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公文レター No.40

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1999年05月10日

公文レター No40

公文 俊平

後半は雨にたたられたりしてもう一つぱっとしなかったゴールデン・ウィークでしたが、いかがお過ごしになられましたか。私は結局どこにも出ずに、研究報告書書きに専念していました。その後、妻の実家の山形県鶴岡市にトンボ帰りして、私どもがそこに新築中の住宅の上棟式をしてきました。

 今頃何で鶴岡かと不思議にお思いかもしれませんが、実は私どもはずっと借家住まいをしてきまして、GLOCOMを退職したら田舎に小さな家でも建ててのんびり過ごしたいとかねがね考えていたのです。ところがそこに降ってわいたように(ということは本来ありえないはずなのですが、私の認識ではということです)2000年問題がやってくることに気がついたために、このさい思い切って予定を早めて一軒建てておこう、その方がいざというときの対策にもなるだろうと考えて、適当な候補地を探しました。しかしなかなかこれはという場所もみつからず困っていたのですが、ようやく今年の初めに、地価の安さと地理的条件に恵まれ、ある程度のコミュニティ(親戚)づきあいができるといった条件にかなうところを鶴岡に見つけて建築に踏み切ったという次第です。

 最初は井戸も掘ってと思ったのですが、近くに川もあり、それに鶴岡だと雪も多いので、2000年の初頭であればいざという場合には雪を融かして飲料水にすればいいと思い、ソーラー発電装置(ミサワホーム)をつけるだけにしました。このさい宅内に光ファイバ(住友3M-住友電設)を引いて、ホームLANを作ることも考えていますが、それを具体的にどんな形のものにしてどう利用するかはまだ手探り状態です。

 といった次第で、ここに若干の食糧や燃料、医薬品のたぐいをを備蓄しておき、今年の暮れにはとりあえずそこにこもって様子をみようかなどと思っているのですが、まさか本当に来年からそこに移住してしまわなければならなくなるといった状況は、少なくともすぐにはこないだろうと想像しています。一番いいのはそれがまったくの取り越し苦労に終わることですが、それはそれで早めに老後の準備ができたということで、無駄にはなるまいなどと、とつおいつ考えているところです。

 以上が私の個人的近況ですが、今月の公文レターは、インターネットの急速な商用化と普及の影響で、曲がり角に立たされたように見えるアメリカでのコミュニティ・ネットワーク運動の近況について、運動のリーダーの一人として知られるダグ・シューラーさんの所論をもとに、ご紹介してみたいと思います。実はこの6月に開かれるCANフォーラムの第三回総会には、このシューラーさんを招待して基調講演をお願いする計画を立てています。これからご紹介するコミュニティ・ネットワーク論に関心をお持ちの向きは、ぜひこの総会にもご出席ください。そこで直接シューラーさんと意見交換をお願いしたいと思います。

 本題に入りますが、社会運動としての「ネットワーキング」運動は、米国の場合、すでに1960年代の後半以来起こっていました。当時、既存の大組織や体制に対する反省や反逆の試みが広く見られた中で、新しいタイプの社会運動としての「ネットワーキング」も生まれてきたのです。このネットワーキング運動の最初の主唱者の一人、ヘイゼル・ヘンダーソンは、現代の社会が混乱を乗りこえて存続していくための “究極的な組織形態" として、 “参加型の、自由な発想にもとづく有機的でサイバネティックな形態" を考え、これを “ネットワーク" と呼びました。つまり、彼女のいうネットワークとは、「本部も指導者も命令系統もなく、自由な形式をもち、自己組織的であって、同じような世界観や価値観を通有している自律的で自己実現的な何百人もの個人からなりたっている」社会システムを指していたのです。また、1980年代に入ると、マリリン・ファーガソンが、「心の変革をなしとげた個人があちこちに生まれ、互いに知りあうことがなくとも目にみえない連帯となってひろがり、やがて世界全体を変革していく」ような “水瓶座族の共謀(the Aquarian Conspiracy)"についての詳しいレポートを書き、その神経系にあたるのがコミュニケーションで、その場となっているのがネットワークだと述べました。リプナックとスタンプスも、著者たちが “もう一つのアメリカ" と呼ぶような、従来の個人主義的なものとは異なる新しい価値観や心の状態と、それにもとづいて新しい世界を生みだそうとするネットワーキング運動についての大部のレポートを発表し、日本にも正村公宏さんらによって翻訳紹介されました。i

