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2003 - December 1, 2003
「価値の選択」を前提とした社会構想
December 1, 2003 [ 2003 ]
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鈴木謙介(東京都立大学大学院博士課程)
『スマートモブズ』におけるラインゴールドの主張を批判することは、人によってはたやすいことかもしれない。実際、この本に対してはその理論や図式にさまざまな批判が投げかけられている。本当に繰り返しゲームを通じたルールの創発はあり得るのか、モバイルネットワークが政治を変えるのか、というのは、確かに私たちの社会的な実感からすると突拍子もなく、冒頭の「渋谷の女子高生」から「協力しあう群衆」までの距離は途方もなく遠いのではないかと思わせられる。
ただ、この距離ゆえに本書を楽観論として片づけるのは的を射た批判だろうか。問題は、私たちが彼の描く社会像に納得するかという点ではないか。モバイルネットワークを通じた協力しあう群衆が「賢く」振る舞うことによって生み出される社会現象について肯定できるのであれば、たとえ図式や理論が杜撰だったとしても、より精緻なモデルを提出して彼のグランドデザインを修正すればいいだけのことだ。
このグランドデザインに対する態度を決定するのが「価値の選択」だと言えるだろう。「価値の選択」とは、ある社会の姿を構想するにあたって、それに先行しなければならない価値をあらかじめ選択しておくことで、政治哲学の中では「基礎付け主義」と呼ばれるものだ。
「価値の選択」という観点から本書を読むと、実はこの「価値」については保留されているのではないか、という気がする。ネットワークで人々の振る舞いが変わったとしても、それが「よきこと」であるのかどうかは個別の事例を見なければわからない。ケータイのネットワークの普及と参与の圧力の増大は確実に若者の消費行動に影響を与えているが、その価値そのものは、ネットワークに先行して存在する価値に照らすことでしか判断できない。
逆に言えば、モバイルネットワークがたとえば民主的な政治革命に用いられたと見るか、テロやクーデターに用いられたと見るかは、ネットワークの内部からは判定できないということだ。ということは、ラインゴールドの描く社会像も、ただ「変わりつつある」ということを評価するのではなく、われわれの社会の価値に照らして「よきこと」であるのかどうかが問われなければならない。
同じことをローレンス・レッシグも述べている。彼の主張の根幹は、「アーキテクチャの操作によってネットは完全な管理のツールとして利用すること『も』可能である。そのときに、われわれアメリカ人はそもそもどのような社会のグランドデザインを価値的に選択したのか、それを憲法起草時にまでさかのぼって思い出せ」というところにある。
しかしながら私たちには、そのような「価値を選択した」という歴史も記憶も存在したことがない。これは憲法の問題だと考えることもできるが、憲法を起草するに当たって何かしらの価値を選択しなければならないということについて考えたことがないという意味で、より根本的な問題である。
ラインゴールドの主張がわれわれにとって「遠い」ものだと思われるのは、ケータイのメールをやり取りする女子高生にも、それを批判したり賞賛したりする大人の側にも、それが結局のところ「一体何の役に立つのか」についてのグランドデザインが構想できないことに原因があるといえるだろう。よくケータイを使った若者のネットワークは、メッセージの内容ではなく、メッセージが接続されていることそのものが重要な価値であるという指摘がなされるが、「ネットワークはつながりさえすればよい」というのは、そのネットワークをたとえば政治に、たとえば友人関係に、と自在に駆使できるグランドデザインを持った人間が使う限りにおいて有効な主張とは言えないか。
むろん、人々の自由な振る舞いを可能にするのはそれに先行する価値を選択することだ、といった基礎付け主義が有効であるかどうかについては政治理論の中でも論争のテーマになる部分であり、独自の困難を抱えていることは否めない。しかしながら現状を見るにつけ、価値的な基礎付けがないなかで社会構想について語ることの不毛さを感じないではいられないというのが私の考えだ。
その社会構想がどのような社会を「よい」と思って語られているのかについて了解のない議論は、単なる技術論か夢物語になる。問われているのは、『スマートモブズ』のような社会構想をどのように語るかという、私たちの語り方の問題なのだ。