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「情報社会の文明史的意義」

July 1, 1998 [ kumon ] このエントリーをはてなブックマークに追加

1998年07月12日

「情報社会の文明史的意義」

国立国会図書館創立五〇周年記念基調講演

公文 俊平

ただいまご紹介をいただきました公文と申します。きょうは比較的限られた時間の中で大変大きなテーマのお話をしなければいけないということもございますので、言ってみれば私の独断と偏見で、このテーマについて私が日ごろ思っておりますことをお話ししてみたいと思います。皆様方が1つでも2つでも何か私のお話の中からヒントを得ていただくことができればと、あるいは何か刺激になるといいなというふうに思っております。

〔O H P〕

 まず私は、21世紀の近代文明社会は、一言で言えば情報文明社会と呼ぶことができるのではないかと考えているのですけれども、そういうふうに考える理由として3つのことを挙げてみたいと思います。その第1は、いわゆる近代文明はまだ終わらないと考えてみたいということです。近代は終わったとか、ポストモダンだという議論が日本だけでなく世界中でしきりにありましたけれども、気がついてみるとどうもそうではない。進歩とか発展はまだなくなったわけじゃと思います。むしろ言ってみるならば、近代社会そのものが成熟し高度化して、いわばハイパー近代社会とでも言うべき時期をこれから迎えようとしているのではないか。

 その具体的内容はと考えてみますと、近代社会そのものの進化の局面において、3番目の局面が始まると考えることはできないか。つまり、それが情報化という局面ですけれども、かつて近代社会は、最初、軍事化という局面、続いて産業化という局面を経て、今、第3の情報化という局面に向かいつつある。しかしながら、同時に第2の局面である産業化そのものもまだ終わっていない。終わっていないどころか、新たな発展を現在遂げつつある真っ最中であります。言いかえれば情報産業革命、あるいは第3次産業革命と呼ぶことのできるような変化が、近代の第2の局面である産業文明の中で激しく進行している。そして、それと重なる形で第3の進化の局面が始まっているということであります。

 それでは、今、文明という言葉を使いましたけれども、文明とは何だろう、あるいは文明という言葉と文化という言葉もよく使われるんですけれども、その2つはどう違うのか。これは議論をすれば切りのない話でありますけれども、とりあえず私は皆様に生物との比喩、アナロジーを使って考えてみるのはどうかということを申し上げてみたいのです。

 生物の体、生体は細胞という要素から構成されていて、そして生体は遺伝子型という遺伝的な情報を持っております。DNAの中にあるんですね。そして、その遺伝子が生きていくためのいわば乗り物としてこの私たちの体がございます。それを生物学者は表現型、フェノタイプと呼んでおります。それと全く同じような考え方を社会に適用してみるとどういうことになるか。そうすると、社会は、生物でいえば細胞に当たるような要素単位として、仮に「主体」という言葉を使っておきます。主体は個人であってもいい、グループ、組織であってもいいのですが、それ自身が情報をとったり出したり、あるいはさまざまな物理的な行為を営んだりすることのできるような存在が単位になっていて、そして生き物でいえば遺伝子に当たるような、世代から世代へと受け継がれていくある基本的な情報のパターンがあるが、これを文化と呼んではどうか。そして、その文化が生存するための乗り物に当たるものが文明であるという考え方を採用してみる。そうしますと、文明とは、いわば人間が意識的につくり上げる文物の体系であるという言い方ができるのではないか。具体的には私たちが生み出す思想とか科学、技術、制度、あるいは都市、その中の建造物、さらにさまざまな個別的な財やサービス、これはすべて文明であると言うことができます。

 この文明が何を生かしているかというと文化を生かしている。その文化とは私たちがいわば無意識的に受け継ぐ何物かでありまして、基本的にはそれは文明そのものの構築原理にもなっている。もっと平たい言葉で言うと、私たちの物の見方、考え方とか世界観、価値観という言葉で呼ばれてきたような、しかし、ほとんど無意識のうちに親や友人と生活をする中で身につけていき、またそれを後世に伝えていく何物か、これが文化であるといったように考えてみたいと思うわけであります。

