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2006年03月 アーカイブ

2006年03月01日

第11回 : 言語におけるデジタル・デバイド

上村 圭介 (国際大学グローバル・コミュニケーション・センター)

1. はじめに

情報技術の普及により社会の情報化は着々と進んでいる。しかし、このような社会全体の情報化、つまり「情報社会」化の進展の状況は世界的に見れば地域的な偏りがある。「デジタル・デバイド」と呼ばれるこの偏りは、社会経済的ないくつかの要因によって引き起こされるが、その要因の一つに言語の問題がある。

電子メール、ウェブページといった情報技術の応用はどれも第一義的には書きことばを前提としている。しかし、現状ではすべての言語の話者が自由に自らの言語の書きことばを利用できるわけではない。つまり、ある言語の話者であるかどうかによって、情報技術へのアクセスの程度が規定されてしまうのが現状である。

情報技術の利用をめぐる言語間の格差は、どうして生じるのだろうか。本稿では、この問いに答えるためには、ソフトウェア工学だけでなく、社会・経済的な視点、あるいは政治的・言語政策的な視点が必要であることを示す。その上で、本稿は言語におけるデジタル・デバイドについて、これらの視点に基づいた分析と考察を試みる。

2. 情報社会の中の言語間格差

2.1 言語間の格差を招く要因

情報技術(以下、本稿では主としてパーソナル・コンピュータを対象とする)の利用における言語間の格差を解消するためには、利用者が情報技術を自分の言語の知識だけで操作できることが必要である。そのためには、情報技術、厳密にはその中に組み込まれたソフトウェア・プログラムの多言語化(またはローカライゼーション)の作業が必要となる。

一般的に、ソフトウェアの多言語化とは、ある言語を前提に開発されたソフトウェア製品を別の言語で使用可能にするために施されるソフトウェアの内部設計上の修正作業を指す。Localization Industry Standards Associationは多言語化を「製品またはサービスをそれぞれの市場に合わせて修正していくプロセス」であると定義している 1) が、James Clarkは、その定義をさらに押し進め、多言語化の役割が「利用者は自分の母語によってコンピュータとのインタラクションができる」状況をもたらすことに注目する 2) 。

多言語化の問題点とは、Clarkによれば、技術の利用可能性ではなく、「膨大な、しかしそれ自体は単純な作業」が進まないこと、必要な人的・経済的な資源がそのために振り向けられないこととされる。この点で、多言語化とは技術的な問題ではなく、社会・経済的な問題なのである。

2.2 話者数からみる格差

Global Reach社によると、1996年の段階では、インターネット利用者のうち英語話者が占める割合は89パーセントと推計されている 3) 。この割合は、2000年には47パーセントにまで縮小した。さらに、2005年には25パーセントにまで縮小すると予測されている。インターネットでの英語の支配的地位が英語以外の言語の使用を妨げることへの強い懸念が見られた1990年代中盤から後半ごろの状況に比べれば、言語的な偏りは是正される傾向にあると言える。

また、Rozanほか(2005)の試算では、Microsoft社のウィンドウズXPオペレーティング・システムによって世界の人口の約84パーセントの言語はすでにカバーされているという。

しかし、Global Reach社の推計はすでにインターネットを利用している人口の内訳であり、その外側には多くの言語話者が取り残されている。Razanほか(2005)の試算も、前述のインタラクションという観点で整理しなおすと、カバーされるのは50の言語の約33億人に減少する。つまり、言語の間には、情報技術の利用をめぐって埋めきれない格差が残されているのである。

2.3 公用語・国語からみる格差

Ethnologueによると、世界の226の国・地域では、およそ230の国語・公用語が用いられている 4) 。これらの国語・公用語の4分の3では、情報技術とのインタラクションが実現できない。さらに、19の国・地域では、その国・地域の国語・公用語だけでは情報技術とのインタラクションが実現できない(表1参照)。

表1: サポートされた公用語・国語をもたない国
国名 公用語・国語
アゼルバイジャン アゼルバイジャン語
アフガニスタン ダリ語、パシュトゥー語
アルバニア アルバニア語
アルメニア アルメニア語
イラン ペルシャ語
ウズベキスタン ウズベク語
カンボジア クメール語
タジキスタン タジク語
ツバル ツバル語
トルクメニスタン トルクメン語
ネパール ネパール語
バチカン ラテン語
バングラデシュ ベンガル語
ブータン ゾンカ語
ミャンマー ミャンマー語
モーリタニア ハッサニア語
モルジブ ディベヒ語
モンゴル モンゴル語
ラオス ラオス語