 1980年代の後半になると、パソコン通信が普及し始め(当時は電子掲示板、すなわち“BBS”と呼ばれていました)、最初はコンピュータを敵視していたネットワーキング運動家たちも、次第にその有用性に気づくようになり、80年代の終わりから90年代の初めにかけて、両者の多くは融合し、いわゆる「コミュニティ・ネットワーク」(あるいは市民ネットワーク)だけでも、数百のネットワークが全米に生まれました。これらのネットワークの普及に大きく貢献したのが、トム・グルンドナーがリーダーとなった「フリーネット」運動でした。グルンドナーは、BBSサーバー用のソフトを一つ1ドルという値段をつけて事実上無料で配布すると共に、それを使って運営するBBSの全国組織としてのNPTN:National Public Telecommunication Networkを結成しました。

 こうして1980年代の終わりには、NPTNの会員規模は40万人ほどになり、アメリカのコミュニティ・ネットワークは皆フリーネットだといえるような状況が出現していたのです。ii

以下、この運動のリーダーの一人であるダグ・シューラー iii のいくつかの論文 iv をもとに、米国のコミュニティ・ネットワーク運動の過去と現在を要約してみましょう。v

 1980年代後半から1990年代前半にかけての、コミュニティ・ネットワーク運動の(第一次?)最盛期には、人々は、新しい情報通信技術を使えば、みんながその気になってがんばりさえすれば、より公平で平等で愉しいコミュニティができるという期待に満ちていました。事実、コミュニティ・ネットワークは、地域の計算センターや教育訓練あるいは雇用促進センター、地域起こし運動、若者のカウンセリング、メール友達作りなど、コミュニティ作りのさまざまな実験とも結びついて発展したのです。そこでの中核的価値は、

  1. 共愉(conviviality)と文化
  2. 教育
  3. 高度の民主主義
  4. 健康と福祉
  5. 経済的な平等と機会、存続可能性
  6. 情報とコミュニケーション

などでした。

 米国でのコミュニティ・ネットワークの一般的な定義は、「地理的に集中したコンピュータ・システムで、広い範囲の無料もしくは安価な情報通信サービスの提供を通じて地域コミュニティを支援するもの」だといえるでしょう。だが、シューラー自身は、「コミュニティが設計し、利用し、管理し、保有するネットワーク」という、より狭い定義をとりたい、つまり、政府主導型のネットワークの一部や商用のものは除いて考えたい、としています。

 シューラーの考えでは、コミュニティ・ネットワークは、民主的なコミュニケーション・ネットワークの欲求と実際を、地理的なコミュニティのレベルで制度化しようとする試みです。しかし、その多くは企業や政府の支援とは無関係な草の根の試みであったために、資金の流れも一定せず、長期的にどの程度存続できるかも不確実なものにとどまっています。当初は公有論もありましたが、現在では後退しています。それを唱道する人が少なかったし、公立図書館のような公的組織も、この運動にコミットするのをためらったためもあります。それでも、低所得層にも使いやすくするために、システムへのアクセスは意図的に無料もしくはごく安価に設定され、コミュニティの情報通信の基盤となってきました。つまり、コミュニティ・ネットワークは、ネットワークの商業的利用にはそれほど焦点を合わせてこなかったのです。

 当初はBBSから始まったネットワークも、最近ではウェブを多用するようになっています。そして、図書館などのコミュニティ組織と協働して、その情報を電子的に提供したり、そこからインターネットにアクセスできるようにしているものも、少数ながら出現し始めました。教育組織との協働もぼつぼつ始まっています。

