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2003 - December 1, 2003
『スマートモブズ』の読み方
December 1, 2003 [ 2003 ]
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公文俊平(GLOCOM所長)
石橋啓一郎(GLOCOM研究員)
庄司昌彦(GLOCOM研究員)
石橋 今回はスマートモブズ特集ということで、インタビュアーとして石橋のほかに庄司GLOCOM研究員が参加し、「情報社会学若手研究会」で議論されたスマートモブズに対する多様な見方について、公文所長にお話をうかがいます。スマートモブズに対する見方は、世間でも評価が分かれています。この本で扱われているのは社会の基礎的なことにかかわる問題なので、どんなことに興味を持っている人でも自分なりの問題意識でこの本を評価することができ、立場によってたくさんの見方があります。今回寄せてもらった五つの論文でも、全く違う立場から意見が表明されていて、スマートモブズに対する多様な評価を反映していておもしろいと感じています。公文先生はこれを読んで、全体としてどう思われましたか。
公文 まず、9月の研究会自体もたいへん活発で、熱心に議論を交わしてくれていました。それからこの五つの論文を読んでみると、確かに立場は分かれているけれど、それぞれ意味のある論点を取り上げて議論をしていると思います。つまり、議論に値するような内容を持った、力のこもった発言をしてくださったという点で、非常に良かったと思います。
石橋 それでは、スマートモブズのとらえ方からお話をうかがいたいと思います。五つの論文の中では私が書いたものが一番、関連が深いと思いますが、そこでは「ネットワークから取り出す価値」という、いままでの技術とは全く違う次元で拡大するのではないかという提起をしています。公文先生は、スマートモブズをどのようにとらえていらっしゃいますか。
公文 どうしても私は、自分の考え方にひっかけて読みたがる傾向があります。そういう意味で、バイアスがかかっているかもしれないけれど。私がこれまで考えてきた情報社会が進化していくなかで、情報社会を形づくる人々のあり方は、産業社会、あるいはそれ以前の軍事社会、つまり近代社会を形づくっている人々の意識や行動とはかなり違ってくるだろう。それを智民と呼んだのですが、その智民自体も、また時代とともにあり方が変わってくる。その一番現代的な形はなんだろうと考えたときに、ラインゴールドが「スマートモブズ」と呼んでいるような人々の意識や行動様式がたいへんよく当てはまりそうだ。つまり、智民そのものの層が広がってきて大衆化していく流れができています。技術的には、ラインゴールドの言葉を借りれば「モバイルでパーベイシブ」な技術を、多くの人がそれなりに身につけてきた。それは、別の見方からすれば協力の技術──つまり、コミュニケーションやコラボレーションを助ける──でもある。さらに石橋さんが書いたように、自由にいろいろなグループをつくる力を持ってきている。そこで、リードの法則でいう基盤が出てくる。単なる可能性ではなくて、現実に近いものをスマートモブズは具現している。しかし、他方でスマートモブズは、これまで近代社会の理念としてあった強い個人ではなくて、どちらかというと他人に影響されやすい。孤立してではなく、まとまって動きたい。その中でつながったり癒されたり、祭りを経験したりしたいと思っているような人たちだろう、そんな感じがします。
庄司 僕自身はまだ価値判断や意見は持っていなくて、実際に起きている現象を観察している段階ですが、ネットを介して起きている現象の担い手が、確固たる自分を持った強い個人、あるいは市民といわれているものにはどう見ても見えない。特に日本的な現象かもしれないですが、ネット世論に流されたり、口コミの噂に流されたりという傾向が強くなっているだけで、いわゆるインターネットが出てきたころの「判断するための情報源がたくさん増えて、より正確な判断ができる」ということにはなっていない。「弱い個人」の側面を、スマートモブズ的な技術や祭りなどといわれている現象が助長しているように思います。
