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2004 - June 2, 2004

ネットコミュニティをめぐるオンとオフ

June 2, 2004 [ 2004 ] このエントリーをはてなブックマークに追加

公文俊平(GLOCOM代表) 
鈴木謙介(GLOCOM研究員)

公文  そもそもオフ会という言葉ですが、昔、パソコン通信で人々がBBS(電子掲示板)などを中心にして集まるようになったときに、「オンラインの」グループというコンセプトができた。オンラインでコミュニケーションが行われるようになると、「リアルな社会の中でのネットワークやミーティングは不必要になるのではないか」といったことが言われたこともありましたが、そんなことはない。ちょうど電話が普及したころに、電話の大きな機能は実際に会うための約束をすることであったとも言われたように、オンラインの大きな機能はオフ会で盛り上がろうという打合せをすることだと。私も過去何度かいろいろなオフ会に出たことがありますが、近年、そのオフ会自体の性格が変わりつつあるらしい。そのあたり、鈴木さん自身の体験を交えながら説明していただけますか。

■成果を生んだ2ちゃんねるの大規模オフ

鈴木  「実際に会う必要はなくなるのでは」となったときに、「やはり会ったほうがいい」となった流れには、単に「ネットワークが貧弱で、文字ぐらいしか送れるものがない。それなら会って話したほうがはやいじゃないか」という動機があったと思います。それゆえ、プラットフォームやネットで流れる情報量が変化すると、当然オフラインで会うことの意味づけも変わらざるを得ない。オンラインで足りないものをオフラインで補う、つまり「会ってみたら、あらためていろいろなことがわかったね」という話をするのではないようなものが、要求されてきているのではないかという気がします。

 ここで僕が想定しているオフ会は、特に昨年注目された「2ちゃんねる」*1を発祥とするものです。最も大きかったのは「鶴オフ」と呼ばれる、全国で多発した折鶴を折るオフ会です。ばらばらに集まったので正確な人数はわからないのですが、最終的に83万羽の折鶴が集まるぐらいの人間を動員しました。もう一つは「マトリックスオフ」と呼ばれる、映画「マトリックス」のワンシーンをマネして路上でパフォーマンスをするものです。こうしたオフ会が大規模化して、大きいものだとギャラリーを含めて何百人という人たちが集まりました。

 こうしたオフイベントが、これまであったオフ会、つまりオンラインのコミュニケーションをオフラインで補うようなものとの最大の違いは、「名無しさん」が多いことです。オンラインでもコミュニケーションをしたことがないような人たち、実際に会って「あなたは誰ですか」というような人が本当に多い。逆にそれでないと、100人という数は集まらないわけです。もう一つの違いは、それだけの人数を集めるために「イベント」が企画されているということです。つまり、オフ会に参加するということはイベントに参加するということなのですね。こうしたイベント化したオフ会が、去年をピークに非常に増えて、またクリエイティブな分野でいろいろな成果を生みました。

 こうした流れとは別に、昨年末から今年にかけて「はてなダイアリー」*2とかソーシャルネットワークサービスとか、2ちゃんねる以外のプラットフォームを使ってオフ会が企画されるようになりました。最近見かけるようになったのは、昔のオフ会とイベントの混合形態というか、中身としては「イベントに集まろう」ですが、オンラインのコミュニケーションをオフラインのイベントに集まってするというものですね。たとえば、東京メトロが上野周辺を散歩するイベントを主催していますが、それに参加するオフ会があります。ところでこれも参加してみるとわかるのですが、このようなオフ会には参加者全員のIDというか、誰が誰であるかということがはっきりとわかっていなくてもいいという雰囲気があります。だから、はてなダイアリーのオフ会でもはてなをやってない人が参加していたりする。こうした曖昧さのある点は、昔のオフ会とはちょっと異なるのかもしれません。

 だいたいこの三つ──昔のオフ会、2ちゃんねるのオフ会、今出てきつつある一風変わったオフ会──が今のオフ会の状況だと思います。それらのどれがいいのか、発展的なのか、そうでないのかといったことはいろいろな角度から言えると思いますが、公文先生のようにいわゆるフェーズ1のオフ会に出ていた方からすれば、フェーズ2やフェーズ3のオフ会はどう見えるのか、具体例を交えながらお話しできればと思います。

■オフ会の目的と形態

公文  後の二つがフェーズ2とフェーズ3という関係にあるのかどうかは、議論の余地があるかもしれません。とりあえず言えることとして、最初のオフラインのミーティングは、ほぼ100%コミュニケーションが目的でした。オンラインのコミュニケーションを補完する、あるいはもっと豊かにする。集まること自体が目的で、そこで会話を楽しんだり、より良く互いを知り合う。それに対して、鶴オフやマトリックスオフの大きな特徴は、コミュニケーションではなく、イベントとかパフォーマンスという言葉が使われましたが、私流に言うと「コラボレーション」、鶴を折るとか、マトリックスのマネをするとかという、ある特定のはっきりした目的をもって集まって、ある目的実現のための行動を共にする。そういう点で言うと、3番目はその中間形ですか。上野公園の周辺を歩くということが、何か特定の目的をもったコラボラティブな活動とはちょっと言い難いけれど、単なるコミュニケーションというわけでもない。ある行動パターンを前提にしている。しかし、どうしてそれが、第2段階のコラボレーション志向のオフ会の後に出てきたのか。

鈴木  それは非常におもしろい指摘だと思います。まず、コラボレーションでは目的を共有していると思いますが、これについては二つのポイントを考える必要があります。一つは、どういった目的を誰が共有していたのか、もう一つは、なぜコラボレーションがうまくいったのかということです。

