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公文レター No.30

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1998年06月10日

「電脳山田村塾に参加して」

公文レター No.30

公文 俊平

開塾式

5月31日から6月2日にかけて、地域情報化リーダー育成ネットワーク事業である「電脳山田村塾」の開塾式と、第一回の塾の集いが、富山県山田村の山田村交流促進センターで開かれました。この事業は、頭脳立地法や地域拠点法に基づく第三セクター等の人材育成事業として、全国的なネットワークのもとに地域の情報化を推進するために計画されたもので、本塾は山田村におきますが、引き続き全国各地に支塾をいくつも作っていくことが構想されています。

 今回参加した塾生は、富山県内から14人、県外から17人の、合計31人でした。 県内からの参加者のほとんどは、山田村に隣接する小杉町や八尾町の職員たちでしたが、ずっと山田村を観察しつづけている高岡短期大学講師の小松さんや、生活ネット研究所の羽根所長などもみえていました。県外からの参加者の中には、自治体の職員のほかに、奈良コンピュータ・システム研究所の奈良社長、三菱電機の中原さん、富士通総研の和田さん、日本ビーコム(ゴールド・フィンガーというキー入力法学習ソフトの開発者)の戸所さん、日本IBMの中野さん、仙台ソフトウエアセンターの猪狩さん、電力中央研究所の大屋さん、愛知学院大学情報社会政策学部講師の松井さん、などが含まれていました。

 開塾式では、塾長の中沖富山県知事の熱のこもった式辞に続いて、この事業を支援している地域振興整備公団の三井副総裁の挨拶や村塾の発田事務局長(富山県総合情報センター専務)の経過報告があり、さらに講師代表として私が「今こそ地域情報化の推進を」と題する基調講演を行いました。280席ある山田村交流センターには、合計して330人もの人々が押し寄せ、会場は熱気につつまれていました。「多分質問なんかする人はいないでしょうから、こちらで適当に質問者を準備します」という発田事務局長のご配慮もどうやら必要がなかったようで、講演の後の質疑応答では、次から次へとたくさんの、しかもなかなか鋭い質問が相次ぎ、答える方がたじたじするほどでした。情報化に関連して各地で講演する機会は少なくない私にも、こんな経験は初めてのことでした。

式が終わった後の塾生歓迎晩さん会では、大分の別府湾会議などでも経験するような、参加者の間の活発な交流の輪がいたるところで見受けられ、中沖知事も当初の予定を変更して、最後まで晩さん会の席に残っておられました。塾生たちは、会の後もさらに隣の宿泊施設のロビーに移動して、深夜まで熱心な議論を続けました。

塾の模様

翌朝からがいよいよ塾の本番です。まず各人の自己紹介の後、塾の岡林顧問(地域振興整備公団)から、地域情報化リーダー育成の必要性についての講義がありました。岡林さんは、自分でも早くからホームページ作りを手がけ、地域の情報化の事例を集めたすばらしいリンク集を作っている人です。そのリンク集が持つ高い情報価値のため、首相官邸のホームページ<http://www.kantei.go.jp/index-j2.html>からも岡林さんのホームページ<http://www.st.rim.or.jp/~okbys/index.html>にリンクが張られています。

