良く具現しているものは、インターネットとよばれる進化途上のメディアをおいてない。インターネットは、もとは科学的学問的交流の手段だったのだが、今では日々の生活のための用具となり、地球上のほとんどどこからでもアクセス可能なものになっている。世界中の学生たちが、ワールド・ワイド・ウェブを通じて、データの貴重な宝物を発見している。医師たちは、遠隔診断を必要とする患者のために、テレ・メディシンを利用している。多くの国の市民たちが、個人的および政治的な意見の新たなはけ口を見いだしつつある。インターネットは、政府を再発明し、それを通じてわれわれの生活やコミュニティを作り変えるためにも利用されている。インターネットは、市民と民主的社会の力を強めると同時に、古典的なビジネスや経済のパラダイムを転換させている。企業と消費者が電子市場に参入し、そこから得られる便益を取り入れるに伴って、商業的相互作用の新たなモデルが展開している。世界に拡がるインターネットの顧客網へのアクセスを通じて、起業家たちはより少ない先行投資で、より容易に新事業を立ち上げることが可能になっている。

インターネットの技術は、サービスのグローバルな貿易にも、深い影響を及ぼしている。コンピューターのソフトウエアや娯楽製品 (映画、ビデオ、ゲーム、録音盤) 、情報サービス (データベース、オンライン新聞) 、技術情報、製品のライセンス、金融サービス、専門職サービス (ビジネスや技術のコンサルティング、会計、建築設計、法律相談、旅行サービス等) などの世界貿易は、過去十年間に急速に成長し、今では米国の輸出だけで400 億ドルをはるかに越えるにいたっている。」

(なお、ここまでにいたる電子商取引の流れについての要をえた解説としては、スパイク社から最近刊行されたジェトロのニューヨーク駐在員の前川徹さんの好著、『サイバースペースとアメリカ情報産業:インターネット最前線レポート』がおすすめです。)

五、結び

このような状況の中で、私たちは何をすべきでしょうか。

 まず、もっとも基本的なレベルでの「インターネット」の理念に正面から異を唱え続ける (たとえばB-ISDNの旗を振り続ける) のは、いまや愚かだといっていいでしょう。世界が「インターネット」の理念にロックインされつつある中で、あえてそれとは異なる理念を打ち出そうとしても、耳を傾けてもらえないばかりか、異質者あるいは敵として排除されてしまう危険さえあります。

 インターネットの理念を基本的には受け入れながらも、同じ言葉を使うのは面白くないという理由で、少し違った言葉づかいをしてみるのも、やはりたいした意味はなさそうです。私自身、これまで、数年前にアメリカのNRENAISSANCE委員会が提唱した ODNという言葉の方が、より普遍性の高い言葉だと考えて、そちらの方をよく使っていたのですが、今にして思うと、これはあまり賢明なやり方とは言えなかったのかもしれません。実は、ペンシルバニア大学のデービッド・ファーバー教授から、ODN という言葉はアメリカではとっくに死語になっているよと聞かされたのは、もう大分前のことでした。

 むしろ、大切なことは、インターネットという大きな枠組み自体は明示的にまず受け入れた上で、いわばその中に飛び込んでいって、その枠組み自体の拡大の可能性を指摘したり、細目についての改良や具体化のための提案を出したり、新しい標準やシステムを提示したりすることではないでしょうか。表立って賛成するのは沽券に係わるので、せめて暗黙のうちに受け入れるにとどめておこうという態度も、姑息にすぎるでしょう。それでは、こちらの議論の浸透力や説得力は、大きく損なわれてしまうと思われるからです。

 そうだとすれば、日本の首相も、次回の施政方針演説では、「インターネット」に正面から言及してしかるべきでしょう。そしてインターネットの幹線部分 (NTT のいうOCN など) や現場部分 (私たちのいうCAN など) の構築と利用の将来展望を示してみてはどうでしょうか。NTT ほかの日本の情報通信企業も、マルチメディア会社というよりは、インターネット会社として発展していくという目標を、あらためて明確に掲げ直し、そのための研究開発態勢や実験態勢、さらには人材育成態勢から具体的なサービスの提供態勢――それも自社だけというよりは、内外のさまざまな企業や国内の自治体その他の各種団体、さらには市民・智民との協働まで視野に入れた――のあり方とそれを具体化するためのアクション・プログラムを積極的に提示していってはどうでしょうか。さらにインターネットのユーザーとしてのさまざまな企業、政府、団体、個人も、あるいは個別で、あるいは協働して、インターネットの導入や利用の構想や、それを基盤としたリエンジニアリング、制度改革、組織や地域の活性化の構想などを、いっせいに打ち出してみてはどうでしょうか。インターネットは間違いなく、未来の情報通信システムの本流となろうとしているのですから。