HOME > COLUMN > 2001 > July 1, 2001

2001 - July 1, 2001

PACSとしての情報ネットワークを構想すること

July 1, 2001 [ 2001 ] このエントリーをはてなブックマークに追加

木村忠正

 筆者は2001年1月、『デジタル・デバイドとは何か~コンセンサス・コミュニティをめざして~』(岩波書店)を上梓させていただいた。この小論では、拙著で展開していたこと及びその後の思索を、「ポスト高度消費社会」(PACS:Post Advanced Consumer Society、「パックス」と読ませる)を構想するという観点から問い直したい。

 インターネット、移動体通信などの情報ネットワークは90年代後半から大きな変貌を遂げ、革新の速度はとどまるところを知らないように思われる。こうした情報ネットワークの変革は技術的革新にとどまらず、産業経済活動および社会全体に大きな影響を及ぼしてきていることも、また疑う余地はない。

 他方、日本社会は、90年代前半のバブル崩壊以降、大手金融機関をはじめとする相次ぐ大型破綻、過去最高を記録している失業率などに見られるように深い混迷の中にある。バブル崩壊から立ち直れないどころか、不況はますます深刻化しているといってよい。携帯電話を中心に情報ネットワークが普及しているようにも思われるが、社会全体の産業経済活動は一種の飽和感とデフレ感から逃れることができずにいる。「IT革命」「eビジネス」などの言葉が人口に膾炙していながら、様々な情報化指標をみると、主要産業国をはじめ多くの国々に比べ、社会全体の情報ネットワーク化を拒み続けているようにも思われる。たとえば、中小企業におけるインターネット接続率はいまだ40%程度であり、OECD諸国の中では最低水準にある。

 はたして、情報ネットワークが産業経済活動および社会全体に及ぼす影響とは何なのか。「デジタル経済」とはどのように革新的なのか。日本社会は、いまいかなる状況にあり、どこへ向かおうとしているのか。

 拙著は、「デジタルデバイド」という概念を手掛かりに、こうした問いに対して答えようとしたものである。「デジタルデバイド」というと、情報ネットワークへのアクセスがあるものはデジタル経済の果実をほしいままに享受し、アクセスがないと社会から取り残され、負け組に転落するといったイメージで、ジャーナリスティックに取り上げられることも多い。

 しかし、「デジタルデバイド」というのは、世界規模で産業社会が情報ネットワーク化されていくに伴い、「富とリスクの産出と分配」に関する構造が総体的に再編成されるという産業社会の歴史的展開において理解されるべきだ、というのが拙著の大きな主張の一つである。

 これまでの物理的時空間組織化においては、モノの流れ、ヒトの流れだけでなく、情報の流れも一定の「地理的隣接性」の範囲内で循環し、集積される傾向があり、「地域経済」や「商圏」が存立した。もちろん情報の場合、言語の問題もきわめて大きいが、遠隔地を結ぶ通信手段の容量が限られていたこともまた地理的隣接性を構成する決定的な要因だったであろう。

 ところが、インターネットとインターネットが作り出す時空間であるサイバースペースでは、「地理的隣接性」ではなく「ネットワーク隣接性」が重要となる。製造業における世界分業体制の場合、産業国が情報や知識といった高い付加価値を産み出す源泉をコントロールし、途上国には、部品や製品の製造といった付加価値の低い部分が「オフショア化」されてきた。それが「ネットワーク隣接性」によってつながれたサイバースペースでは、産業国も途上国も無関係だ。

 また、製造業に関わる知識やスキルは、それぞれの生産工程に特有のもので、文化的違いも大きく影響するが、IT関連の知識や技術の場合、新たな業務にも学習転移することが可能な要素が多く、業種、産業分野、国による違いも少ない。紙幅の関係から、ここではこれくらいにとどめるが、こうした変化は、「富とリスクの産出と分配」に関する世界システムの構造を大きく変革すると予測している。情報ネットワーク化に伴う「富とリスクの産出と分配」構造の再編成こそ、「デジタルデバイド」の最も重要な側面ではないだろうか。

