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kumon_jyouhou_kindaibunmei - October 1, 2000

情報化と近代文明6

October 1, 2000 [ kumon_jyouhou_kindaibunmei ] このエントリーをはてなブックマークに追加

公文俊平(所長)

第3章:内からの経済成長と情報化

第3節 内からの情報化

 次に、目を第一次情報革命に向けてみよう。そのさいに、個人がその中で存在している(その個人にとっての)物理的世界と対比させて、個人が利用しうるさまざまな情報が含まれている(その個人にとっての)情報世界を考えてみよう(図3.2.1)。

 図にも示されているように、物理的世界の中で特定の個人が占める位置は、その中の一点にすぎないといえるほど微少なものにすぎない。いってみれば、各人は他の諸個人や集団と、一つの物理的世界を共有しているのである。逆に、個人の情報世界においては、その個人が世界に対して開示している情報の割合は、その個人が持っている情報の全体と比べると、ごくわずかなものにとどまるだろう。情報化に伴って、個人は地球の裏側からでも情報を取ってこられるようになるとか、世界に対して情報を発信するようになるという言い方がよくなされる。もちろんそれは間違いではない。しかし、個人の情報空間あるいはその中で個人が行う情報活動の全体からいえば、世界を相手にしたコミュニケーションの占める割合は微々たるものでしかないのである。1

 同じことは、個人だけでなく企業や国家(政府)についてもいえるはずである。たとえば企業は当初、インターネットをもっぱら消費者に対する宣伝広告・販売の手段としてのみ考えていた。政府は、インターネットを国民に対する情報開示の手っ取り早い手段として考えていた。しかし、おそらく順序は逆であって、企業にしても政府にしても、新情報通信技術は、なによりもまず自分自身の知的エンパワーメントのために、つまり自分自身の部内業務、あるいは部局や取引相手相互間の業務連携を高度化・効率化するために使われて当然である。インターネットは、とりわけいわゆる“ウェブ・コンピューティング”は、そのための最強の手段であり、それを駆使するところに“ウェブ・ライフスタイル”が成立していくのである。2

 そうだとすれば、“世界”を相手にする個人のコミュニケーションや、国民や消費者を対象とする政府や企業のコミュニケーションの部分だけが、さまざまな情報通信機械やサービスによって“情報化”されたところで、個人の生活や政府・企業の業務全体が情報化したというにはほど遠い。逆にいえば、個人の情報生活の他の部分、とりわけ身の回りの部分が情報化されない限り、個人がその外部、とりわけ“世界”との間で行うコミュニケーションの情報化は、ごく限られた程度にとどまらざるをえない。同じことは、政府や企業についても妥当する。特に、“地域情報化”を旗印として、近年さまざまな情報化の試みを進めている“地域”の自治体や企業は、そのことを銘記しておかなくてはならない。個々の地域が、“全国”や“世界”に対する情報発信を華々しく行おうとしたところで、その地域自体の情報化がおろそかにされていれば、そうした努力はあだ花に終わってしまいかねないからである。したがって私としては、事実としての“内からの情報化の進展”に注目すると同時に、意図的な努力としての“内からの情報化の促進”の重要性をあらためて強調しておきたい。

 個人や組織の情報空間や、そこでの情報活動を考えるさいに注意しなければならないもう一つのポイントは、それが他の個人や組織の情報空間と部分的に連結しているという事実である。たとえば、私が家族や職場の同僚との間に通有している情報は、私の情報空間の中に存在していると同時に、私の家族や同僚の情報空間の中にも同時に存在しうるのである。

 いま、私の情報空間の中に含まれている各種の情報を、情報ファイルの集合としてイメージしてみよう。それらのファイルは、その中の情報が誰に対して開示されているか(つまりその通有を私が許しているか)に応じて、それぞれ別のフォルダにおさめられているものとすれば、私の情報空間は、開示のレベル 3 を異にするさまざまな情報フォルダのラティス(lattice)としての構造をもっていることになるだろう。そして、私以外の個人は、それが誰であるかに応じて、ラティスのどこまでならアクセスできるかが(私によって)決められていることになる。もちろん、たとえば私があるレベルのフォルダを、某同好会のメンバーに対しては開示してよいと考えたとしても、そのフォルダの中のすべての情報ファイルが、実際にその同好会のメンバーによって通有されているとは限らない。まだそれを見に来ていない、あるいはダウンロードしに来ていないメンバーもいるかもしれないからである。また、私の情報空間の中のある特定のレベルのフォルダに入っているのは、個々の具体的な情報ファイルだけではない可能性がある。たとえば、そのレベルから私がアクセスを許されている他の個人や組織の情報ファイルのディレクトリがそこに入っているかもしれない。あるいは、そのレベルに対応した検索エンジンもはいっているかもしれないのである。