※Ethnologueをもとに筆者作成

公用語・国語のレベルで一般の市民の言語的ニーズがすべて満たされるわけではなく、地域共通語のレベルで見れば、さらに多くの言語が同様の状態にあると思われる。

3. 格差をもたらす要因

前節で見たような言語間の格差が生じるのはなぜだろうか。直感的には、この格差はその言語が話される国や地域の経済力の反映である、あるいは単に利用者数が少ないからだということが言えそうである。

3.1 ソフトウェア開発を決定する要因

一般的に利用されるパーソナル・コンピュータ向けのオペレーティング・システムは商用の製品として販売されている。そのため、ある言語が情報技術とのインタラクションをもつかどうかということは、特定のソフトウェア・ベンダがその言語向けの製品を開発・販売するかどうかということと関連している。言い換えれば、情報技術とのインタラクションにおいて言語の間に格差があるのは、直接的にはその言語向けの製品を開発するための経営資源の投入が十分行なわれていないからである。

あるソフトウェア・ベンダでは、ある言語向けの多言語化を実施するかどうかを判断する基準として、話者数、潜在的顧客数、成長への期待度、その他の社会的利益の四つを設けている。

話者が多いということは、その言語向けの製品を開発する大きな理由になるが、それだけではない。市場に投入した製品が実際にどの程度売れると見込まれるかも、製品開発に踏み切るかどうかを判断する上では重要な基準である。また、開発直後には大きな売り上げが期待できなくても、その言語による市場が今後拡大することが期待できれば、その市場向けの製品開発に先行した投資を行なうこともありうる。

したがって、最終的な判断はソフトウェア・ベンダのビジネス上の合理性の観点から行なわれるわけであり、この四つの基準を採用したからといって誰が判断しても同じ結論が導き出されるわけではない。むしろ、異なる結論が出た背景が何であるのか、また特定のソフトウェア・ベンダの結論と、利用者や社会全体の観点から導きだされた結論とが異なった場合に、両者の調整が必要となる。

3.2 言語の経済力

技術以外で、多言語対応の進展を左右すると考えられる要因に経済規模がある。ソフトウェアの製造や販売は商業的な観点から行なわれる。したがって商業的な成功の見込みの少ない言語への対応が遅れるのは当然である。しかし、ある言語の経済規模とその言語の対応状況を比較すれば、経済規模が多言語化のプロセスにどのような影響を与えているかが分かる。

ある言語がもつ経済力を算出する方法に、Gross Language Product (GLP)と呼ばれる手法がある。これは、ある国や地域の経済力を、話者数に応じてその国や地域で話されている言語に配分し、各言語に配分された経済力の和を言語の経済力として見なす手法である。

表2は、この手法によって導き出された主要言語の経済力の一覧である 5) 。これをみると、上位には英語、日本語、ドイツ語、スペイン語などの言語が上がっており、いわゆる工業先進国の言語の経済規模が大きいことが分かる。一方で、ヒンディー語・ウルドゥー語やベンガル語などの言語も、このような指標では上位に来る。

表2: による言語の経済規模の推定
順位 言語 経済規模
(10億ドル)
英語 7,815
日本語 4,240
ドイツ語 2,455
スペイン語 1,789
フランス語 1,557
中国語 985
ポルトガル語 611
アラビア語 408
ロシア語 363
10 ヒンディー語/ウルドゥー語 114
11 イタリア語 111
12 マレー語 79
13 ベンガル語 32



ヒンディー語/ウルドゥー語、マレー語、ベンガル語などは、経済規模が上位にありながら、前出のウィンドウズXPの多言語化は、より経済規模の小さい言語(ギリシャ語、韓国語、トルコ語、ポーランド語、タイ語、オランダ語、ハンガリー語、チェコ語、スウェーデン語、デンマーク語、フィンランド語、ヘブライ語、ノルウェー語など)に遅れをとっている。

多言語化が経済状況に応じて進むというのは、一見もっともらしい説明であるが、実際には経済規模と多言語化の状況にはずれが生じている。これは、製品をある言語に対応させる作業を決定づけるのは、言語の経済規模に基づいた商業的可能性以外の要因が働いているということだろう。