 シューラーの創立したシアトル・コミュニティ・ネットワーク (http://www.scn.org),は、いくつかの原理を明示的に掲げています。すなわち、フリー・アクセス、サービス提供、民主主義、世界コミュニティ、未来(進化と改善)、という五つの価値にコミットし、市立図書館のような公立組織と積極的に協働しているのです。それらの点では、珍しいコミュニティ・ネットワークだといえましょう。それは、無料の電子メールとインターネットへの限定的アクセスを提供すると共に、自分のウェブ・サーバーも持っています。現在会員は1万3000人以上になりました。しかし、その運営はすべてボランティアに頼っているために、サービスにはむらがあり、いつまで存続できるかもよくわからない状態にあります。それに、これまでは実践ばかりに力点を置いてきたので、自分たちが何をやってきて何を成しとげたか等の反省も不足しています。だから、これからは大学の研究者たちとの協働を望んでいる、とシューラーは述べています。

 シューラーの見るところでは、全体としてみれば、残念なことですが、アメリカのコミュニティ・ネットワーク運動は、今日になっても、明確な共通目標の設定や合意の広汎な形成に成功しているとは言い難いところがあります。単一のパラダイムも、持続可能なモデルもないのです。そもそもこの運動に対する明確な定義もありません。「コミュニティ・ネットワーキングとはコミュニティ・ネットワーカーのすることだ」と言った人もいたくらいです。個別のコミュニティ・ネットワークの上部組織として活動していたNPTNも、このほど解散してしまいました。現在(1997年)アメリカでは、「コミュニティ・ネットワーキング協会」を組織する試みが進んでいるものの、このままではコミュニティ・ネットワークの未来はないかもしれません。このままだと、インターネットの商用化に代表されるような商業主義の波にのまれてしまうおそれがあります。いや、すでにそうなりつつあると言ってよいでしょう。だから、コミュニティ・ネットワークを守るためには、自覚的な闘いが必要になるのです。

 今日までのコミュニティ・ネットワーク運動には、運動それ自体の中に、自分を殺してしまいかねない三つの態度が含まれていました。

 その第一は、コミュニティ・ネットワークは電気やガスのようなユーティリティだとみなす態度です。だがそれなら、ネットワークの運営は政府か企業に任せてしまった方がいいでしょう。そのようなユーティリティ型のネットワークには、商用ネットワークほどの魅惑がないからです。これでは市民の参加も期待できなければ、コミュニティの再建も難しいでしょう。ワシントン大学のフィリップ・ビリアーノも指摘しているとおり、情報とパワーとはそれぞれ別のものです。vi 情報は、パワーをすでにもっているものにとってのみ有用なのであって、パワーのないものは、社会にあふれかえる情報を利用できないままにいます。かれらは、社会から阻害され見捨てられているのです。だからこそ、コミュニティ内のそのような弱者に対して、教育や所得や地位を与えることが必要になってくるのです。

 その第二は、金の不足が成功にとっての最大の障害だとする態度です。確かにそれは全くの誤りというわけではないにしても、真に必要なのはコミュニティの理解と支援なのです。金があってネットワークを構築すればすむというものではありません。だから、ネットワークの利用に対して少額の料金を取るのはよいけれども、あまりお金のことに気を取られると、利用者は容易に、公衆図書館モデルから商用サービス・モデルに移ってしまいます。そして結局は大商業組織に飲み込まれてしまうでしょう。

 その第三は、コミュニティ・ネットワークのプロジェクトは技術的プロジェクトだとする態度です。そこから、ネットワーク作りにコミュニティを巻き込むなとか、プロに指導させればよいではないかとか、政治にはかかわるなといった意見がでてきます。しかし、技術は大切だけれども、それに支配されてはならないのです。そもそも技術者には、コミュニティの作り方などわかりません。だから政治を怖がるべきではありません。政治にかかわるのは決して時代遅れではないのです。ましてや、通信品位法に盛り込まれた罰則などを怖がって黙り込むのはおかしな話です。むしろわれわれは、いまこそ地域の技術モデルだけでなく、社会・政治モデルを作る必要があります。そして、とくに地方政府の主導する通信システム作りには積極的に参加して、自分たちの意見を表明すべきです。また地域内の「公衆アクセス、教育、行政コミュニティ(PEG)」とも協力しなければなりません。さらに、世界の他地域のコミュニティとの連帯も考えていく必要があります。