 そうしますと、まず文明について、非常に乱暴でありますけれども、ここで2つの基準を考えて分類をしてみたい。2つの基準と申しますのは、その1つは文明の基盤をなしている文化そのものの特性について。つまり、どんな物の見方、考え方、あるいは価値観を持っているかということを基準にして文明を分ける、これが1つであります。もう1つは、外の世界とのいろんな相互作用の技術についてどのような発達の段階にあるのかということを基準にして分けていく、こういった考え方。これはある意味で大変単純素朴な考え方であって、もっと複雑な考え方はいろいろとれると思いますけれども、とりあえず単純に考えてみます。

 そして、文化の特性としては、これも一番単純にいえば2つに分けるというのが簡単なやり方ですから、2つに分けてみるならば、1つのタイプの文化は未来に対して高い価値を置く。我々は、過去は貧しいとか暗い、そして未来は豊かで明るい、そういう未来に向かって日々発展を続けていく、また続けていくことができると考えるタイプの文明。企業でいうならば創業型の文明と言った方がいいかもしれません。それに対して逆の極端は過去に準拠する。黄金時代はすべて過去にあったのである、時間がたつとともに我々は衰退し、そして滅びに向かっていくだけである、世の中に新しいものなんて何一つないのだ、すべて昔あったことが起こっているだけである。ですから、私たちにできることは、少しでも長く生き延びる、存続するということが大切である。進歩や発展なんていうものはあり得ない、こう考える文明であります。いわば守勢型の文明、こう言ってもいい。これは大変乱暴な区別でありますけれども、大きく見てそういう特性の分け方はある程度妥当するのではないかというふうに私は思います。

 技術の段階は、これはもう多くの人が指摘しているところでありますけれども、最初は狩猟、採集の技術を人間は獲得した。続いて農耕、牧畜の技術を獲得した。それから、ここが私流といえば私流でありますけれども、軍事、産業、および情報処理の技術が第3の技術の段階としてある。トフラーさんは情報技術をくくり出して農業と産業の次に置きますけれども、私は、あえて今日の情報技術はまだそこまではいっていない、近代のこれまでの軍事技術や産業技術に並ぶ第3のタイプの技術なんだという考え方をとってみたいと思います。

 そういう見方をもとにして文明を分けてみますと、今の未来準拠型、発展指向型の文明は、この絵(OHP)でいうと右上がりの線で示される。しかし、未来永劫発展を続けるわけにはいきませんから、どこかで成長の限界に達して頭を打ち、衰退をするというのが実際の姿でしょう。そして、技術の段階とかかわらせて考えるならば、3つほどの文明の段階が区別できる。仮に始代、古代、近代と呼んでおります。それから、同じように過去準拠型あるいは存続指向型の文明も考えられますけれども、過去準拠型、存続指向型の文明にはいわば技術の段階を自力で突破する力はない。したがって、技術の段階の画期をあらわす線を切っておりません。発展指向型は下から切って、いわば技術的な革命を実現してどんどん発展していくことができる。しかし、存続指向型の文明は、過去のそういう発展指向型の文明を生み出した知識を体系化し、統合して1つの壮大な知の体系に仕上げるけれども、新しい技術の発展についてはむしろ抑制する、そして存続を指向するというように思われます。

 今日の世界、20世紀の世界で私どもの身の回りを見渡したときに見えてくる主要な文明は、恐らくそのひとつが言うまでもありません近代文明、そろそろ成長の限界に近づこうとしている近代文明でありますが、同時にその1つ前のいわば自力では産業化あるいは軍事化を達成できなかった文明、宗教文明と仮に呼んでおきたいと思いますけれども、そういう文明も依然として存在しているというか、現在の地球上の人口の比率でいうと、はるかに多くの部分はまだ宗教文明の世界の中に生きていると思います。

 そして、宗教文明のひとつ前は、例えば日本でいうと縄文時代の文明のような、いわば呪術、アニミズムで統合を行っていた文明があるでしょう。それから、かなり先の未来を考えますと、恐らく今日の近代文明がいよいよ成長の限界に達して衰退していく中で新しい知識体系の統合が行われて次の文明(私流にいえば智識文明)が出てくるだろうというふうに予想されます。しかし、それはきょう私が申し上げる情報文明ではなく、きょうのテーマである情報文明は、私はむしろ近代文明の一部というふうにとらえてみたいと思います。

