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2003 - May 1, 2003
新ネットワーク理論の可能性を語る
May 1, 2003 [ 2003 ]
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公文俊平(GLOCOM所長)
丸田 一(GLOCOM主幹研究員)
公文 私の問題意識から話をしましょう。昨年おやっと思ったのは、いわゆるネットワーク理論が近年急激に進んできて、いろいろな興味深い発見や展開が起こってきているということです。その背景には、ここ20年ほど行われてきた、いわゆる複雑系(Complex System)の研究が、注目すべき成果を生み出しつつあることがあります。特に、それが社会的な事象に応用されたところに、今のネットワーク理論の展開があります。そう考えると、それがもっと以前の1950年代から、つまり私の言い方だと第一次情報革命が始まったときからとすれば、一般システム論の展開というのが非常に大きな柱になるでしょう。一般システム論の展開の中で複雑系の理論が出てきて、そしてその一つの流れとして、新しいネットワーク理論が出てきている。そのように整理をしてみると、昨今の展開はたいへん興味深い。私自身は、システム論の中でもマクロの、いわば進化するシステムが示す時間の流れの中での大きなパターンというものに非常に関心があったのですが、それとネットワークの、どちらかと言えば共時的というか、それぞれの時点で示す特性を比べながら、つないでいくことができないものか。
さて、ネットワーク論に関する本で非常に興味深かったのは、アルバート・ラズロ・バラバシの "Linked"(邦題『新ネットワーク思考』)ですが、同じころ、雑誌『ネイチャー』編集者のマーク・ブキャナンが、“NEXUS”という本を書いていて、ほとんど同じようなことを言っています。ネットワーク理論に突破をもたらした人物の一人、ダンカン・ワッツも、つい最近“Six Degrees”という有用な解説書を出しました。彼らの説明の中で私がとくに興味を惹かれたのは、ネットワーク理論が、形式の法則(Laws of Form)を問題にしているということです。つまり極端に言えば、システムを構成している要素が何かはどうでもいい。それが水なのか、グリセリンなのか、それとも何か個体であるのかはどうでもよくて、要素の間の結びつき方、ここが問題なのだという。そうすると、要素の中身は何であっても、それらがあるミクロ的な結びつき方のパターンを持っていると、あるマクロ的な法則性が出てくる。そのような法則性は、自然界であれ、社会であれ、全部共通しているような“普遍性”をもっているということが明らかになってきた。
これはいったい何だろうか。たとえばブキャナンが使っている“システム”という言葉は、全部“ネットワーク”に置き換えても通用します。つまり彼が問題にしているのは、システムとは、ネットワークとは、要素だけではなくて要素プラス要素の間の結びつきであり、その結びつきのパターンを考えなければならない。要素だけ考えていたのでは還元主義になってしまって、水の分子をいくら調べても、個体になったり、液体になったり、気体になったりするということはわからない。そういうイマージェント、創発的な現象というのがあるじゃないか。それは水の分子の結びつき方から出てくる。
公文 それを読んで考えるのは、実はギリシャ以来、いやことによるともっと古くから、われわれのシステム思考、対象をとらえる思考には二つの流れがあるのではないかということです。アリストテレスの言葉を使うなら“形相と質料”、エイドス(eidos)とヒュレー(hyle)、つまり形と中身です。“質料”を追う流れは、どんどん中身に入っていく。中身を見て、さらにその中身はどんな中身からできているのか、そのまた中身は何だ、と追いかけていくアプローチです。もう一つの“形相”の方は、そこに現れた形は何で、形にはどんなものがあり、形と形の間にはどんな関係があるのか、もっと大きな形は何だ、というように考えていく流れです。このように基本的に二つの方向がある。どちらもある種のシステム論と考えていいけれど、ネットワーク理論というのはどうやら後者の方、つまりヒュレーではなくエイドス、形相に重点を置いて考えていくものだといえそうです。
私が一般システム論を勉強して最初に注目したのは、質料のほうへ帰っていく方のアプローチでした。そしてそれは、1960年代から70年代の一般システム論の中心的な流れでした。その流れは、さきほどのギリシャ哲学もそうですけれど、ドイツのカントやヘーゲルの哲学とも密接な関係があって、たとえばわれわれが何かをつかまえようとするときに、対象を一つのもの、“1”として思い浮かべる。しかし、中を割ってみるといろいろあるので、“多”という観念が出てきます。数学的に言うと、集合とその要素という関係で「もの」をつかまえていこうとする。だから、たとえば、世界は陰と陽という二つの力でできているとか、あるいはクラゲ漂う混沌から分かれて空と陸と海ができたという見方、あるいは世界は地水火風という四大から成り立っているといったギリシャ流の考え方、木火土金水という五つの要素に分けるといった中国流の考え方があります。