石橋 次の見方に移りたいと思います。今回出てきた五つの論点の中には、いくつか心配をする見方があります。さきほどの庄司さんの意見とも通じるのですが、今回で言えば折田さん、小笠原さんは、それぞれ立場は違いますが、スマートモブズの力を誰が利用するのかという面からその影響を心配しています。公文先生はどうお考えですか。
公文 まず小笠原さんの論点は、新しいスマートモブ技術のようなものが出てきた場合、それを最も有効に活用できる力を持っているのは、現在、成立している国家や企業のような組織ではないかということです。それに対してスマートモブ自体は、相対的にパワーが弱いということを心配している。確かに一面ではそうかもしれないけれど、じゃあ過去はどうだったのだろうか。近代国家が出現した後で産業革命が起こって、産業企業がたくさん出てきた。そのときに新しく見出された産業化の経済力は、国家が独占すると一番強力に使えるという考え方が、共産主義、社会主義の考え方でした。ところがやってみると、そうではない。国家はそういう力を独占できないし、独占しようとすると、かえって力が落ちてしまうということがわかった。
いま出てきているのは、新しい情報技術、スマートモブ技術を国家や企業が独占的に使うのではないかという懸念ですね。確かにそうかもしれないが、むしろいま起こっている新しい流れはそうではなくて、企業は知力を独占できないのだということではないか。いくら著作権、特許権を強化して知的財産を守ろうとしても、むしろスマートモブの力に突破されてしまう。新しいアイデアが次から次へとできて、それを共同で利用する集団のほうが強いかもしれない。あるいは国家が情報を独占して有利な立場に立とうとしても、無数の目を持ったスマートモブがカメラやビデオを使って、いたるところで国家の行為を監視し映しだす。あるいはインターネットの無数の情報源の中から、相互作用によってこれが真実だという情報が出てくる可能性も十分ある。それにはマスメディアも太刀打ちできないという側面もある。常にそうとは言わないけれど。そういう新しい力が出てきているということのほうが、少なくともより興味深い。それが第1点です。
2点めは、その新しい力は、特に誰かがリードするというものではなくて、自然発生的に、まさに群がりの中で出てきて何かが創発されていくのかというと、折田さんは、誰かが意図的に動かすという可能性を考えている。これも微妙な問題で、イエスでもありノーでもあるのですが、この点についても過去の例を引き合いに出して考えるなら、産業社会の市民は、一方では企業の従業員でもあり、他方では企業の宣伝や広告の影響を受けながら、かなり企業に操られて物を売りつけられる弱い消費者でもあるわけです。その両側面を持っていて、市民も一色ではない。いろいろな形で分布している。似たような意味でスマートモブが動いていくなかでは、かつての企業にあたるような、つまり意識的に自分たちの目標を宣伝し普及させて、人々を組織して実現していこうという動きのコアになるような小数のグループができる可能性がある。そのコアのグループの周辺に、それを支える、ちょうど企業の従業員に近いような、たとえば開発者のボランティアのグループができると考えましょうか。Linuxでいうと、中心にはリーナス・トーバルズ以下、比較的少数の開発者のコアがいます。その周辺には、何百人、何千人の開発に参加する人たちがいる。そして、さらにその外側にいる多数の人たちは、つくられたものをどちらかというと受動的にもらって使い、「これいいなぁ」と考えている人たちです。ですから、そういうコア集団、コア的な智業が出てきて、智民の一部はコアメンバーになったり、その周辺で支える人になったり、あるいは智業が生み出したものをサポートしたり、受け入れたりする。こういうある種の階層関係は、たぶん情報社会でも成立するのではないか。そういう点でいうと、折田さんの指摘していることはありうる。ただ、一概に良い悪いの評価は一色では下せない。
庄司 スマートモブは、歴史的にかなり長いスパンでとらえるほうがとらえやすいのではないでしょうか。民主主義とか市場という制度を長い目で見ると、そんなに悪くはない。それと同じくらいの長い目でスマートモブをみると、人をエンパワーする技術という意味で肯定的にとらえられるのではないか。一方で、こういう基盤となる技術は、市民とか大衆の側でなくて、軍事予算であったり、企業が営利を追求したりするために生まれてくる。じゃあ、スマートモブ的な技術はどっちのためにあるのかというと、最終的には大衆や市場のためにあるのだけれど、一方で軍事技術や営利企業、大きな予算を持っている動機の強い人たちに支えられているのではないか。そういうとらえ方をしています。