 ご存知の方も多いだろうが、名著『第二の産業分水嶺(The Second Industrial Divide)』において、著者のマイケル・J・ピオリとチャールズ・F・セーブルは、技術的発展が産業社会においていかなる経路をとるかが決定される短い期間を「産業分水嶺(=デバイド)」と呼んだ。そして、大量生産技術が第一の産業分水嶺により出現したのに対して、現在(1970年代以降)、第二の産業分水嶺に産業社会は直面しており、柔軟な専門化体制へと移行しつつあると主張したのであった。筆者はこの議論を受け、「デジタルデバイド」とは、情報ネットワーク化に伴う世界システム再編成を引き起こす「第三の産業分水嶺」として捉えられるべきではないかとの問題提起を行ったのである。

 さて、この「第三の産業分水嶺」としての「デジタルデバイド」は、情報ネットワークに内在する特性から引き起こされる問題であると同時に、「高度消費社会の成熟」という産業社会の歴史的文脈に深く規定された問題でもある。むしろ、「高度消費社会の成熟」と「サービス経済化」の問題こそ、日本社会がそのもつ意味を十分に認識することが求められ、情報ネットワーク社会として、今後どのような社会を構想するかにとって中核となる問題だと主張したい。「ニューエコノミー」、「破壊的創造」、「IT革命」といっても、突然無から現われたわけでも、過去と一切決別した産業経済でもない。これまでの産業経済の発展、脱工業化や高度消費化といわれるような社会文化的変化の延長に位置することは間違いないのである。

 ここで、「サービス経済トリレンマ」という概念が大きな重要性をもつ。「サービス経済トリレンマ」とは、「製造業の黄金期」にもとづく高度成長が終焉し、高度消費社会として成熟していく主要産業国経済において、所得均衡、雇用確保、財政均衡という三つは「トリレンマ」(三者択一状況)であり、あとの二つを実現しようとしたら一つは犠牲になるという議論だ。

 この「サービス経済トリレンマ」という概念を受け、拙著では、「情報ネットワーク社会のあり方は、このトリレンマに対する社会的意思決定によって大きく異なり、類型化される」との仮説を提起した。

 つまり、情報ネットワーク社会が具体的にどのような形態で発展するかは、デジタル経済の特性、情報ネットワーク化に伴う産業経済活動の変化と密接にリンクしながらも、デジタル経済に内在する特性だけではなく、雇用、所得格差、財政負担という三つの要素に関わる政策、制度と密接な関係をもっているとの仮説である。

 アメリカ社会は、80年代「トリレンマ」に直面した際、「レーガノミクス」に舵を切り、所得格差を犠牲にした。その結果、社会経済的格差が垂直方向に大きく拡大した90年代半ばに登場したのが「インターネット」だったのだ。だからこそ、デジタル経済の恩恵は所得上位層に偏り、アメリカ社会固有の問題としての「デジタルデバイド」が生成したのではないかというのが筆者の解釈である。

 90年代、トリレンマへの対応において日本は財政赤字を拡大させたが、年間GDPをはるかに超える累積長期債務という犠牲と引き換えにした果実は、必ずしも大きいものではない。日本社会は、これまで強い製造業に支えられ、モノを生産し、流通させ、販売、消費する産業を拡大することで経済発展を遂げてきた。しかし、少子高齢化のディープインパクトはもう足元まできている。高度消費社会が飽和している状況で少子高齢化に直面したとき、過剰生産力と需要の価格弾力性の低下は激烈な小売競争を引き起こし、デフレ傾向は強まるばかりだろう。雇用創出力は弱く、失業率はこれからまだ高まり、所得格差もアメリカ並に垂直方向に拡大していることを示唆するデータもある。

 したがって、デジタルデバイドというのは、高度消費社会以降の社会をどのように構想するかという大きな社会的問いだ。どうも日本社会は、現状に対する比較的高い満足感がありながら、未来に対する大きな不安感を抱えている(子どもたちは自分たちよりも幸せにはなりそうもないとの感覚)ために、漠然とした将来への不安を抱きながら、現状維持を指向することで変革を拒み、現状の心地よさのみを求める社会文化的意識を醸成しているように思われる。しかし、このまま現状を放置すれば、情報ネットワーク化による世界システムの再編成の中で、日本社会はデジタルデバイドの弱者側に位置し、マイナス成長とデフレ進展という「縮み社会化」により、大きな社会的危機に直面する可能性もある。