4. 格差解消へ向けた政策的取り組み

前項で見たように、情報技術とのインタラクションをめぐる言語間の格差は、必ずしも誰もが納得できるような形で話者数や経済力といった現実を反映しているわけではない。とはいえ、情報技術とのインタラクションを実現するには、一私企業であるソフトウェア・ベンダが、そのためのプログラムを開発し、市場に投入する必要がある。したがって、私企業の業務戦略や単純な市場原理に従うなら、この格差が埋められる見込みは低い。

そこで、格差を調整するために、私企業のソフトウェア開発プロセスに依存するだけでなく、例えば政府などの主体による外部からの働きかけが有効であると考えられる。実際、国際機関や各国政府は情報技術が言語使用に及ぼす影響を重視し、情報社会の中での言語間格差を解消するための政策的な取り組みを進めてきた。

4.1 国際機関の取り組み

国際的な視点からこの問題に取り組んでいる組織の一つに国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)がある。ユネスコは、2003年10月の第32回総会において「多言語主義の促進及び使用並びにサイバースペースへの普遍的アクセスに関する勧告」を採択した。この勧告は、情報へのユニバーサルなアクセスと並んで言語の多様性をめぐる不平等な現状を改善するための加盟国政府の行動を求めている。

4.2 各国政府の取り組み

各国政府の取り組みは、ユネスコに比べるとより具体的である。

インドでは、連邦政府内務省公用語局の通達により、連邦政府機関はコンピュータ機器の調達に際して、ソフトウェアと入力機器は連邦レベルの公用語である英語・ヒンディー語の両方に対応したものを選択しなければならないと定められている。

カナダのケベック州は、二つの公用語をもつカナダにあって、州内での公用語をフランス語と定めているが、同州は、その「フランス語憲章」の中で「すべてのコンピュータ・ソフトウェア (ゲーム、OS を含む) は、フランス語版が市販されている限り、フランス語で用意されなければならない」と規定している。

中国の例は、インド、ケベック州と比べるとより積極的である。中国では、現在一般的なコンピュータ・システムで採用されている国際規格ISO/IEC 10646やユニコード標準に収録されていない中国語表記のための文字を追加した、新たな国内規格をGB 18030を制定し、ソフトウェア・ベンダなどに対して、この規格への対応を義務づけている。

4.3 政策的取り組みの考察

ここで見た四つの事例からはどのようなことが言えるだろうか。

ユネスコ勧告とは、加盟国政府に対する、強い拘束力をもたない合意文書である。したがって、直接的な実効性は伴わない。インド政府やケベック州政府の例では、言語規則や言語法は、それぞれの言語のための製品がすでに市場に投入されている状況を事実上追認している。これらの例では、言語政策は市場の中から選択されるべき製品については言及するが、新たな製品の開発や投入を強制しようとするものではない。

その点で、中国の手法は文字コード技術という限定された分野に関するものではあるが、言語政策が強制的な実効力をもつ国内規格に反映され、その結果、政策を通じた技術のコントロールを行なうものとなっている点が特徴的である。他の事例と比べると極めて直接的な介入と言える。しかし、このような直接的な介入が可能なのは、現在の中国がもつその潜在的成長性や経済力が背景にあるからであり、他の国や他の言語がこのような取り組みを行なうことが現実的ではないと思われる。

5. まとめと結論

一見、情報技術における言語間の格差は少しずつ縮小しつつある。しかし、本稿で見たように公用語・国語のレベルであっても情報技術とのインタラクションを提供できない言語はいまだに残されており、格差を縮小するための取り組みは今後も必要であろう。また、情報技術とのインタラクションの方法が書きことばだけでなく、音声合成、音声認識などの技術を通じて行なわれるようになれば、言語間の格差が再び拡大することが予想される。つまり、多言語化を必要とする情報技術の分野は依然として残る。今後、社会全体として、このような技術への資源の投入を最適なものにするためにも、言語政策あるいは言語計画の視点からの関与のあり方を検討していくことが必要なのではないだろうか。

1) Localization Industry Standards Association. (2004). ローカライゼーション業界への手引き.

2) Clark, J. (2004). Making open source software work for Thailand. Unpublished article.