 まず目的ということですが、これはイベントを企画する側と、お客さんとして参加する側では異なります。たとえばマトリックスオフなどが典型的ですが、オフ会参加者というのは単なるギャラリーではなく、マトリックスのコスプレをしてイベントにやってくる人たちです。黒スーツにサングラスの集団が街中を歩いている、そのこと自体がイベントであり、参加者一人ひとりはコラボレーションの不可欠な要素であるわけです。ところで、そうしたイベントを企画する側──いわゆる運営側といわれる人たち──はそうしたコラボレーションが成功するように、たとえば事前に警察に連絡して場所の使用許可を取ったり、パフォーマンスに必要な準備をするわけです。彼らにとっては、単にイベントに参加してコラボレーションを行うだけではなく、イベント自体の成否が目標になります。彼らに共有されているのは、ある種「文化祭」的な目標であり、そこから得られる達成感なのではないかと思うのですが、そうした運営側にだけ共有される目的というのがあって、大規模なオフイベントが成立したといえるのではないか。

 次にコラボレーションについてです。オフイベントが成功するためには、さまざまなノウハウが必要になります。先ほどの話で言えば、道路使用許可の取り方もそうですし、周辺に迷惑をかけないルート決めからパフォーマンスの指導まで、素人集団では賄いきれない技術なども必要になります。こうした難しいコラボレーションが可能だったのは、参加者の中にイベント製作会社の人間や鉄道オタク、空手の経験者がいて、それぞれの得意な分野でイベント作りに協力したからです。それがネットから立ち上がってきた理由は何か。私の考えでは、日本社会の人材の硬直性と関係があると思います。流動性が低いと言ってもいい。つまり、学校を卒業して社会人になると、日本社会では特別な理由がない限り異業種の人と交流する機会というのはほとんどない。ところがインターネットで集まってきた人たちというのは、イベントに向けた目的を共有しているけれど属性はそれぞれにかなり異なるわけです。これは目的の持つ魅力というか、求心力が強いほどさまざまな人が集まります。こうして、目的とそこに集まる人材の幅の広さが相乗効果を起こして成立したのが、大規模オフイベントだったのではないか。

 ここから先の話は、どこまで一般化できるプロセスなのかわからないのですが、こうしたコラボレーションが拡大から、小規模に収束あるいは拡散に向かうという道をたどりました。つまり、ある目標に向けて、立場も価値観も違う人間が集まっていたのだけど、それが限界に達するのです。たとえばイベントは黒字になったものの、大きな儲けを出してしまうと非難されたりと、目標を達成した後で生じるさまざまな批判に対応せざるを得なくなってくる。当人たちは、もう終わったのだからと思っていても、周りが許さないのですね。こうしてコラボレーション関係が単なる達成感を得るというところだけでは済まない、非常に疲れるものになる。これが最近、オフイベントが打ち止めになりつつある原因の一つです。

 その反対側で、ソーシャルネットワークやはてなを通じて別種のコミュニケーションが生まれつつある。というのは、こちらでは日本社会のコミュケーションにぴったり合うような形でアーキテクチャが組まれているわけです。はてな代表の近藤淳也さんは、意識的にそういうことを考えています。流動性の低い社会に合うようにコミュニケーションを内輪に囲いこんだうえで、その中でのコミュニケーションであれば、この人たちであれば、オフラインでも安全だろうというようなプチ・コミュニティをいっぱい作っていく。最近注目されているソーシャルネットワークサービスも、かなりそういうふうに使われていると思います。そうした、流動性が低くても企画できるオフ会にとどめるようなアーキテクチャやプラットフォームが生まれてきたことによって、わぁっと盛り上がるお祭りではないものが、ようやく企画できるようになったのだと思います。

■組織動員・お祭り動員

公文  なるほど。いくつか論点が出てきたように思います。まず、イベントを企画する人、それに参加する人がいて、企画する側にとってはイベントそのもの、つまり多くの人が集まって盛り上がっておもしろかった、あるいはお金が入ったということが成功の基準になる。それに対して、鶴オフや、昔の政治的な目的をもったデモでは、そこでのイベントは目的のための手段になるわけです。それは昔からオンライン、オフラインにかかわらずあったのですが、今言われたイベントは、そういう意味での手段性は少ないものが多いですね。どうしてそうなのかという疑問もあります。数十年前だったら、いわゆるお祭りは別にして、何かを企画するには、政治的あるいはビジネス的な目的をもってやるものでした。そうではない、それ自体が自己目的であるというのは、一つの新しい差と言えるのかもしれません。

 それはそれとして、そういう場合の特徴は、ある種のオープン性というか、見も知らぬ人を組織して、集めて何かをやらせる。それから流動性が低いという言い方をされましたが、流動性という言葉が適切かどうか、私にはまだピンとこないのですが、要するに全然見も知らない人とオープンに集まりを作ることは容易ではありません。むしろ、ある程度、気心の知れた関係を先に作っておいて、そしてその人たちがオフでも集まっていろいろなことをし、さらに何か共通の目的をもつようになっていくこともあるかもしれない。それは何だろう。

