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公文レター No.32

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1999年09月10日

公文レター No.32

公文 俊平

はじめに

 今年の夏は異常でした。梅雨に入る前に真夏を思わせる猛暑の日々が続いたかと思えば、一転していつ梅雨が明けたかもはっきりしない冷夏となり、そして普通ならそろそろ秋風も立とうかというころになって、また猛暑がぶり返しています。その中で、GLOCOMでは、補正予算がらみの大きな協働研究・実証実験プロジェクトの話がいくつも舞い込んできて、研究員たちは、申請書類作りやコンソーシアムの結成などに、夏休み返上でがんばっています。

 私は、10月のGLOCOMフォーラムのための取材の意味もかねて、9月には4年ぶりにアメリカの各地を3週間ほど回ってくることにしました。情報通信革命の「ツナミ」に襲われているアメリカの姿を、つぶさに見てきたいものだと考えています。その準備に加えて、この月末には引越しの予定があり、大忙しです。

 そこで、今月の公文レターは、夏休み中に書いた論文(計画行政学会誌に掲載予定のものです)を転載させていただくことで、お許し願いたいと思います。7月の公文レターでは、NTT関東の法人営業本部(当時)のイントラネットと個人ホームページの例をあげながら、職場での個人の新しいあり方と、そこでの知の分散システムの形について考えてみました。今回のこの論文では、それぞれのテーマをさらに発展させた上で、より広域的な知の分散システムの中核単位として、地域コミュニティのネットワーク(CAN)を考えるという方向での展開を試みてみました。個人のモデルも、前回よりはもう少し洗練された(?)形になっています。ご高評をいただければ幸いです。

1998年8月

知の分散システムとCAN

近代化の第三局面としての情報化と知の分散システム

私はかねがね、情報社会は、軍事社会から産業社会を経て進化してきた近代社会の第三の進化局面にあたると考えている(公文(94))。

 軍事社会では、「国民」(ないし臣民・公民)をそのメンバーとする「近代主権国家」が中核的主体として台頭して、分散的な広域社会システムである「国際社会」を場として、戦争と外交による「威のゲーム」、つまり国威(一般的脅迫・強制力)の増進・発揚競争を行うようになった。

 産業社会では、「市民」(ないし社員・従業員)をそのメンバーとする「近代産業企業」が中核的主体として台頭して、分散的な広域社会システムである「世界市場」を場として、商品(販売を前提に生産される財・サービス)の生産と販売による「富のゲーム」、つまり富(一般的取引・搾取力)の蓄積・誇示競争を行うようになった。

 同様に、これから本格的に出現する情報社会では、「智民」(ないしボランティア)をそのメンバーとする「近代情報智業」(ないしNGO-NPO)が中核的主体として台頭し、分散的な広域社会システムである「地球智場」を場として、通識(普及を前提に創造される知識・情報)の創造と通有による「智のゲーム」、つまり智(一般的説得・誘導力)の獲得・発揮競争を行うようになるだろう。

 しかしそのことは、情報社会になるとこれまでの中核的主体だった国家や企業が消滅することを意味しない。国家や企業は、変質・変貌をとげつつも、未来の情報社会の重要な構成要素として残りつづけるだろう。現に、産業化に伴って、国家は「産業国家」に変貌して、その活動の少なからぬ部分を市場をプラットフォームとして行うようになった。同様に、情報化に伴って、国家は「情報国家」に、企業は「情報企業」(ないし「知識創造企業」i)に変貌して、その活動の少なからぬ部分を智場(知己・信頼関係を基盤とする、相互の説得・誘導の場)をプラットフォームとして行うようになるだろう。その意味では具体的には今日のインターネットにその原型が見られるような地球智場を支える各種のインフラこそ、来るべき情報社会にとっての必須の社会的インフラとなるだろう。

 近代化の進展に伴って変質・変貌していくのは、中核的主体だけではない。そのメンバーたちもまた変質・変貌する。近代産業企業のメンバーとして台頭した市民は、「市民革命」を経て、国民と一体視されるようになった。同様に、未来の智民は、国家および企業との関係での「智民革命」とでも呼ぶべき政治的力関係の転換を契機として、従来の国民や市民と一体視されるようになっていくだろう。

