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chikyu_chijo - April 1, 2005

第4回 : 監視社会論 - 再考(3)

April 1, 2005 [ chikyu_chijo ] このエントリーをはてなブックマークに追加

青柳教授 近影  今回が「監視社会論-再考」連載の最終回となる。第1回では「監視社会論の系譜」を、第2回においては「プライバシーと監視社会」について、それ ぞれ考察を行ったが、今回最終回では「共の原理を支える監視」について考えてみる。まず本連載のリーダーである公文俊平の近著『情報社会学序説A)』に 沿って考察を進めよう。

国際大学グローコム教授 青柳 武彦


第3章 共の原理を支える監視

3-1 近代社会における「公・私・共」という3つの原理と領域

 公文俊平は、近代国家の中には、国家が公の原理に立脚して活動する公の領域と、企業などの組織が私の原理に立脚して活動する私の領域とが、機能的 に並存していると指摘している。さらに近い将来には、智業が共の原理に立脚して活動する共の領域も加わって、3つの領域が並存して共生する状態が出現する だろうと予測している。 A.「情報社会学序説」公文俊平 2004年NTT出版

公の原理と領域

公文のいう、公の原理と領域とは次のようなものである。 「国家が立脚する公の原理の根本は、他の国家や自国の国民によって正統視されている脅迫・強制力、すなわち公権力の行使にある」 「その具体的な発現を通じて国家がめざす役割というか目標は、対外的には、国際社会においてまず主権国家としての独立を達成・維持することであり、それが 実現すると、"威のゲーム"で好成績をあげて、国威を増進・発揚することである」(それは、重要な公共財の1つである安全保障を国民に供給することにもつ ながる)。 「対内的には、その他の公共財(公序・治安、各種の法制度、教育、道路、公開が適切と考えられる情報や知識など)を『全国(民)に普く、そして等しく』あ るいは『公平無私に供給する』ことである同書 P157」。

私の原理と領域

 公文は、私の原理と領域とは「他人の支配や干渉を受けずに自らの生活を主体的に営もうとする行為様式やその権利を意味する」と規定する。ただし、 各個別主体が主体的な営みを可能にするためには、その手段を自ら所有し使用する能力や権利を当該主体がもっていなくてはならない。したがって、私の原理の 根本は「自分自身の行為を遂行し律する能力と権利にある」といえよう。

 つまり「近代文明社会は国家による"公の原理"の発動をまず制度的に承認した後で、この意味での自律的な行為の原理としての"私の原理"、とりわ け私有財産の所有/使用権を制度的に承認するようになった同書 P162-163」のである。

 さらに公文は、情報化以前の近代社会は、国家の意思を決定し実行する"政府(公の領域と原理)"と、私人としての企業や個人が行うもっとも主要な 社会的活動としての交換の場となる"市場(私の領域と原理)"の2つが主要な構成要素とみなされるようになったと考えられると述べ、「果たして、公私の領 域が相互補完するだけで、社会は問題なく動いていくのだろうか」との疑念を提示している。

 公文によれば「一応はそれで足りるとしても、近代化の進展はさらに新しい第三の原理とそれが支配する領域を生み出すことで、社会のあり方をより望 ましいものにしていく可能性はないものだろうか同書 P165-170」との問題意識のもとに、「情報化局面の出現とともに、まさにこの第三の可 能性がひろく現実化して、共 の領域とでも呼ぶことが適切な第三の領域が、"共の原理"を伴って台頭しつつある同書 P167」と指摘している。

共の原理と領域

 そのような"共の原理と領域"における基本は「説得・誘導型」の相互制御行為にある。すなわち(多少とも)自律分散的な個別主体が、相互の説得や 誘導を通じてつながりあった群がり(スウォーム)を作り、実現したい目標やそのために必要とされる手段を通有(シェア)して仲間とその行動を同調(シン ク)させ、あるいはさらに進んだ共働行為を行い、その成果をも共同で享受する、つまり成果も通有(シェア)するのである」(中略) 「そのような共働行為はまず、ある個人ないしグループが、仲間と共働して実現し、ともに享受したい目標ないし理念を思いつくところから始まる。その目標は 経済的な財やサービスの提供である必要はなく、人権の擁護や環境の保全、あるいは平和や安全の達成などといった目標も当然ありうる。それほど堅苦しいこと はいわなくても、とりあえず、それが実現されることが、自分たちにとって楽しい、あるいは、嬉しい、善い、美しい、正しい、と思われることなら何でも目標 になり得る同書 P168-169」。