鈴木  今おっしゃった中で非常におもしろいと思ったのはデモとか政治目的で人を集める、組織するというのは、社会学用語でいう本当の「組織」ですね。リーダーやサブリーダーがいて、ある種のピラミッド関係を作ることになる。ところが、ここで言うオフ会というのは、ハワード・ラインゴールドが『スマートモブズ』(2003年、NTT出版)の中で「モブ」という言葉を使ったように、群集(モブ)と呼ぶのが正しい、集まっているだけの集団です。組織化されているわけではなく、せいぜい「運営」と「外野」がいるだけです。そうすると、集まっている人全体には組織は必要ない。僕の感覚では、そういう組織化された動員だと、もはや人は集められないのではないか。これはオフライン、オンラインにかかわりなく、世界中の政治運動がお祭りで人を動員するようになっていることとかなり近い関係にあると思います。どうやら人々を動員するときには、組織動員ではなく、お祭り動員、それも中心に何か共有目的とか、トーテムのようなものを置いたお祭り動員になりつつあるのかなという気がします。

公文  そこを確認したいのですが、組織動員というときには二つの意味があり得ます。一つは先に組織、つまり労働組合とか労働組合連合会があって、それが自分のメンバーに呼びかけて人を集める。そうではなくて、たとえば何かに反対する運動を起こそうという目的があって、不特定多数の人々に呼びかけて集める。その場合は必ずしも、事前にできている組織のメンバーである必要はない。そのどちらも「組織する」という言われ方をします。そして、たぶん近年、その双方が退潮している。組織である労働組合が呼びかけてもあまり来ないし、特定の社会的・政治的目的をもって呼びかけてもみんなしらけてしまう。むしろ、おもしろいとか、なんとなく盛り上がるとか──昔はコンサマトリー(consummatory)という言葉を使っていましたが──そういう即自性に人は反応する。しかし、それではそういうものはすべて一種の自生的というか、spontaneousな集まりであり、階層性や指揮指令関係なしに動くのかというと、そうでもない。特にある規模以上の集まりになると、さっき言われたような企画者がいて、事態がどう動いているかについて絶えずリアルタイムに情報を集めて、その場を仕切る。適切なある種の情報提供、命令ではないかもしれないけれど、何か全体の動きをコントロールするような情報を提供することによって、ある方向に誘導していこうとする。それがないと、全くアモルフなものになってしまうのではないか。いや、そうでもなくて、特に誰かが何もしなくても、鳥が集まってきれいな飛行パターンが出てくるように、人さえ集めてしまえばなんらかの秩序を持った集合的な動きが出てくるということがあるのか。

鈴木  確実に言えるのは前者ですね。集めたのはいいけれど、失敗したオフ会というのは山ほどありますから。ですが、今おっしゃったことで非常におもしろいのは、今イベント的オフ会でやられていることは、「集まること」自体が目的で、集まりが成功することが目標なので、運営側についてもそれが大目標につながっていくことを想定していない人がほとんどだということです。集まればいいのであって、集まることが社会的なインパクトになると考えている人はほとんどいません。

公文  その場合、昔のオンライン主体のオフ会のときは、やはり集まればいいとは思っていたけれど、集まった中でお互いのコミュニケーションが成り立つことが大事だと考えられていたわけです。ところが今の話ではそれもないという。とにかく、集まる。

鈴木  集まって、それがアモルフなものにならない。崩壊しないということですね。そうしたものになっていくときに、いわゆるオフイベントの意義は、集まったとか集められたとかいうことでしかない。それが結果的にいろいろなコラボレーションを生み出してはいるけれど、本人たちは集まっていることが目的なので、外部からクリエイティブな良い結果が生まれたと評価されても、その気がないのであまり継続性への意志がない。

公文  集まってきた人は何に満足をしたのかな。クラシックなオフ会では、ハンドルネームでやり取りしていた人と、リアルで知り合いになれておもしろかった、盛り上がったという話ですが、今回のはそれでもないのですね。とにかく、集まったと。

鈴木  先ほど「お祭り」という言葉を使いましたが、プリミティブな祭礼に近いような盛り上がりをそこで得られるということが、一つはあると思います。

公文  ある種の体験をしたと。

鈴木  非日常的な体験が、特化されるわけです。僕はもと民俗学をやっていたのですが、お祭りに近いような構造をそこに見出すことができると思います。一つ言えることは、彼らが求めているのは合理的な達成感とか、合目的な振る舞いによる結果の評価ではなくて、集まったことによって盛り上がれたということです。繰り返しになりますが、こうした動きはあらゆる先進国で起きていて、反戦デモで鳴り物を鳴らすとかいう形で、デモをやる目的があったとしても、集まっている人たちはお祭りにするわけです。海外の反戦デモの映像を見ていると、放水車に水を浴びせられると、自分から水にあたりに行く奴がいる。そういう非日常的な体験ができれば、動員でも何でもいい。

 日本でも、ワールドカップで初めてそういう、いわゆるモブな体験をした人たちというのが、「モブの集まり、おもしろいじゃん」ということで、集まりやすくなっている状況があると思います。その集まりやすさや「モブに酔う」ということに日本人はまだ慣れていないので、集まって盛り上がれるだけで喜んでいる。欧米では、モブというと非常に凶暴なイメージがあります。何をしでかすかわからない。そうしたフーリガン的なイメージに対して、ラインゴールドが初めて「スマートになれる」ということを示した。そこに「スマートモブズ」のコンセプトの意義があります。そうした前提を持たない日本人はネットを使おうが、ツールを使おうが、集まって同じことをしているだけで盛り上がれてしまうので、集まったということの蓋を開けて見ると、非常にプリミティブな状況で満足しているのかなという気がします。

公文  私の若いころ、1960年前後の安保反対闘争、そこには確かに政治的な目的があって、参加する側も最初はそのために行くのだけれど、デモの民衆の中に入り、スクラムを組んだり、歌をうたったり、警官に追われたり、それこそ非日常的な体験をするなかで、それ自体に酔ってしまう。あるいは引っ張っていく側もそれ自体がおもしろくなってくるような状況は確かにありました。手段のほうが目的になってしまう。