3) Global Reach 社が行なっている推計"Evolution of non-English online populations"による。http://globalr-each.biz/globstats/evol.html

4) Grimes, B. F., & Grimes, J. E. (Eds.). (2000). Ethnologue: Languages of the world. SIL International.

5) Graddol, D. (2000). The future of english? The British Council.

Rozan, M. Z. A., Mikami, Y., Bakar, A. Z. A., & Vikas, O. (2005). Multilingual ict education: Language observatory as a monitoring instrument. In Conferences in research and practice in information technology (Vol. 20). Sydney.

注記 本稿は、社会言語科学会第16回研究大会での発表をもとに再構成したものである。

プロフィール
kmmr <かみむら・けいすけ> 1972年生まれ。97年大阪大学大学院文学研究科博士前期過程終了。同年より国際大学グローバルコミュニケーションセンター(GLOCOM)に勤務、主任研究員。これまで、マルチメディア・マークアップ言語に関する標準化、インターネット・アプリケーションの分析、ブロードバンドの普及動向・政策に関する調査、ネット・コミュニティに関する調査研究、ソフトウェア・プログラムの多言語化の社会言語学的分析などに従事。共著書に「ブロードバンド国家戦略」(NTT出版、2003年)、「デジタル・ツナガリ」(NTT出版、2004年)、「クリエイティブ・コモンズ デジタル時代の知的財産権」(NTT出版、2005年)などがある

第12回 : 情報通信ジャーナル:教育情報化の課題と展望

豊福晋平(国際大学GLOCOM主任研究員・助教授)

政策立案レベルと実際の現場対応に乖離が生じるのは、別に教育に限った話ではないが、学校教育分野の情報化はその傾向がやや極端かもしれない。政策レベルでは、すでに整備計画も予算措置が終わっているのに、各自治体の水準が目標に達していなかったり、高価なインフラや機材がやっと整備されても、現場ではあまり利用してもらえなかったりという関係者の愚痴をよく耳にする。このような時のマスメディアの反応は、たいがい決まって整備を進めない自治体や、利用しない学校や教師の批判に終始するものだが、各方面の話を聞く限り、マスメディアが言うほど話は単純ではないようにみえる。

この2~3年で浮き彫りとなった「遅々として進まない教育情報化」の原因は、実は、突き詰めればこれまでの情報化議論の文脈が、学校の存在意義を脅かすことになるからに他ならない。本稿では、情報社会学的観点から学校教育情報化議論の文脈を整理考察し、おぼろげながら見えてくる次の教育の姿を論じることにしたい。

1.遅々として進まぬ教育情報化何が問題?

特にネットワークインフラ整備は、2000年前後の国際競争に伴い国策として強力に推進された経緯もあって、実態としては利用現場での直接のニーズや目的をとりあえず棚上げにして進められる傾向が強かったように思われる。つまり、手段としてのインフラ整備が自己目的化してしまうという現象である。教育もその例に漏れない。

教育でのネットワークインフラ整備において、その性格を最もよく示すケースは「ネットディ」である。これは学校のネットワーク敷設をボランティア参加と教育向けディスカウントで安価に行うユニークな地域イベントとしてすっかり定着したが、主たる目的はあくまで地域の学校参画やネットワーク敷設工事自体であって、敷設後の利用活用や継続的関係構築にまで深く切り込んだケースはあまり多くない。敷設後の利用はあくまで学校側の考え方次第である。

1996年、ネットディの先駆けとなった米国カリフォルニア州のキックオフイベント直後、偶然企画事務局を訪れる機会を得たのだが、IT企業の積極的参加もあって通常導入コストの約3分の1で実現した、と担当者は胸を張って答える一方、学校での具体的な利用場面や授業のプランについては明確な返事が得られなかった。教育委員会によっては、ネットワーク接続回線が整備されてもコンピュータが手に入らないとか、学校側にはまだ活用プランがないところが多いのだが、ただでさえ整備が後回しになりがちな教育機関に対して、とりあえず当時のインターネットフィーバーの波に乗ってしまいたい意図さえうかがえるものであった。

さて、教育用コンピュータやネットワーク回線整備を主とした日本の教育情報化は、主に文部科学省(文部省)が整備計画として積算根拠を作り、これを総務省(自治省)が地方交付税交付金として措置するトップダウンで進められてきたのだが、各自治体や学校側のニーズが必ずしも伴わない状況にあるために、結果として様々な課題を生むことになった。