 続いて、山田村の情報化の取り組みについて、村の小西助役と村民の小向さんから、こもごも説明がありました。小西助役の話では、最初のうちマスコミからは「高齢者の多い村での情報化などできるわけがない」といった扱いを受けたそうです。しかし、村としては最初から高齢者に喜んでもらえることを考えていました。そこで、その目玉のひとつとしてテレビ電話つきパソコンのシステム(アップル社のマッキントッシュ)を入れることを考え、電話回線のISDN化からまず手をつけようとしたら、そのためには電話番号の変更や交換機の取り替えなどが必要だと言われ、なんとかもとの番号を残してもらうよう苦労したそうです。ところが、その問題が解決して、ようやくシステムが入ったものの、何とそれから半年にもわたって、テレビ電話システムはどうしてもうまく作動しなかったそうです。その理由は依然として不明です。また、せっかく使えるようになったら、今度はパソコンの使いにくさと通信料金の高さ(1分20円)がネックになりました。パソコンを使いやすくするためには、バーコードの導入(たとえば、バーコードで表示されているインターネットのURLの上をバーコード・リーダーでなぞれば、自動的に接続が行われる)を試みているのですが、それでも特に高齢者が最初にパソコンを使えるようにするまでの困難は残ります。たとえば色違いのボタンをいくつか押せばパソコンが立ち上がり接続が完了するようになればいいなというのが助役の思いです。それにしても、「田舎ではこんな問題はよく起きるでしょう」というのが助役の率直な警告でした。結局いまでもテレビ電話を使っているのは一部の高齢者だけです。助役自身も、自分から呼びかけることが多いために、電話料が月2万円もかかるそうです。反面、電子メールは急速に普及し、とくに学校と父兄との間の連絡によく利用されるようになりました。また、ホームページは手作りでやっているのですが、最初はとても難しかったホームページ作りも今は良いソフトができたのでぐっと楽になり、多くの村民が質の高いホームページを作るようになり、こちらが恥ずかしくなってしまうくらいだそうです。

 村で食料品店を営んでいる小向さんは、こんな体験談を話してくれました。

*―――――

自分は、「このままでいくと村民は、コンピュータを使える人間と使えない人間とに二分されてしまう。お前はどっちにつくんだ」と言われてショックを受けた。そして数年前に買い込んだものの、解説書がさっぱり理解できず、お蔵入りさせていたパソコンに、もう一度挑戦することにした。最初はマウスにさわるのさえこわかった。それでも、周りが素人ばかりだったのがかえってよかった。わからない者同士で手探りで始めて、何とか使えるようになったのだ。今でもインターネットをいじるくらいしかできない。だが、村の特産品として地酒を作ることになったとき、そのポスターをパソコンで作ってもらった。それを見て、これなら自分でもできるかなと思い、ソフトを買ってきて、1カ月かけて1枚のポスターを作った。そのために、メモリの増設が必要なことも初めて知ったし、画像の解像度がどうこうといった話も、ポスターを作った後で聞いた。学生たちがやってきて教えてくれたのもありがたかった。そのうちメールの交換も始めた。学生たちのメールの文体には驚いたが、それにもだんだん慣れてきた。今では1日50通くらい来ている。メーリングリストにも加入した。

 結局、ネットに入ることで、何が「情報化」したのかはよく分らないが、新しい人々との交流が始まったことの方が、自分にとってははるかに大きな意味がある。長年この村に住んでいながら何とも思っていなかったこの村の特色や良さも、こうした交流を通じて初めて教わった。そんなに山田村の環境がよく食べ物もおいしいのなら、町の人のための体験農業や名物料理ができるのではないかと感じ始めた。いろんなキャラクターの人から、いろんな分野のことを教えてもらえるようになった。これが地域の活性化に結びつくと痛感している今日このごろだ。

  私はこの小向さんの話を伺っていて、これこそが「地域の情報化」そのものではないかと痛感しました。

 さらに、山田村の情報化リーダーの代表ともいうべき倉田さんが、村の情報化の展望について、次のような熱弁をふるいました。

*―――――

 村の情報化にとって、外からの応援は不可欠だった。現在、パソコンという点では、村の普及率は100%だが、利用率は65%にとどまっている。これを引き上げるためには、村の外との関係づくりがどうしても必要だと気付いたのだ。なによりも自分たちが選べる道具を、外の人々と協力して作っていきたい。しかし、技術が新しすぎるとその勉強が大変になる。そこで身近なものから始めてみることにして、バーコードにまず注目したのである。