 そこで質問ですが、そういう非日常的な体験には2種類ある。一方は北朝鮮のマスゲームやナチの集団のように、はっきりしたパターンを作ってその中の一員として行進したり体操したりすることで、あるいはそれを観るだけでも、人は異様な感動をもちます。それといわゆる「祭り体験」とはまた違いますが、どちらも非日常性というか、個人性を超えた何かによってわれわれの意識を圧倒する。それをどう考えますか。それから、参加者の範囲です。日本の昔の祭りでは、参加者は基本的にコミュニティのメンバーです。全く見も知らない人がやってきて参加することはあまりない。初めにメンバーの枠組みができていて、その中でハレとケの交代があって、祭りと日常生活のサイクルがある。ところが、今問題にしているオフ会は──2ちゃんねるというようなきっかけは若干ありますが──そういうコミュニティ関係があることを前提にしていない。といって全くオープンということでもない形でグループとか群がりを作る。その契機は何だろう。

鈴木  最初の質問のファッショとの関連ですが、ファッショとは、ドイツや日本においては自分より大きいものと一緒になることによって一体感を得るということですよね。そうした感じはないとは言えないのですが、僕は非常に矮小化されていると思います。もともと想像できる自分より大きいものの範囲が狭くて、想像できてもせいぜい2ちゃんねるのレベルです。たとえば、そこにいきなり国家というものが呼び出されたとしても、合一することで喜びを得られるかというと、たぶん最初に出てくるのは「なぜこいつと俺が同じじゃなきゃいけないんだ」ということになるはずです。サッカーの応援で日本という表象が呼び出されていても、あるいはモナーとか2ちゃんねるという表象が呼び出されていたとしても、そこで想像されている大きいものと同一になっている範囲というのは非常に狭いのではないかという気がします。

 それと2番目の質問が関連しますが、参加者の範囲というときに、確かに共同体を前提にした祭りはメンバーが固定されていますが、民俗学的な研究が明らかにするように、よそ者であっても、共同体がもっている祭りのルールに従うなら参加を許すというところは結構多い。そうした参加のルールがゆるく共有され、そこに収まっている限りでは、たとえば2ちゃんねるを見たことがない人でも同じマトリックスの格好をしていれば仲間だという、その程度の共有で祭りが立ち上がってしまう可能性がある。そういうことを考えると、非常に範囲が狭い何かが最初に想像されていて、それにある程度従っている限りは一緒に盛り上がれる。もちろん範囲外というか、「こいつ、空気を読めていないな」というようなノイズはたくさんあるのですが、それが一気に全体の崩壊に至るほどにはなっていない。

公文  ノイズがあっても、ある範囲内であればいいと。

鈴木  もちろん崩壊したところもたくさんありますが、大きいものについてはそれで成功したということです。

■求心力を失ったオフイベント

公文  成功したのに、それが今、どうなりつつあるのですか。

鈴木  どこまで一般化できるプロセスなのかは僕もわからないので、事実に沿ってお話しします。一つには先ほどお話ししましたように、運営側が何の利益も得られないので疲れてしまった。二つ目に、ただ参加しているだけだった人が自分も運営をやりたいと、わっと企画を立てたのだけれど、それがコラボレーションを生まずにどんどんつぶれていった。三つ目に、「この範囲内でなら」という、その範囲を脱する人が増えてきたことです。オフ会が有名になったことで、2ちゃんねるを見たことがない、モナーも知らないという人が、それこそ「ここに来ると女の子と出会えるらしい」とオフ会に来るようになった。そうなるともう前提の共有は不可能です。収束したものが拡散するというプロセス──運営側もそれをまとめるのに疲れ、共有しようにも訳のわからない人たちがいっぱい来ていて、収束する魅力のようなものが色あせてしまったというプロセス──をたどって、この半年ぐらいは百人規模のものは一つか二つぐらいになってしまった。それも成功しているのは、1~2年かけて企画したものだけです。

公文  祭りのようなある種の一体性体験を可能にする最低限の枠組みを作れないぐらいに大きくなってしまったということもあるでしょう。もう一つないですか。運営したり、企画したりする人がいて、その人たちはある意味で別の目的をもっている。たとえばお金にしたいとか、盛り上がったこと自体を自分の手柄にしたいとか。集まってくる人たちが、それに気づくとおもしろくない。なかには自分もそれをやりたいという人もいるだろうけれど、自分が手段にされているということに気がついた瞬間にしらけてしまうというか、いやになるというか。

鈴木  それもありますけれど、ネット上のコミュニケーションは相互評価のコミュニケーションです。特に2ちゃんねるには「神」という言い方があって、大きい企画をやった中心人物は神なわけです。すると「俺も神になりたい。評価をされたい」ということで参加する人が増えてくる。ある大きいオフ会の主催者が言っていたことですが、「みんな安易に神になりたくてやってくるけれど、それについてやらなければならないことは何一つしない」。企画だけ出して誰かがやってくれると思っているということです。こうしたことは2ちゃんねるだけで起きていて、あまり一般化できないプロセスかもしれませんが、そうした悪い条件が重なって、収束したものが拡散しているというのが今の状況です。

公文  すると2ちゃんねるの場合は、安易な気持ちで企画側になりたいという、そういう反応のほうが強い。企画されることに対する反発は、それほどない。

鈴木  反発するというより、素直に「お客さん」という役割を演じているのではないでしょうか。企画されたオフ会にずっと出ているという人たちはそれなりにいて、固定化されています。どこに行っても同じ人がいるという状況になりつつあって、特に地方ではそれが顕著です。東京だと見ず知らずの人の割合が多くて流動性が高い部分がありますが、地方のオフ会の話を聞くと、企画屋が変わってもメンバーは一緒という感じになりつつある。これは単純に人数が少ないという条件もあって、そうなっているのだろうと思います。

