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2001 - March 1, 2001

ディジタル革命の考古学のためのノート(2)

March 1, 2001 [ 2001 ] このエントリーをはてなブックマークに追加

池田信夫(主任研究員)

3.制度としての言語

言語と貨幣

 チューリング以来のディジタル・コンピュータの基本思想は、すべての知的な作業を記号の操作に置き換えることだが、それは一見したほど簡単ではない。こうした変換操作が可能になるには、記号の意味が一意的に決まっていなければならないが、これは自然言語でもコンピュータの世界でも実現していない。たとえば、プログラミング言語の文法は厳密に定義されており、Javaで書けば世界中どこでも同じように動くが、問題はこういう「統辞論」ではなく、現実の仕事をどうプログラムに置き換えるかという「意味論」のレベルだ。実際のプログラミングでも、時間の大部分はこうした作業に費やされている。

 前回みたように、どんな生物もこうした「環境世界」の意味論的なモデルを遺伝的に持っており、チョムスキーも強調するように、人間の言語も一定の遺伝的な制約のもとにあることは明らかだ。しかし人間に特徴的なのは、記号と意味との関係が必ずしも固定されておらず、特に自然言語では、「意味するもの」と「意味されるもの」の関係が基本的に恣意的だということである。たとえば、物理的な「木」とtreeあるいはarbreという記号の間には、(音声にも文字にも)何の必然的な関係もない。この意味論的な関係を決めて維持することが、「文化」のもっとも基本的な機能である。

 したがって言語や規範などのコードは、多くの人に共有されるがゆえに共有されるという同語反復的な存在であり、その基礎には本質的な脆弱性を抱えている。ソシュールは、言語の恣意性を示すメタファーとして貨幣をあげた。いま日本で使われている紙幣は、金との兌換性もない、ただの紙切れであり、その価値を保証しているのは「政府の保証」だけだ。つまり記号が存在するには、それを支える「制度」が必要なのである。しかし、これは狭義の法的な権力である必要はない。自然言語であれば、まわりの人間が誤用を訂正することによって意味は共有されてゆくし、それ以外のコードも一括して文書化されることはまれだ。H.L.A.ハートに代表される英国の法社会学が明らかにしたように、現実の法律の効力を保証しているのは、暗黙の習慣などの「第1次ルール」であり、それなしでは、司法的な「第2次ルール」は機能しないのである。

 旧社会主義国の「市場経済化」の実験でも明らかになったように、「約束は守る」とか「嘘はつかない」などの規範が成立していないと、法律だけがあっても、ほとんどの取引を摘発しなければならないから、実効性は失われてしまう。逆に、日本のように社会的な規範の拘束力が強い社会では、法的な処罰がほとんど行われなくても秩序が維持できる。われわれは無意識のうちに、経済的な「土台」が法的・政治的な上部構造を決定するというマルクス的な思考に慣らされているが、これは一面的である。貨幣(および経済システム)の存立の基盤には、フーコーのいう広義の「権力」の体系があるのだ。

 これはディジタル信号についても同じである。リアルな世界の情報をどういう文法でコード化するかという点がシステムごとに異なっていると、情報を共有することができない。他方、ある記号を受け入れるということは、それを支える制度に「服従」することだから、技術革新は、しばしば異なるアーキテクチャ間の「制度間競争」をもたらす。クリステンセンも指摘するように、14インチ・ハードディスクのメーカーが8インチを無視して没落する原因は、それがディスク装置の性能の問題ではないからだ。14インチにはメインフレームの、8インチにはミニコンの「ヴァリュー・ネットワーク」があり、競争はこれらのアーキテクチャの間で行われるのである。ここには軍事的な闘いはないが、負けた企業はそれまでの投資の価値がゼロになるという打撃をこうむる。

合理化と市場メカニズム

 さらに、ディジタル化するうえで厄介なのは、意味の世界がきわめて多元的で、一つのコードに還元できないという点だ。自然言語はもともと離散的だから、ASCIIやJISのような単純なコードでディジタル化できるが、音声や映像のようなアナログ情報や、労働の成果や個人の評価といった不定形の情報をコード化することは難しい。これはコンピュータに限らず、もともと数値化できない情報だからである。しかし、近代の政府や企業はこうした多次元的な価値を一次元の数値に射影し、「合理化」することによって管理する。この意味で、ウェーバーもいったように、近代国家とは一種の企業なのである。