しかし、そうやって集まりを要素に分けて考えると、今度はそれぞれの要素について、ある同一性の中での差異が考えられます。たとえば地水火風でいうと、同じ風でも強い風と弱い風があり、同じ火でも非常に熱い火とたいして熱くない火がある。水についても粘っこいものからサラサラしたものまでいろいろある。つまり、水なら水という同質的なものを基にして、しかし液体のあり方には、たとえば粘度という違いがあり、風には風速という違いがある、というように分けていく。すると一つの要素と考えられたものが、実はいろいろな値を取ることができる“変数”であると考えることができる。そして、現実にはその中からある特定の値が選ばれて、特定の速度の風があり、特定の温度の火がある。そうなると変数の値という集合が、あらためて考えられる。いくつもの要素があるとすれば、それらの値の集合の数学的にいう直積集合をとり、何次元かの空間ができる。つまり、われわれは最初の“1”としてのシステムをいまや空間、直積集合としてとらえるようになった。ところで対象はその空間の中どこにでもありうるのかというとそうではない。ある特別な領域ないし点にしか存在しえない。たとえばある商品の市場という空間を考えると、それは価格と取引量の次元をもっていて、価格×取引量の空間の中で、均衡するある一点にしか現実は存在しえない。こう考えると、空間には制約がかかっていることに気がつく。数学的にいうと、直積空間の部分集合(つまり数学的“関係”)しか存在できない。これを理論の“解”などという。それでは、そのような制約、つまり関係はどうして生まれてきたのかと考えていくと、いくつかの要素的な関係があってそれらを連立させると、その交わりとして均衡点ないし解が出てくる。つまり関係を生み出す関係が考えられるのではないか。これを“構造”という。つまり、“関係”は“構造”によって生み出される。こういうような考え方でシステムというか理論を構成していくのが、質料主義ですね。
これに対してネットワーク論的な形相主義は、要素の中身を問題にするのではなく、要素と要素がどうつながっているのか、どの要素とどの要素がつながっているのかというカップリングないしリンク、それから、直接のリンクをたどって行けば間接的にはどこまで行けるかというコネクションを考えて、リンクやコネクションの数や形に法則性を見出すことはできないだろうか、というところに行くわけです。ただし、そこまで行ったうえでまた質料主義に帰ってきて、そのような結びつきの種類はいくつあるのかとか、これを変数として表したらどうなるのかという問いを出していくと、そこから、つまり結びつきそのものが一つのシステムとして理解されて質料主義的に解析もできるというのが、今のネットワーク論かなと思います。
そんなことを考えていて、そうすると実は形相主義的な立場というのは一つではなくて、他にもあることに気がつきました。たとえば、スペンサー=ブラウンが“Laws of Form”(邦訳『形式の法則』)という本を出していますが、これとネットワーク理論がどうかかかわるのか興味が湧いてきます。とりあえずそういったことを考えています。
丸田 質料主義と形相主義の話を、大変おもしろく聞かせていただきました。最初に『新ネットワーク思考』を読んだときにも感じたのですが、近代科学の特徴の一つである要素還元主義が捨て去ってきたのが要素間の関係性であるので、今その反省にたって関係性がとりわけ強調されつつあるというのが自然な流れであると感じたわけです。質料主義が中心だった時代から、今度は関係性が何かということを深く追求していく形相主義の順番がやってきたという気がします。また、大きな本屋に行くと籠には『新ネットワーク思考』が並んでいて、社会的にも一種の流行が生まれつつあると実感しています。
公文 ティッピング・ポイントを通過したのかな。
丸田 そういう気がします。ただし、このバラバシの『新ネットワーク思考』という本はわかりづらい。読んでいけばいくほど混迷が深まり、最後まで読み切った時には、途中で止めておけばよかったかなと思ったくらいのわかりにくさです。
公文 その点はブキャナンの本がずっとわかりやすい。ワッツの本はさらにおもしろい。
丸田 そうですか。それほどに、この本の基礎になっている理論というのが、まだ発展途上にあるのは間違いないと思います。さきほど公文先生がおっしゃっていたネットワーク分析には、グラフ理論が応用されています。このグラフ理論は数学の一部ですが、しばらくの間、眠っていた理論です。多分、高等教育の下でも今は教えられていないと思います。それが、1990年代の後半に急速に発達しまたした。5年前のグラフ理論の本を買うと、今のものとは全く違う内容が書かれている。そのくらい変化が激しい。今これをウォッチしはじめたということです。
公文 それにコメントをつけると、二つあります。一つは、要素間の関係という言い方はよくするのですけれど、質料主義的に言うと、要素の何がどのように関係しているのかというところに興味があるわけです。ところが、形相主義的に言うと、それはどうでもいい。要するに、ある二つの要素がつながっているのか、いないのか、せいぜいその向き、こっちからつながっているのか、向こうからつながっているのか、というようなことを問題にする。つまり、それ以外は全部捨象してしまうわけです。だからこそ、広い普遍性を得ることができる。生き物であろうと社会であろうと関係がない。
その場合に、そこから出てくる法則性の、何に主として注目するのかということが、実は三人それぞれの違いでおもしろい。ブキャナンが注目しているのは、スモールワールド性という性質です。バラバシは、もっぱらベキ法則のことを強調します。ワッツは、スモールワールドを形作っている経路(コネクション)をネットワークの各要素がどうやって知りうるのかを問題にしています。