さて、そのような考え方をしたときに、これまで日本の中で出されてきた有力な文明についての見方が幾つかございますけれども、その1つは言うまでもありません、梅棹忠夫先生が今から40年ほど前に出された「文明の生態史観」という考え方であります。私どもも非常に大きな刺激を梅棹先生の考え方から受けたんですけれども、梅棹先生のモデルは、言ってみれば、私が宗教文明及び近代文明と呼んだ2つの文明を、ユーラシア大陸について眺めてみようとしたモデルであります。

 これ(OHP)はユーラシア大陸の非常に単純化された図式です。東北から西南にかけて真ん中に大乾燥地帯が通っている。この周辺に主要な4つの宗教文明が誕生した。1つがシナ文明。シナ文明というのは儒教あるいは道教に至った文明。それからインド、バラモン教からヒンズー教を生み出した文明、そしてアラブ、ペルシャのイスラム文明、それからスラブのいわゆるギリシャ正教、このような文明があって、その周辺に近代文明が生まれた。西欧と日本がそれぞれほぼ同じ時期に梅棹先生の見方でいうと近代化を開始した。今から数百年、いやもっと前ですね。そして、並行的に発展をしてきている。お互いは違う点もあるけれども、お互いの文明には似ている点が非常に多いのである。そして、そのまた周辺に東欧とか東南アジアがあって、近代化の後を追っかける。これが60年代に改訂された梅棹モデルの改訂版であります。

近代文明と宗教文明は、そういうわけでそれぞれ幾つかの枝に分かれています。近代文明は少なくとも3つの大きな枝を持っている。西太平洋、いわゆるアジア、東アジア、東南アジアと言ってもいいんですけれども、その枝、つまり日本はその1つですね。それから、東大西洋あるいは西欧と言ってもいいんですけれども、この2つの枝が主要ですが、それ以外、梅棹モデルには入っていなかったんですけれども、新大陸、アメリカ新大陸にも近代文明は出現し、発展してきている。大きく見てこの3つが今日の近代文明の3大分肢であると言うことができるでしょう。宗教文明については、先ほど4つの枝を梅棹モデルに従って示したわけであります。

最近のおもしろい考え方として、早稲田大学から京都の日文研にいらっしゃった川勝平太さん、それから現在、東京大学の東洋文化研究所長の原洋之介さん、こういう方々が出されている海洋文明史観とでも言うべき考え方があります。この絵は、しかし、川勝さんや原さんの本に出ている絵じゃなくて、私がお2人の話を伺って勝手に単純化して描いた絵でございますけれども、川勝さんや原さんの目からすると、梅棹先生の言うユーラシア大陸は、いわば上の楕円の部分で、ここに4つの大きな宗教文明がある。これは同じですけれども、しかし、このお2人が着目したのは、むしろ南アジアの海の交易圏であります。ここは文明的にいうと何であるかというと、イスラムが進出してきてつくった文明圏であって、いわば「イスラムの海」と言うことができる。

 しかし、イスラムの人々だけがいるのではなくて、インドから印僑、シナから華僑と呼ばれるような人もやってきてこの文明圏を構成しているんですけれども、この海洋文明史観のおもしろいところは、西欧、日本の近代文明は、それぞれその出現の初期の段階で海の交易圏と接触をするんですね。日本が倭寇、西欧人も船で乗り出してくるんですけれども、そこで交易を行います。しかし、そのうちに交易をやめて自分たちの領域に帰ってまいります。日本は鎖国をしました。そして、勤勉革命をなし遂げたというふうに考えるわけです。西欧も一たん自国というか自分の領域に帰って、産業革命をなし遂げた。これが近代文明の誕生であるという見方ですが、これも確かにおもしろい考え方であります。どちらの場合も宗教文明の大きな枝と、近代文明の大きな枝を相互に関連づけてとらえようとしているというところが共通の特徴だと言っていいでしょう。

