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kumon_can_newslette - August 1, 1999
3.新地域コミュニティへの関心:コミュニティ・ネットワーキング
August 1, 1999 [ kumon_can_newslette ]
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そして、そのような中で、私たちはあらためて地域コミュニティへの関心を持ち始めているとは言えないでしょうか。コミュニティ・ネットワーキングは日本でも具体的な課題としてわれわれの目に見えるようになってきています。何と言っても情報化を具体的に実現する場は、われわれの身のまわりのコミュニティ、日本語で言えば「地域」であります。もちろん、言うまでもなく物理的な空間にとらわれない、バーチャルなコミュニティというものも当然考えられますし、また現にたくさん生まれてきているとは思いますが、人間はバーチャルな世界だけで生きるわけではありません。やはり、圧倒的に重要なのは、物理的にわれわれが生活をする地域であり、そこに作られる具体的な協働の場、特に智業と企業と政府が協働する場としての地域というものを考えてみる必要があると思うわけです。

立教大学の斉藤精一郎さんは「現在の日本は10年のデフレ過程の中にある」と言っています。私は、10年どころか15年のデフレ、つまり1990年から2005年くらいまで続く長い不況過程の中にまだ日本はいると思いますが、しかしその中で次第に新しい経済発展、また社会的な発展の模索が始まっていると思います。
私が特に興味を持ちましたのは、加藤敏春さんが提唱しておられる「エコマネー」という考え方であり、またエコマネーの背後にあるものの見方です。そのものの見方とは、ちょっと堅苦しい言葉ですが、いわば「内発的な商品化」、つまりコミュニティの中から、地域の中からものを交換しようとする動きが出てくる、ということです。
かつて、マルクスという経済学者がいて、マルクスは「商品交換は共同体と共同体の隙間で始まる」ということを強調しました。フェニキア人などという人たちがいて、島から島へと商品を廻していったわけですが、それはたしかに商品経済の出発点だったかもしれません。しかし、情報化の時代にはそのようにコミュニティとコミュニティをつなぐというよりも、コミュニティの中で、われわれの生活の身のまわりの中にあるものをお互いに融通し、やり取りし、そして上手にシェアをして使う、こういう可能性が大きく開けてきます。情報通信手段が発展すればするほど、それは楽になるわけです。
それを、従来的な意味での商品として普通のお金で売るというふうには必ずしも考えなくてもよいですが、しかしやはり交換のための媒介手段は必要です。また交換されるものの範囲は、普通の意味での市場で売られるものよりは圧倒的に広い範囲のものになり得るのです。
例えば、家族よりももう少し広いコミュニティ内でのケアのサービスとか、あるいは自治体やコミュニティのために私たちが自発的に提供することが期待されているようなさまざまな貢献でも、単に一方的、自発的に提供するということではなくて、それなりのリターンを求めたり、お互いの話し合いの上で一種の交換・取引を行うということは、大いにあって然るべきでしょう。
中でも重要なのは個人情報です。通常、個人情報は保護の対象であり、プライバシーにかかわるものであるから一切出してはならないという考え方が根強いのですが、これは非常に間違った考え方ではないかと私は思います。個人情報は、上手に使えば各人にとって大変な収益の元になる経済価値になり得ます。ですから、プライバシーが損なわれないように注意して使ってくれるならば、ビジネスを行う上でも皆その個人情報を欲しいわけです。ですから、それを上手にある種の商品化を行い、それを安全に取り引きするための手段や仕組みを作り上げるということは、地域の活性化にとっては大変重要なのではないかと思います。そして、そこをいわば突破口にして、ありとあらゆる財やサービスについて、加藤流のエコマネーによる交換といったようなものを考えていくことができるのではないか。そこでは、いわば一方的な普及・贈与と交換とがほとんど融合してしまう、こういうことであります。

そういった中で、日本の人口増加率が非常に小さくなり、「あと 750年すると日本人の遺伝子は地球上から消滅するのではないか」といったような言い方さえされることがあります。ともあれ、今後10年、20年の間には急速に高齢化が進んでいくことはまず間違いないと思います。
しかしそれは、寝たきりの、社会の負担になるような人の数ばかりが増えるということではなくて、豊かな人生経験を持ち、お金を持ち、時間を持ち、その上に新しい情報化の手段を得て、さらに活躍の場を広げる可能性を持った人たちの大きな集団が出現しつつあるという見方ができます。そうした健康な高齢者たちは、必ずしも、これまでの産業社会で考えられていたような種類の労働力ではないかもしれませんが、可能な仕事の範囲を広げて考えてみると、大変なリソースを持った人たちが出現しているわけです。ですから、非常に面白いことがいろいろできるかもしれないという期待もありますし、他方では、その期待がうまく生かされなければお荷物になってしまい、国や自治体の財政は破綻の一途を辿るかもしれないという不安もあります。
それからまた、もし自分自身が病気になり、動けなくなってしまったらどうしたらよいのかという現実的な問題もあります。介護保険などは「また見直し」などという話になっていますが、まだ上手いシステムができていません。ですから、先ほど言いました新しいある種の商品経済をコミュニティの中に作っていくことが、非常に必要なのではないかと考えるわけです。