スモールワールド性というのは、ネットワークの任意の要素から出発して、ほんの数段階のつながりをたどっていけば、他のどの要素へでも行き着けるという性質です。たとえば人間社会には、世界全体で60何億もの人間がいるのに、わずか6段階ほどで地球上の誰とでもコンタクトできるというような性質がある。普通に考えると、人間社会は、家族、職場、同窓生関係などといった“クラスター”の中では緊密につながっている。全員がお互いによく知り合っていて、緊密にリンクされている。しかし、そのつながりは基本的に個々のクラスターの中で閉じていて、外には出ていかない。日本人がよく、われわれはそれぞれ閉鎖的な集団(“ムラ”)を作っていて、みんなそれぞれ特殊な事情をもっているというような言い方をするのですけれど、もし、社会がそういうものであるならば、スモールワールド性は出てこない。ところが実際には、そういうクラスターが至るところにあるにもかかわらず、なぜか全体がスモールワールドになっている。では、いたるところにクラスターのあるネットワークがスモールワールドになっているのはなぜか。この問いに対しては、答えが二つあります。それは、ブキャナン流の定義で言うと、平等主義的なネットワークと、貴族主義的なネットワークです。
平等主義的なネットワークとは、マーク・グラノベッターという社会学者が最初に言いだした「ウィークタイ(弱い結びつき)」をもっているネットワークです。つまり、遠く離れたクラスター同士が少しだけ互いにつながっている。ある村は基本的には閉じているのだけれど、一人だけ若いころ放浪して外国にいて帰ってきている人がいる。その人は別の国に知り合いを何人か持っている。ある家の次男坊は、東京に出て商売をしていて、その業界に多くの知人がいる。そんな人たちが、クラスターの中に少しいる。不思議なことに、クラスターからできている基本的にはばらばらのネットワークに、そうした比較的少数の、しかし遠くの他のクラスターにつながっているという関係が含まれていると、全体としてはスモールワールドになって全部が短い距離でつながるのです。
もう一つのタイプは、ネットワークのあちこちに、“ハブ”とか“コネクター”と呼ばれる、他の要素に比べて圧倒的に多くのリンクをもっている要素が、散らばっているものです。たとえば空路のネットワークでいうと、ほとんどのローカル空港は一つないしごく少数のハブ空港と結ばれている。だから、何回も乗り換えなくても、ハブ空港経由で他のどの空港にも行けるようになっている。これが貴族主義的ネットワークです。このようなリンクの不均等構造は普遍的にあって、所得の大きさや、都市の人口ないし都市間を移動する人口などで見ても、少数の金持ちが圧倒的な富を所有しており、少数の都市に圧倒的に多くの人間が集まっている。このような貴族主義的ネットワークの中でのリンクの分布は、正規分布ではなく、著しく不均等ないわゆる“ベキ法則”に従う分布をしている。しかもそのようなネットワークが社会の中に見出される率は非常に高い、というのがバラバシの主張です。
ただし、ブキャナンに言わせると、そういう傾向はもちろんあるけれど、でもそれだけではない。どこまでも大きなコネクターになっては行けないような制約がいろいろあって、社会の場合ですと、あまり一人に富や権力が集中するのはよくないとか、多くの人があまりにも貧乏なのはよくない。政策的に、底を上げようとか、上を潰そうとかいった介入がなされる結果、貴族主義的な構造が歪み、場合によっては壊れてしまう。どちらかというと平等主義的なネットワークのほうに寄っていくという傾向もあります。それはいいとして、平等主義的なネットワークについての分析はまだまだ足りない。基本的に不十分だという感じがします。
丸田 こういう考え方はできないでしょうか。ブキャナン流の関心とは、構造やシステム、ネットワークの中に取り込まれた個人が、ある個人との関係を作っていくときにどうなのだという立場をとっているのではないでしょうか。エゴセントリックなネットワーク分析と言いますか、ある点から発して、ネットワークの要素となっている他の点と関係を結ぶために、どこまで何次元で飛んでいけるのかという話大きく言うとネットワークの直径の議論になると思いますがをしているのではないのですか。一方、バラバシ流の関心は、どちらかというとネットワーク全体を見ている。全体を見渡したときに、各ノードが持っているリンクの数などを見てみると、それがどんな法則に従っているのかに着目している。同じことを部分から見るのか、全体から見るのかといった違いではないかという気がします。正規分布型とベキ乗分布型、平等主義型ネットワークと貴族主義型ネットワークというのは、どちらにもついてまわることで、全体を見ても、部分を見てもその話はできる。それは、ネットワーク分析についてまわっている問題だと思います。
公文 いや、問題の根っこが違うと思うんです。ブキャナン流の関心は、まず、大きなネットワークがたくさんの要素を持つにもかかわらず、その要素間のコネクションは非常に強い。つまり分離度(Degree of Separation)と言いますか、何段階でどこへ行き着けるかそれを直径と言ってもいいでしょうをみると、それが非常に小さいネットワークが多いということに気がついて、これをどう説明するかというところにあります。そこで二通りのネットワークのタイプがあるという話になっています。
公文 バラバシの理論がわかりにくいのは、本来は必ずしもネットワークの話ではなくて、つまり100年以上前からヴィルフレード・パレートの名前と結びついて知られていたのは、ネットワークよりもむしろ、ある集団があったときにそれぞれの個体が持っている性質の分布が、いわゆる正規分布ではないものがあるという話が、ネットワークの話と一緒になっているためもありそうです。たとえば、菜園から取ったエンドウ豆を調べてみると8割のエンドウ豆は2割のさやからきているという関係がある。あるいは2割のお金持ちが8割の富を握っている。こうした現象の説明にはネットワークという概念を持ち込む必要は必ずしもない。もちろん、ネットワークに引っかけて説明することはできるかもしれないけれども、むしろそれよりは、システムの個々の要素が持っている性質の散らばり方に正規分布ではないものがあって、それが社会の場合に非常に顕著に見られる。そのことは、われわれの多くが心の中に持っている平等主義的な価値観と著しく反する。そういう少数者に、権力や富や力が集中するのはおもしろくないじゃないか。でも現にそうなっているのはなぜだ、といった疑問や関心が生まれる。しかしそれは、スモールワールド性とは直接には関係がない。