そこで、近代文明でありますが、私は、近代文明そのものは、ここに書いてあるような3つの波が次から次へとやってくるような形で進化をこれまで遂げてきたのではないかと考えたいと思います。少なくともそういう考え方をとってみると、進化の第3の局面に当たる近代情報文明の性格をある程度予言することができます。間違っているかもしれませんが、しかし、こういう比較という枠組みをとることによって、何かある言明が可能になります。その比較のもとになるのは過去の2つの***フェーズでありまして、第1は近代軍事文明、第2が近代産業文明であります。今日、近代情報文明がいよいよ立ち上がりの時期を迎えている。もちろん軍事技術、産業技術、情報技術はそれぞれ非常に古くから、近代化の初期からありましたけれども、革命という言葉で呼ぶのがふさわしいような急激な発展はそれぞれある時期に限定されている。軍事でいいますと15、16世紀、産業は19世紀から20世紀、そして情報文明は20世紀から21世紀にかけて技術的な大革命が起こるというように考えられます。

そこで、それぞれの局面の特徴を簡単に見てみます。それをもとにして近代情報文明の特徴を引き出したいわけです。まず最初の近代軍事文明でございますけれども、近代軍事文明はいわゆる封建化、つまりいろいろな地域で独立して、ローマ帝国とかローマ教会の、あるいは日本でいえば古代律令国家の支配を逃れて、自分たちが絶対的な権力を振るえる領域をつくり、国をつくるというプロセス、これが封建化でありますけれども、この封建化が進む中で軍事革命、あるいは軍事的なエンパワーメントと言ってもいい、力の増大が起こりました。そして、そこから主権、つまりその領域の中の領民に対して統治の権利を主張し、また外に対してはすべて自分と対等の関係、少なくとも自分より上に立つ者は認めない、こういう主権を主張する国家が出現します。近代国家が主張するこの種の権利は「公権」と言ってもいいですけれども、その主権国家の中に国民が誕生し、進化をしてまいります。そして、主権国家は国際社会という広域的な分散システムをつくります。その中で国家が何を行ったかというと、国威の増進・発揚競争、軍国主義と言ってもよろしいのですけれども、戦争と外交のゲームであります。そして国家間の序列を競う、こういうことをやってまいりました。

 この国際社会は、別の言葉で言いますと地政学的空間とも申します。近代社会は地政学的な空間を発見した。そこで戦争や外交を行うわけですけれども、そしてこの空間を自分たちの支配下にある人々で埋め尽くそうとした。とりわけ植民を行おうとしたということであります。そして、この空間のガバナンスの原理としては、全体としての国際社会は分散システムです。つまり、それぞれ国家が対等な形で戦争や外交をするんですけれども、国の中はというと集権的な解決。つまり、武器は国が独占する、しかし、そのかわりに国家は民主主義(主権在民)を認める、こういった関係にあるでしょう。しかし、これだけでは足りない。後で人権という観念が主権に対置されるようになりますが、きょうは時間がありませんのでその話は省略いたします。

 第2の波は近代産業文明ですけれども、これはヨーロッパでいえば12世紀ごろから、日本でも13、14世紀ごろから始まった商業化の過程がずっと広がっていく中で、ある時期、ヨーロッパでいえば18世紀の終わり、日本でいえば19世紀の半ばから後半にかけて今度は経済的な力の増進、経済的なエンパワーメントが起こります。それが産業化と呼ばれている過程にほかならない。この産業化を担ったのが産業企業と呼ばれる新しい集団、新しい組織です。そして、その企業のメンバーである市民という新しいタイプの人々、新しいタイプの意識や行動様式の持ち主である人々・・これが市民でありますけれども・・が出てまいります。こういう人々は世界市場という大きな分散システムの中でお互いに活動いたしますが、その分散システムの中で行われる活動とは、言いかえれば資本主義であります。富を蓄積し、誇示することを競争する、こういう仕組みが19世紀に広くつくられました。この仕組みの基本になった権利の観念が私有財産権と呼ばれているものでありまして、言いかえれば「私権」ですね。だれでも財産を持つことができ、またその財産を使って企業を起こし、富を蓄積し、誇示することができる。それが世界市場の中で行われる。

そのような世界市場は、別の見方をしますと工学的空間と言うことができます。工学技術をもって生産や販売を行うわけですね。そして、私たちは、この工学技術が支配する空間の中にさまざまな人工物をつくり出し、工学的な空間を人工物で満たそうとしてまいりました。現に今日の都市はその典型でありまして、私たちの身の回りには人工の加わっていない自然というものはほとんどないわけですね。そういうことで、近代社会のいわば第2の局面がつくられました。