文部科学省が公表した2005年3月時点の数値によると、教育用コンピュータの学校当たり平均設置台数は40.0台(前年度36.5台)、教育用コンピュータ1台当たりの児童生徒数は8.1人/台(前年8.8人/台)、普通教室のLAN整備率は全体で44.3%(前年37.2%)、インターネット接続率は99.9%(前年99.8%)、うち400Kbps以上の高速回線は全接続校中81.7%(前年度71.6%)となっている。

これら数値を見る限りは、漸増傾向で一応の成果は上がっているようにみえる。だがこの数字を冷静に読めば、一般的な学校規模の児童生徒にとってはせいぜい週に1回程度コンピュータ教室の割り当てが回ってくる程度の状況であって、すべての授業でITを利用するという目標には遠く及ばない。

さらに、これらの数値をもう一段詳細な自治体間の数値で比較してみると、極めて格差が著しい。たとえば、教育用コンピュータ1台当たりの児童生徒数では、普及度上位の岐阜県・山梨県が8.1人/台に対し、最下位の神奈川県では12.7人/台であり、普通教室のLAN整備率では、上位の岐阜県が88.6%に対し、最下位の東京都はわずか12.5%に過ぎない。こういった自治体間格差の問題は、しばしば地方交付税交付金制度の弊害として語られるが、自治体の認識によって整備状況にも大きな差が出るという実例を示すものである。

一方、教師のコンピュータ活用等の実態では、コンピュータを操作できる教師が94.9%(前年93.2%)に対して、コンピュータで指導できる教師は68.0%(前年60.3%)と伸び悩んでいる。操作できる教師の割合が学校種別でもほとんど差がない(90.3~100%)のに比べ、指導できる教師の割合は小学校が80.1%に対して、中学校60.5%、高等学校55.1%と低くなる傾向がみられる。つまり、たとえ個人的にはコンピュータ操作に何も不安がなくても、授業にコンピュータを持ち込むことについては慎重であり、中高等学校になるほどその傾向は強くなることが分かる。

授業以外の側面も問題である。先のコンピュータ整備は授業用途に限ったものであり、教師や職員の事務用途は想定されていない。業務で使う機材であるにも関わらず、文部科学省も自治体も積極的にケアをしてこなかったのである。各地の学校を訪れると分かるが、教師がコンピュータを職員室に持ち込むのが半ば当たり前で、管理上の理由から私物を泣く泣く学校寄贈にして設置させてもらっているケースもある。また、学校現場での全職員へのメールアドレス付与はいまだに3割に届いておらず、自治体職員と比べても劣悪なIT労働環境に置かれているといえる。

2.現場でICTが普及しない単純な理由

教育現場でICT(Information Comunication Technology)が普及しない1つの例をあげよう。先に示したコンピュータで指導できる教員の統計についてだが、文部科学省によれば2005年度末までにこの数値を100%にすることが目標とされ、特に2002年以降は盛んに教師向けの研修が実施された。教師のICTスキルの未熟さが原因という認識があっての対策である。しかしながら値はいまだ7割に届いておらず、年度末までの目標達成はほとんど絶望的である。

公表された数値を学校種や教科別に分けてゆくと、小学校よりは中高の数値が低く、コンピュータを専門的に扱う教科とそれ以外の教科での格差が著しい。これは教師の操作技能の問題というよりは、むしろ、カリキュラムとミッションの問題を疑わせるものである。

はっきりしているのは、ほとんどの授業は黒板とチョークの従来スタイルで十分実行可能なように組まれているということである。つまり、ICTは授業成立の前提条件ではなく、追加要素として教授効果を高めたり、効率化したりする選択肢のひとつに過ぎない。

担任が大半を取り仕切る小学校では、教師の裁量でICTを有効に用いるために授業をある程度組み替えることも出来るが、中高は教科担任制が原則であり、時間割拘束が厳しい。さらに、内容的にも一時間当たりの情報量が多く余裕がない。コンピュータの割り当ては不十分なうえに、機械トラブルで授業進行に支障をきたす可能性もある。

教師のミッションは、所定時間で最大の教育効果を与えることであるから、毎回の条件が厳しいものであれば一番確実な方法を選択するのはごく当然であって、ICTのリスクをとるのは、よほど腕に自信があるか、野心のある教師ということになるだろう。つまり、コンピュータを用いて指導できる教師が中学6割・高校5割という数字は、決して教師の怠業ではなく、極めて現状合理的な判断であると読むべきなのである。