■ネットの中の島宇宙

公文  質問を変えますが、宮台真司さん(東京都立大助教授)が言っている話に、島宇宙化というコンセプトがあります。1990年代に進行していった現象で、人々の作るグループの範囲がどんどん小さくなっていった。クラスで言うと3~4人、極端な場合は1人ということになりますか。とにかく非常に小さなまとまりになってしまっていて、その間のコミュニケーションや相互作用がない。したがって、クラスというまとまりが感じられない。そのことと、今言ったようなオフ会が比較的大規模で成立するということとは、どう調和的に解釈したらいいだろうか。

鈴木  島宇宙というコンセプトをどう解釈するかによります。つまり島宇宙は、100人でも10人でも島宇宙である可能性は高い。昔は子供、大人という分け方で良かったものが、思春期ぐらいの人が「俺たちは大人とも子供とも違う、若者だ」と連帯するようになって「若者」というカテゴリーが生まれた。その若者の中でもファションが違う、聞く音楽が違うということで細分化が進んで、「俺はロックを聞く奴とは違う」とかいう形で分かれていった。こういうプロセスを宮台さんは明らかにしたわけです。こういう人たちが相互に「ロックを聞くのはこういう奴だから俺は違う」とやっているうちに、だんだんロックを聞く奴がどういう奴かわからなくなっていったことによって島宇宙化が生じていった。簡単に言うと、共有できるコミュニケーションのベースがなくなったということです。

 その意味で言えば2ちゃんねるのオフ会が成功していた時期までというのは、確かに島宇宙だったのだけれど、「友だち100人できるかな」の世界で、100人が似たような共有体験や共有コミュニケーションベース、2ちゃんねる語とか、特殊な集まり方を一般社会とは違うところに立てているという認識のもとに成り立っています。これはマトリックスオフをやってみると顕著ですが、何が非日常的かと言うと、コスプレが非日常的なのではなくて、自分たちにしかわからないはずのコミュニケーションが世間一般に出てきて、世の中から見たとき俺たちという存在の意味がわからないだろうという感じが一体感を生んでいるわけです。これは欧米のフラッシュモブともかなり違うところで、フラッシュモブは世間からどう見られているかということ、かなりおかしく見えるだろうということを相当意識しています。一方、2ちゃんねるのオフの場合は、自分たちから見て自分たちが特殊に見えればそれでいい。世の中がどう思おうと別にいいんです。別に気にとめられていなくても、「俺たち相当変に見えるだろう」と思えればそれでいい。そうした共有感覚を生めるイベントはかなり成功する。共有できるベースが小さいと、どうしても共有感覚がなくなるし、共有するために知識や経験が必要となると、なかなか広まらない。たとえば「何とかというテレビ番組が好きだった人集まれ」となると、その番組を見ていた人しか集まれない。そういう差はありますが、僕から見るとそれは敷居が低いから島宇宙が作りやすいという話で、最も敷居が低くて島宇宙が作りやすいのが、お祭り的なもの、つまりみんなコスチュームを着ていれば一体感が味わえるとか、その程度に敷居を下げると大きくなるということだと思います。そうした島宇宙化の結果、大きくしていこうとすると祭りにならざるを得なかったと解釈できるかもしれません。

公文  すると大きくするというのは、自己矛盾ですね。島宇宙化というのは差異を作りだすことによってまとまるわけで、それを大きくするには差異の程度を小さくしなくてはならないから。では何のために集まるのか。少なくとも島宇宙間で、差異を差異と認めたうえで、そういうユニットが互いに集まろうということはないのですか。

鈴木  何のためにというのが、微妙です。僕が運営側と参加者を切り離して考える理由はそこにあります。運営側には大目標をもっている人たち、オフ会を手段として考えられる人たち、コラボレーションに長けた人たちというのがいて、そういう人たちが島宇宙を転々としながら、いろいろな企画をしているという状況が一時期ありました。そうした人たちがようやく一つのコミュニティというか、つながりをようやく作ったぐらいで、他の自分の共有できるところにだけ出ていくという人たちが、不定形な島宇宙を作っている感じだと思います。その先というと、難しい。もともと集まることが目的で、集まって何するかというと、「集まって楽しかったです」で終わってしまうので。

公文  企画する人たちというのは、何がモチベーションになっているのですか。

鈴木  僕自身が企画をした立場から言っても、何がモチベーションなのかはさっぱりわからない。僕は音楽の方面でコラボレーションに参加しましたけれど、「日本の音楽を良くするためにはこういう方法が必要なのだ」と、後付けには言えますが、実際やっていたときはどうだったか。一つはお祭りです。みんなが勢いをもって同じ方向に行こうとしているように見える。そのときに、「こっちにひっぱったらもっと効率よく行けるじゃない」といった人がいきなりリーダーにされてしまう。もともと意図があって人をまとめたというよりも、エネルギーをもてあましてわっと集団で動こうとしていた人たちの第一人者が、最終的に運営というところに回ってしまったのかなと考えています。そういう人たちが集まって何回かやったのはいいけれど、「ところで俺たち、どうしてこんなことをやっているんだ」と自問自答をはじめたときに、モチベーションをなくしているということだと思います。僕自身もそうですが。