公文 それはその通りです。産業化の技術も、最初に注目したのは国家であって、それを使えば強力な武器ができることに関心を持ったわけです。ですから、スマートモブ技術も、それを使えるとうまく大衆を操作できるかもしれないとか、もっとこまかく監視できるかもしれないという考え方は当然ありうる。しかし他方では、そういう動きの中心になるのはスマートモブそのものというよりも、私は情報社会ではむしろ智業を対比させたい。ちょうど産業社会を引っ張ったのが企業家たちだったように、情報社会を引っ張るのは智業家たちだ。そういう意味で、対立関係は企業対大衆、国家対大衆ではなくて、企業対智業、あるいは国家対智業になるのではないか。もちろんそこには対立だけでなく協力する面もあるかもしれないけれど、並べる相手としては、そのレベルでまず考えたほうがいいと思います。
そこで思い出したのですが、小笠原さんの論文のはじめのほうに、『スマートモブズ』から引用して「新しい組織形態や民主主義の出現は、善玉たちによってではなく、人々を操作し搾取し支配するために新しい仕方を利用することに熱心な者によっていた」とあります。これを原文に当たってみると、小笠原さんの少し意図的な誤読のように思われます。新しい仕方を利用することに熱心な者たちが中心なことは確かです。しかし、近代化の初期に新しい力、つまり軍事力を利用することに一番熱心だったのは貴族であり、生まれつつある国のリーダーたちでした。そして産業化の初期に新しい経済力の利用に一番熱心だったのは、ほかならぬ企業家そのものでした。それに対して何か別の善玉を考えるのはおかしくて、ラインゴールドも特にそういうような書き方はしていない。そういう初期の企業や軍事リーダーを善玉や悪玉と位置づけること自体が、黒か白かに分けようとしすぎるのではないか。どちらの面も持っているということは、いまの智業にだって言えます。
石橋 智業も人々を操作し搾取し、支配しようとしている側に属するという見方もできる。
公文 精神的にね。操作し説得し、操縦しようとするようになるのかもしれない。
石橋 いまの流れとは少しはずれるのですが、折田さんの、スマートモブズが政治において力を持てるかということについては、どうでしょうか。折田さんだけでなく、現在の政治に対して問題意識を持っている人がスマートモブズを読んだ際に、そういう疑問を持つ場合が多いように思います。スマートモブズが少し抽象的なレベルの話なのに対して、こちらは具体的な、しかも日本の事情を含んだ話なので、関係を論じるのが難しい面もあるでしょうし、確かにここ3~5年という現状を考えると、スマートモブズが政治に力を持つという文脈は起こりにくい状況にあるのかなと思うのですが、公文先生は何かご意見がありますか。
公文 折田さんの「政治に対して力を持てるか?」というパラグラフですね。特に自分が立候補した経験のある人が、こういう印象を持ったというのはよく理解できます。しかし、ここで気をつけなければならないのは、スマートモブが政治的なパワーを持つようになる形というのは、これまでの代表制民主主義の枠組みの中で発揮されることなのか。もちろん、そういうケースもなくはないでしょう。インターネットを使って政治運動をやるということはありえますから。さはさりながら、スマートモブ本来の形で考えるならば、私は「共の原理」と言いますが、自分たちで目標を定めて自分たちで仲間を集め、必要な手段をつくり、むしろいまある政治システムや政治家をバイパスして直接、目標を実現したいと思う。そっちの可能性のほうがおもしろい。そこに本来の面目があるわけです。もちろん、それが常に成功するとは限らないし、やろうとすることが常にいいことなのかは別問題で、テロリズムであったりするかもしれませんが。
庄司 政治の文脈でスマートモブズを引用してしゃべろうとすると、どうもスマートの意味が違うのではないかと思います。そういう人に対しては、強力なモブズとか暴力的なモブズとかいったほうがいい。
石橋 「スマート」が意味するものは、少なくとも、政治意識が発達しているモブズという意味ではないですね。