3.非日常と授業に偏った導入

コンピュータはもっぱら授業用途に導入されていると先ほど述べたが、普及啓蒙の方法にも問題がある。通常、学校教育のICT導入のテストベッドは、大半が研究指定校・モデル校・授業研究・公開実験授業といったスキームで進められ、テストベッドの成果をもとに一般学校への適用が計られるという段取りがある。教師にとって実験授業とは1時間だけの非日常的晴れ舞台であって、授業指導案を完璧に作り、場合によっては子供相手にリハーサルまで行って臨む。だが、どんなに優れた授業であっても、準備に半年もかかるような大事を毎日繰り返すことはできない。テストベッドの非日常・コスト度外視的発想が、かえってICTを用いた授業を非日常化し、一部の教師や学校をスターにしてしまい、結局普及拡大の障害になるという皮肉が生じている。また、これらテストベッドは属人的要素が大きく、担当教師や管理職が異動した途端、元の普通の学校に戻ってしまうことが多い。

4.そもそも何のために使うのか議論が固まっていない

教育のICT適用は古くから検討されてきたが、各論者の専門領域や信念が影響して、相互の意見が全くかみ合わない場面にも良く遭遇する。比較的新しい領域でありながら技術革新やその周辺課題が急速に変化しているため、横断的な検討がなされているとは言い難い。

教育のICT適用は大雑把に分けても次の6つの文脈がある。紙面が限られるのでごく簡単にまとめると、1) 計算機科学や情報理論を背景とした専門家・エンジニア養成 2)学習心理学を背景とした学習最適化 3)視聴覚教育を背景とした学習効果の最大化 4)オフィスオートメーションを背景としたOA実務研修 5)パソコンホビーから始まった個人の知的エンパワメントツールとしての利用 6)Unix文化を背景とするネットワーカーの養成がある。さらに今後は、ICT自体が透明になって日常に埋没した時に問われる知識スキルも重要になるだろう。

これら文脈のたびたび議論が錯綜するのは、各論者が議論全体の構造を全く理解していないうえに、各文脈と母集団の読み違いがあり、さらに、ICT特有の陳腐化の課題が存在しているからである。たとえば 1)の専門家・エンジニア養成では2進法・論理回路・プログラミングの必要がよく説かれるが、実際にこれらの知識を必要とする人は一部に過ぎない。同様に、OA実務研修的な発想では社会人になるまでの時間が長期となり、技術が陳腐化してしまう。むしろ、時代の流れとしては5)以降に焦点が移っており、カリキュラムへの適用が急がれる。

5.情報化が学校を不要にする?

先の文脈で、実は一番厄介なのは、2)の学習最適化である。近代国家の成立過程における学校とは、民に国家意識を植え付け、あるいは、均質な労働者を供給するために、多くの人数を一度に集め、貧しいメディア環境にありながら効果的に情報伝達を行う手段として位置付けられた。1900年代画期的と言われたテイラーのScientific Managementが教育にも援用され、現在の学校運用スタイルがほぼこの時期に確立された。いわば産業社会教育である。

ICTによる学習最適化は個別学習の完全かつ効率的コントロールが目的であり、その究極はe-learningによる在宅個別学習である。乱暴な言い方をすれば、学習のための知識伝達意義のみ考えれば、学校はすでにその意義を失っていることになる。実は、学校不要論自体1960年代のCAI(Computer Assisted Instruction)の時代から繰り返し論じられてきたテーマでもあった。日本では行政が多くの教職員、大量な教科書・副読本・資料メディアのコストを支払うことについて聖域のごとく誰も疑問をはさまないが、米国の場合、教師の質的問題をICTのドリル学習で補ったり、児童生徒にノートパソコンを支給する代わりに教科書や図書館書籍購入の予算を大幅にカットするといったドラスティックな対応を行っている教育委員会もある。ICTを拡大活用すれば、合理化の問題はかならず後から付いてくるだろう。