バラバシ自身は、両方について論じています。つまり、ウェブのページというネットワークを考えたときに、ウェブのページにはリンクが張られている。あるページから他のページにリンク(アウトゴーイング・リンク)が張られていて、そこをクリックすると向こうに飛べますね。逆に他のページからこちらにリンク(インカミング・リンク)が張ってくれてあって、向こうでクリックするとこちらへ飛んでくることができる。自分のウェブのページを多くの人に見てもらうためには、何とかしてインカミング・リンクをたくさん張ってもらうことが決定的に重要になる。するとあっちこっちで、たとえばGLOCOMに行くリンクが目について、そこをクリックするとGLOCOMのページに飛んでくる。もちろん、インカミング・リンクを張ってもらおうとしたら、こちらからも他のページにリンクを張っておくということが大事でしょうけれど。世の中には勘違いして、「勝手に俺の財産にリンクを張るな」という人もいて、それでは何のためにウェブサイトを作ったのかがわからないじゃないかと……(笑)。ともあれ、バラバシが関心を持ったのは、ウェブの直径はどのくらいあるだろうかということで、調べてみると19ぐらいだった。つまり、何億もあるウェブのページのほとんどに、平均して20回弱のクリックをすれば飛んでいくことができる。実際は例外もいろいろあるのですが、平均だとそんなものだということに気がついた。人間社会の6よりは、だいぶん距離は大きいけれど、それでもそのくらいの距離で何億ものページのどこへでも行けるとすれば、やはりウェブの世界もスモールワールドだと言わざるを得ない。それからもう一つ彼が気づいたのは、リンクの数の分布です。正規分布だと、どのページにも5、6のリンク、多いもので10いくつ、少なくて2つぐらいといった形になるでしょう。ところが、実際はYahoo! などのように何百万、何千万というリンクがそこへ向かって張られているようなページ、いわゆる“ポータル”と、ごく少数ないしはゼロ、つまり誰もそれに対してはインカミング・リンクを張っていないページとがあって、後者の割合が圧倒的に多い。その散らばり方を図に書いてみると、内側に向かって湾曲しているようなカーブになる。圧倒的多数はごく少数のリンクしか持っていないし、逆にごく少数が非常に多くのリンクを持っている。それがベキ法則に従う分布なのですが、これは実はパレートが発見した法則の世界と直接関係しています。インターネットのように、ある意味で非常に民主的に、誰がリンクを張れと強制しているわけでもない、みんなが自由な意思で好き勝手にやっているのに、その結果がなぜこんな著しい不平等、不均等になるのかがおもしろいというか、あるいは不愉快に思われるところです。
丸田 貴族主義的ネットワークと平等主義的ネットワークは、ネットワーク構造の違いといえると思いますが、最近、グラフ理論を少し勉強して思ったのは、ネットワークの分析は、構造以外にも見ていく必要があるという点です。ネットワーク上の他の点に何段階で飛んでいけるかというのは、ネットワークの直径を示しています。ネットワークの構造というのは直径だけで測れるものではないのですが、その他にもいくつかの分析をして、まずはネットワークの構造を理解する必要があります。その次には、ノードの値についても見ていく必要があると思います。そもそもネットワークというのは、要素の一つであるノードに対して分配する機能を持つと考えられます。ネットワーク全体にある量を投げるとネットワーク構造に従って各ノードに分配が行われる、各点に配分されるということです。配分された結果が各点でどうなっているのか、これに法則性を与えたのがジップの法則であり、またパレートの法則で示された結果だと思います。
公文 それは、ネットワークと、そうでない普通の要素とが合わさっているという話ですね。
丸田 はい、そうです。ネットワークがベキ法則に従っている構造を持っていると、各ノードに配分された結果もベキ乗に従うということです。配分された結果というのはサイズの確率密度分布ですが、その現れ方がその構造に従うのではないか。この仮説が成立するとすれば、ネットワーク構造はネットワーク上に現れる現象の原因といってよいのではないかと思います。たとえば平等主義的なネットワーク構造があって、その状態が長い時間あり続けると、結果として各要素には平等の結果がもたらされる。そういった構造と結果の関係があるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