 威のゲームや富のゲームのような近代社会の競争ゲームは、国際社会や世界市場のような、広域分散システムをその場として行われる。ゲームに参加するのは、主権国家や産業企業のような中核主体群だが、それらの中核主体のメンバーとなり、したがって間接的にゲームに参加する人々の範囲は、近代化の進展と共に広がっていく。軍事化の過程では、「国民皆兵」化が生じ、徴兵された青年男子からなる国民軍が誕生した。産業化の過程では、かつての職人や商人に代わって、女子をも含む一般市民が、企業の従業員として商品の生産・販売に従事するようになった。同様に、これまでのところは一部の知識人やマスメディアの手にゆだねられている情報や知識の創造や普及も、老若男女から身障者まで含む広範な一般智民が、智業のメンバーとしてそれにたずさわることになるだろう。

 これは、マイケル・ギボンズ(97)らのいう知識生産の「モード2」の出現に他ならない。同書の訳者解説に従えば、

かれらは、単に科学技術活動にとどまらず、社会的、文化的な局面を含めて、知識生産の方法の根本的な変化に現代社会は直面しているのだと考える。この変化は、知識生産の旧いモード(モード1)から新しいモード(モード2)への移行である。モード1では、研究活動は、各ディシプリンの内的論理によって進められる。たとえば、問題解決は、ディシプリンの内部の規約にしたがって進められ、研究成果の価値は、ディシプリンの知識体系の発展にいかに貢献しているかによって決まる。研究成果は、学術雑誌、学会などの制度化されたメディアを通じて普及する。人材養成は、各ディシプリンの中で行われる。したがって、教育訓練を受けていない外部の人間が入りこむことが困難である。一方、モード2では、問題解決には、単一のディシプリンだけでなく、多様なディシプリンからの参加が求められる。そこでは、ディシプリンを超越したトランスディシプリナリな問題解決の枠組が用意され、個別のディシプリンにはない独自の理論構造、研究方法、研究様式を構築する。研究成果は制度化されたメディアを通じて普及するのではなく、参加者たちのあいだで学習的に知識が普及する。参加者の範囲は広い。大学研究者のみならず、産業界、政府の専門家、さらには市民も、必要に応じて参加するし、参加する必然性がある。その結果、知識生産の拠点は分散する...。ii

ギボンズらのこのようなビジョンは、情報社会における「智場」のもつ特徴の一端を明確に捉えている。私はそれにさらに付け加えて、このような分散した知識生産の諸拠点は、たがいに結びついて知識の相互普及と通有のネットワークを形作るようになると主張したい。それぞれが一つの「智業」あるいはその支部からなる個々の知識生産拠点は、あるいは独自の判断で、あるいはネットワークの他の諸ノードと連携・協働して(一方では競争もして)、さまざまな知識の生産に携わり、その成果を(具体的には自分のホームページに掲載するといった形で)一般に公開し、通有に供する(つまり、リンクを張ることを許す)。個々の拠点はまた、適当な「エージェント」を利用して、各知識拠点に対して張られた「リンク」を経巡って、自分が関心を持つさまざまな情報を収集し分析する。意味のある成果が得られると、それはあらためて他の拠点との通有に供されるのである。もちろん、ここでいう拠点のすべてが、十分に発達した智業である必要はない。当面は、それらは学校や病院、自治体や企業、NGOやNPO、あるいは市民ないし智民の自主的なグループであってよい。ともあれここに浮かび上がってくる智場のイメージは、情報や知識の(さらには前述した「智」をも含めた)創造と普及・通有の(超)分散システムのイメージである。私はそれを、「知の(超)分散システム」という言葉で特徴づけておきたい。

個人の新しいモデル

 村上(97)によれば、社会の中での個人の、あるいは「自他分節」のイメージとしては、 “個人が最初に存在し、それがさまざまの問題について「限定的(スペシフィック)集団」を結成する” ことで、各種の「結社体(アソシエーション)」が成立しているというものが一般的だった。しかし、近代の「個人主義」によりふさわしい個人のイメージは、その逆に “さまざまの自他分節が先ず存在し、それらが個人においてのみ重複することによって、個人を自己とする結晶化が...成立すると考えることもできる” と村上は主張している。iii

第1図:社会内存在としての個人とその社会空間

 だが、いずれのアプローチをとるにせよ、その結果は、社会空間のこれ以上は分割できない最小単位として「個人」を考えることになるという点では同じことになる。たとえば、全体としての世界と、その中にある自分がその国民である国家、その従業員である(多国籍)企業、その一員である家族(その何人かは外国に暮らしていたり、外国籍をもっていたりする可能性がある)と、自分自身(個人)とが当人の意識にのぼっているような社会空間は、第1図のような形で描いてみることができるだろう。そこでは、個人は、その外部にある家族や企業、国家や世界との間に情報の受信や発信を行ったり、物理的な相互作用を営んだりする存在として意識されているといえよう。