6.効率化か新たな側面の開拓か

企業情報化がそれなり順調であるのに、なぜ学校教育の情報化が進まないのか、という疑問はよく聞かれるのだが、先のICT学校不要論をさらに踏み込んで考えてみよう。

一言でいえば、これは目標設定と効率化最適化との課題である。 目標が所与のものとされると、効率化最適化だけが懸案になる。先に述べたように学校教育では、目標を達成するための環境・人材・メディア・児童生徒配置の最適化は近代教育制度の確立と精緻化によってほぼ完成され、制度上・カリキュラム上の大きな課題はほぼ解決されている。ICTを用いなくても必要な情報伝達を行い、十分な教育効果を上げることが出来るとすれば、むやみなICT適用の議論は米国のような極端な合理化に結びつく可能性がある。

民間企業の情報化が教育のそれと異なるのは、効率化最適化が一度達成されても、それが引き金となって今度は目標設定自体が高次へと引き上げられるからである。たとえば、米国企業の不正監査事件をきっかけになって進められるようになった企業コンプライアンスと監査外部透明性の確保は、情報化によってすべてのビジネスプロセスが瞬時に把握できるようになり、不正の検知が容易に可能になった背景が目標自体を引き上げた好例である。

7.変わる情報社会の学校教育

学校教育でも実は同様のことが言える。本格的な教育情報化の取り組みが始まれば、教育の目標は多様化高度化せざるを得ない。すでに、文部科学省が進める自治体への権限委譲、特色ある学校づくり、学校の自律化は、全国一律の産業社会的品質管理から、より地域や保護者に密着した分散自律を目指すものへと方法が変化したことを示している。では、智場を前提とする情報社会の学校教育はどのような姿になってゆくのだろうか。

留意すべきは、情報化は産業社会的な文脈にも貢献するということである。現状顕わになっている情報化適用のケースの大半は、実は産業社会的文脈に依拠するものである。一方で個人主義と競争が鼓舞され、個人や学校の序列化が加速し、学校教育は相対化され、教育の市場化・私事化が著しく進むことになる。また、形式知の市場化パッケージ化が進むことで、教育コンテンツの過当競争が引き起こされ価値は今よりもさらに下落するだろう。

情報社会の学校教育とはこれらの動きとは異なるものである。そしてその全貌は未だ知り得ない。ひとつのキーワードは、イリイチが主張するような共愉的学習共同体である。自分のあずかり知らぬところから知識が降ってくるのではなく、生活やコミュニティとともにあるという感覚である。

知識伝達部分を仮にICTに任せるとすれば、学校は次の目標として、(形式知の価値下落と相反して)生身の人間が一堂に会し、同じ時間と場所を共有し、残すことに最大価値を置くようなありかたを模索することになるだろう。このとき、情報源となり学校と協働するのは、まぎれもなく保護者や地域市民であって、学校と社会との関係性もまた変化し、学校が評価される軸も学力一本から多様化する。

たとえば、昨今の一部の学校サイトにその動きを読み取ることができる。閉鎖的で何も周知してこなかったはずの学校が、サイトを通じて毎日のように行事や教育活動の詳細を記録し公開するようになる。普段は知ることのない校長の信念がエッセイを通して伝わってくる。このような地道な活動が、直接関係する教職員・保護者・児童生徒のみならず、卒業生や地域市民、あるいは転入学を考える保護者にまで広く伝わるようになると、学校は不信の対象から信頼と誇りの対象へと変化してゆく。そこであらためて学力だけではない、学校の魅力が問われることとなるだろう。

参考文献

(1)文部科学省:学校における教育の情報化の実態等に関する調査結果 http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/17/08/05080101.htm

(2)全日本小学校ホームページ大賞 http://www.j-kids.org/

プロフィール

<とよふく・しんぺい>
北海道生まれ。1992年、横浜国立大学大学院教育学研究科(学校教育心理学専攻)修士課程修了。1995年、東京工業大大学院総合理工学研究科博士課程中退。1996年から現職。2003年から全日本小学校ホームページ大賞実行委員。2004年、社会経済生産性本部情報化推進国民会議「住基ネット専門委員会」委員。関心分野は、情報社会における教育工学、教育情報化。
主な著書:『ITと文明』(共著/NTT出版/2003)、『IT2001なにが問題か』(共著/岩波書店/2000)、『インターネットはじめの一歩』(共著/あゆみ出版/1997)。

第13回 : なぜ米国はITのパラダイムシフトを先導できたのか

砂田薫  (国際大学GLOCOM主任研究員・助教授)