 逆に、私が外からダウンロードしてきた情報ファイル、たとえば米国政府が世界に対して公開している情報フォルダからダウンロードしてきた米国大統領の演説は、私自身が世界に対して公開している情報ファイルをおさめてある私の情報フォルダに入れて置かなくてはならない理由はない。私がそれをどのレベルの情報フォルダに入れるかは、相手との約束(たとえば、第三者には見せないことにしようという約束)や、私自身の意思決定(たとえば、前記の約束があるにもかかわらず、私はその内容を上司には報告したいと思って、上司だけに公開しアクセス権を与えているフォルダの中にそれを移すことにする)に依存して決まるのである。

 いずれにせよ、他者の情報空間との連結の可能性まで考慮に入れるならば、それぞれの時点において、私の情報空間は、あるラティス構造をもった情報フォルダーとその中に入っている情報ファイル(およびディレクトリや検索エンジン)と、私がアクセス権を与えられている他人の情報空間の情報フォルダへの“パイプ”つまりアクセス路からなっていることになる。4  情報空間のもつこのような構造特性は、ウェブ・サイトのもつ構造特性と比較的よく適合しているが、ヌーテラやモジョネーションのような分散的情報通有システムとは、さらによく適合しているように思われる。また、それほど遠くない将来に、上述したような情報空間の特性をより完璧に具現した情報通有システムが出現してくるかもしれない。5

そこで“内からの情報化”を

1. 個人からの再出発
2. 組織も自らの日常業務自体の情報化からの 再出発
3. リアル・コミュニティへの関心の高まり

という三つのポイントについて考えてみたい。

 “個人からの再出発”を考える上では、近代社会についてのこれまでの議論の再整理が必要になる。最近アメリカでは“テクノリアリスト”と呼ばれる若手の論客グループが現れているが、その一人アンドリュー・シャピロによると、情報化という“コントロール革命”の結果、個人へのパワー・シフトが起こっているという。つまり、近代社会では国家権力のコントロール・パワーが一番強かったが、その後、企業のコントロール・パワーが増大し、そして現在、個人あるいは小グループのエンパワーメントが起こっているというのである。6 シャピロのこうした見方は、私のいう“情報化”、なかんずくその最初の波としての第一次情報革命の波の本質をよく捉えたものだといえよう。

 とはいえ、それがひたすら個人の内にばかり向かっていくと、今度は一種の自閉的な症状、“オタク化現象”が心配される。シャピロ自身も、インターネットにのめり込むために個人の自閉化傾向が強くなり、家族とのコミュニケーションや社会的関心が減る傾向が見られる、という調査結果に言及している。そうだとすれば、個人自身の身の回りの情報化を前提として、その次には、個人が自分の内から外に出て、改めて社会化していく努力を、意識的に行わなくてはならない。

 シャピロによれば、それには二つの方向がある。一つは“思想の自由と競争”である。自分たちだけが好きなホームページを作り、そこでコミュニケーションを閉じてしまうと違った考え方が入って来ないので、それでは困る。むしろ違った考え方に積極的に接触し、他流試合をすることで、自分たちの好きな考え方の有効をテストしてみなければならない。もう一つは“新しい社会契約”という考え方をうち出し、新しいコミュニティ作りをもう一回始めるという方向が考えられる。7

 シャピロよりは一回り上の世代に属するが、やはり情報化がもたらした人々の新しい意識や行動に、一つの自覚的な方向付けを与えようとしている、注目すべき試みがある。1993年に出版されて、ビジネス界にも大きな反響を巻き起こした『バーチャル・コミュニティ』8 の著者ハワード・ラインゴールドが、この本に対して寄せられたさまざまな批判や、その後の彼自身のビジネス実践経験、とりわけ失敗の経験をもとにして新しく打ち出した、「新相互行為主義宣言」(The New Interactivism: A Manifesto for the Information Age)がそれである。  ラインゴールドは、この宣言を、「インターネットが可能にしたメディアに限らず、あらゆるコミュニケーション・メディアは本来的に政治的なものだ」ということばで始めている。確かに、説得は、脅迫や取引と並ぶ、他人を動かす三つの主要な力、つまり三大政治力の一つである。したがって、コミュニケーション・メディアの種類や普及度の変化は、政治力のシフトを表すことになるとみてよいだろう。 そこで興味深いのは、ラインゴールドの次のような指摘である。

 「大概の歴史家が戦闘や憲法制定会議、あるいは近代民主主義国民国家の設立を規定した文書などに注目するのに対し、哲学者のユルゲン・ハバーマスは、18世紀民主革命を育んだメディア、すなわちパンフレットや喫茶店での議論、文通による委員会などに注目した。」

 「市民の関与のもっとも歴然たる表明が戦争や選挙であるとはいえ、われわれはほとんどの場合、自発的・非公式に形成される暗黙の合意や諸関係、あるいはコミュニケーションの網の中で暮らしている。アメリカの市民社会は、さまざまな自発的な組織によって、とりわけ、社交クラブから慈善団体、さらには教育や政治のロビイング・グループにいたる、さまざまな親近性をもとに作られた驚くほど多様な組織によって、織りなされている。」

 いかがだろうか。いささか大塚史学的な用語法になることを覚悟の上であえて言うならば、ここでラインゴールドが注目している非公式のコミュニケーションの場は、言ってみれば“前期智場”にあたり、各種の自発的な組織は“前期智業”にあたるといった特徴付けができるのではないだろうか。 [次号に続く]

1 ジョージ・ギルダーは、この関係をコミュニケーションの“局所性の法則”という言葉で表現している。すなわち、ネットワークのトラフィックの少なくとも80%はローカルで、95%もしくはそれ以上は一大陸の中で動き、大陸間を横断するトラフィックは全体の5%にすぎない、としている。(George Gilder, “Nine Companies Poised to Change the World.” Gilder Technology Report, Special Report, September 1999.)