 筆者がこのように危惧し、社会全体としての対応が必要だと考えるのは、21世紀初頭の10年間で、急速に少子高齢化が進む社会構造上の大転換を日本社会が迎えるからである。老年人口(65歳以上)対生産年齢人口(15歳から64歳)の比は、95年に、まだ1対5程度あったが、2000年でおよそ1対4に急減し、今後も、2008年には1対3、2013年には1対2.5と、現役世代に大きな負担が加速度的にかかっていく。すでに総人口、生産人口、就労人口ともピークから下り坂に入りつつあるのだ。より少ない生産年齢人口でより多くの高齢者を支えるためには、明らかに、日本社会は高い付加価値を生み出す人的資源と産業構造を必要としており、情報ネットワークの日用品化は、そのために不可欠だと考えられるのである。

 過剰なまでの商品開発力、生産力、流通力、販売力がありながら、すでにモノやサービスへの需要が飽和し、足りないのが「時間」であるような高度消費社会で、人口の減少は消費力の減少を意味する。日本社会がデフレになるのはあたりまえではないか。

 それでなくても日本社会は、モノを大量に生産し、流通させ、消費する産業経済分野が、他の産業国に比べて大きい。産業分野別の就労人口を他の産業国と比較すると、日本は、製造業、建設業、卸・小売、飲食業の合計が51.3%と、OECD諸国で唯一過半数を超える。高度消費社会におけるこうした産業分野は、競争が激しく、価格競争や労働条件の悪化を免れがたい。

 アメリカ社会は出生率が2ポイントを超え、消費社会として拡大再生産基調を保っている。天然資源も十分にあり、食糧も自給自足が可能な程度の生産力がある。だからこそ、モノやサービスすべてを商品化し、市場で調達するものとすることで、市場活性化と引き換えに所得格差が拡大することも厭わないのだろう。

 それに対して日本社会は、この10年で急速に進む少子高齢化の中で、情報ネットワーク化に対応せず、産業構造を現状のままにアメリカ型市場原理に追随すれば、困窮に瀕する高齢者たちが増加して大きな動揺が広がるとともに、中間層以下の社会経済的階層はデフレスパイラルの打撃を直接受ける可能性も高い。民間部門は競争による疲弊によって収益をあげられず、公的部門は、税収が回復するどころか支出ばかり求められ、収入のない状態に陥りかねない。

 第二次大戦後、日本社会は、文明史的に見ても類稀な豊かな社会を形成してきたが、高度消費社会が飽和した現在、次世代の社会を私たちがどのように構想するか、社会的富とリスクの分配に関するソーシャルデザインが切実に問われているのではないか。その意味で、「脱工業化」や「高度情報化」という概念に代えて、「ポスト高度消費社会」(PACS)という概念を筆者は提起したいのである。

 そして、情報ネットワークが持つ力とトリレンマへの対応という側面から、PACSとしての情報ネットワーク社会を構想し、今後の日本社会の針路を考える上で、示唆に富むのが北欧社会である。

 現在の日本における議論の多くは、デジタル経済の成長や社会の情報化を行うためには、アメリカのように強い自由市場主義社会であることが不可欠だと、暗黙裡に前提としているように思われる。市場原理さえ導入すれば、競争がおきて効率化するといった印象をもちかねない論調も多い。しかしそれは必ずしも自明なことではない。北欧のスウェーデン、フィンランド両国は、再分配経済を大きくし、様々な社会保障を手厚くすることで所得格差の拡大を抑制し、雇用を確保しようとしているが、それでもアメリカをはるかにしのぐ情報化を成功させているIT立国なのだ。

 議論の詳細は拙著を参照願いたいが、北欧社会のあり方を分析すると、日本社会が少子高齢化の大きな社会構造変化に適応し、広義、狭義のデジタルデバイドを克服するには、「社会的サービス部門の情報ネットワーク化」が最も重要であるように思われる。