 合理化の手段としてもっとも強力なのが、市場メカニズムである。これは、商品そのものの価値は「カプセル化」し、それが他の何と交換されるかという外面的な等価性のみに着目して数値化(価格づけ)するものである。それゆえに古来、貨幣は真の価値を「疎外」するものとして非難されてきた。シェイクスピアの戯曲には、カネに目のくらんだ俗物が愛する人を犠牲にしたり友人を陥れたりする物語が、『ヴェニスの商人』をはじめ、よく出てくる。彼の生きた16世紀は、初めて統一的な「英語」が形成され、国内市場ができて、伝統的な価値が資本主義によって解体され始めた時期だった。

 若きマルクスは、シェイクスピアの『アテネのタイモン』を引用して、近代社会の「ユダヤ化」の原因は労働の成果が商品や貨幣として疎外されることにあるとした。ただし、この場合の「疎外」(Entfremdung)は、日本語のようなロマンティックな意味はなく、労働の成果が対象に「外化」されて他人に譲渡できるようになるという意味である。これは、それぞれの個人に固有な「具体的有用労働」の価値(使用価値)が貨幣によって「交換価値」に抽象化されてしまうという、『資本論』のテーゼにまで受け継がれているマルクスの基本思想である。

 商品形態やこの形態が現れるところの諸労働生産物の価値関係は、労働生産物の物理的な性質やそこから生ずる物的な関係とは絶対になんの関係もない。ここで人間にとって諸物の関係という幻影的な形態をとるものは、ただ人間自身の特定の社会的関係でしかないのである。(『資本論』第1巻)

 これが有名な「商品の物神性」の議論だが、注目されるのは、記号の「物理的な性質」と「価値(意味)」との間には「絶対になんの関係もない」という20世紀の言語学が発見した事実が、ここですでに述べられているということである。もっとも、その本質である「人間自身の特定の社会的関係」は、彼の想定したような労働時間ではなく、稀少性だったが、それはこの洞察の価値を減ずるものではない。市場の本質は、需要と供給という「人と人との関係」を商品の価格という「諸物の関係」に変換する点にあり、それゆえに、人々は商品をだれが作ったのか知らなくても、その価格だけを見て行動することができる――これはマルクスを批判してやまなかったハイエクが、1世紀近くあとに発見したことである。

 もちろん、多様な価値を価格という1次元の座標軸に変換する市場メカニズムには、いろいろな問題がある。たとえば外部性がある場合には、価格は商品の価値を正確に反映しないし、将来の商品についての市場もほとんどないから、時間を通じての取引や投資は「賭け」の性格を帯びる。しかしハイエクも強調したように、問題は価格が商品の価値を正確に反映しているかどうかではなく、資源配分の問題を解くために社会全体の状況を知る必要がないという点にある。

 市場の第一義的な機能は、カネをもうけることではない(理論的には貨幣の存在さえ必要ではない)。それは基本的に等価交換のシステムであり、むしろ新古典派経済学の想定しているように完全に機能すれば、そこで利潤を上げることはできないのである。市場の本質は、社会全体の資源配分という大きな問題を個人の意思決定に分権化(decentralize)できることにあり、この点でインターネットなどの分散型ネットワークと多くの共通点を持っている。

4.差異化と統合化

脱領土化

 このように意味や価値を単純化し、分権化するメカニズムは、意思決定の主体を個人に分解することによって社会を「個人化」する。それを最初に引き起こしたのは、マクルーハンも指摘するように、15世紀の活版印刷であろう。活字はすべての情報を標準化して組み合わせ、時間的・空間的な制約を超えて流通可能にすることによって個人の情報収集・生産力を飛躍的に高め、近代社会の技術的な基盤となった。とりわけ、聖書が印刷されて一般信徒に入手可能になったことは、写本の稀少性に依存していたカトリック教会の知的独占を崩壊させ、宗教改革の最大の武器となった。ルネサンスや科学革命も、活字の普及による広範な知識の拡大なしには不可能であった。

 逆に活版印刷の普及には、それを使って自己を表現する知的に自立した個人の存在なしには不可能であった。金属製の活字そのものは、グーテンベルクより400年も前に中国で発明されていたが、社会に普及しなかった。つまり、活字は単なる技術的な発明ではなく、近代的な「個人」の誕生の象徴なのである。それは宗教改革が信仰の個人化であり、それを担う独立自営業者の登場によって発達した技術であり、同時に近代的自我意識を強める役割を果たすことになった。

 資本主義のエネルギーの源泉は、競争による果てしない「差異化」である。利潤の源泉は、かつては遠隔地貿易による価格差だったが、こうした「さや取り」は、それが発達すればするほど、地域間の水位差が縮まり、利潤が低下するという「自己破壊」的な構造を持つ。これに対し、英国に始まる産業資本主義は、技術革新によって製品差別化を行って差異を生み出すしくみであり、これは商業資本主義のような限界を持たない。現在の経済システムも、基本的にはこの枠組の中にあるといってよい。

