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第8回 : なぜプライバシーが問題となるのか~領域的プライバシー論を越えて

August 1, 2005 [ chikyu_chijo ] このエントリーをはてなブックマークに追加

国際大学グローコム 助手・研究員 鈴木 謙介

 第8回目の今回は、76年生まれの若き研究者・鈴木謙介氏に、プライバシー概念の変容について考察していただいた。鈴木研究員によると、ホーム ページがそうであるように、現代はプライバシーの概念が「隠される」ものではなく、他者に公開しつつも「自己のコントロール下にある」という意味的な転換 を遂げているという。そのような社会においての「プライバシーの保護」とは、流通する情報を自己責任で監視する意味を持つことになる。そしてその先にある のは、もはや自己監視を欠いては、現代人は生きられなくなるという結末だ。その状況を回避するための処方箋とは……。

プライバシーと「自己情報のコントロール権」

 近年、プライバシーに関する議論が盛んだ。プライバシーという概念は、法的な概念としては100年程度の歴史しかない非常に新しいものだが、その 定義については、かなり曖昧な部分が多い。だがそれは、もはや私たちの生活において広く浸透している一般的な理念でもある。私たちの多くは、プライバシー を「守られて当然」の最も基本的な人権に関わるものだと認識しているが、その一方で情報化社会においてはそれが、往々にして侵害される可能性があるという ことが問題となってもいる。

 その最たるものは、おそらく「個人情報の流出」に関わるものだろう。規模の大小を問わず、個人情報が意図せず流出・漏洩したというニュースには事 欠かない。そのため、個人情報保護法の施行とも関連して、人々の「個人情報」をプライバシーの問題として考える意識は、非常に高まっていると言えるだろ う。

 ただ、そうした意識の高まりが、かえって個人情報に関する過剰な不安を呼び起こしていることも事実だし、そのために、あらゆる場面において、個人 情報の保護を優先するという状況が生まれつつあるということは、指摘されてもよいだろう。今年5月には、金沢地裁において、住基ネットの個人情報がプライ バシーに関わるものであり、自己情報のコントロールの対象になるという理由から「住基ネットの個人情報を削除することを認める」判決が出された。

 この問題についての法律的な正当性や解釈は、ここではひとまずは問わない。確かに、プライバシーという概念で、個人情報に関する安全を確保するべ きであるのか、あるいは「自己情報のコントロール」は権利として認めうるのかといった点について、さまざまな議論が登場している。しかし本稿で私が試みた いのは、そうした法的な議論の背後に広がっている、私たち自身の意識の問題についての"社会学的な読解"である。言い換えるならば、それは、なぜ私たちは これほどまでに「自己の情報をコントロールしたい」と考えるようになっているのかという問題についての分析が、ここでなされるということだ。

 つい最近まで私たちは、自分に関する情報がどの程度、他者によって把握されているかということに対してさしたる関心を払ってこなかったし、それで 十分安心して生活できたはずだ。ではなぜ私たちは突然、個人情報の保護を求めるようになってしまったのか。

 むろん、マスコミにおける報道が、こうした傾向を加速しているという側面はある。確かに個人情報の漏洩によるリスクは、情報が容易にコピーされる ようになった現在では、かつてより増していると言えるかもしれない。だが、それがなぜ「プライバシー」をめぐる問題として取り扱わなければならないか、と いう点については、こうした観点からは説明できないのではないか。

 以下では、こうした「個人情報の保護」と「プライバシー」の関係について、特にプライバシー概念の変容という観点から分析し、なぜ「自己情報」が プライバシーによって保護されなければならない、と考えられるのかという点について見ていくことにしよう。

「空間的プライバシー」から「領域的プライバシー」へ

 プライバシー概念が、その認識に関して混乱してしまう理由は、複数想定できる。ここでは、そうした要因のうち、情報化の進展に関わる問題を特に指 摘しておきたい。というのも、プライバシーという概念を考えるに当たって、情報化、なかんずく家庭の情報化という近年進みつつある事態は、決定的に重要だ からである。

 そもそも、プライバシーというときに私たちは、どのような状態ならば「それが守られている」と考えるだろうか。これまで、多くの人が、他人、特に 赤の他人から見られたり、自分の状態が知られることのない状態を「プライバシーの守られた状態だ」と見なしてきた。こうした状態を維持するに当たって、特 に公共空間からの隔離という条件は、非常に重要なものになる。他者の視線から切り離された、独立した私的な空間こそが、プライバシーのある場所だという認 識は、いまも私たちの普通の認識としてあるのではないか。