 これまで日本のサービス産業は、卸売・小売・飲食業などの業種とそれ以外との二極化が顕著であった。それ以外というのは、金融、保険、不動産、エネルギー分野、通信産業、医療・教育・公務の社会的サービス部門、弁護士、会計、経理、監査などの専門的サービス業務で、これらは従来、さまざまな規制下にあり、競争原理が働きにくい産業構造を持っている。したがって、こうした部門は合理化が必ずしも十分ではなく、高いコスト体質を温存していながら、それぞれの分野が専門的知識を必要とすることと直接的な激しい競争に見舞われないがゆえに、比較的高い賃金を享受することができた。それに対して卸売、小売、飲食業などは競争が激しく、賃金水準、保障水準とも必ずしも恵まれる分野ではない。ところが先ほども指摘したように、日本の就労構造は、他のOECD諸国に比べ、こうした産業への従事者が10ポイント程度も高いのである。

 人口構造を含め拡大再生産基調にある時には、こうした産業を基軸とした経済を発展させることで高度消費社会を実現することが可能であっただろう。しかし、人口減少から消費力が飽和しつつある現在、こうした産業分野はデフレスパイラルの衝撃を直接受けることになる。さらに、eビジネスは卸小売などの物流をより一層効率化、合理化することとなり、雇用創出力は下がることがあっても上がることは期待できない。

 そこで鍵となるのが、これまで規制に守られ、「内弁慶」で通用していたサービス産業をネットワークに解放することである。情報ネットワークが社会に普及し、情報が流通することは、「情報の透明性」「説明責任」を明確にできない企業や組織は、ネットワーク上での信頼とプレゼンスを獲得することができないことを意味する。医療機関、法律事務所、学校、教師、研究者、行政機関など、ほとんどのサービス産業は、自らの活動とサービス内容をネット上に開示することが半ば必然となることにより、これまで逃れてきた競争に自らを委ねることが不可避となるだろう。

 教育をはじめ、従来規制に守られていた日本のサービス産業は、ネットワークに自らを解放すべき時が来ている。これまでの論調がややネガティブに傾いていたが、これはむしろ、日本社会にとって大きな機会と考えることが十分に可能だ。今後、新たな付加価値を生み出すためには、ネットワークを介して積極的に他の文化、社会と交流することが大きな力となる。これまで日本の産業経済活動は、製造業における高い技術水準、比較優位性、消費欲求充足産業における消費ニーズの掘り起こし、情報環境の構築や接客サービスなどに高いパフォーマンスを示し、多くの知を蓄積してきた。そうした知を、ネットワークを介していかに世界と結びつけるかは日本社会にとって大きなチャレンジであり、サービス産業がネットワークに自らを開く大きな意味の一つがそこにあると考えたい。

 それは量販・量産の工業化モデルと消費欲求充足産業の競争の中で蕩尽することではなく、新たに充実した「社会的ケアサービス」をつくりだしていく可能性を拓く。行政、医療、教育、金融、専門サービス、こうした諸分野が効率性を増し、海外から人と資本を引き付けるだけの力をつけることができれば、少ない生産人口でも高齢者をケアし、子どもたちを十分に育成できる環境を構築することが可能になるのではないだろうか。

 少子高齢化の影響が目に見えて顕在化するこの21世紀初頭の10年間は、日本社会にとって、自分たちは何に価値を見出し、どのような社会、生活を実現したいのか、また、PACSとして、いかなる情報ネットワーク社会を構想するのかが問われる10年だろう。拙著では、本文の最後に次のように問い掛けている。

 “日本社会は、情報ネットワーク化を拒みつづけることで「縮み社会」が加速し、産業分水嶺としてのデジタルデバイドのかなたに露となって落ちていくか、一部の人々だけ情報ネットワーク化し、ネットワーク隣接性を獲得して、社会内のデジタルデバイドが拡大するか、それとも、情報ネットワークを活用した共創社会(コンセンサス・コミュニティ)を目指すかの大きな分岐点にたっているのではないだろうか。そしてそれを選択するのは、社会であり、最終的には私たち一人一人なのである。”