石橋 もう一つ、澁川さんは別の論点を取り上げています。彼は、大規模オフとフラッシュモブについて分析をしています。特に気になるのは、企画プロの存在です。ラインゴールドの言っているスマートモブズでは創発的な秩序が生まれて、自分たちの行動を主体的に決めていったり、自然に行動が決まっていったりという視点に対して、全くそれを否定するような話です。2ちゃんねるの大規模オフがスマートモブズのはしりであるとすれば、そこに企画プロが必要であるということは、創発的に秩序ができていくのは難しいかもしれないということを示唆しています。この点について、何かご意見はありますか。
公文 それは二通りの見方があると思います。一つはスマートモブというより、既存の企画プロのような人がいて、その人たちはいつも一般大衆を動かしたり組織したりして、自分の目標を実現しようとしている。その人たちがたまたまインターネットや2ちゃんねるという場に目をつけて、同じようなことをやろうとしている。それであれば、特に新しいことではなくて、これまでの宣伝広告会社のプロが目をつけるには絶好の場所だという言い方もできます。もう一つは、そういう場合もあるかもしれないけれど、自分たちの中からある種のリーダーや企画をする人たちが出てきて、動かすということもあるでしょう。
そこまで考えるなら、ちょうど自己言及のパラドックスのようなものであって、リーダーが生まれるということ自体も創発の一過程だと言えるのではないか。実際、アリのコロニーは女王アリを生み出し、いろいろな分業のシステムをつくり上げていくわけです、結果論として。もとはみんな同じアリだったのかどうかはわかりませんが、ともかくある段階ではっきりと役割が分かれていくわけです。それと似たような意味で、スマートモブの中から、私のいう智業のようなコアができて引っ張っていくというのが、創発過程の一部だとも考えられる。ただ、そこはどちらにもとれるようなところがあって、いわば歴史における法則性の役割と個人の役割という形で絶えず議論をされてきたところです。法則的に革命家が生まれて革命をやるのか、自発的に生まれて革命をやるのかといったような話です。
石橋 澁川さんは、大規模オフとフラッシュモブの成否を分けているものとして、企画プロの存在、批評する場の存在、つくり込みのプロセスなどをあげており、これらが日本で大規模オフはフラッシュモブより成功している要因だとしています。おもしろいと思うのは、その一つめが一見スマートモブズ的でないやり方をしているのが成功の要因だといっているのに対して、二つめと三つめは参加している人たちがいかに秩序をつくり上げていくかということが成功につながっていると述べていて、こちらはむしろスマートモブ的な動きだと思います。批評あるいはフィードバックの場があり、その中で個人や企画プロが次の行動を決めていったり、構造を新しくする仕組みを持っていたりという点からは、よりスマートモブに近いという主張をしているのですが、それは正しい読み方でしょうか。
公文 確かに一つめはむしろスマートモブの外の世界、二つめと三つめはスマートモブの中の世界と考えても十分意味は通じる。ただし、フラッシュモブは、お互いの知り合い関係や信頼関係はミニマムで、ほとんど見ず知らずの人が、ある人からメールを受け取るという関係の中でつながっているだけで、フィードバックもない。そこで何かある共同行動を成功させようと、企画している人がいるわけです。それが全くなしで、メールが突然どこかから創発されるわけではない。
石橋 そういう意味では、フラッシュモブのほうが企画者に対する依存度が強いというわけでしょうか。
公文 その意味では、かえってそうかもしれない。2ちゃんねらーは事前に互いにさまざまな関係を取り結んでいたり、だいたいどういう連中であるのかが推測できたりする中での行動ですから、逆に自分たちの間から(自然発生的に)企画のプロなり、そのときどきのリーダーを生み出していくことができるのかもしれない。いずれにせよ、こういうのは成功例がいくつか出てくると、みんながまねをして、さらに工夫を加えてやっていこうとしますから、なかなか純粋形というのは出しにくいだろうと思います。
庄司 「モバイル+パーベイシブ環境に支えられる」というスマートモブズの定義から見ると、2ちゃんねるは大きな現象ではあるのだけれど、状況に臨機応変にというところまではいっていない。そのためには、動きながら2ちゃんねるに参加するような仕組みの発達が必要です。だから、2ちゃんねるがスマートモブかどうかはまだ言えない。ただし、この2ちゃんねるとモバイルで臨機応変に動くような行動が結びついたときは、ものすごいものになるだろうという可能性は感じます。