第2図:各個人の情報空間

 しかし、ここで視点を変えて、このような個人の内部の「情報空間」に分け入ってみることを考えよう。それは、比喩的にいえば、前の第1図の個人を示す黒点の中を切り開いて全体を裏返しにしてみることだといってもいい。そうすれば、そこには当該個人の広大無辺といいたくなるほどの情報宇宙が広がっているというイメージが得られる。そのほとんどの部分はいわば無意識の領域に属していて、その自覚的な境界など描きようがない。しかし、当人にとって自覚された意識の領域は、ある限界をもっていると考えてみることができるだろう。その圧倒的に多くの部分は、いってみればその当人にとっての自分自身とのコミュニケーションの空間である。そしてそこに形成され固定(表現)される情報の一部が、家族との間に、あるいは職場で、互いに通有されている。そしてさらにそのごく一部だけが、国全体、あるいは世界全体に対して公開されているのである。

 ここで、半ば比喩的にウェブの「ホームページ」が、各人にとっての情報空間(情報作業空間とか、情報生活空間と呼んでもよいが)となっている状態を想像してみていただきたい。その圧倒的に大きな部分は、他人には公開されない私的な空間になっている。残りの一部は、所定のパスワードをもった人々(職場の同僚や家族のメンバー)だけが、そこに入ってきて情報を通有したり、情報にリンクを張りあったりすることが許されている空間である。さらにその残りのごく一部だけが、パスワードなしに誰でも自由に入ってきて、そこにある情報を取り出したり、リンクを張ったりすることのできる部分となっているのである。iv

 このような情報空間の姿は、たとえば第2図のように書き表してみることができるだろう。

新しいネットワーク・コミュニティ

 先に私は、来るべき情報社会の中核的主体は、一般的な説得・誘導力としての「智」の獲得と発揮をめざす「智業」だと述べた。しかし、一般には、1970年代以来無数といいたいほど多数出現してきている新しい組織体のことは、国家(政府)でも企業でもないという意味で、NGO(非政府組織)とかNPO(非営利組織)などと呼ばれていることが多い。これはもちろん、消極的な名称(~ではないという形での規定)にすぎない。もう少し積極的には、ボランティア・グループといういい方もある。しかし、考えてみれば、過去の主権国家にせよ産業企業にせよ、その当初は、これまでにはなかったような新しい種類のボランティア・グループとして台頭してきたのである。だから、ボランティア・グループという呼び方は、積極的な名称ではあっても、あまりにも一般的にすぎて内容が薄すぎるといわざるを得ない。それに対して、これらの新しい組織体のことを、近代化以前の伝統的な「コミュニティ」(地縁的な村落共同体や、血縁的な大家族あるいは宗族共同体)になぞらえて「(新)コミュニティ」と呼ぶ向きも多い。そして、その場合の新コミュニティとしては、地域を根拠とする「地域コミュニティ」あるいは「ネットワーク・コミュニティ」と、地域性を持たずに、サイバースペースの中にバーチャルに形成される「バーチャル・コミュニティ」などが念頭におかれがちである(Schuler (96)、Cohill(97)、ラインゴールド(94)などを参照)。

 私も、20世紀の産業社会のコミュニケーションのパラダイムが、電話や手紙に代表される「パーソナル・コミュニケーション」と、テレビや新聞に代表される「マス・コミュニケーション」を2本の柱とする「インディビデュアル・コミュニケーション」であったとすれば、21世紀の情報社会のコミュニケーションの新しいパラダイムは、インターネットを基盤とする情報通有型の「グループ・コミュニケーション」と、情報公開型の「パブリック・コミュニケーション」を二本の柱とする「コミュニティ・コミュニケーション」になると考えている(公文(96)、 p.34)こともあり、智業の組織としての形は、コミュニティ型のネットワーク組織vになるという見通しは、捨てがたいと思う。とりわけ、バーチャル・コミュニティに加入するためにも、リアルなゲートウェイからのアクセスが必要であり、また人々が脳だけで生きるわけにはいかない以上、リアルな空間での、とりわけ地理的に近接した領域内での、緊密なコミュニケーションやコラボレーションが必要不可欠であるとすれば、各個人の社会生活(第1図参照)の面でも、情報生活(第2図参照)の面でも、新しい「地域コミュニティ」の果たす役割は大きい。だとすれば、そのためにも「地域の情報化」が、情報社会の構築にとっての基本課題となることは疑いない。そこで、先の第1図および第2図に、地域コミュニティおよびバーチャル・コミュニティという二つのネットワーク・コミュニティを書き入れて図式化してみるならば、第3図および第4図が考えられよう。