 こうして実現された目標は、公共財として提唱者、参加者あるいはすべての人によって、その利益はともに享受されるのである。

公の原理の弱点

 しかし、"共の原理"にも「重要な弱点がある」と公文はいう。

 その1つ同書においては、公文はもう一つの弱点として、共の原理に立脚する集団が、自分たちが設定する「利己的な目標の実現にもっぱら精を出 す反社会的な集団 に堕してしまう危険」をあげているが、ここでは考察を省略する。 は、共働行為に参加する個々のメンバーが期待される貢献や義務を果たさないで、成果の配分だけにもっぱら預かろうとする「ただ乗り」 や「怠けの誘惑」に絶えずさらされ、時にはその誘惑に負けてしまうことである。だから、"共の原理"を有効に働かそうと思えば、そのような「誘惑に負けな いようにする倫理」を確立すると同時に、効果的なルールを制定したり、あるいはそれを遵守させるための評判や監視、制裁の仕組みを働かせたりするべきであ る。こうした「協力の技術の開発と活用」を通じて、共のシステムの円滑な運用をはかること、それと同時に、参加者相互間の信頼およびシステムに対する参加 者の信頼を確保することが、必要不可欠になってくる。そこで本稿のテーマである「監視」が、協力の技術という社会的な意義をもって浮かび上がってくるので ある。

3-2 協力の技術としての監視

「コモンズの悲劇」を防止する監視

 ガレット・ハーディンは「コモンズ.コモンズ:共有地などのコミュニティーの共有財産のこと。は悲劇の源泉でしかない」といった。コモン ズにおいては、もし1人がこっそりと抜け駆けして他よりも多く資 源を利用したりすると、たちまち皆が同じ事をするようになって資源が枯渇してしまう。つまり、コモンズにおいては必ずしも「常に自由な競争が望ましい」と はいえず、むしろ「私有化や規制の導入」などが必要となる場合が多いのだ。生活排水による海や川の汚染、車による大気汚染、地下水の枯渇など、資源問題や 環境問題においてこの「コモンズの悲劇」問題は頻繁に起こっている。

 しかし、このような悲劇を避ける方法がある。ルール違反を防ぐ自主的な相互監視と違反の制裁が有効に機能する「よく管理されたコモンズ」の場合に は、コモンズは枯渇することなしに存続して人間の役に立つのである。すべてが「自由なコモンズ」のようにみえるインターネットの世界にも、じつは相互監視 と制裁の仕組みがちゃんとある。それが「インターネットのガバナンス」に他ならない。

相互監視によるチェック&バランス

 チェック&バランス(Check & Balance:牽制と均衡)とは、常に対抗あるいは競合する複数の勢力を確保して、これを相互に監視せしめることによって相互干渉と競争を確保する政治 力学的手法である。こうした自発的な改善と均衡を通じて円満な進歩が可能になるという考え方である。

 たとえば三権分立においては、司法、立法、行政のいずれもが突出した権限をもたないようにして相互監視を行ってチェックし、バランスをとることに より、権力のダイナミズムを確保するようにしている。ただし、その仕組みは国によって大きく異なる。

 米国においては、行政府の最高責任者である大統領は連邦議会に対して責任を負っているわけではなく、国民に対して直接責任を負っている。大統領は 連邦議会を解散する権限を持たず、議会も大統領を罷免することはできない大統領を罷免することはできない:大統領が重大な犯罪を犯したと認められる場 合に限り連邦議会は大統領を弾劾する権限を与えられている。。しかし、議会が行政機関の行う仕事を監督する特別委員会、GAOGAO: General Accounting Office 会計検査院。議会に属する。、 OMBOMB:Office of Management and Budget 行政管理予算局。大統領直属の機関。、OIGOIG: Office of Inspector General 監察総監。などがそれぞれ独立の立場から常に密接に監視しており、常時、調査・命令を出し ている。これらのチェック機関は行政から完全に 独立しており、予算は豊富、また人員も多数配置されるなど、絶大な権限をもつ。省庁横断的組織であるが監査のための独立権限を持つ。

 これとは対照的に、日本は議院内閣制をとっているので、行政の最高責任者である内閣総理大臣は議会において選任される。そのため与党は徹底的に行 政を擁護する側に回る。議会と行政は互いに対抗する勢力としては機能し得ないから、日本の議会には本当の意味における行政に対する監視と"チェック&バラ ンス"の機能はほとんどない。野党もせいぜい特別委員会で質問をして報告を求めたり、議論をしたりする程度である。