 ここでは、やはり大きくは分権的な解決が試みられております。つまり、自由市場の中でだれでも自由に企業を起こし、あるいは人を雇い入れ、自分の財産を使ってよろしい。しかし、独占は認めない。あるいは一方的に勝ち過ぎるのはよろしくない。そうすると富や所得の再分配を行う、こういうシステム。しかし、この分権的、分散的なシステムの単位であるところの企業は、これまでのところ、その中では集権システムであります。きちんと統治と命令の体系が企業の内部ではでき上がっております。これでいいかと思っていたら、しかし、やはり欠けていたところがあって、近年、環境問題が見過ごされていたということで、私有財産権を制約する環境保全という考え方が追加されてきておりますが、ともかくこれが産業社会であります。そして、近代文明が産業化に進む過程で、それまであった近代主権国家は変質を遂げました。近代産業国家とでも呼ばれるものに変わってまいります。

こういった考え方を前提にしまして、じゃ、次に3番目があるとしたらどうなるのかということを想像してみますと、こんなことが言えるのではないか思います。すなわち近代化の第3の局面である近代情報文明は、まずその文明を支える基本的な権利の観念としては、いわゆる公権である国家主権と私権である私有財産権に対して3番目の権利を対置させ、主張するのではないか。それは言ってみれば公と私の中間にあるものですから、「共権」と呼ぶことができるでしょう。あるいは、私はそれを集団のグループの情報権という言葉で呼ぶことができるのではないかと考えておりますが、ともあれこういう新しい権利の観念が確かに近年いろいろと主張されてきております。情報や知識は所有権の対象でもあり得るし、また国の安全といったような観点から主権の統治下に置かれるような何物かでもあるんですけれども、同時にグループの情報権の対象にもなるものである。情報権の対象としての情報は自由にコピーしてよろしい。いろんな言い方ができるんですが、私有財産とは違ったものになっていきます。

こういった情報化のそもそもの初めは、例えばケネス・ボールディングのような人は、6世紀のヨーロッパのベネディクト派修道院の成立などが最初だった。つまり、知識や情報の処理を業とする人々があらわれたのが最初なんだと言っておりますけれども、そこまでさかのぼらなくても、例えば12世紀のルネッサンスといったような時期を、近代情報文明のそもそもの出発点であると考えることができるかもしれません。

しかしながら、情報文明を大きく発展させるきっかけとなるいわば情報技術の革命的な発展は、ほんのこの二、三十年のことであります。軍事技術が戦争の技術であり、産業技術が生産の技術である、あるいは広く見ても生産と販売のための技術であるとするならば、情報技術とは一体何のための技術であるか。考えてみますと、もちろん情報技術を軍事に転用できないわけはないし、産業に転用できないわけはありません。しかし、第一義的には情報技術というものはいわば人々のコミュニケーションやコラボレーション、交流や協働を支援するための技術であるはずです。

そのことをもうちょっと別の観点から考えてみますと、情報化に伴って、これまでの国家や企業とは異質の集団が当然台頭してくるはずであります。普通の言葉で申しますとNPOとかNGOと呼ばれている集団であります。つまり、非営利企業、非政府組織、NPO、NGOはそういうふうな意味ですね。ところが、非政府組織、NGOと言っただけでは、それが何であるのかはまだよくわかりません。あるいは非営利企業、NPOと言っただけでは、じゃ、積極的に何であるのかがよくわかりません。積極的に言うならば、それは情報智業とでも呼ぶことがふさわしい組織ではなかろうか。そして、情報智業のメンバーとしての人々は、国家の国民や企業の市民であることに加えて、新しい意識や行動様式を持つようになる「智民」であります。つまり、情報や知識が非常に価値のあるもの、有用なものだということを認識して、積極的に情報や知識を集めるようになる、つくり出すようになる。さらに、お互いの間で通有する、シェアをするようになる、コミュニケーションを通じてシェアをすることを考える。さらに、コミュニケーションだけでは物足りない、コラボレーション、協働して自分たちが望ましいと考える目標を自力で実現しようとする。そのためのオーガナイザーになるのが情報智業であるというふうに考えてみたいと思います。