また、教育や学校の崩壊という怖ろしい言葉が、最近非常に広く使われるようになってきましたが、情報社会では、教育や学習が社会的に見て最も重要な活動の1つとなります。そこに既存の学校の教育システムがうまく適応できないものだから「学校が崩壊した」とか「教育が崩壊した」とか言われているのですが、別の見方をすると、教育や学習というものが非常に大きな、重要な社会活動になっていくチャンスがいま生まれているとも言えます。
そこで求められているのは、これまでのような制度的な学校ではないかもしれません。例えば、フリー・スクールといったようなものが日本でもすでに出てきていますし、それから政府も親が家庭で子供を教えてもかまわないという考え方の方にだんだん転換しつつあります。「どうしても学校に行かなければならないというものでもない。」逆にそう思って学校を見たら、学校のよい面があらためて見えてくるかもしれません。子供を学校へ行かせるのは親の義務だからとか、義務教育だからというふうに見てしまうから、子供が「学校がおもしろくない」と思ったりするようになったり、親は親で「子供くらい高くつくものはない」というように考えるようになるのではないでしょうか。このような状況においても、とりわけインターネットを学習に利用することで開けてくる可能性と期待は、本当に無限なものがあると思います。
また、きょうは詳しくお話しする時間がありませんが、現在のようなインターネットをさらに一段超えた先に考えられるのが、新しい自立分散協調型の知のシステムなのですが、ここで人々がお互いにコミュニケーションとコラボレーションをしながら、どんどん新しい情報や知識を生み出し、またシェアをしていく、こういうことが期待されます。

しかしながら、そこへ進んでいくためにどうしても越えなければならないハードルが、コンピュータの2000年問題、あるいはコンピュータの2000年バグに端を発する社会的な諸問題としての2000年問題であります。
見方によっては、これは21世紀の新しい総力戦だと言わざるを得ません。私たちは、過去30年間にコンピュータを生み出して使ってきたわけですが、本当のところどういう使い方をするのが正しくて適切であるかという点については、まだ十分な知識を持っていないと言うべきでしょう。
ちょうど今から 100年ほど前には、重化学工業が生み出した新しい技術、新しい製品、新しいサービスをどう使ったらよいかよくわかりませんでした。戦争のために使って、戦争が大変悲惨なものになりました。何とか戦争をコントロールするだけでも、数十年の時間と2回の大きな大戦を経過することを必要としました。私たちはそれに学んで、新しい憲法を作ってきたわけですが、その学び方も本当にそれでよかったのかどうか、まだまだ難しい問題が残っています。ともあれ、とりあえず戦争の意味を理解し、コントロールするためだけにも、大変な時間とコストを必要としました。
また、20世紀の産業社会が生み出した新しい大企業、そして神の見えざる手から大企業の見える手がマーケットを動かすようになった新しい市場経済体制とどう折り合いをつけていくか、これもなかなかわかりませんでした。1930年代の大不況という経験を通して初めて、例えば政府による総需要のコントロールといった考え方を導入しなければだめではないか、という理解が生まれてきました。それまでには、人類は、未曾有の長期不況のような形の大きな経済的犠牲を被ったわけです。
私がいま申し上げたいことは、それらと似たような意味で、新しいコンピュータの技術が生まれて何十年も経ち、そして普及もしてきましたが、よく考えてみると、まだわれわれはコンピュータとの折り合いをつけるのに成功していないのではないかということです。
非常に奇形的と言いたいようなパソコンや、バグだらけのソフトを使わせられて、私たちは日々苦しめられていますが、こんなことでよいはずはありません。どうすればコンピュータとうまく共存できるのか。おそらく、そこに至るまでには、かなりの時間とさまざまな災害が必要とされるでしょう。しかし、わたしたち一人一人が問題の所在を自覚し、それに備えたり対処したりするすべを学び、互いに情報の通有や協働を惜しまなければ、かつて戦争や不況を私たちが乗り切ってきたのと同じように、コンピュータのバグやそれに伴う諸種の問題をもきっと乗り切ることができるはずです。そういう意味で、総力戦と言っているわけです。
個人、家族、職場が協働して、そして地域や国もその協働関係の中に入っていく。個人やあるいはボランティア的な智業ができることは限られていますので、智業と企業と政府がそれぞれ役割を分担して協働することがどうしても必要です。同じように、政府ができることも実際には限られています。もし政府があらゆる情報をコントロールすれば、皆が政府の思い通り動くかというと、決してそんなことはないはずです。ですから、政府がすべきことも大きいですし、個人あるいは企業がすべきことも大きいと思います。お互いに情報を出し合って、この問題に対処していくための分担を考えてこの体勢を整えられれば、うまく乗り切れるはずです。この体制が作られなければ、相互不信の悪循環の中に帰ってしまい、被害の度合いははるかに大きなものになると考えられます。これが2000年問題です。