 それゆえ、プライバシーの安全は、はじめ「家庭の情報化」とは対立するものだと見なされた。たとえばテレビ。テレビは、家庭内に、否応なしに外部 の情報を持ち込んでしまう。いわばテレビによって家庭のリビングと外部は接続されるのであり、そこにプライバシーの「穴」が空いてしまうのだ。食事中にテ レビを見ることを禁じられていた家庭が多かったのは、人々が本能的に、こうした「外部からの情報の流入」に危惧を感じ取っていたからだろう。

 あるいはより直截には、電話も同じ文脈で語ることが出来る情報デバイスである。クロード・フィッシャーの研究によれば、アメリカでは電話の普及を 支えたのは、当初想定されていたビジネス面での利用ではなく、主婦らによる、「プライベートな」おしゃべりという利用法だった。いわば電話は、空間的な隔 たりに関係なく、個人と個人のプライベートを繋ぐものとして、家庭へと侵入してきたのである。

 吉見俊哉らの先駆的な研究が示す通り、日本においても電話は、はじめ「玄関」という、家庭の中でも一番外部に近い場所に置かれていたが、時代とと もに、リビングへと移動し、また親子電話の登場によって、「個室」という、家庭のもっとも奥へと設置されることになった。ここに至って、家庭という空間の 中に、個人と個人とを繋ぐ別種のプライベートなコミュニケーションができあがったのである。

 現在では、携帯電話などの普及により、私たちはいつでもどこでも、他者と接続し、プライベートなコミュニケーションを行うことが可能になった。こ れは言い換えれば、空間的に隔離されていることによって可能になるプライバシーとは別の、すなわち領域として"守られるべきプライバシー"として登場した ということである。こうした、情報化によって可能になった、コミュニケーションとしてのプライバシーを、以下では「空間的プライバシー」に対して「領域的 プライバシー」と呼ぼう。

 「空間的プライバシー」から「領域的プライバシー」への移行を示したのが、図1-aと図1-bである。図1-aでは、家庭というプライベートな空 間に、メディアによって外部から情報が侵入してくることによって、プライバシーが侵害される、というイメージを表している。しかし、情報化の進展が、プラ イベートな領域をその中に独自に成立させるようになると、相対的に、空間としてのプライバシーはその意味を失っていくというのが図1-bである。

領域的プライバシーの根拠としてのコントロール

 「領域的プライバシー」は、しばしば空間的な配置によって侵害される、という点は重要だ。昨今、携帯電話の画面を他者から見えにくくする「プライ バシーフィルター」がよく売れているが、これは、領域的プライバシーの持つ性格をよく表している。

 つまり、空間的には携帯電話の画面をのぞき込まれてしまうぐらいに接近している関係であっても、いやそれだからこそ、領域的プライバシーは、他者 から隠されなければならなくなる。いつでもどこでもプライベートでいられることで、私たちは、公共空間において、関係のない他者から切り離されることを切 望するようになってしまうのだ。

 さらに、領域的プライバシーを保護するためには、こうした他者からの切り離し以上に、その領域でやりとりされるプライベートな情報を、どのように 取り扱うかという点が非常に重要になる。というのも、情報化が可能にするプライベートな領域においては、自己の発信した情報はどこまでも複製されていく可 能性を有しており、また、そうした複製の可能性を前提とした情報発信も行われているからである。

 つまりここでは、プライバシーをめぐる「空間/領域」という差異だけでなく、その内容についても大きな変質があるのだ。プライバシーがもっぱら空 間的なものだと捉えられていたときには、それは他者から「隠される」ことを意味していた。しかしながら領域的プライバシーは、自己の情報について、何を、 どのような形で、どこまで「見せる」かについて、問題にする。メールを送信したり、ウェブサイトで日記を公開したりといった行為は、自分自身の情報を発信 していると同時に、そのことによってプライベートな領域を立ち上げるということでもあるのだ。

 ここから、空間的隔離に代わる、領域的プライバシーの根拠が導かれる。すなわち、発信される情報についての"コントロールの可能性"を持っている こと、これが領域的プライバシーを可能にする条件である。たとえばインターネット上に開設したウェブサイトは、日本ではしばしば「ホームページ」と呼ばれ る。つまりここでは、ウェブサイトにおいて公開される情報が、「ホーム」の中にある、と見なされているのである。公開されていると同時に、自己のコント ロール下にあるということが、ホームページの性格を特徴づけている。だからこそホームページの管理者は、自分のページに対する全権を持っているというふう に理解されるのである。