そして、智業が、あるいは智民が活躍する場所は、これまでの国際社会や世界市場とはやはり異質の空間である。言ってみれば地球智場とでも呼ぶことのできるような空間。具体的には何かと言われると、例えばインターネットを考えてください、こう言いたいわけでございますけれども、ともあれ地球智場という場で活躍するようになるだろう。何を目指して活躍するかというと、いわば智本主義といいましょうか、智の獲得・発揮の競争。智というのは、それを持っていれば、それ以外の個別的な知識を生み出すことができる、あるいは個別的な知識を得ることができる一般的、普遍的な知識であります。それはちょうど富とは何かと聞かれると、富を持っていれば、それと交換に個別的、具体的な財やサービスは何でも手に入れることができる、そういう一般的な価値です。これが富であります。あるいは国威とは何かというと、それを持っていれば、実際に戦争や外交といった形のいろいろ手練手管を弄さなくても、相手は自分の威に懾伏してくれるといったような力であります。それと似たような意味で一般的な智の力というものは考えられるんですけれども、これを獲得し発揮しようとする競争を智本主義と呼ぶなら、この智本主義がこれから21世紀にかけての情報文明の中核となる大きな活動ではあるまいか、こう思うわけであります。

そして、その場である地球智場は、別の言い方をしますと智的空間、あるいは英語で言うとサイバースペースと名づけることができるように思われます。これは物理的な3次元の空間の域を超えた新しい空間です。かつての地政学的空間は2次元の表面、地球上の海とか大陸の上が念頭にあったわけです。そして、大陸国家と海洋国家が対峙するといったような図式がかかれていた。それから、産業社会の工学的空間は3次元の空間ですね。空中でも地中、海中にも潜っていくことができる。空を飛ぶことができる。それから、時間的には24時間を通じて人工で照明する、あるいは四季の別を問わず空調でもって快適な環境をつくり出す、これが工学的空間でしたけれども、基本的にその領域は3次元の物理的な空間に限られている。恐らくこの次の知的空間はその次元を超えてしまう。そして、人々は地政学的空間をみずからの領民や植民で満たし、工学的な空間を人工物で満たそうとしたのと似たような意味で、この知的空間を人間がつくり出す新しい何物かで満たすことを考えると思います。

いい言葉がないのでバーチャルという言葉とアーティファクツという言葉をくっつけた、これはほとんどごろ合わせにすぎませんけれども、バーティファクツという言葉を勝手につくってここ(OHP)に書いてみましたけれども、バーティファクツの中身はいわゆるバーチャルリアリティーと呼ばれているもの。これは工学的空間における一般的な財やサービスに当たります。人間の脳神経にとってみると、物理的な存在よりもはるかに強いリアリティーを持って訴えかけてくるもの、目で見ることができる、手でさわることができる、においをかぐことができる、音を聴くことができる。しかし、物理的な存在ではない。しかし、もっと物理的存在以上にリアルに見えるもの、こういうものが今後私たちの周辺を無数に取り巻くに違いありません。

 もう1つは、バーチャルライフと仮に呼んでみますけれども、産業社会でいえば機械に当たるようなものであります。つまり、人間の要求にこたえて、人間の必要とする情報的な仕事をかわりに遂行してくれるもの。これは最近の言葉ではエージェントというふうに言う場合もありますけれども、何か必要な情報を探してこいといえば探してくる、何か買ってこいと言えば取引をしてくる、エトセトラ、こういう仕事をしてくれるネットワークの上に動くソフトウエア、情報的機械でありますが、そういうバーチャルリアリティーとバーチャルライフがバーティファクツを構成し、これでもって智的空間が埋め尽くされるようになると思われます。