 この差異化のメカニズムは、それまで共同体の中で定常的に行われていた取引とは違い、その領土を超えて少しでも安い原価と高い売価を求めて「脱領土化」し、伝統的な規範を解体して価格に抽象化する「脱コード化」をともなう(ドゥルーズ=ガタリ)。『共産党宣言』で描かれたように、「市民階級は、生産用具を、したがって生産関係を、したがって全社会関係を、絶えず革命していなくては生存しえない」のである。

 しかし、このように不断に自己から逃れてゆくシステムは、きわめて不安定である。ドゥルーズ=ガタリが分析したように、分裂病は、「他人と違う」ことに最大の価値を置く資本主義社会の作り出す「差異の病」である。それは他人から自己を差異化しながら、人格としては一人の人間として統合しなければならないという「抑圧」が極度に高まった結果、統覚が崩壊した状態であり、フロイトが考えたような家族の病ではなく、サリヴァンやレイン以来の「反精神医学」の主張するように、社会の病なのである。

 このような絶えざる競争を強いられる社会が幸福かどうかはわからないが、近代資本主義の誕生以来の500年足らずで人類の達成した経済成長率は、それ以前の数万年をはるかに上回る。「見えざる手」が社会を予定調和に導くかどうかは疑わしいにせよ、それが人々の欲望を解放することによって富の増大を招いたことは確かである。

所有権

 しかし、既存の秩序を破壊するだけでは資本主義は成立しない。さやを取って得た利潤は、また他の参入者に奪われるおそれがあるから、つねにその利潤を確保して自分の領土を確定する「再領土化」が必要である。その最も原始的な手段は、米国の開拓時代のように武力で「自衛」することだが、個人がそれぞれ武器を持って互いの土地を奪い合う「万人の万人に対する闘い」は社会的なコストが大きいから、安全保障は規模の経済を持つ。このため特定の機関に委託して、全員の安全を守ってもらう「保護組合」が必要になるが、これは南イタリアやロシアのマフィアのように暴力の組織化をもたらし、かえって社会の安全を脅かすことが多い。したがって領土内では、絶対的な「主権」を持つ国家が必要になるというのが、ノージクの「最小国家論」である。

 この意味で、所有権は近代社会のすべての法的・経済的秩序の成立する基礎である。この点を最初に指摘したのは、ヘーゲルであった。彼は『権利の哲学』(法哲学)の中で、近代社会の法秩序の中核に所有権を置き、その典型を「私の身体は私のものだ」という自己意識に求める。この「自己所有権」の概念は、ロックが近代的な所有権の「自然法」的な基礎としたものであり、考える自分を疑うことはできないというデカルト的な心身二元論と表裏一体だが、それは自明だろうか?

 少なくとも上に紹介した分裂病者にとっては、このような透明な「自己」の存在はまったく自明ではない。カフカは分裂病であった疑いが強いとされるが、彼が描いたように私が明日の朝、一匹の毒虫になったとき、それが今日の私と「同一人物」であることを証明してくれるものは何だろうか?もっと即物的にいえば、脳を左右に分断された患者は二人の人格として行動し、食物を取ろうとする左手を右手が押さえる、といった行動も見られる。140億あるニューロンが一つの「私」であると感じることこそ錯覚ではないのか?

 逆にいえば、このような所有権という制度の存在が、絶えざる差異化によって分裂しかねない自己を「自分のもの」として再統合する役割を果たしている。その意味で、近代的自我は所有権によって生み出されたといってもよい。所有権(property)という言葉は「固有」という意味も持つが、他人に譲り渡せない固有の人格というのは近代の欧州以外には見られない特異な概念であり、むしろ所有権によって作り出されたイデオロギーなのである。

 価値を「商品」としてモジュール化して譲渡可能にする制度は、資本主義的な生産にとって決定的な重要性を持った。工場では、資本設備を共同利用して生産を行うが、これを共有すると、その価値の低下にだれも責任を負わないため、過少投資・過大雇用によって資本効率が低下する。日本型の「ステイクホルダー資本主義」は一種の「労働者管理」だが、それが高い効率を発揮するのは、高度成長期のように、規模の拡大という経営者の目的関数が結果的に株主の利害と一致している場合に限られる。経済が縮小期に入り、コストの削減が必要になったとき、こうしたシステムは調整がきわめて難しい。資本主義は、資本家が設備を所有して利潤(損失)の分配を決める権利(残余コントロール権)を持つことによって、資本効率を高めるインセンティヴを作り出したのである。