公文 今の点は、こういうように言い直すことができるでしょう。たとえば組織ではなくて個人の世界で考えると、個人の間で、売ったり買ったりという、いろいろな取引があります。これをネットワークのリンクの関係だと見ることができる。そして、そのリンクだけでいうと、そこにもある種のベキ法則があるかもしれない。ある人は非常にたくさんの取引関係をたくさんの人と結んでいるが、普通の人はごくわずかな取引しかしていない、という話です。その話と各人が持っている資産、富の大きさ、これも非常に大きな富を持っている人と、わずかな富しか持っていない人がいるという関係がある。その理由を丸田さん流にいうと、要するに富は、取引をした結果としてたまっていくものであって、たくさんのリンクを持った人が多くの富を獲得するようになるというのは、リンクのある結果なのだ。富というのは、直接にはリンクとは何の関係がなくて、ノードそのものが持っている性質です。あるいは都市の人口というのは、都市をノードと考えるとノードそのものが持っている性質です。ところが都市に人が入ってきたり出ていったりするのは、リンクの関係から出てくる性質です。しかしその両者の間には実は密接な関係があって、基本的に同じ法則に従っていると見ることができるというのが、今の丸田さんの話ですね。
それはそれとして、ブキャナンの問題意識は、そうではなくてスモールワールドから来ていますから、完全なクラスター構造を考えると、ある人は近くの4人とつながりがある。隣の人も近くの4人とつながりがある。こういうネットワークを考えると、すべてのノードはリンクの数が全部4で平等です。その場合は、端から端まで行くには非常に長い距離を行かなくてはならないから、スモールワールド性は出てきません。その中で、たとえばAさんが持っているリンクの中の1本をうんと遠い人と直接つないでしまう。また、Bさんのリンクの1本も別のうんと遠い人と直接つないでしまう。Aさん、Bさんの持っているリンクの数自体は4本で変わりませんが、そういうつなぎ替えをちょこちょこやっていくと、あるところで突然、ネットワークの距離が小さくなる。そしてスモールワールド性が現れる。これはベキ法則とは何の関係性もない。なぜなら、各人がもっているリンクの数は、新しくつながれた人は一つ増え、切られた人は一つ減りますから、全員が同じというわけではないにしても、そうしたつなぎ替えがランダムに行われているかぎりでは、各人がもつリンク数の分布は正規分布型にしかなりえません。したがって、スモールワールド性という特性においては同じなのに、またクラスター性という特性も同じなのに、二つの違うタイプのネットワークがあって、一方のネットワークにはハブがない。つまり、一方にはリンクの数がほぼ同じか、たかだか正規分布型をしている平等主義的ネットワークがあり、他方には、極端に多くのリンクを持っているコネクターと呼ばれるタイプの人と、ほとんどリンクを持っていないその他大勢の人がいるネットワークがある。この後者のことをブキャナンは、少数の人が強い立場を持つという意味で貴族主義的なネットワークと呼んでいるわけです。でも、どちらもスモールワールド性を持つという点では同じ、つまり、比較的少数のホップでどこへでも行けます。
すべてのノードが両隣とその隣の計4本のリンクを持つ円環状のネットワークを考えると、反対側のノードに到達するには何ホップも経なければならない。ところが、あるノードのリンクを反対側の任意のノードに付け替えると、経過ホップ数が激減し、突如スモールワールド性が現れる。ブキャナンは、こうしたネットワークを平等主義ネットワークと呼んでいる。
丸田 そこは大変おもしろい点ですね。ベキ法則に従う貴族主義型ネットワークは高い効率性をもっているものの、各ノードは決して平等にはない。しかし、もしかすると、同じ能力を持ったノードによる平等主義型のネットワークによって、貴族主義型ネットワークと同じ高い効果がもたらされるかもしれない。そういう意味で、研究の価値が高そうですね。
われわれは今、近代化の後半にいるわけですが、その中で、結果の平等や、機会の平等を求め続けてきたのだと思います。平等たらんと、平等を実現するための手段について模索を続けてきた。近代の中で平等は自由と共に一つの大きな理念でした。ところが、ベキ法則は、社会は本質的に平等でないと言っているに等しいわけで、そこをどう解釈するか難しいところです。それに対して企業経営の分野では、競争はそもそも不平等であることを知っていて、さまざまな形でベキ法則の解釈を展開しています。パレートの法則もそのような形で広く企業経営に応用されています。
公文 ともかく事実としてベキ法則的な分布が、ネットワークであれ、要素だけに注目したシステムにおける要素間の性質の分布であれ、広く見出される。すべてではないが、社会とか生物系には広く見出される。広く見出される理由は何かということに問題の核心がある。知りたいのは、それはどうして生まれているのだろうか、変更の可能性はあるのかということです。さっき丸田さんが言ったのは、ネットワークの各要素がもっているリンクとは直接関係がない性質の分布の不平等も、実はリンクの分布の不平等と間接的なかかわりがあるのではないかという話でした。それでは、リンクの不平等自体はなぜできるのかと訊かれるわけですから、それに答えなくてはいけない。結局同じところへ帰ってくるわけです。
残念ながら私はまだ詳しく読んでいないのだけれど、フランスのブショーとメザール(Jean-Philippe Bouchaud, Marc Mezard)が共同で研究して1990年ごろに発表した論文がそこに焦点を当てていて、たいへん注目されたらしいです。彼らは、最初、全く平等な富の分配から出発して、いろいろな人に取引や投資をさせる。特に誰かの力が強いとかいうことではなしに、個々の取引や投資の成功率は全くランダムだという場合でも、それを何回も繰り返させると、全体としての成功の分布はベキ法則に従うようになってくるということを見つけた。つまり、何かちょっとした差が偶然つくと、後はそれが累積していくという話です。それと直接関係があるかどうかわからないけれど、ブキャナンが引用しているおもしろいケースに、こういう話があります。