 企業の経営の分野や産業政策分野においても、ある業務を推進する系統と、それをチェックして監査・支援を行う系統を、それぞれまったく異なる「別 個の独立した指揮命令系統に分立させて」行わなければならないのであるが、十分には行われていないのが実情である。三菱自動車問題からY2Kの事故など枚 挙にいとまがない。もともと日本社会は互いの面子を尊重しあう本質的に馴れ合い社会であるために、相互監視によるチェック&バランスは不得意なのである。

市民による権力の監視、市民オンブズマン

 従来の公権力から監視される立場にあった市民が、逆に「権力の側を監視する」市民オンブズマン運動が盛んになりつつある。市民オンブズマンは、住 民の立場から行政の非効率、不正行為、税金のムダ遣いなどを調査して、これを指摘することを通じて行政を改革しようとする市民運動である。権力者から任命 されたり、権限を与えられたりするものではなく、あくまで自発的かつ自主的な活動を行うものである。こうした市民が行政を監視するオンブズマン運動は徐々 に全国的に広がりつつある。

コンテクスチュアル・コンピューティング

 よい意味での"相互監視"を導入し、互いのプライバシーを「一定限度まで供出しあう」ことに皆が合意することによって、まったく新しい革命的なコ ンピューティングの世界が広がる。従来のコンピューティングにおいては、誰が入力してもコンピュータは命令やデータに基づいて所定の動作をして一定の結果 を出すだけであった。

 しかし、コンテクスチュアル・コンピューティング(Contextual Computing)においては、システムはその時点時点におけるユーザーのコンテクスト(位置や用件、事情、各種の情況とその関連性などについての個別 的事情)についての情報をあらかじめ収集し、蓄積し、分析・更新して、ユーザーの個別的な要求に最適なコンピューティングを自律的に行う。

 そのようなコンテクスト情報は、ユーザーが意識的に入力するだけでなく、システムがセンサーを通じて自動的に収集する。ウェブの利用パターン、位 置情報、顔の表情のパターン認識、動作認識など多くの情報がコンテクストを構成する要素になる。現在注目を集めている「協調フィルタリング協調フィル タリング:Collaborative Filtering。例えばウェブの検索に当たって、本人の検索パターンや、本人に似た好みや行動パターンを持つ他人との関係性に着目してフィルタリング を行う。社会的フィルタリング(Social Filtering)ともいう。 」も複数 のユーザーを対象としたコンテクスチュアル・コンピューティングの一種である。似たような傾向を持つ他人のデータも"コンテクスト情報"となる。アマゾン のブックマッチャー・サービスブックマッチャー・サービス:本人または似た読書傾向を持つ他人のデータを分析して、当人が興味を持てそうな図書を推薦 してくれる仕組み。がそのよい例である。

 このような機会は"ユビキタス環境"ではますます増大するので、行き過ぎを防ぐ制御の仕組みを考えることがきわめて重要になるだろう。しかしユー ザーが何時までも「偏狭な監視アレルギー」や「不必要なプライバシーへの拘り」を持っているようであると、このような新しい世界は永久に開かれない。

3-3 個人の人格維持を支援する監視

監視の「まなざし」の効用

 人は監視されていると思うと、「かくあるべし」と、自ら思う方向に自らを律する動機が無意識のうちに発生するものだ。以下は、某テレビ局が行った 番組での実験であるが、街角に花カゴをおいて、その脇に「おひとり2本まで自由にお持ち下さい」と張り紙をしておく。傍らにはわざと一人で何本もの花を 持ってゆくサクラ役が用意されている。実験開始後しばらくの間は、人々はお行儀良く2本ずつ持っていったのであるが、間もなく何本も持っていく"不埒な人 "が現れた。すると「我れも我れも」と何本も持っていってしまう人が出てきて、あっという間に全部の花がなくなってしまい、結局、サクラ役の出番はなかっ たのである。

 番組は続いて、同じ実験を大きな監視カメラの前で行った。すると、人々はお行儀よく最後まで2本ずつ持ち帰ったのである。人々は係員の視線や監視 カメラを意識することによって、自制心の敷居値を十分に高く保つことが出来たのである。

監視は自制心の敷居値を高める

 敷居値を十分に高く保つのは、人々の倫理観や良心などの内面的な動機からである。しかし全員が「聖人君子とは限らない」以上、現実の問題としては これだけでは不十分である。そこで、外部的な刺激によってこれを代替、または強化してやる必要がある。ルールに背いた時の罰金を大きく明示するなどして、 脅しや警告を行って、人の恐怖心や警戒心に訴えるやり方もある。しかし、これではいかにも強制的で、自発的な動機を否定する方法である。