 最初パソコンを配る時に問題になったのは、パソコンもテレビ電話も欲しいが、しかし通信料金は今のままにしてほしいという村民の要望だった。そこで、ISDNだけではなく、アナログ回線の電話でできる「電子紙芝居」型の簡易テレビ電話の導入も試みた。ともあれ大変なのは、村民一人一人に対するサービスである。車で移動中にしばしば電話しなければならず、事故も起こした。そこで、村民が学びやすいパソコンの自習マニュアルも作ってみた。しかし、それでもまだ足りない。そこでナラコムの奈良さんが開発した新キーボードにたどり着いた。これだと初心者でも簡単に入力ができる。さらに最近、それに音声をつけた。発音してくれるパソコンの登場である。また子供たちの未来のために、日本ビーコムの戸所氏と提携して、5時間でタイプの学習ができるゴールド・フィンガーというソフトを開発し、それをさらにマッキントッシュでもウインドウズでも使えるようにしてもらった。バーコードでホームページに引きつける。さらに文面も読み上げてくれると、パソコンはラジオになる。動画が出るとテレビになる。人の顔写真の下にバーコードがついていると、そこをなぞればその人のホームページにいって簡単に情報がとれる。

 このように、私としては底辺が必要としている技術を拾いあげ、開発していくことが大切だと思う。だから、いま追及しているテーマは、パソコンを本当にパソコンらしくすることだ。その最初の具体化が、「山風パソコン」だが、これにはすでに40社が参加している。その次に考えているのは、通信線のいらないシステムである。いろんな人々がいろんなところで行っている新しい試みを次々に見つけ出し、改良してもらって、製品化していきたい。そうすれば、それは村でも使えるばかりか、外にも出せるものになるのだ。

 また、くまざさ社の森本氏と組んで、本(『山田村の行進曲はインターネット』)も出版した。今年は、2冊目が出る予定になっている。村の外から見える問題と、村の中から見える問題をともに提供して、読者に見てもらいたいと思っている。

 人は、パソコンを買って何をするのか。自分の才能の発見と開発である。最初はリーダーに助けてもらっていても、そのうちにそれぞれ成長して、自分の足で歩くようになる。そうなると個性の違う人は、離れていって当然なのだ。山田村の中にも、新しいプロジェクトを始めるようになって、「もう倉田さんの日々の指導は必要ない。倉田さんは、私たちが助けを必要とするときだけやってきてほしい、あとは自分たちでやるから」、という人々も生まれてきた。自分としては、そういった人たちとの間に緩やかな協力関係が続けられれば、それでいいと思っている。

 情報化は道具ではない。人と人とのふれあいだと思う。そこから仲間ができ、夢が生まれ、旅が始まる。山田村の事業もまだ始まったばかりなのだ。塾生のみなさんにもこれと同じようなことを、もっと広く大きくやってほしいと思うものだから、今日はこんな率直な話をしてみた。

以上が倉田さんの話の概略です。

午後は、富山大学工学部の米田教授が、インターネットによる地域情報化の可能性についてまず講義し、それに続いて、農水、通産、郵政、自治、四省庁の担当者から、国が行っている情報化施策について、詳しい説明がありました。(岡林顧問によれば、このような、東京を遥かに離れた地域で行われる、ある意味ではささやかな試みに対して、四つもの省庁が人を出して説明するというのは、かなり異例のことだそうです。)

 講義がひとわたり終わると、塾生たちはバスに乗って、今年81歳になるという田中さんのお宅を訪問して、田中さんがパソコンを使ってメールの交換をしたり、インターネットで村の情報を取ったり、テレビ電話で情報センターの職員に質問したりしている様子を実地に拝見し、強い感銘を受けました。パソコンのそばには心電図や血圧などの情報を、ネットワークで送る機器も置かれていました。私も、パソコンの画面に出てくる細かな字を田中さんが何とか読み解き、英語で示される操作の選択肢を語の形から判断して選択し、たどたどしいながらもキーボードから通信文を自力で入力したり、プリントアウトしたりされている姿を見て、小西さんや倉田さんが言われたように、パソコンを本当に使いやすいものにすることの重要さをあらためて痛感しました。

 その帰途、山田村の情報センターに立ち寄って、職員の岩杉さんからこれまでの事業の経緯の詳しい説明を受けた後、村の情報化年表や、山田村の試みを報道した各種の新聞記事の切り抜き、あるいはホームページやポスターその他さまざまな作品を見学しました。