 シューラーはそのような観点から、これまでのコミュニティ・ネットワーク運動の歴史をあらためて反省します。コミュニティ・ネットワーク運動の推進者たちには(彼自身をも含めて)技術屋が多く、コミュニティそのものや政治にはナイーブでした。通信技術の歴史をみても、大義が勝つとか、コミュニティ志向型のネットワークの成功は必然だといったことは実はありえないのに、そんなことを信じがちだったのです。それが間違っていると気づいて、やっと本当の問題点を理解し始めたところなのです。もちろん彼らには、運動をつぶしてやろうという悪意などは、毛頭なかったのですが。

 そうだとすれば、商業主義的インターネットの大波が押し寄せる中で、サイバースペースのあり方を決める闘いが、いま新たに始まろうとしていると言えるでしょう。では、商業主義からは自由な公共サイバースペースは、はたして成立し得るでしょうか。成立し得るにしても、そのためにはコミュニティ・ネットワーク運動の参加者たちの共闘が必要だと思われます。だから、自分たちの未来ビジョンについて人々に語りかけ、人々を結集することが、今こそ求められているのではないでしょうか。vii

こうしてシューラーは、「コミュニティ・ネットワークの現状を反省すると同時に、インターネットの現状をも批判するという立場に立てば、社会が必要とする活力と有効性をもたらす手段としての民主主義の原理を鼓吹する必要性が、今日ではますます高まってきた」という結論に到達します。近年のインターネットの爆発とメディアの収束は、これまでは想像もできなかったような情報通信の新しい技術的建物の構築のための足場となるものではありますが、それがそのまま人々の幸福につながるという保証はないからです。新しい情報インフラは、来るべき情報社会の超分散的コミュニケーション・システムの基盤となりうると同時に、少数者のための統治手段としても有用でありうるという二重性を持っています。いずれの方向に向かうにしても、資源を多く持つ側が有利なのです。そうだとすれば、ここに最大の問題として浮かび上がってくるのが、新メディアが民主化推進の手段となる可能性を持っていることは確かなのに、それを現実化させるための努力は、コミュニティ・ネットワーク運動の中ではほとんどなされていない、ということでしょう。インターネットに収束していく勢いを見せている新メディアも、そのまま放置すれば、今日の米国の商用テレビのように、一見民主的に見えながらその実態は民主主義とはほど遠いものになってしまうでしょう。だからこそ、それを民主的にガバーンする努力が必要とされるのです。

 これまでのコミュニティ・ネットワークは、今急速にインターネットの大波に飲み込まれていきつつあります。本当にそれでよいのでしょうか。一般の通念では、インターネットは民主的可能性に満ちているとされています。おそらくそのもとは、ニュースグループやチャットなどでの自由なコミュニケーションの経験からきているのでしょう。しかしそこには、民主主義を自覚的にめざすといった政治的な要素など、もともとどこにも含まれていませんでした。そればかりか今では、そうした自由なコミュニケーションさえ急速に消滅しつつあります。確かに設計原理などからみると、インターネットは民主的なメディアだと考えたくなります。オープンな標準の上に作られたシステム、中心の欠如と複数の代替的経路の存在などがそれです。このようなシステムですと、検閲などしにくいと思えます。インターネットの制度的設計原理も、民主主義の原理にかなっていたようです。価値の自発的な通有、商業的利用の禁止、メディエーター抜きの多対多のコミュニケーション方式としてのニュースグループなどがそれです。この種の特性の認識はもちろん重要です。それさえないもの(たとえば商用テレビ)の民主化は絶望的に困難であって、テレビではその闘いはすでに終わっています。つまり、公衆の側が敗れ去ったのです。