石橋 スマートモブズの考え方と比べて大規模オフに欠けているものがもう一点あります。実はラインゴールドは、スマートモブを協力の技術だと言っています。パーベイシブとかモバイルは強調されがちなのですが、それは環境であって、むしろ協力するための評判システムなどを利用してアドホックに、その場で人と人、人々とシステムが結びついていくということを強く議論の核に据えていて、そういう意味では、大規模オフ──フラッシュモブも同様ですが──は少なくともこれまではそれを体現していない。本当の評価をするのは早いという印象を僕は持っています。
公文 ラインゴールドにとって、携帯電話が若者に広く普及し誰でも持っている、そこでショートメールを交換しているという世界は馴染み深いものではなかった。それを日本や北欧で見たものだから非常に強い印象を受け、たまたまモバイルの技術が普及しているという状況も含めて考えると、単に「パーベイシブ」ではなくて、「モバイルでパーベイシブ」と言いたくなった気持ちは、彼の過去を考えると理解できます。しかし、もし彼が2ちゃんねるの動きについても同じような情報を持っていたとしたら、モバイルでなくても、オンラインの世界でのスマートモブについて語ろうとしたかもしれない。その意味では、モバイルであるというのはやや偶然的な条件かもしれません。
石橋 これまでいくつかの論点についてうかがってきたのですが、まだ一つ議論していない問題が残っています。鈴木さんが書いている価値の選択ということですが、これについて公文先生はどういうご意見をお持ちでしょうか。
公文 他の社会変化の過程でもそうですが、今回の情報化とスマートモブの進化のプロセスにもいわゆる創発的な過程があると考えるならば、誰かが最初からグランドデザインを持ち、それに従って社会変化を計画し実現しているわけではない。ただ、その流れの中にいる個々のメンバーが自分なりのグランドデザインを持っているということは、常にありうる。それがうまく働くかどうかは別にして。そのうえで言うなら、しかし、社会の大きな転換期にあっては、これまで人々が認識していたデザインや社会的な価値はたぶん通用しなくなって、いわば混迷し模索をしているということも言えるでしょう。アメリカの場合、レッシグが「しかし、われわれは建国の父祖たちがつくった憲法を持っていて、そこで価値の選択をしたではないか。もう一度そこに立ち戻ろう」ということを論じているわけです。これは裏を返せば、いまは多くの人たちがその選択を忘れてしまっている。だからもう一回、思い起こそうよという話です。そうであるなら、アメリカには「価値の選択」があるけれど日本にはないと考える必要はない。日本もやはり、いま混迷しているし、たとえば明治憲法がつくられた時代、近代国家の形成期の日本人は、多くの人が、ある価値の選択をしたはずです。独立国家をつくって国威の増進発揚をしなければならないと考えた。それから戦後の新憲法がつくられ、その後の経済発展の過程でやはり人々は選択をしました。平和を守るというのは非常に重要なのだ。そしてみんなが豊かになりたいと願った。それらは、ある意味でそれぞれかなりよく実現されたのだが、そこから先がどうなるのかがよくわからない、とまどっているというところが実情かもしれない。
今度の選挙を見てつくづく思ったのですが、まだ実ははっきりした民意ができていない。つまりまだ人々は、ここで鈴木さんが言っているような意味での大きな価値の選択を、明示的にはしていない。これを1955年体制ができた当時でいいますと、これからの日本の社会をつくっていくうえでは、平和で民主的な世の中、豊かな世の中をつくりたい、という大きな選択肢があった。これにはみんな賛成で、その中でどういうやり方でいくかということで、保守対革新という手段をめぐる対立があった。そこではじめて、自民党対社会党という形で戦後政治の対立軸が整理されたわけです。それにあたるような大きな社会像、国家像は、まだ示されていない。今回、自民党や民主党が出したマニフェストというのは、どちらかというと個別の政策の寄せ集めであって、構造改革といいながら、こういう構造をつくっていきたいというグランドデザインを示したうえで、国民が選択したとは思えない。選択肢を与えていないのだから、選挙で民意を表明しようがないという言い方もできますけれど(笑)。ともかく、政治家が民意をいち早く感じ取って選択肢を示すという意味での民意が明瞭な形で形成されているだろうかと考えると、残念ながらまだではないだろうか。