 夜は、夕食のテーブルを囲んで、10人ばかりの村民の方々との情報化に関する意見交換が、活発に行われました。さらにこの日も深夜まで、塾生の半数近くが、熱心な議論を続けました。

 翌朝は、まずインテック社の中尾社長から、内外での地域情報化の事例についての講義を受けた後、午前中いっぱいをかけて、塾生の一人一人が今回の塾への参加から受けた印象や教訓をこもごも述べ、続いて各人に修了証書が手渡されて、第一回のプログラムはすべて終了しました。

 多くの塾生がほとんど異口同音に述べた感想は、80歳を越えたおじいさんが元気いっぱいでパソコンに取り組んでいる姿を目の当たりにして、強い刺激を受け、感動を覚えたということでした。やはり百聞は一見にしかずということなのでしょう。後で伺ったところでは、このおじいさん(田中さん)は、翌日の中尾社長の講演にもやってきて、傍聴席から熱心に耳を傾けておられたそうです。

 私も結局、3日間通して塾生の方々といっしょに講義を聴き、議論に加わったのですが、とても有益だったと思います。私が今回あらためて学んだのは、とりわけ次の二つのことでした。

塾から学んだこと

その第一は、地域の情報化には大きくみて三つの段階があるなということです。情報化とは、平たく言い直せば私たちに「智恵がつくこと」にほかなりません。つまり「知的エンパワーメント」です。それは、

  1. 情報や知識の価値や有用性にめざめる
  2. さまざまな人々との間に積極的なコミュニケーション(交流)の輪を広げていく
  3. さらに、新しく知り合いになった人々との間に、多種多様なコラボレーション(協働)の試みを展開する

といった三つのステップを経て進んでいくようです。山田村の場合で言えば、81歳の田中さんは、まず第一のステップをへて、そろそろ第二のステップに入っていこうとしているようです。食料品店を経営している小向さんは、第二のステップでの経験をすでに十分に積み、いよいよ第三のステップにかかるところに来ているようです。そしてリーダーの倉田さんは、第三のステップでの実践の先頭に立っています。

 以上の三つのステップが地域情報化の具体的内容だとすれば、第二は、それらが適切な支援環境の中におかれることによって、急速かつ着実に進展していくことが可能になります。その意味での情報化支援環境のなかでもとりわけ重要だと思われるのは、次の三つです。すなわち、

  1. 安価で確実な高速通信回線(ネットワーク・インフラ)
  2. 誰でも容易に使えるハードウエア(アプライアンス)とソフトウエア(アプリケーション)
  3. 何くれと相談に乗ってくれる専門家のネットワーク(サービス網)

がそれです。

 山田村は、第一点については、ISDN回線の敷設からとりかかり、赤外線によるLAN間接続に挑戦し、さらに常時接続の可能な光と無線の地域回線網の敷設を構想しつつあります。第二点については、テレビ電話の採用からとりかかり、誰でも容易に高速入力ができるようになるキー入力練習ソフトや新キーボードの採用を試みる一方、音声入力や文字読み上げシステム、さらにはバーコード・リーダーを一体化した「山風」ブランド・パソコンの開発と普及に乗り出しています。第三点については、村内の各集落に「パソコン・リーダー」たちを配置したり、外部のボランティア、とりわけインターネットを通じての呼びかけに応じて集まってきた学生たちの協力を仰いだりする一方で、外部からの協力者を支援するために村内の「こうりゃく隊」(「こうりゃく」とは富山県の方言で、「合力」にあたる言葉だそうです)の組織づくりにも努めています。

補足:山田村< http://www.vill.yamada.toyama.jp

以上が、今回の第一回電脳山田村塾についての私のレポートですが、ご参考までに、山田村についての若干の統計データと、村のこれまでの情報化の歩みについて簡単に補足をしておきましょう。(以下の記述は、村や県が出している公式資料以外のものとしては、もっぱら日本マルチメディア・フォーラムの「富山県・山田村の情報化事業調査報告、1997年11月」に依拠しています。)

 富山市の南西約20キロにある婦負(ねい)郡山田村は、温泉とスキー場(昭和46年開設、いちはやく人工造雪機を導入)で知られる牛岳(標高987メートル)のふところにある村です。その隣には、「風の盆」で有名な八尾町があります。