黒人と白人が一緒に住んでいる社会で、そして全員が人種差別には反対で、入り交じって住むことに何の抵抗も覚えない。にもかかわらず、誰も強制しないで放っておくと、ある条件の下では、白人と黒人が完全に分離したコミュニティができてしまう。その場合の条件というのは、ある白人は「黒人と一緒に住むことには全然抵抗を感じない。ただし、自分たちが少数者として黒人社会の中に住むのはおもしろくない。仲間が一緒なら混在してもかまわない」というものです。人々がそのような条件をもとにして住居を選んでいくと、結果的には100%きれいに分かれてしまうということです。つまり、白人だけのコミュニティと黒人だけのコミュニティが、入り交じって出現するというのです。ですから、人々の行動が持っているちょっとしたズレというか偏りが、たまりにたまって非常に極端な不均等状態を引き起こす。それは誰が強制したわけでも計画したわけでもない。みんな自分で自由に決められる。しかし今の例で言うと、隣を見てたとえば「こんなに黒人が多いところはちょっと……、もう少し白人が多いところに行きたい。そのほうがより平等でいいじゃないか」と思って行動する。これなんです。それから人気投票だと、「あえて私が人と違ったことをすることもないじゃないか。あの人が人気ありそうだからそっちに投票した方がいいかな」というようなことを考えて投票したとすると、票が特定の人にワッと集まってしまう。それはなぜだろう。
丸田 ブショーとメザールの論文と似たような論文(河村健士「企業の所得分布のジップ則」2001年2月28日)があります。これは、極めて単純なモデルを作って、企業の所得と順位の関係をシミュレーションしています。順位の入れ替えが起こることを前提に、入れ替えが起これば直前の順位の企業が、自分に対して30%の所得の受け渡しをしてくれる、逆も全く同じようにするというシミュレーションをしています。全体をシャッフルするときに所得の移動が起きますが、それを1回と見なして、6回、7回繰り返していくとベキ法則に従う。成長というか、変化を継続的に起こしていくという単純な条件です。いろいろなシミュレーションがなされていますが、いわゆる成長という条件を入れるとベキ法則に従う。もう一つ、優先的な選択という条件もあるのですが、ここでは優先的な選択はしていない。そういう意味では、成長が唯一の条件です。成長させていくコミュニティをネットワークというようにとらえると、ベキ法則に従うということが何となくわかってきた。
公文 そのこと自体は、もっと前からわかっています。要素が新しく付け加わっていくネットワークであれば、個々の要素の成長率は等しくてもベキ法則になる。なぜかと言えば、一番早くに入ってきた者が一番得だからです。
丸田 なるほど。
公文 そうすると、じゃあ一番古い人がいつも一番大きいのかというと、必ずしもそうではない。というのは、別の条件が入るからです。ちょっとしたきっかけで入れ替わりは起こるけれども、全体の形は変わらないということです。
丸田 公文先生から、社会現象にベキ法則的な分布が見られる理由について問いが投げかけられました。それに答えなくてはいけないと。理由になるかどうかわかりませんが、自己相似性、自己同一性はそれを考えるうえでヒントを与えてくれると思っています。自己相似性とは、大きさは変わっても自分の形を変えないという性質で、空間で自己相似性を展開すればフラクタルになり、時間軸で展開するとf分の1ゆらぎが現れるわけです。ベキ法則に従う社会現象にも、あるとあらゆるところに自己相似性、自己同一性が見られるということだと思います。
f分の1ゆらぎとは、周波数を横軸、縦軸にパワー(dB)をとる両対数グラフの上では、マイナス1の傾きを持つ分布として現れます。たとえば音を考えてみると、低い音は、周期が長く、同時にものすごくパワーを持っており、高い音は周期が短く力は弱いものです。それが、高い音も低い音も一緒に耳に入ってきたとき心地よく感じるのは、低く強い音は減衰して自分に届き、高く弱い音はほとんど減衰することなく届くという一種の秩序が存在するときです。このような秩序のあり方を、f分の1ゆらぎという自己同一性、自己相似性が示していると考えられます。
たとえばこれを企業にあてはめてみると、大企業と小企業という全く大きさの異なる企業が同時に存在するために必要な秩序として、自己相似性を持つ、つまりベキ法則に従う社会システムがあるといえるのではないかと思います。
公文 もっと広い、普遍性があるかもしれない。要するに、世界が、あるいは物事ができていくときは常に、基本的に同一のやり方をどこまでも続けていく。次から次に展開が見られるという関係は、普遍的にあるのではないだろうか。われわれは昔、村上泰亮、佐藤誠三郎、公文俊平で「文明としてのイエ社会」という共同研究をやったことがあるのですが、そのときに気がついたのは、日本のイエ社会の作り方です。平安時代の末期以降に作られた社会システムは、イエというコンセプトが中核になっていて、あるレベルの小さなイエを作って、次にシステムを発展させるときは、この関係を基本的には残して大きなシステムを作る。あるいは少なくとも名前は残す。大きいから、ただ単に“イエ”とは言わずに「おイエ」と言う。それぐらいの違いはつけるのですけれど、その上にもっと大きなものを作ってもやはり構造は同じです。そのようなシステムの作り方を「倣い拡大」という言葉で呼んだのです。モンゴルの社会でも、名称そのものは同じものを残しながら、しかし、上へ、上へと規模を拡大していくようなシステムの作り方をしているという話を聞いたことがあります。もちろん自己組織の形はそれだけとは限らないかもしれないけれど、きわめて有力な自己組織のやり方は、毎回似たようなやり方を繰り返していって自分を大きくしていく。そして、それを各人がどんぐりの背比べ状態から始めたとすると、早く始めたほうが当然一番大きくなっている。時間の中で言うと、そういうことでベキ法則分布になるかもしれない。