監視社会-自己監視時代の到来

 こうした、公開されつつもコントロールの効く情報を発信するという行為が、情報化によって伴って生じた、新たなプライバシーの領域を可能ならしめ ている。むろん、領域的プライバシーにおいて流通する情報は、何も公開されることを意図されているものばかりではない。だが、だからこそ、こうした情報に 対するコントロールが重要だと見なされるようになるのである。

 電子化された情報は、それ自体は、盗聴や情報流出、漏洩、コピーに対して無防備である場合がままある。そのことに対して私たちは、情報が意図せざ る流通に開かれるからこそ、その情報の流通をコントロールする必要性を感じることになり、また、そのようにすることがプライバシーの保護に当たるのだと考 えるようになるのだ。

 プライバシーの保護が、プライバシーを公共的に開かれた状態から遠ざけるのではなく、たとえ公共的に開かれることがあっても「コントロール可能で ある状態にすること」へと意味的な転換を遂げるとき、冒頭に紹介したような「自己情報コントロール権」という発想の根拠が生まれる。むろん、こうした概念 の法的正当性については、いまだ論争中だという側面はあるが、私たちの考えるプライバシーの概念が、そうした「コントロール権」を含み込みつつあることに 留意しなければならないという点は変わらない。

 では、プライバシー概念が自己情報のコントロール権として捉えられることで生じる帰結とは何か。ひとくちに言えばそれは、「社会の監視化」であ る。監視化というと、よく批判されるような、国家権力による人民の思想統制のような事態が想起されがちだが、ここでいう「社会の監視化」は、そういうこと を指しているのではない。監視されるのは、確かに私たち自身であるわけだが、それを監視するのは誰かと言えば、じつは、それも私たち自身である、というの が「監視社会」なのだ。

 というのも、自己情報のコントロールが可能であるためには、それがどこに、どのように蓄積されているかについて、自分自身が知らなければならない し、そうした情報に対する管理の責任が、自分になければならないからである。すなわち、領域的プライバシーが拡大する過程において、そこで流通する情報を 「自分の責任において監視すること」、それがプライバシー保護の基礎となるということだ。

 プライベートな領域を守るため、自分で自分を監視し続けなければならない。こうした形で要請される「社会の監視化」は、私たちが情報化社会にあっ てプライベートな存在であるためには、必然的に起こるものだ。私たちが直面しているのは、こうした自己監視によって支えられるプライベートな領域が、社会 の中に全面化するという事態なのだ。

「プライバシー」を取り戻せるか

 情報化されたプライバシーの領域が、社会のあらゆる場面に持ち込まれ(電車内で多くの人が携帯電話のメールをやりとりする光景!)、そのことによ り、社会活動の中で不断の自己監視が必要になるという社会。その先に待つのは、私たちが、監視を欠いては生きられなくなるという結末だ。

 監視への依存が高まることによって、私たちはプライバシーの領域を確保し、またそのことによっていっそう監視への依存を強くするというループ状態 に陥ってしまう。こうした社会は、果たして望ましい社会だと言えるだろうか。少なくとも、何らかの形において、過剰な監視への依存が生じないような歯止め を用意する必要があるのではないか。

 重要なのは、領域的プライバシーの根拠となる「自己情報のコントロール」へと向けられる欲望を、一定程度に抑えるための処方箋だ。たとえば、デー タとして保存される情報は、常にある程度の漏洩のリスクに晒されていること、あるいは、ウェブサイトに載せた情報は、予期せぬ読まれ方をすることがあり得 ること、こうした「情報化ゆえの限界」について自覚した上で、コントロールできるものと、そうでないものを峻別し、過剰に監視に依存しないプライバシーの あり方を模索するという作法が、いま必要とされているのではないか。そうでなければ、まさに個人情報の利用そのものが"オール・オア・ナッシング"で捉え られるような、実りのない議論しか出来なくなってしまうのではないだろうか。

プロフィール

鈴木謙介<すずき・けんすけ>国際大学GLOCOM助手・研究員、首都大学東京非常勤講師。1976年福岡県生まれ。東京都立大学大学院社会科学研究科博士 課程単位取得退学。著書に「暴走するインターネット」(イースト・プレス)、「カーニヴァル化する社会」(講談社現代新書)、共著に「21世紀の現実(リ アリティ)」(ミネルヴァ書房)など。専攻は理論社会学。宮台真司氏の弟子としても知られている。