 山田村はかつては人口4千人を数えていましたが、戦後の高度成長過程に過疎化が進行し(昭和45年に過疎地域指定)、現在では、村内23の集落に450戸2千100人が住む小さな村になりました。情報化事業が進む以前の村民の話題は、もっぱらこの次には誰が村を出るかに集中していたそうです。

 山田村の活性化のきっかけとなったのは、1992年から行政主導で始まった「ふるさと塾」でした。(伝統的な組織だった村の青年団や婦人会は、実状にそぐわなくなったということで、それ以前に解散されていました。)92年と94年に開かれたこのふるさと塾には、約40名の中高年者が参加したのですが、その第二期の集まりで出会った富山出身の宮口早大教授から「農村の活性化は、行政任せではなく、自分で切り開かねば何も起こらない」という話を聞いて納得したことが、そもそもの始まりでした。その後ふるさと塾参加者は、「えんなか(いろりばたを意味する方言)クラブ」という新しい組織を作って、相互の交流と親睦を図ることにしました。なかでも、村の文化祭で「山田村はすみよいのか」というテーマのディベートを行って、肯定派と否定派が互いの思いの丈をぶちまけあったことが、大きな刺激になりました。否定派を演じた人は村八分を覚悟したといいます。リハーサルを見た役場の職員は、余りの過激さに仰天して、見直しを要求したのですが、「ここまできて後には引けない」とそのまま突っ走ったのだそうです。

 1995年の4月に、中学校の先生から「村には幼稚園と小・中学校が1校しかなく、各学年は1クラスで、ずっと同じ仲間でいて刺激が乏しい。外部との交流をするためパソコン通信をさせたい」との陳情がありました。そこで村は、とりあえず電話回線の設置を考えたのですが、NTT富山支店から、「これからはインターネットの時代です」とISDN回線の敷設を提案され、村にISDN回線を引くことになりました。NTT富山支店は、同地区の整備計画を変更したISDNの山田村への敷設と全国に先駆けた同番号での移行について、本社の意思決定を仰いで対応し、約5~6億円を持ち出したとみられます。現在NTTは、社員を1名村に常駐させて、サポートにあたらせています。

 その後村としてもインターネットの利用に着手し、1995年の8月に、村役場のホームページが開設されました。同年度の補正予算で、国土庁が「地域情報交流拠点施設整備モデル事業」を全国4カ所で推進することになり、山田村もこの補助金を申請しました。10月に補助金の交付が内定し、具体的な計画がない中での補助金決定に驚いた村は、NTTの富山支店に相談を持ち込みました。当初は、情報受発信機能をもった情報センターを建設し、既設の地区公民館に情報端末を設置して生涯学習や福祉事業に利用しようという案が出たのですが、冬季の降雪・積雪と高齢者の歩行を考え、住民全員の利用を可能にするため、各家庭にパソコンを貸与することにしました。総事業費は、3億6千万円(情報センター建設費が1億5千900万円、センターの機器が7千720万円、情報端末機器が1億2千390万円)となりました。山崎村長は、情報化の中身はといわれてもよくわからないが、ともかくこれは大切な事業であり、自分としては全面的に支援するのだという姿勢を、一貫してとり続けました。小西助役は、総指揮官として、事業推進の先頭に立ちました。実際に行政の側での実行隊長の役割を演じてきたのは、広報担当と同時に情報化センターの職員を兼務することになった岩杉さんです。岩杉さんをつき動かしてきたのは「他の地域と山田村との格差をなくしたい」という熱望でした。そして岩杉さんがなんとしても避けなければならないと思ったのは、情報化を村の政治の覇権争いに利用することでした。幸い、山田村ではまだそのような事態は起こっていないそうです。以上は村の側で情報化事業の主役となっている人々ですが、山田村の場合、村民の中からも有能なリーダーが生まれてきていることが注目に値します。とりわけ「村を動かした男」と呼ばれている倉田さんの存在は貴重です。倉田さんの著書に序文を寄せた小野衆議院議員は、その中で倉田さんのことを「『風林火山』の旗指し物を背にした現代の武田信玄ではないか」といっているほどです。大学を出た後金沢で事業を起こしていた倉田さんは、情報化事業の開始と共に帰村して、村の中に「倉田機械設計事務所」を開設すると同時に、村の情報化のザ・リーダーとして活発な活動を開始したのです。山田村の情報化の歴史は、倉田さんを抜きにしては語れないと言っても過言ではないでしょう。