ただ、そこまで言ったうえでさらに言うとすれば、それでは世の中では、ベキ法則がいつでも妨げられることなく発動してしまうのかと考えると、そうはいかない場合が少なからずあるのではないか。一つは、人間の世界で言うと、あまり大きくなりすぎるのはけしからんから人為的に潰してしまえとか、あまり小さいのはかわいそうだから助けてやれ、引き上げろという歪み、というか修正する力が加わってくる。同時に、そのシステムが置かれている環境からくる制約も、当然ある。たとえば、生き物があまり巨大になり過ぎると食べ物がなくなるとか、神経の信号伝達速度に比べて体躯が大きすぎると機敏に動けなくなるために、他の点では有利だったかもしれないか、その点で不利になって潰れてしまうというものもあるでしょう。それから小さいほうも、あまり小さいところからスタートしたら、そもそも生きていけないから、すぐになくなってしまう。それで、あまり小さいものもない。このようなことがあると、ベキ法則の世界に制約がかかって、その妥当範囲が変わってくるかもしれません。そうだとすれば、あるシステムに見られる分布構造にベキ法則を適用してみると、真ん中はよく合うのに両端がうまく合わないという現象になるのも当然かもしれない。ブキャナンの本で初めて知ったのですが、数学者がアメリカの空路のネットワークを調べてみると、典型的なベキ法則に従っているのかと思っていたらそうではなかった。ある程度以上に大きくなりすぎると、空港として機能できなくなる。それ以上はだめというような頭打ちがある。その結果、似たようなサイズの空港が別の場所にできる。そこではむしろ、ネットワークには平等性が出てくるのだそうです。
丸田 そこは簡単に調べられるので、調べてみようと思います。上位の規模の大きな空港が頭打ちになっているのか、そもそもベキ法則が見られないのか、そこは見てみたい。
公文 そこで見られる、見られないというのは程度の問題、あるいは見方の問題でもあります。無理に正規分布だと見ることもできるわけです。ただし、相関係数は0.3だとかね。そういう話でしょう。
丸田 それはそうです。ただし、たくさん先行研究が行われているので、どの程度の説明力を持っていれば、ベキ法則があてはまるといえるのか、大体わかっています。
公文 もう一つ思い出したのですが、インターネットのウェブサイトで、比較的初期のころにとった統計で見ると、大きく見るとベキ法則に従っているのですが、規模の大きいところはきれいに並ばずに頭打ちになって、同じようサイトがゴロゴロある。つまり突出しないという特徴がある。しかし、全体として見ると、非常に高い適合率で合っているからベキ法則に従っているといわれているのだけれど、でも図を見ると、これは違うのではないかという感じもします。
丸田 話は戻りますが、さきほどベキ法則的な分布が見られる理由について、自己相似性の時間展開ということでf分の1ゆらぎの話をしたのですが、空間で自己相似性を展開したものはフラクタルです。フラクタル構造を持つ絵というのは、いろんなタイプのものがあります。フラクタルは、拡大しても同じ図形が出てくるという非常におもしろい性質を持っていて、直観的に見て美しいわけです。空間の秩序を体現したような形になっています。全体の美しさを作っているものは何かというと、大きなものばかりで構成されているわけではありません。大きいものもあれば、その内側に小さいものも隠れている。それがあってこそ全体が美しく見える。全体の秩序とか美しさというのは、大きいものだけが、80対20の法則でいうと、20だけが作っているのではなくて、残りの80の小さいものがたくさんあることが、秩序を作っているというように言い換えることもできると思います。秩序を作るという意味で、大きいものも小さいものも価値は同じであるということが言えるのではないでしょうか。
公文 それは非常に、半分魅力的で半分危険です。魅力的というのは、そういう見方を取ることでみんな気持ちが安まる。つまり、尻尾のほうにいても、「私もそれなりの役割を果たしているのだなあ」と思える。逆に、この秩序が嫌いなアジテータにとっては、それこそ危険な、民をだます論理に聞こえる。「お前たちそんなことで納得しちゃいけない。この秩序に反対して立ち上がれ」といったような議論にもなるわけです。
丸田 これまでのネットワーク分析は、対象とするネットワーク、あるいはノードの集合を一律の性質を持つものとみなしてきました。しかし、これらをいくつかのグループに分けてみると、それぞれ全く違った性格を持っていることがわかってきました。異なるグループが複合して全体を形作っているということがわかります。これは、さきほどの頭打ちになるインターネットのウェブサイトの話にも関係しています。
ジップの法則の分析結果などに共通して見られるのは、順位の高いところと順位の一番低いところが、ベキ関数の傾きに対して下振れしているという点です。ジップの法則の場合、順位の高いところだけ抽出して、これにベキ関数への回帰を試みると、ベキ次数(ジップ次数)が低くなっていることがわかります。これは、順位の高いところではあまり競争が起こっていない、入れ替わりが起こらないということを表しています。逆に順位の一番下のところというのは、全体としてのベキ指数(ジップ指数)が-1 の傾きであっても、取り方にもよりますが2から10という大変高い傾きをしている。これは、淘汰というか、入り替わりが盛んに行われていることを表しています。たとえば企業の盛衰で言えば、ベンチャー企業はそこに位置している。成功するベンチャー企業というのは、100社に1社あればよいほうだと言われますが、まさにそういった経験則を説明してくれているというように思います。