 とはいうものの、それではインターネットは本当に民主主義的なシステムだといえるでしょうか。あるいは、インターネットは「自然に」民主主義的なシステムとして成長していくと期待していていいのでしょうか。

 実は、いろいろな意味で、民主主義は「自然」なものではありません。ほっておけば実現するというものではないのです。権力を握ったものが自発的にそれを手放すことはない以上、民主主義の実現のためには、概念的(米国の憲法や権利章典)、制度的、および物的(ファンディング)投資が不可欠となります。そのさいにおくべき前提は、「現在の趨勢は持続する」ということです。つまり、事態をその自然な成り行きに任せておく限り、情報を持っている人はますます多くの情報を持つようになるということです。だからこそ、たとえば農村部への情報インフラ投資とかユニバーサル・アクセスのための投資のような、パワー・バランスの意図的な回復のための投資が必要になるのであって、その逆のことをしてはならないのです。

 もちろん民主主義には厳密な定義などありません。政治学者のロバート・ダールは、民主主義の基本基準として次の五つをあげていますが、現在のインターネットはどこまでそれを満たしているでしょうか。

  1. 有効な参加:政治参加の場所、方式、タイミングに関して

    しかし、インターネットには審議や意志決定の手続きがあるのか?

  2. 意志決定段階での平等な投票

    (投票が民主主義のすべてでないにしても)政府の選挙をインターネットでの投票によって行うだろうか?ただし、少数者の間での投票は言うまでもなく危険だし、即時の投票も危険である。

  3. よく発達した知力(Enlightened Understanding)

    この表現は意味が豊かすぎてかえって意味が曖昧になっている。とはいえ、確かに知識のある方が、民主的な審議や意志決定に対してより大きく貢献できるだろう。だから広範な教育や訓練が必要になる。(今の知力のままでいいというわけにはいかない)

  4. 議題の統制:何を公的な審議に載せるかの決定手続き

    インターネットでは、これがひどく無視されている。何よりもインターネット自体に関する論議が少ないのだ。たとえば、インターネットはもともと税金で作られたのに、インターネットを公的に保有すべきかどうかといった議論はほとんどなされていない。インターネットの民主的な利用の仕方をめぐる議論もない。政府も企業もそれを無視している。マイクロソフトは金を出して疑似民主的な世論形成を組織しようとしたし、アイラ・マガジナーは「民主主義の第一原理」を論ずるはずの会議で、インターネットの経済的なエンジンとしての意義をもっぱら賞賛し、民主主義には一言もふれなかった。

  5. 包括性:精神的に健全な全成人住民が含まれるべき

    だが、いまのインターネットには、貧しい人はごく少数しかいない。

 以上を前提において考えれば、インターネットの現状の評価にさいしては、次の二つの項目がとりわけ重要になります。すなわち,

  1. インターネットの発展と維持とが、民主的な役職に委ねられているか
  2. インターネットはメディアとして本当に民主的か

 これらの点を考えあわせるならば、インターネットの現状は民主主義からますます遠ざかりつつあると判断せざるを得ません。つまり、商業化が進みすぎているのです。現在のインターネットは、コミュニケーションよりは放送型の広告の場になりつつあります。だから商業の猛襲に抵抗して、インターネットのマージナリゼーションを防ぐような新モデルの開発、つまり新しいコミュニティ・ネットワーク・モデルの開発がいまこそ必要なのです。企業はそこで積極的な役割を果たせるはずなのに、そうした意欲は見えません。そうだとすれば、その仕事は、市民やNGOと、民主的な政府の手に委ねられていると結論せざるを得ません。これに対しては、状況が急速に動いているために政府には有効な役割は果たせないという反論がありますが、それは論理的とは言えません。しかも、現実世界の中には、ほとんど何の変化もしていない側面、いや、そもそも変化すべきでない側面もあります。たとえば民主主義の理念と原理がそれです。それらの不変の理念や原理は、変化の激しい時代ほどますます重要になるのです。