 村民へのパソコンの配備は、1996年の7月から8月にかけて行われ、情報センターは同年の暮れに竣工しました。通信の開始は1997年の1月でした。2月以降、希望家庭へのインターネット接続が行われ、6月から7月にかけて、全体の90%がインターネットに接続されました。テレビ電話については、ISDN回線につながったテレビ電話機能付きのマッキントッシュ270台を配布しました。一方、ISDNは高すぎると敬遠した家庭やウィンドウズ・パソコンを希望する家庭には、アナログ式テレビ電話機能付きのIBM製パソコン55台が配布されました。

 村民たちのパソコン学習をまず助けてまわったのが、前記の「えんなかクラブ」のメンバーたちでした。クラブの全員がパソコンに習熟していたわけではなかったのですが、一緒に勉強するという精神でボランティア活動として行ったのです。もちろん村役場としても、支援の努力はしました。当初、村民の中には、パソコン経験者は20名程度しかいなかったのですが、地区ごとに有志を抽出して教育し、パソコンリーダーに仕立てたのです(しかし、この人たちも、活動はボランティア・ベースで行っています)。その数は現在50人になりました。また、中学校や小学校にパソコン教室が整備されていることから、子供が大人に教える形もできています。

 1997年の2月には、電子メールでの呼びかけに答えた5人の学生が山田村を訪問しました。この時の交流がもとになって、この年の夏に「電脳まつり」をやろうという企画がもちあがり、インターネットを介して広く呼びかけが行われました。その結果、7月26日から8月4日にかけて、学生が主催し村人も参加する「電脳村ふれあい祭り'97」が開催されました。学生と村民のディスカッション、村民へのパソコン講習、村民との交流イベントなどが、その内容でした。このふれあい祭を前にして、山田村の「えんなかクラブ」のメンバーを中心とした有志が集まった「こうりゃく(合力)隊」が結成され、学生のボランティア活動を側面から支援することになりました。たとえば学生が村民にパソコン講習をする場合、講習を受けたいと望む人々のリストや、住所・地図の作成などを行うわけです。

 全国に地域情報化事業は数多くありますが、山田村の事業の特徴は、公的なアプリケーションを試みる前に、各家庭への「インターネットによるネットワーク利用環境」の提供に努めたところにあります。すなわち、村民の情報リテラシーの向上を間接的に支援しつつ、あとは各人の情報化ツールの自発的活用に期待しているのです。しかも、具体的な支援のほとんどは、さまざまな関係者やボランティア、あるいは村民たち自身の相互助け合いの活動に依存してきました。こうして村民たちは、お互いの「ふれあい」を通じた交流を進め、さらに自分たちの力で「何かがやれそうだ」という前向きの気持ちを持つようになってきたのです。これがこの地域の活性化に大きく貢献していると思われます。最近では、村民の集まりで話題が一段落すると、後は必ずパソコンやインターネットの話になるそうです。新しいことをやった人が出ると「どしてどしてどして」と質問が集中します。まだ、村内の地域差はかなり残っていますが、パソコンが入って変わった人、明るくなった人、視野が広がった人は、大勢いるのだそうです。とりわけ、子供たちが積極的になったということは、多くの人によって報告されています。学校を卒業した若者の村への定着希望も着実に高まってきています。現在のネックは、定着したくてもできるところがないという問題だそうです。そうだとすれば、過疎の村に新しい事業が芽生え、新しい雇用が育っていくことが、いま残されている大きな課題だと言えるでしょう。もちろん、村民の間の情報化格差を拡大させないことも、もうひとつの重要な課題です。

公文レター No.30