われわれは明治以降の政治システムの変化を研究したことがありますが、だいたい30年おきに新しい民意の形成というプロセスがあり、それを元に政治システムの変更が行われるということに気がついた。たとえば1880年前後に自由民権運動がわっと起こって、それに対して時の政府は「やはり藩閥だけではだめだ。民党の力も取り込んで、政治を運営していかなければならない」と考えた。伊藤博文がいち早く察知したわけです。その次、1910年前後は普通選挙運動や護憲運動、「せっかく憲法ができたけれど、まだ藩閥がのさばっているではないか。選挙権の範囲はずいぶん狭いではないか。これを何とかしろ」という大衆的な運動が盛り上がって、1924年の護憲三派内閣につながる。ここで、民党だけの政治システムができ上がるわけです。その30年後というと、1940年前後の新体制運動があります。これは民党の二大政党にやらせておくと腐敗し堕落する。困難に立ち向かうためには、挙国一致でしっかりした政権を持たなくてはならない。企業も、労使の階級対立ということを言い過ぎてはいけない。産業報国会にまとまって、みんな社員として一つになろうではないかという動きがあったわけです。そして戦争をはさんではいますが、1955年体制というのはまさにそういう民意を反映して、安定多数の自民党が長期にわたって政権を維持する。しかし、憲法改正までの力は与えない。3分の1は反対党の力を残すというような、非常にうまいシステムになっていました。
それからその次、1970年前後に起こったのは、革新自治体とか地域住民運動と呼ばれている大衆運動でした。このときの民意は、自民党だけが政権を独占しているというのはおかしいじゃないか。革新勢力が常に政権からはずれているのはおかしいじゃないか。彼らも政権に参加してもいいはずだ。でも、一度に中央政府のレベルでそれをやろうとしても難しいので、できるところから、自治体レベルからやろう。そこに地域住民の声を反映させようというのが、その運動の意味です。それが極まるところ、1983年が象徴的ですが、自民党が国政選挙でも過半数を失った。そこで当時の中曽根氏は野党との連携を考えて、新自由クラブを取り込んで政権をつくった。いまもそれが続いていて、自民党は放っておけばすぐに多数を失う。そこで、絶えず連立の可能性をもっていなければならない。逆に、野党のほうには二つのベクトルがあります。一方は、自分たちの党のままで政権に参加したい。社会党や公明党が、社会党、公明党として連立に入りたい。悪く言えば政権にすり寄る形の動きです。もう一方は、やはり自分たちで自民党とは違う政権をつくりたい。野党として競争できるような力を持ちたい。これが、いわば従の動きかな。野党の主たる動きはそのまま政権に入ってしまう。結局うまくいかないのだけれど。そうではなくて、政権を取れる野党にしようという動きがようやく始まっています。しかし、その次の2000年前後に本当ならば新しい民意の盛り上がりがなくてはいけなかった。情報社会とかスマートモブズの、何か意思が表明されるような動きが起こってくれると期待したけれど、残念ながらまだ起こっていない。
石橋 少なくとも選挙は非常にオーソドックスな枠組みですから、そういう運動のしかたでは成果があがりにくいのかもしれません。
庄司 地方分権かなと、いまふっと思ったのですが。
公文 地方分権社会であり、同時にグローバリゼーションをめざすものになるだろうと思うのだけれど、それがはっきりとした言葉になって現れていないし、それ以前に多くの人々がそこまで考えているのか。そういう気持ちをはっきり持っているかと考えると、まだもやもやしているのではないかという感じがします。
石橋 そういう、社会を動かす新しい力が生まれる環境がだんだん整ってきてはいるが、まだはっきりと具体的に現れてはいない、あるいは現れていてもそれとはわからない状況にある、ということですね。スマートモブズが描く未来は、そういう力が現れる未来像の一つということでしょうか。
今日は興味深い話をいろいろと聞かせていただき、ありがとうございました。
(2003年11月11日GLOCOMにて収録)