 実際のところ、近代民主主義社会には、市場だけには委ねておけない機能がいろいろあります。とりわけ前掲のダールのあげているような条件の実現がそれです。そのうちのどれが、ボランティア労働や自発的に寄付された資源でまかなうことができ、どれが強制的に収用された資源でまかなわれることを必要とするかを、市場とボランティア活動と政府の三つを含む理論モデルを作って分析することが必要です。そのさいに、政府を弱くすることそれ自体を目標とすべきでないことにも注意すべきです。民主的な制度としての政府には果たすべき重要な役割が多い以上、それは当然のことでしょう。

 民主社会はまた、企業にとっても事業をしやすく、利益をあげやすい社会です。だから民主主義を発展させるための投資は、企業にとっても意味のある投資になるはずです。しかし企業は、個別的にも、集団としてもなかなかそうしようとしません。だとすれば、少なくとも相応の納税を企業に要求して当然でしょう。しかし、企業はそれさえいやがり、有能なロビイストを雇って税金を減らすことに熱中し、それにめざましい成功を収めています。スウェーデンのエリクソン社も、税金を下げないなら国外にでていくと脅しています。だからほとんどの企業は、インターネット上に民主的な制度を作り上げ維持するための課税にも反対するでしょう。そもそも民主化そのものに反対するかもしれません--利益が減るのを怖れてでしょうが。

 ただし、とシューラーは付言します。

自分たちの提案しようとする新しいネットワークのモデルにおいては、変化の速さ自体を無視してはなりません。とりわけ、一つの技術的可能性にだけ縛られていてはいけません。予想や期待が狂うこともあるからです(たとえば過去に見られたグループウェアへの期待は、満たされないままに終わりました)。だから、新しいモデルは、仮の、実験的な、柔軟な、進化の余地を残したものでなくてはなりません。同時に、次のことを銘記しましょう。すなわち、コミュニティを救う試みがコミュニティを創るということ、そしてコミュニティ・ネットワークを創る活動自体が人々の協働行動を発展させるということ、これです。さらに、それが経済発展をも助けるならば、コミュニティ内での参加度もいっそう高まるでしょう。新しいコミュニティ・ネットワークの推進者たちは、コミュニティ内のことがらの重要性と適切性への、人々の注目を喚起しなければなりません。

 シューラーは、以上のような考察をもとに、次のような提言を行っています。しかし、これに対しては企業が強く抵抗するでしょうから、このような企てが成功するかどうか自信はない、と断りながらです。

インターネットに民主主義を確立するには、企業と政府と市民社会の三者がすべて参画する必要があります。企業は投資と寄付と納税でそれに貢献すべきです。しかし企業だけに頼るのは無理なので、公衆の意思を実現する手段としての政府の役割が決定的に重要になります。政府の関与と投資なしに、インターネット(および未来のネットワーク)に民主主義は生まれません。現に政府はこれまでにも積極的な役割を果たしてきました。たとえば、ITTAPプログラム(http://www.ntia.doc.gov/otiahome/tiiap/)はその一つですが、まだまだ政府の関与は不十分です。シアトル市は多数の有用なプロジェクトを用意しているが、そのさいの目標の達成を助けるのは、市民グループ、NGO(そしてたぶん企業)と協働した、革新的で柔軟な各種の実験です。

 新電子メディアの領域で政府の担うべき責務としては、

  • ユニバーサル・アクセス
  • プライバシーの保護
  • 政府情報への自由で系統だったアクセス
  • そこで民主的コミュニティの情報通信ニーズが満たせるような 新しい非商業的な公的空間、つまりコミュニティ・ネットワーク
  • 「啓蒙された理解」のための公衆教育、その施設としての公民図書館