この智的空間に広がる地球智場は、別の見方をしますと超分散的なシステムであります。超分散的なシステムとは何であるかといいますと、まず軍事社会においては、先ほど申しましたように国家が自由に戦争したり外交したりするようになったわけですけれども、国民はそのメンバーとして、そういう国家の活動に普遍的に広く参加するようになりました。言いかえれば国民皆兵、みんなが兵士になって国の栄光のために戦い、また命をささげるというのが理想的な状態でありました。それ以前の戦争は、武士とか軍人貴族、あるいは傭兵という一部の人、特権的な人々の仕事だったんですね。ところが、近代国家では、戦争は、あるいは統治、外交も含めてですけれども、国民の仕事になりました。同じような意味で産業社会では物を生産したり販売したりする仕事が一般の人々、学校を出ていないと困るでしょうけれども、会社に入って会社員になっていろんな物をつくったり売ったりするようになるわけですね。それ以前の社会でいいますと、生産や販売は特権を持った商人とか、ギルドのメンバーであるマスターとか職人、あるいはその徒弟、こういう人々に限られていた。しかし、産業社会ではだれでも参加することができるようになります。

それと同じような意味で、情報文明に立脚する情報社会においては、これまでは一部の人の特権に左右されていた情報や知識の生産や流通、あるいは創造や普及が一般の人々、ここで言う一般の智民によって行われるようになる。もちろんその中から新しいプロフェッショナルがいずれは出てくると思います。新しい編集者、新しい芸術家、新しいスポーツマン、新しい学者、技術者が出てくるに違いありませんが、しかし、その人たちはこれまでのタイプのスポーツマンや技術者や学者とは一味違ったものになるかもしれません。とりあえずは、今起こっているのは、非常に多数のこれまではいわばまともな知識人とは考えられていなかったような人がどんどん作品をつくるようになったり、それを発表したり放送したりするようになったりするという現象が見られるわけです。

 インターネットというのはまさにそういった情報に満ち満ちている世界でありまして、当然のことですが、非常に多くの部分は質が低い、あるいはいかがわしい、特に古い基準を当てはめて考えると、そんなものは知識とも言えないといったようなものばかりでしょう。ちょうど産業社会の初期につくり出された工業製品は、それまでの職人さんの精緻な仕事に比べてまことに仕上がりも悪いし品質も悪い、値段は安いかもしれないが、ある意味ではどうしようもないものですね。あるいは初期の国民軍は、農民の烏合の衆であると言ってばかにされた。でも、そのうちに強くなります。工業製品もそのうちによくなってまいります。そして、独自の標準を持ち、価値の体系を持つようになりました。同じような意味で、知識や情報についてもいずれは新しい標準ができ、そして新しいプロフェッショナル、また、そのプロフェッショナルを養成し訓練するような仕組みも生まれるでしょう。しかし、それはこれまでのようなある種の集中的なシステムではなくて、分散的な智のシステムになると思われます。

マイケル・ギボンズという人が情報の生産様式(モード)という考え方を出して、モード1からモード2へ今移行しつつあると言っておりますが、ここでモード2とは、まさにそういういわば超分散システムの中で情報や知識が生み出され、シェアされるということであります。

しかし、それで喜んでばかりいるわけにはいかない。情報や知識が中心になる社会は、下手をすると人間の肉体、身体を忘れた社会になるかもしれない。あるいは、バーチャルな世界、バーチャルな空間、バーチャルなコミュニティができたと喜んでいると、具体的な地域や、その中のコミュニティを忘れてしまうかもしれない。こういうものはやはりきちんと保全されなければならない。そういう考え方が恐らく出てくるだろうと思いますが、とりあえず私たちは智の分散システムをどのようにつくっていくのか、それからその中での一種の自由、あるいは独占の禁止といったようなルールをどういうふうに定めていくのか。また、さらに申しますと、これまでの国家主権や私有財産権に対して集団情報権をどのように確立し、また、どのように調整していくのかという大きな問題があります。

一例を挙げますと、暗号化1つをとっても、国家主権の立場から暗号をコントロールする、あるいは知的な財産権という立場から暗号をコントロールすることと、そして集団情報権の立場から暗号をつくって利用するということは明らかに違います。それぞれに大切な側面があるので、何らかの意味での調整が必要でありまして、そのためのルールをつくらなければなりませんが、容易なことではありません。ともあれ、その過程でこれまでの国家はさらに変質していくと思われます。つまり、軍事国家が産業国家になったわけですが、今度は情報国家とでも呼ぶことがふさわしいような国家に変わっていくに違いありません。