第3図:新社会空間

第4図:新情報空間

地域情報化とCAN

 今では多くの人が首肯するように、20世紀産業社会の成熟段階(1925~1975年)のとりわけ後半において、日本は先発産業社会、とりわけアメリカへの追いつきに目覚しい成功を示し、一時はアメリカをリードしたかにさえみえた。しかし、そのときすでに時代は、産業化から情報化への(突破)局面に移っていたのである。日本社会が情報化一般に適合的であるかないかについては、さまざまな論議の余地があり、一概に不適合とは決めつけられない。むしろ長期安定的な相互の知己・信頼関係を基盤とするビジネス系列の構築の慣行などからみると、日本社会は智場をプラットフォームとする政治・経済システムの運営には、本来よく適しているといういい方も不可能ではなさそうだ。しかし、他人とは異なる独自の試みや、その結果としての失敗を許容する風土が日本に欠けていることは紛れもない事実であり、その意味では、日本社会は質的な「突破」には不向きなように思われる。そうだとすれば、日本としては他の社会に先んじた突破を図るよりは、一時の立ち遅れに甘んじ、成熟段階でのキャッチアップを改めてはかる戦略をとる方がよいだろう。いいかえれば今は、過去の負債を整理すると共に、将来の態勢挽回に備えて、新しい社会システムやそのインフラの着実な構築をめざすべき時期なのである。

 その鍵となるのが、なによりもまず、全国各地域に、情報化を推進力とする地域コミュニティを再建することである。つまり「(内発的な)地域情報化」を戦略課題とすることである。

 (内発的な)地域情報化には、三つのステップというか側面があるように思われる。

 その第一は、知識や情報の価値や有用性をしっかりと認識した上で、その獲得や利用の修練を積むことである。いいかえれば、地域の全員が「情報リテラシー」を身につけて活用することである。

 その第二は、なによりも地域コミュニティ内での(そしてひいては地域間での、あるいはバーチャルなコミュニティとの)活発なコミュニケーション(交流)を行って、地域コミュニティの内外に新しい人の環を広げ、各人の情報空間に蓄えられる情報や知識を豊かにしていくことである。

 その第三は、上の二つを前提に、地域コミュニティの内外での自発的・積極的なコラボレーション(協働)を行って、さまざまな社会的目標の実現をはかることである。いいかえれば政治、行政、経済、文化のあらゆる面での「地域おこし」をはかることである。

 現にたとえば富山県の山田村では、インターネットに熱心にアクセスして地域の情報をたえず把握していようとする80歳を越えた老人や、新しい人脈作りに成功して自分の住んでいる村の価値を改めて見なおすにいたった食料店主や、全国各地の企業やグループとの間に多種多様な協働事業を立ち上げている地域リーダーなどの中に、地域情報化のこれら三つの側面が体現されているのを目の当たりにすることができる。

 そうした事例を見るにつけても、地域の情報化を支える基盤は、新しい社会インフラ、とりわけ情報通信インフラにあることが痛感される。私どもviは、それを「CAN」と総称しているが、それには次の三つの構成要素が含まれる。vii

 その第一は、各地域のいたるところにLANを構築し、さらにLAN間を相互接続してそれらが互いに、また外部のインターネットにもアクセスできるようにする高速・高品質でしかも十分安価な情報通信ネットワーク(Community Access Networks)である。それは、インターネット・プロトコル(IP)に立脚した、収束型(つまり、それ一つで、データ通信だけでなく、これまでの電話や放送の機能もすべて兼ね備えた)のネットワーク(IPネットワーク)になるだろう。viii

 その第二は、コミュニティの全員が容易に、また安全確実に入手・利用できる各種の情報機器とアプリケーション(Community Appliances and Applications)である。現在のパソコンのハードやソフトに見られるように、高価で使いにくい上に、しかも頻繁にクラッシュするようなシステムでは、話にならない。いずれは、20世紀の市民たちのための「家電」や「乗用車」に匹敵する、21世紀の智民たちのための「情報家電」が日常的に利用可能になっていくだろう。そうした情報家電は、人々が身につける(ウェアラブル・コンピュータ)だけでなく、人々の生活環境のいたるところに埋め込まれて作動する(ユビキタス・コンピューティング)ようになるだろう。ix