公文  集まること自体を自己目的にして、あっちの島でやってみよう、別の島にも行ってやってみようとなると、「どうして、こんなことをやっているのだろう」ということになる。なんらかの同質性に注目して大規模な島宇宙を作ろうというのは難しくなっている。じゃあ、島宇宙どうしを結びつけるのかというと、そもそもそんな関心はない。なるほど。

■実名でコミュケーションする関心コミュニティ

鈴木  ソーシャルネットワークについては、orkut(オーカット)*3というGoogleがやっているサービスがきっかけになり、日本でも認知されるようになってきています。

公文  まず、orkutについて簡単に説明してもらえますか。

鈴木  orkutはソーシャルネットワークサービスの草分けといわれていて、出会い系というか、知り合い系と定義できると思います。もともと知り合いの人どうしがオンラインで友達リストを作りあって、関心に応じたコミュニティを作り、コミュニケーションをする。会員制のコミュニティです。英語版のorkutが一部でブームになり、日本語版のサービスで大きなものとしてはGREE(グリー)*4とmixi(ミクシィ)*5の二つがあります。会員数もGREEは1万人を超えたそうで、盛り上がっているようです。

 ほとんどのソーシャルネットワークサービスでは、顔写真を登録します。日本では似顔絵をアップする人も多いのですが、規約では似顔絵をアップしてはいけないことになっています。かつ実名で登録するので、orkut、GREE、mixiに登録すると、顔写真、実名付きでネット上にプロフィールが載ることになります。

公文  その点では、この三つのサービスは同じわけですね。

鈴木  そうです。顔写真と本名を載せるコミュニケーションというのは、今までの日本のネットワークの流れからはあり得ない。こんなことが成立するとは誰も思っていませんでした。ところが、なぜかこれが成功して、顔写真を載せることに抵抗のない人たちがたくさん出てきた。なぜ、こうなったのかは僕もよくわからないのですが、同時多発的に同じような流れがインターネット上で起きています。もう一つ、「ポスト2ちゃんねる」のコミュニケーションがここ1、2年模索されてきたなかで出てきたのが、ブログ(blog)とソーシャルネットワークだと思います。2ちゃんねるの匿名的なコミュニケーションに対して、ブログは必ずしも本名である必要はないのですが、はっきりと誰が発信者なのか、アイデンティファイできるような属性を要求するわけです。そういうアイデンティファイ可能な人が単位になって、情報発信やコミュニケーションをする。これは2ちゃんねる的なコミュニケーション、モブで誰でもいいというコミュニケーションの対極にあります。そうしたものが成功しているために、同時多発的にアイデンティファイ可能なコミュニケーションがプラットフォームとして出てきています。ただし、始まったのがここ半年とか1年のことですから、内実を詳しく評価するのはまだ難しいです。

公文  もう少し教えてほしいのですが、ブログの場合、アメリカから出てきたのですが、日本にはウェブ日記という伝統があって、「それと同じ」「いや、違う」というような議論が行われた挙句、「なんとなく似たようなものだ」というような話になっています。それに対して、ソーシャルネットワークの場合はどうですか。今の話によるとorkutはアメリカ産ですが、日本でもブームになっている。そしてmixiは、それを模倣して日本で作られたというわけですね。するとブログに対するウェブ日記のような、日本固有のソーシャルネットワークサービスのようなものはあったのかどうか。

鈴木  会員制のコミュニティサービスがなかったわけではありません。ご存知の「ゆびとま」*6などはそういうところがありました。

公文  昔の「コアラ」*7だとか、BBSは初めはみんなそうですね。

鈴木  しかし、「そういうものと同じじゃないか」という声はあまり聞きません。単にみんな忘れているとか、参加したことがなかったというだけのことかもしれませんが。

公文  私が「orkutに参加しないか」と言われてそのサイトに行ってみたときに仰天したのは、顔写真が載っているのもさることながら、誰が誰とつながっている、しかもその程度や性質までが可視的になっているということでした。つまり、単に「会員は誰々です」という会員のリストがあるのではなくて、そのネットワークの中での人間関係、まさにネットワークそのものが他人に見える形で出ている。「これって大丈夫なのか」と思って、私は参加を躊躇してしまいました。

鈴木  orkutが出てきた大きな前提として、アメリカ社会がソーシャルネットワーク的なコミュニケーションを要求しているということがあります。orkutは学歴まで載せられるのですが、日本人はそういうものは載せたがらない。これはソーシャルキャピタル──通常「社会資本」とか「人間関係資本」と訳されますが、要するにある人が持っているコネやツテを資本として考えるというものです──をめぐるコミュニケーションに差異があるわけで、アメリカの場合はソーシャルキャピタルを使って就職活動をするということが重要なことであるし、職を辞めてジョブホッピングをすることが日本よりゆるい社会なので、自分のプロフィールを出して、ソーシャルネットワークを使って職を移りわたっていくということにそれほど抵抗がないのだと思います。

■ソーシャルネットワークは秘密結社か

公文  もう一つこの特徴を別の言葉でいうと、社会学者のマーク・グラノベッターのいう「ウィーク・タイ(弱い結びつき)」を表に出している。

鈴木  かなり可視的に出している感じです。

公文  他方、「ストロング・タイ(強い結びつき)」にあたる自分の家族、親戚、恋人だとかの一覧を載せているわけではない。

鈴木  昔の職場のつながりの人たちとか、そうしたウィーク・タイが次の就職につながるとか。本当に就職にも使えるようにできていて、学歴等、自分の得意な就業分野等を書く欄があります。フリーになったら、あれによってIT業界にスカウトしてもらえるような仕組みになっています。いわゆる日本で出会い系と称する、男女の出会いを促進するような機能も付いてはいるのですが、あくまでも機能の一つです。