情報のコントロール

 所有権の特徴は、物を譲渡する権利(コントロール権)と、その財から得られる将来の利益を専有する権利(キャッシュフロー権)が「バンドル」されていることである。価格が市場で決まることによって、その商品が将来生むキャッシュフローの割引現在価値に等しい価格で交換され、結果として効率的な状態が実現する。ここでは、商品を持っていてその価値をもっともよく知っている人が決定権をもつことで、価値の正確な測定が可能になるわけである。

 このようなバンドリングは、工業製品では自然だが、それ以外の場合には必ずしも自明ではない。特に情報は、その媒体とは独立にコピーできるから、そこから得られる将来のキャッシュフローを独占することは難しいし、必ずしも望ましくない。複製のコスト(限界費用)がほとんどセロである情報は、多くの人がコピーして利用することが社会的には効率的だからである。

 ノース=トマスなどの経済史の研究では、英国で特許などの工業所有権制度が早くから発達したことが、資本主義の発達に大きく寄与したとされてきたが、この説明は理論的にも歴史的にも疑わしい。産業革命期の発明の大部分は特許を取得しておらず、特定の地域や時期に集中して発明が起こったのは、発明家たちの「クラブ」で情報交換が行われたためである。最近の研究では、こうした学習効果のほうが特許による独占の効果よりもはるかに大きかったことが明らかにされている。

 ただ、情報への投資がまったく回収できないと、過少投資が生じるだろう。これは、現在のナプスター問題でも争われている古くて新しい問題である。本やレコードなどの伝統的なメディアは、この問題を紙やビニールなどの物理的な媒体にバンドルし、その所有権を移転することで情報を物に置き換えて取引してきた。しかし、情報のディジタル化は、このようなコピー費用による障壁を無意味なものとし、インターネットは瞬時に情報を世界に拡散することによって、産業資本主義のエネルギーの源泉である、技術革新(情報生産)による利潤さえ失わせるかもしれない。

 この問題は、理論的には解決可能である。たとえば特許を政府がすべて適切な価格で買い取り、それを無償で公開すればよいのである。もちろん適切な価格を決めることはむずかしいが、電子オークションを使って効率的な価格づけを行うメカニズムも提案されている。著作権という500年前にできた権利をディジタル情報に適用することは、ユーザーにとって有害であるばかりでなく、結局は「コンテンツ産業」の発展を阻害して、生産者にとっても利益にならない。レコード業界の「オンライン配信」サービスが、ほとんど数万人の顧客しか得られないのに、ナプスターのユーザーは1年あまりで6000万人を超えたのである。

 今後、P2P(Peer-To-Peer)のシステムが普及すると、だれがコピーしたかを同定することも不可能だから、情報を守りたい人は、最初から暗号化などの形でカギをかけ、情報保護のコストは生産者が負担するしかないし、それが効率的である。ディジタル情報においては、権利保護に規模の経済はないのである。また、インターネット上の国境を超えた情報の移転を、特定の国の法律で取り締まることは無理であり、それを訴訟によって取り締まることによって利益を得るのはレコード会社と弁護士だけであり、クリエイターの利益にもならない。いずれにせよ、情報社会においては、工業社会の遺物である「所有権」にこだわらない情報保護システムを考える必要がある。

5.結び

 ディジタル・コンピュータを発案したチューリングの論文は、実はヒルベルトの構想した完全な公理論的体系が存在しえないという、ゲーデルの「不完全性定理」を計算機のアルゴリズムによって証明したものだった。文字列の操作を行うプログラム自体を文字列で表現する、プログラム内蔵型コンピュータのアイディアのもとになったのは、自然数を計算する演算に自然数を対応させる「ゲーデル数」の概念だが、不完全性の生じる原因もこの「自己言及性」にある。たとえば「私は嘘つきだ」という言葉は嘘かどうか、「すべての集合の集合」は集合かどうか、というように自己を対象とする言明には、必ず非決定性が生じるのである。

 その根本的な原因は、これまでみてきたように、記号が意味を背負う存在であり、その結びつきが恣意的だからである。インターネットを流れる情報も、物理的にはただの電気信号にすぎず、それが大きな力を発揮するのは、このビット列を解釈する制度が全世界で共有されているためである。物理的な実体と切り離されたディジタル情報の世界でもっとも重要なのは、司法的な強制力でも金銭的なインセンティヴでもなく、意味の共有である。

 この意味で、一時は資本主義の寵児であるかに見えたインターネットは、実は資本主義と根本的に異質なメカニズムを持っている。21世紀に始まるのは、英米型資本主義の「グローバル・スタンダード」化ではなく、たぶん、資本主義を超えるまったく別の経済システムへの移行であろう。その最大の違いは、「物」をモデルとする資本主義に対して、「言葉」をモデルとする新しいシステムだと予想されるが、これ以上の議論は「考古学」の範囲を超えるので、ひとまずここで暫定的な考察を終わることにしたい。