その第三は、困ったときにはいつでも有料もしくは無料で支援サービスを提供してくれるサービスのネットワーク(Community Assistance Networks)である。20世紀の産業社会には町や村のいたるところにガソリンスタンドや家庭電気店ができたように、21世紀の情報社会にはコミュニティのいたるところに「ネットワーク屋」や「マルチメディア屋」が、恐らくはボランティア活動とビジネスおよび行政サービスを相互補完的に組み合わせた形で、できてくることが望まれる。

 私どもは、以上のような現状認識と問題意識を通有しつつ、CANの全国的な同時構築の動きを盛り上げるべく、昨年以来フォーラム(CANフォーラム)を組織して、情報交流と協働支援のための活動を開始している。x

参考文献

  • Cohill(97):Andrew Michael Cohill and Andrea L. Kavanaugh (eds), Community Networks : Lessons from Blacksburg, Virginia (Artech House Telecommunications Library, 1997)
  • ダートウゾス(97):マイケル・ダートウゾス著、伊豆原弓訳、『情報ビジネスの未来』(TBSブリタニカ、1997年)。
  • ギボンズ(97):マイケル・ギボンズ編著、小林信一監訳、『現代社会と知の創造――モード論とは何か――』(丸善ライブラリー、1997年)。
  • 公文(94):公文俊平、『情報文明論』(NTT出版、1994年)。
  • 公文(96):公文俊平(編著)、『ネティズンの時代』(NTT出版、1996年)。
  • 村上(97):村上泰亮、『村上泰亮著作集、第三巻』(中央公論社、1997年)。
  • 野中・竹内(96):野中郁次郎・竹内弘高著、梅本勝博訳、『知識創造企業』(東洋経済新報社、1996年)。
  • ラインゴールド(95):ハワード・ラインゴールド著、会津泉訳、『バーチャル・コミュニティ――コンピューター・ネットワーク』(三田出版会、1995年)。
  • Shuler(96):Douglas Shuler, New Community Networks : Wired for Change. (Addison-Wesley, 1996)
  1. これは野中・竹内(96)の用語である。
  2. ギボンズ(97)、pp. 5-6。
  3. 村上(97)、pp. 387-388。
  4. NTTの第二法人営業本部のイントラネットは、まさにこのような考え方を具体化したものである。そこでは、各人にノートパソコンが支給され、オフィスのいたるところに電源と情報コンセントがあって、どこからでもLANに接続できるようになっている。そして、各人が自分のホームページをもっていて、そこが各人の知的作業空間となっている。たとえば、日報はまずここに掲載され、日報を受け取る相手は、そこにリンクを張っているのである。各部局のホームページにはそれぞれ担当者の名前が明記されているが、そのことは同時に、各部局のホームページから担当者のホームページにリンクが張られていることを意味する。
  5. 社会システムとしてのネットワーク、とりわけ複合主体としての「ネットワーク組織」の定義については、公文(94)第七章を参照されたい。
  6. 後に述べるCANフォーラムのメンバーたち。
  7. ただし、場合によっては、地域コミュニティの情報通信インフラだけでなく、さきに地域情報化の三つのステップないし側面だと述べた情報化そのものの内容にあたる部分(Community Action Network)をも、CANのコンセプトに含めていうこともある。
  8. 今日の情報通信インフラは、質的な大転換の時代を迎えている。1997年の夏以来、米国政府は、パケット交換型でコネクションレス型のIPネットワークの構築を情報通信政策の再優先課題とするようになっている。それは最終的には、幹線の場合、電話回線用に発達してきたATMやSONETの技術や製品の使用をバイパスして、IPプロトコルのメッセージを波長多重分割技術を用いて直接光ファイバに流す形のものになりそうだ。またLANにおいてもATMLANではなしに、ギガビットLAN、あるいはテラビットLANをめざすものになるだろう。LAN間の接続や光ファイバ幹線へのアクセスには、当面は電話線や同軸ケーブルが光ファイバとならんで活用されるだろう。中期的には、広帯域無線によるアクセス網やLAN間接続網も追加されるだろう。こうして、テレコム産業は、長距離だけでなく市内も、競争体制に移行していくことが期待されている。旧い技術や人材や設備をかかえた既存の電話会社や放送会社は、このような大きな潮流(「ツナミ」と呼んでいる人さえいるが)の中で、新たに台頭してくる「新世代通信会社」と競争・協働しつつ、いかに適応と生き残りをはかるかが問われている。
  9. ダートウゾス(97)を参照。
  10. CANフォーラムの活動の模様については、www.can.or.jpを参照されたい。

公文レター No.32

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