公文  組織的出会い系ですね。組織間出会い系というのかな。

鈴木  かなりオフィシャルな、事務的な部分が用意されているのがorkutです。これは僕のイメージですが、アメリカの卒業アルバムに近いのではないか。友達リストというのを見ると顔写真がずらっと並んでいますが、まるで卒業写真です。日本でも卒業アルバムの使われ方として、ある大学を出た人たちがもっているネットワークがある種の資産になっていて、こういう人を紹介してほしいというときの一覧資料として使われる。そうしたものが、ある程度コンセプトのベースにあると思います。

 そういうorkutのもっている社会的コミュニケーションの前提なしに、プラットフォームだけを日本に移植したらどうなったのか。僕はあまりGREEには詳しくないので、うかつなことは言えないのですが、ある種の内輪でまとまっているようです。これはmixiのサービスもかなり近くて──まだオフ会は開催されていないと思いますが──先ほどの2ちゃんねるで運営をやった人たちや、はてなダイアリーでおもしろい日記を書いてコミュニティを形成していた人たちが、コミュニティごとごっそり移ってきています。つまり、オープンなプラットフォームの中でできていたコミュニティを、クローズドなプラットフォームに移しましたという人たちが増えてきています。GREEもそうではないかと思います。

 どうやら日本でソーシャルネットワークサービスを作ると、新たな人々とウィーク・タイを使ってつながって行こうというよりは、もともと知っている人たちのコミュニケーションをクローズドなプラットフォームに移す。知り合い系というか、もともと知っている系になってきているというように評価することができます。文化の違いによって使われ方が違うのはしようがないと思いますが、今のところソーシャルネットワークサービス、ブログ、はてなダイアリーといったものが、相互に連関しながら、クローズドな関係を維持するためのツールとして使われつつあるのかなという気がします。そこからオープンなコラボレーションが生まれるかというと、そういう感じは今のところ見えない。

公文  むしろ、ストロング・タイのほうに向かっていると。

鈴木  タイを強化していく、際立たせるために使われているということだと思います。

公文  そこで念のためにうかがいますが、アメリカの大学の卒業生というとき、特にいわゆる有名大学でまず考えるのは、どういうフラタニティ(友愛会)に属しているかで、しかもそれは基本的には秘密結社です。たとえばイェール大学でブッシュ大統領が入っている、「スカル・アンド・ボーンズ(どくろと骨)」という会は、誰がメンバーであるかを公にはしないばかりでなく、その組織についての情報をいっさい他人に口外してはならないというのが掟で、生涯にわたってこの関係は持続すると言われています。しかも、それが就職や社会生活を営むうえできわめて重要な要素になっているとも言われている。これはグラノベッター流のウィーク・タイとは違って、血縁・地縁ではないけれど、きわめてストロングなタイがあって、非常に大きな社会的役割を果たしている。そのような集団とorkut的なネットワークとは、おそらく性格が違うだろう。

鈴木  違いますね。秘密結社を有するほどのエリートたちが集まっているのであれば、こういうものは必要とされないでしょう。orkutはもともとシリコンバレーから出てきて、最初のノードはシリコンバレーから広がっているはずです。IT技術者は手に職ですから、職が移っても技術があればどこにでもいける。大学卒業生コミュニティの秘密結社というのは、相互扶助コミュニティというか、同じ大学出身で助け合おうという意図ですから、もともとのorkutの使われ方から言っても少し違うのではないかという気がします。

公文  むしろ、そういう結びつきをもっていない人たちのためのものだということかな。

鈴木  そうでしょうね。職にあぶれたら大学の同窓生に言えば別のIT会社を紹介してくれるということではない人たちの、コミュニケーションだと思います。特にシリコンバレーには外国人も多いはずですから。

公文  まさに情報社会における秘密結社の代替物ですか。

鈴木  orkutの場合は、そういうように使われていくことを想定している。世界規模でいろいろな人が参加しているので、実際にどう使われているかということは必ずしも一意には言えませんが、一部ではそういう就職にも使われているだろうと思います。

■日本でのソーシャルネットワークサービスの位置づけ

公文  ところがそれが、日本ではクローズドなつながりを強めるために使われているということを、もう少し具体的に言うとどうなりますか。

鈴木  二つあります。一つは先ほど言ったように学校間コミュニティをストロングなものにするために使う。これは僕は参加していないので他人の日記を読んで言っていることですが、SFC(慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス)のサークルのコミュニティをGREEで作って、連絡は全部そこでする。つまり、オフラインのクローズドなコミュニケーションのためのプラットフォームとしてのオンラインソーシャルネットワークというのが一つ。もう一つは、先ほどはてなダイアリーや2ちゃんねるの人が移って行っているという話をしましたが、オンラインで今までコミュニケーションをしてきた人たちを、クローズドな関係にまとめ上げるためのプラットフォームというのがあります。オフライン発かオンライン発かの違いはありますが。

公文  最終結果は同じだと。

鈴木  最終的にはクローズドなコミュニケーションになる。連絡を密にするとか、僕自身これまで連絡をとっていなかった人とソーシャルネットワーク内でメールを送り合うということが起きるようになって思ったことですが、eメールを送るにはちょっと格式ばったところが必要だけれど、携帯電話でショートメッセージを送るには用件としては長すぎるという、ミドルサイズのメッセージを送るのに、非常に良いプラットフォームという気がします。携帯メールは相手との関係が近くないとできないし、eメールでは遠すぎる。そういうときにミドルサイズのメッセージを送り合うことによって、遠かったものが近くなり、近すぎたものが別種のコミュニケーションを作ることができるようになっていくことが一つのポイントだと思います。

公文  もし、ソーシャルネットワークの加入者の規模が日本で大きくなるとすれば、それ自体がいくつかの島宇宙化していく可能性は高い?