 同じように、近代の産業企業は、21世紀には情報企業とでも呼ぶことが適切なような、これまでの企業とは経営のあり方においても理念においても変わってくる、そういうことが考えられますが、極端な方々は、情報社会ではもう国家は要らなくなるとか企業は要らなくなる、そういうふうにおっしゃる方もおられますけれども、恐らくそうではないだろう。むしろ国家や企業は変質しながら、私の言葉で言えば、智業と協働してコラボレーションをしていくということが基本だろうと思います。情報文明のもとでの大原則は、産業社会における、産業文明における競争ではなくて協働、コラボレーションになる。あるいは、軍事社会における対立、闘争ではなくてコラボレーション、協働になる、こういうふうに申し上げてみたいと思います。

時間がございませんので情報権については説明を省略します。

そういうわけで、私は、近代文明は決してまだ終わっていない、むしろ近代文明の理念がさらに進化をするんだということを申し上げ、またもう一度強調したいと思います。近代文明を支える3つの基本的な文化、つまり価値観としては、自由主義と進歩主義と手段主義を挙げることができます。自由主義とは私たち人間の思想や行為の自由を積極的に容認する立場であります。しかし、無制限に容認してよいのかというのが、多分、情報文明に突きつけられた問いだろうと思いますね。それから、進歩主義とは、進歩の可能性を承認する立場ですけれども、しかし、常に何についても進歩が起こるのかというと、そんなことはない。過ちは人の常であるということを承認しなければならない。その上で進歩の可能性を改めて考え直すということが今日の近代情報文明にやはり突きつけられた問いである。また3番目の手段主義。手段主義とは、一言で言えば自由が進歩を生むという信念でありましたけれども、しかし、それだけでいいのか、大切なのは手段よりも目標ではないか。目標としては何が本当に価値があるのかということを私どもは改めて考えてみなければならない。こういうことを考える中で、次第に近代社会、近代文明は情報文明に進化をしていく。

 そして、これまでの急進的な進歩主義は、言ってみれば、しなやかな進歩主義というふうなものに変わっていくでしょう。このような変化はもう既に起こっておりますけれども、デカルト・ニュートン的な世界観、自然観から、量子論的な世界観、自然観に変わっていく。最近はエーテル的な世界観、自然観もあるんだというような議論も出てきているようでありますけれども、ともあれ新しい、しかし、基本的には近代的という形容詞をまだつけていてよいような世界観。社会学的にいいますと、個人主義から、言ってみれば間柄主義というようなものになる。そして、これからの国家や企業は、市場や国際社会ではなくて智場をプラットフォームとして、智場での人々の情報の普及あるいは通有、また智場における、これは取引とか脅迫ではなくて説得でありますけれども、説得をモデルにして国家や企業の活動もまた行われるようになる。その中では、先ほど申しましたように、競争から協働へという原理が中核に置かれるようになるでしょう。

そして、最後にそういう情報文明社会においては、これまでの近代社会、とりわけ近代の産業社会で考えられてきた世界秩序の理念への追加が行われるようになると想像されます。これまでの産業社会、特に20世紀のパックスアメリカーナのもとでつくられていた世界秩序は、政治秩序と経済秩序という2つの側面を持っていました。政治秩序が理想としたことは平和であります。我々は平和を達成しなければならない。何によって平和を達成するかというと、民主主義によって達成するのであるというのがアメリカのイデオロギーであります。それから、経済についてはどうか。理想は繁栄の達成であります。何によって繁栄を達成するのか。それは競争的な経済、あるいは自由な経済によって達成できる。これもアメリカのイデオロギーですが、20世紀の経験を通じて、基本的にこのイデオロギーは正しいとか、少なくとも21世紀にも及ぼして過ちはないようであるという見方が、今日では普及しつつあると言っていいでしょう。つまり、ピース・アンド・プロスペリティーをデモクラシーとコンペティションによって達成するということです。

でも、それだけでは足りない。私たちはそこに第3の秩序、情報秩序とでも言うべきものを、あるいは知識秩序と言った方がいいかもしれませんが、つけ加える必要があって、その目標は何かというと、共愉と仮に呼んでおきますが、英語でいうと、アイバン・イリイチという人がコンビリアリティー