2 もっとも、ナプスターやヌーテラのような新しいタイプのより強力な分散的情報通有システム、すなわち“ピア・ツー・ピア”ネットワーキング・システムの出現は、中央集中型のサーバーを不必要にすることで、現在のコンピューティングのあり方を一変させ、“ワールドワイド・ウェブ”や“IPネットワーク”さえも、たちまち過去のものにしてしまうかもしれない。現に、インテル社は、全社をあげてそのような認識に立ち、この次世代コンピューティングのための標準作りを推進しようとしている。

3 ここで“開示のレベル”といっているのは、さしあたり、アクセスを許されている個人や組織の範囲を指しているが、それに加えて、アクセスのレベルの違い、たとえば閲覧のみ許可、ダウンロードも許可、アップロードも許可といったようなレベルの違いや、利用の仕方の違い、たとえば第三者への開示は認めないとか、内容の変更を許さない等々、も考えられる。もちろんここでいう開示やアクセスのレベル、開示された情報の利用の仕方を指定したいという意図の有無と、そうした意図がどこまで技術的に実現可能化かということとは、別の話である。

4 アクセス路の中には、“匿名”の主体の情報空間に通じているものも考えられる。つまり、そこを通じてなら匿名の情報発信ができる“プブリウス”のような、特異な情報空間の構築の可能性が考えられる。(http://cs1.cs.nyu.edu/waldman/publius/

5 もっとも、現実にヌーテラなどが使われている状態を調査してみると、そのほとんどは自分からは情報を提供することなしに、あるいは価値ある情報を提供することなしに、一方的に情報(音楽ファイル等の)をダウンロードするだけのために使われているという。つまり、分散的情報通有システムでは、もっぱら“ただ乗り”が行われているのである。この点に注目したゼロックス・パークの研究者たちは、このままではやがてこのシステム自体が崩壊するだろうと予測している。(Eytan Adar and Bernardo A. Huberman, Free Riding On Gnutella. http://www.parc.xerox.com/istl/groups/iea/papers/gnutella/index.html)  →5頁に続く

 しかし、このような見方は必ずしも正しくない。確かに現状では、著作権のある音楽ファイルを違法にダウンロードしている人々が多いことは事実だろう。だが、それは妥当な課金の仕組みがまだ組み込まれていないということに加えて、ファイルの検索のためにはそのファイルの名前を入れなければならないという検索エンジンの問題によるところが大きい。これでは、新しい独自のファイルをこのピア・ツー・ピアのネットワーク上で提供しようと思ったところで、他の人々にすれば、それを知りようがないのである。他方、そうしたネットワークの上では、今後“富のゲーム”とは異なる“智のゲーム”(あるいはエリック・レイモンドのいう“評判ゲーム”)が普及していくとすれば、そのプレイヤーたちは、ゲームの報酬としての“智”(一般的な説得力、あるいは、それに関する評判)の獲得を目的として行動することになるので、そのためには他の人々に喜ばれる情報を一方的に提供して当然ということになる。他の人々がそうした情報を一方的にダウンロードすることは、決して“ただ乗り”ではないのである。それは、“富のゲーム”における市場での商品の購買に対応する。その限りでは、“智場”が“共有地の悲劇”の結果として崩壊するという予測はあたらない。

 そればかりか、最近ではCOLAVisionのような新しい分散的情報通有システムが出現して、そこでは、新しい情報ファイルの検索や発見を、検索エンジンによる物理的な探索によるよりはむしろ、さまざまな人々による“推奨”を通じて行う仕組みが組み込まれようとしている。そうなると、システム参加者の行動形態も、さらに異なってくると思われる。(http://opencola.com/colavision/ を参照。)

6 Andrew L. Shapiro. Control Revolution: How the Internet Is Putting Individuals in Charge and Changing the World We Know. Public Affairs, 1999.

7 シャピロのこうした考え方は、今日のアメリカの若い世代の一部、とりわけ“テクノリアリスト”と呼ばれている人々の間に、非常に成熟した思想が通有されていることを示すもののように思われる。実際、シャピロにかぎらず、今日の若いアメリカ人たちの間には、謙虚で、相手の言うことによく耳を傾け、他人との協働を重視する人々が、明らかに増えてきた。

8 邦訳は、会津泉訳で三田出版会から1995年に出版されている。