鈴木  もはや、島宇宙化しているところがあります。プラットフォーム内にコミュニティがあるのですが、そうしたコミュニティが島宇宙化しているのではなくて、ソーシャルネットワーク以前にどういう関係にあったかによって、そこに入ってきても、単に外でしていたコミュニケーションがクローズドになっただけなので、外の島宇宙を強化しているだけというやり方にしかなっていないと思います。そこで、新たな島宇宙が生まれているわけではない。mixiだと「2ちゃんねる島」と「はてな島」みたいなのができています。大きくなっていくとしたら、もとあった大きな島宇宙が入ってくることによってでしかないだろうし、島宇宙間で偶然にコラボレーションやミックスによって何かが生まれる可能性もないとは言えませんが、それは今のところ見えていない。だから写真を出せるのも、知り合いだから出せるというレベルの話かもしれません。

■ネットワーク間の競争と均衡

公文  なるほど、非常に興味深い指摘ですね。ブログの場合は、もともとの日本的「日記」がアメリカのそれとも性格がそんなに違わない「ブログ」になっていった。ところが、ソーシャルネットワークの方は、アメリカのフォーマットが直輸入された後で、違う方向に進化しつつあるらしい。どうしてそんな違いが生まれているのか。それはこれからの研究課題として残しておきましょう。とりあえず、ここまでの議論を鈴木さん、まとめてみていただけますか。

鈴木  オフ会やソーシャルネットワークで起きていることを振り返って、それをあらためて社会学の言葉でいうと、「組織」と「集団」ということになると思います。1970年代以降、オーガナイズされた組織が世界的に退潮していった流れがあります。そうした組織の限界がいわれるようになって、代わりに出てきたのがネットワークという言葉でした。運営にあたるトップがいてオーガナイズしているような組織ではなくて、中心のないノードどうしのつながりのことをネットワークと呼びます。そうしたネットワークが何かを生み出す可能性については、インターネットも含めて論じられてきたのですが、実際に現実のコミュニケーションをしている人たちにネットワークという手段を与えたとき、ネットワークを可視化するということをやってみたときに、もともと社会でやっていたコミュニケーションを強化してしまうという結果が一部では生じる。何らかの偶然によってものすごく大きなイベントになったり、大きなコラボレーションが生まれたりすることはありますが、それはネットワークにすれば必然的に起きるというような進化論的な流れを有してはいないと思います。そういったコラボレーションが起こればいいとは思いますが、実際には手放しで賞賛できるようなことではないということが、ネットワークが一般の人に降りてくればくるほどはっきりしてくるのだと思います。技術者にネットワークを与えればLinuxが生まれるかもしれませんが、何の目的も目標も共有していない人たちにポンとネットワークを与えても、お祭りぐらいしかやることがない。それはネットワークのもつ性質というよりも、それを使ってみんなで何をしようとしているのかということにかかわってくるという気がします。

公文  最後に、私の想像していることを付け加えますと、産業社会には企業があって、その企業の製品やサービスを買う消費者、顧客がいます。企業は、自分の得意な技術や製品のコンセプトをもって客を惹きつけようと競争する。そういう企業は、それはそれで一つのまとまりです。買う顧客のほうは、一つの企業の製品を買ったらそれでおしまいというのではなくて、ニーズはたくさんありますから、自動車についてはここから買う、CDは、テレビは、食べ物はというように、たくさんの企業とつながりをもちながら、買う相手を選択しながら生活しています。それと似たような意味で、ある種のネットワーク、たとえばロックの好きな人のネットワークやサッカーに関するネットワークなどがあって、仲間を集めようとしている。趣味の集まりでも、目的をもってそれを実現しようとする集まりでもいい。そういうネットワークが、それぞれ人を惹きつけようとして競争している。そのネットワークに加入する側は、一つに入れば全人的にそれでおしまいというのではなくて、音楽はこれ、スポーツはこれ、食べ物はこれ、政治はこれというように、何十、何百のネットワークに入るということも考えられなくはない。

 そのうえで、それらのネットワークが互いに競争したり、連携したりするようなルールや仕組みを、制度的、技術的に何か考えられないか。そういうものがあるとすれば、産業社会の市場における競争に似たような形の情報社会の、私のいう「智場」におけるある種の競争が生まれるといえるかもしれない。市場では各人が自分の利益を追求して競争しているのだけれど、「うまくいった場合には、さまざまな需要と供給がそれなりの形で均衡することになりそうだ」とアダム・スミスは予想したわけです。似たような意味で、情報社会ではいろいろな欲求や関心をもった人たちがいて、それらを満たすためのネットワークを提供しようという動きがあって、それぞれはローカルな要求を満たそうとして競争しているのだけれど、そうしている間に無数の多種多様な関心への需要と供給が、それなりにバランスがとれるような仕組みが生まれるという想像はできないだろうか。ある種の同型性というのかな。それが市場と智場の間に考えられないかなという気がしています。その点についても何かアイデアがあったら教えてください。

鈴木  わかりました。どうもありがとうございました。

*1 2ちゃんねる <http://www.2ch.net/>
*2 はてなダイアリー <http://d.hatena.ne.jp/>
*3 orkut <http://www.orkut.com/>
*4 GREE <http://www.gree.jp/>
*5 mixi <http://mixi.jp/>
*6 ゆびとま <http://www.yubitoma.or.jp/>
*7 コアラ <http://www.coara.or.jp/>

(2004年5月17日GLOCOMにて収録)