などがあげられましょう。企業がこうした運動の推進主体になりにくいとすれば、前進するためには、市民とその民主的政府の力がどうしても必要になります。

 曲がり角に立たされたアメリカのコミュニティ・ネットワークについてのシューラーの現状分析と提案は以上です。しかし、なんら新しい動きがみえないというわけでもありません。なるほど現在のところ、地域網での高度テレコム・サービスの提供競争が起こっているのは都市部に限られ、農村部が遅れをとっていることは確かです。しかしまさにそのために、ここに競争を導入できないかという問題意識が高まってきています。だからFCCは、農村部での高速サービスの提供の約束と引き替えに、地域電話会社に対して長距離市場への進出を許すことにしてはどうか、といった提案もなされるようになっています。

 そういう中で、センター・フォー・ザ・ニュー・ウェスト(cnwinfo@newwest.org )はこのほど、コミュニティがニューエコノミーの挑戦に応えるのを支援すべく、「高性能コミュニティ(PCS =High-Performance Communities)」の設立を支援することにしました。

 支援の内容は、

  1. HPC訓練サービス:ノースダコタ州のグランド・フォークスにある著名なコミュニティ・企業開発コンサルティング企業のCEO プラクシスと提携して提供する。農村住民に、新しい技能や知識を獲得させるため
  2. 訓練セミナー:地方のコミュニティが新経済に成功する仕方についての新しい展望を与えるため

の二つです。同センターがねらっているのは、それによって、既存の農村コミュニティが企業心や、堅固な市民社会秩序、さらには住民の期待に応えるユーザー・フレンドリーな政府を持てるような方向に作り替えられて、コミュニティ間の協力と競争が促進されることです。同センターはそのために、Centerus High-Performance Communities modelと呼ばれるモデルについて研究し、理論化し、実地テストを行おうとしています。このモデルは、七つのコミュニティ・経済発展戦略を統合し、暮らしやすさを維持し高めつつ、同時にニューエコノミーの中での競争に勝てるようなコミュニティを作り上げようとしているのだそうです。viii

 もちろん、こうした試みが実際にどれだけの成果をあげられるかは、現時点では未知数というほかありません。しかし少なくとも、それぞれの地域コミュニティが好むと好まざるとにかかわらず直面せざるを得ない新しいタイプの社会的災害としての「2000年問題」は、ことによると人々の「ヒューマン・スピリット」を喚起し、相互の交流と協働を刺激して、コミュニティの再建に貢献するかもしれません。ix


  1. 公文俊平、『情報文明論』、NTT出版、1994年、230ページ。
  2. 日本でもこの時期は、大分のコアラに代表されるような、草の根型の地域パソコン通信ネットワークが、全国いたるところに生まれました。
  3. New Community Networks: Wired for Change. Addison-Wesley, 1996の著者として知られるダグ・シューラーは、シアトル・コミュニティ・ネットワークの創立者(1994年)でもあります。彼のホームページはhttp://www.scn.org/ip/commnet/doug.htmlです。GLOCOMよびCANフォーラムは、1999年6月のCANフォーラム第三回総会の基調講演を彼に依頼しています。
  4. Doug Schuler, "Global Communication and Community Networks: How Do We Institutionalize Democracy in the Electronic Age?" Communications and Strategies, September 1998, および "How to Kill Community Networks. Hint: We May Have Already Started..." The Network Observer, January 1996.(http://communication.ucsd.edu/pagre/tno.html)
  5. ただし、シューラーの議論の忠実な複製というよりも、かなり思い切った編集を行い、紹介者の主観的な読み込みというか過剰解釈をあえて加えたものであることをお断りしておきます。
  6. 確かに情報=パワーと見るのは不正確であって、むしろ情報の処理能力(収集、分析、加工、発信能力)こそがパワーの一種(知力)だと言うべきでしょう。
  7. ここにいたってシューラーは、私の用語で言えば、智場における智業としての競争の必要性をようやく自覚するにいたったと言うことができそうです。
  8. Mary Mosquera, TechWeb, Rural areas eyeing advanced telecom access. February 22, 1999 (www.newwest.org/hpc/index.htm)
  9. David S. Isenberg, "Three Things we Know about Y2K, and Four Scenarios about what we don't Know," in A. Wouters et. al. eds., The Millennium Bug: the Year 2000 Computer Problem. Acco, 1998, 71-76,

公文レター No.40