都市人口の順位を横軸、都市人口を縦軸にとった両対数グラフに、実際の国内都市(市町村)をプロットすると、ほぼ-1の傾きもった直線(ベキ乗関数)にあてはまることがわかる。これを指して、国内都市人口の分布がべき法則に従うという。なお、上位都市群と下位都市群の人口は理論値よりも下振れしています。

公文 それは重要な視点だと思います。今後、もっと気をつけて調べていかなくてはならない。なぜかというと、一方でわれわれは、たとえばシステム全体の規模について、いわゆるS字波に従った進化をするのではないかと想定しているわけです。しかもいわゆるロジスティックカーブのような、ゼロから始まって一番頂点まで緩やかに近づいていくというのではなくて、行き過ぎてバブルになってから下がるような形もあるのではないか。そのほうがもっと普遍的ではないかと思っているわけです。ということは、成長するネットワーク、つまりノードの数が次々と増えていくネットワークを考えると言っても、単純な指数的成長はありえない。つまり、毎年5%ずつ新しい企業が入ってきて、2%ずつ脱落していき、その結果、毎年3%ずつ増えていくというのであれば、指数関数のカーブになって、どこまでも右肩上がりの成長をしていかなければならない。けれど、そういうことは世の中にはなくて、どこかで頭を打つ。その頭打ちは、今の場合は時間の中のある特定の局面で現れてくるという話だけれど、S字波的成長の初期のごく緩やかにしか伸びていない局面と、急激に発展する局面と、そして頭を打って安定する局面は同じ法則というか、関係式に従っているのではない、つまり同じ指数の値をもつ指数的成長のカーブに乗っているのではなくて、それぞれ別のカーブの上に乗っているという可能性も考えられる。
また、同じ時点において、同一のシステムと見えるものが、実はいくつかの違ったシステムの複合体だと解釈できる可能性もある。たとえば企業の集団は、単純に一つの種類のものではなくて、いくつかの種類の異なる集団があって、集団AはS字波的成長の流れで言うと初期の出現局面にいるかもしれない。集団Bは全体の流れで言うと「いけいけどんどん」型の成長をしている突破局面にいるのかもしれない。さらに集団Cはもう盛りを過ぎて、成熟局面に入っているのかもしれない。それらを全部一緒にくくって単一の指数値をもつベキ法則を当てはめてみると、一応は合うようだけれど何かちょっとおかしいというような感じになるのではないか。とすれば、むしろそれぞれの集団を分離してみることで何か別のものが見えてくるかもしれない。その見え方をうまく使うと、S字波そのものの性質もよりよく理解できるかもしれない。そういうところが今、私の非常に興味のあるところですから、先ほどの丸田さんの発言は良いヒントを与えてくれるものだと思います。
丸田 成長局面ごとに、それを説明する関数形が違うという仮説ですね。それに従っていうと、成長局面ごとに、あるグループが全体に占める割合が高くなっていくということが言えるかもしれません。たとえば大企業病を例にとると、会社を作って10年も経つと、若者グループもその他の年齢階層グループも、その年齢に関係なくみんな成熟化してしまう。本来、若者グループが持っていた進取の精神や前例を壊す傾向が、会社全体としても失われてしまうということではないかと思います。
公文 そこをもう少し言い直すと、どの時代にも子供も若者も老人もいる。しかし、ある時代の若者を次の時代の若者と比べると違った性質を持っている。たとえば、前の時代の若者は非常にハングリーだけれど、次の時代の若者はもっとのんびりしている、あるいは覇気を失って老人みたいだとかいうような違いはある。全体があるパターンをたどって変化していくなかで、部分を取ってみるとそれぞれは若かったり老いたりしているのだけれど、それは同時にまたより大きな全体がどこに位置しているかによって性質を異にしているという、つまり成熟期の若者と突破期の若者は違うというような関係が多分あるだろう。
丸田 そうですね。脱線しますが、私の母は自宅で英語を教えていますが、小学生から社会人にいたるまで、どの年令層も話題がほとんど同じだと言うんです。これは非常にべったりとした、新しいものが生まれにくい社会になりつつあるのかなという気がします。そういうところに、S字波の成熟局面の特徴が顕著に現れているのかもしれないですね。
公文 今回の議論は、われわれの出発点としてはとても意味があったと思います。あと何回か、この場での議論を続けていきたいものです。
ネットワークの理論が急速に発展し始めたのは、この5年ばかりのことだそうですが、ここにきて一般向けの解説書も次々に出版されるようになり、広く注目が集まってきました。その影響はこの学問分野の外にも及び、多くの人がスモールワールド性やベキ法則のもつ社会的、政策的含意をめぐって活発な議論を始めています。私たちとしては、そうした議論にも目配りを怠ってはなりませんが、同時にS字波とベキ法則の関連について、あるいはさらに広く新ネットワーク理論と情報社会学との関連について、理論的研究だけでなく、実証的な研究やシミュレーションも積み重ねていきたいものです。
たとえば、最近ではウェブログの世界で活躍している伊藤穣一さんは、何十人もの仲間と一緒にベキ法則と民主主義の問題をウェブログ上で議論して、それをもとにした「創発民主政」という英文の論文を発表しています。私はその翻訳のお手伝いをする約束をしたので、出来上がりしだい伊藤さんにも参加してもらって研究会を開きましょう。
(2003年3月19日GLOCOMにて収録)