 それよりは「監視の支援」を受けて、自発的に自己を制御してもらうほうが良い。人から監視されているという意識は、摘発されると恥をかくとか、罰 せられるのを避けるなどの消極的防御策が動機としてあるのはもちろんであるが、そのほかにも「監視する人間の期待に応えよう」とする積極的で前向きな動機 が無意識のうちに発生するのである。

厳罰主義か監視による自発的制御への誘導か

 シンガポールは町の美観を保つために、きわめて厳しい罰金制度を持っていることで有名である。ガムの所持、ゴミのポイ捨て、唾を吐くなどといった 行為はただちに高額の罰金が課せられる。また刑事犯に対しては、問答無用のきわめて厳しい罰を課していることでも有名である。

 こうした"厳罰主義"に対しては諸外国から多くの批判が寄せられているが、それに対してシンガポールは、自国が歴史の浅い多民族国家であることを 前提において、社会秩序の維持、海外投資の導入、観光客の誘致などを至上目的として「そうした手段を取らざるを得ない」と説明している。彼らの用いる「脅 迫と強制の下の厳罰主義」の結果、シンガポールの犯罪率は先進国の中で飛びぬけて低いものになっている。

 人々の倫理観の欠如を嘆くのは容易である。しかしただ嘆いているだけでは何の役にも立たないから、政府がこうしたシステムをとるのは判らないでも ない。だからといって、いきなり人権を無視するような厳罰主義を採用するのは甚だ疑問である。こうした状況下において、監視の効果を前向きに活用するのは 人間性を無視するどころか、むしろ人間性を尊重する方法である可能性が高いのだ。 第4章 まとめ

 これまで、3回にわたって「監視社会論」の見直しを行ってきた。いままでに発表された主な監視社会論をレビューすることを通じて、(A)監視社会 は情 報化社会の必然的な産物であること、(B)監視にも権力によるものと隣人によるものがあること、(C)かつ監視には管理や権力の維持のためという側面と保 護や協力 のためという側面の両面性があること、(D)したがって無条件に排すべき概念ではないこと。以上のことが明らかになったと思う。

 監視社会に対する批判の大きな根拠は「プライバシーを侵害する」点である。しかしプライバシーの権利は"人格権"の中でも近代以降に認められた、 高級であるがゆえに、それだけ脆弱かつ基本性が比較的低い権利である。それに、性別や容貌のような公知の事実については認められていない。また公共の場に おいては「プライバシーの権利は縮小する」ことも考慮すべきである。監視社会の縮図ともいわれる防犯カメラの問題にしても、防犯という公共の利益とプライ バシーの権利を比較考量した上で判断するべきである。

 防犯の目的以外にも、監視にはより積極的な意義がある。公文俊平は、近代国家の中には、国家が占める"公の領域"と、私の原理に立脚して活動する 企業が占める"私の領域"とが、機能的に並存しているが、近い将来には、共の原理に立脚して活動する「智業」が占める"共の領域"も加わって「3つの領域 が並存しつつ共生している状態が出現するだろう」と予測している。そのときに、公の原理の弱点である要素主体の「ただ乗り」や「怠け」を防ぐ協力の技術と しての"監視"の社会的な意義が浮かび上がってくる。

 協力の技術としての"監視"と違反に対する制裁は、これからの人間社会の原理になると思われる「協調・共同」を有効に働かせるために必要不可欠な 要素なのである。また、相互監視によるチェック&バランスは行政、企業、地域社会などのあらゆる組織において、円満な進歩を確保する重要な原理である。

 何よりも"監視"は、個別主体の倫理的人格を維持することを支援する「人間性尊重の原理である」場合があることを忘れてはならない。


*監視社会論-再考おわり。

次号は丸田一教授による「智民論」です。お楽しみに。

プロフィール

〈あおやぎ・たけひこ〉1934年生まれ。58年東京大学経済学部卒、伊藤忠商事入社。85年から95年まで、NTTと伊藤忠の折半出資の合弁会 社、日本テレマティーク株式会社社長。その後、国際大学グローバルコミュニケーションセンター(グローコム)に招かれ、95年から2000年まで副所長を 務めた。おもな著書に『ビデオテックス戦略』『電子出版』『ネットワーク戦略』『グローバル企業の情報戦略(共著)』『電子公証システムと法律制度』 『2005年日本浮上(共著)』などがある。また論文も『ビジネス方法特許』『電子商取引の法環境』『情報化時代の個人情報保護とプライバシー保護』『プ ライバシーの法環境』など、こちらも多数ある。