伝統的な情報産業の衰退と新市場の成長

1990年代、日本はIT(情報技術)市場で起こった急激な変化に対応できず、インターネットの普及と利用で大きな遅れをとった。しかし、2000年代に入ると、低価格のブロードバンドサービスやインターネット端末としても利用できる携帯電話が急速に浸透し、自他ともにブロードバンド先進国と認めるまでになった。そして、このような情報通信分野における日本の急浮上を背景として、日本経済再生への期待も最近にわかに高まってきた。

その半面、コンピュータのハードウェアとソフトウェア、情報サービスなどが含まれる情報産業は、依然として日本復活というにはほど遠い状況にある。とりわけコンピュータソフトウェア産業の競争力低下に対する懸念はますます強まっているといえるだろう。

伝統的に日本のソフトウェア産業は、パッケージソフトに弱いものの、「ソフトウェア工場」*1での高品質カスタムメイド・プログラムの生産を得意としてきた。1970年代から80年代にかけて、世界に例のないほど大規模で複雑な銀行オンラインシステムを構築できた背景には、このような日本のソフトウェア産業の特質があった。しかし1990年代以降、ソフトウェア生産の分業化と中国へのアウトソーシングに拍車がかかり、近年の金融システムでの相次ぐシステム障害にみられるように、高品質プログラムの生産能力にもかげりが見え始めている。もともとソフトウェアでは圧倒的な輸入超過が続いてきたので、このままでは日本のソフトウェア産業は空洞化し衰退するのではないかという危機感が2000年以降とりわけ高まっている。

また、日本の得意分野とみなされていた情報家電でさえ、日本企業はアップルの携帯デジタル音楽プレイヤー「iPod」のような斬新な製品を生み出せないだけでなく、アップルに対抗する後発製品の販売でも苦戦を強いられている。

一見すると、総務省(旧郵政省)が担当してきた通信分野で日本は浮上し、経済産業省(旧通商産業省)が担当してきたコンピュータや電子機器の分野では競争力を失いつつあるかのようにみえる。ジョージ・ギルダーは2000年の著作『テレコズム』の冒頭で「コンピュータの時代が終わった」と述べ、コミュニケーションの時代へ移行しつつあると主張した*2。

とはいえ、これは伝統的なコンピュータ産業が衰退し、通信産業が伸びると解釈すべきではないだろ う。実際、通信業界では激しい価格競争が続き、大型合併などの業界再編が進行している。デフレスパイラルから抜け出すべく新しいビジネスモデルを模索する通信事業者にとっては、未だに明るい展望を描くことができないかもしれない。コンピュータと通信の二つの業界が分断されたまま、必要に応じて双方の技術の結合を図るという時代は完全に終わったのだ。インターネットが普及してからは、すでに両者の融合を前提とした新しい製品やサービスが成長を始め、二つの業界の垣根はますます低くなっている。つまり、コンピュータ産業だけでなく伝統的な通信産業も衰退しつつあり、「コミュニケーション」や「ネットワーク」を軸とする新たなITパラダイムのもとで新しい市場の成長が始まったのである。

では、このような大きな転換期に国の情報政策はどうあるべきなのだろうか。それを考察する前提として、IT産業の構造変化と情報政策の歴史を振りかえりつつ、産業と政策の関係を分析しておこう。

「情報処理」から「オープンネットワーク」への構造変化

IT産業で起こった構造変化について、ロクサーヌ・グーギンは「コモディティ化」と「オープン化」という二つのキーワードで整理した*3。ここでいう「コモディティ」とは、品質や機能が標準化されていて(日用品のように)たやすく入手できるという意味である。では、コンピュータ産業におけるコモディティ化とオープン化はどのような経緯をたどって進行したのだろうか。

ティム・オライリーは、コンピュータ産業では2度のパラダイムシフトが起こったとし、1回目は1981年にIBMが初めてパソコンを発表した時、そして2回目はまさに現在起こっているオープンソース開発であると論じた*4。一方、公文俊平は、近代文明の進化を「軍事化」「産業化」「情報化」の三局面と捉えたうえで、「産業化」をさらに(1)1950年代から始まったメインフレーム(出現局面)、(2)ミニコンなど小型コンピュータが登場した1970年代半ばからのダウンサイジング(突破局面)、(3)21世紀に入ってからのユビキタス(成熟局面)、の3局面に分類できると指摘した*5。

筆者もまた2度のパラダイムシフトが起こったと考えているが、1回目はIBMが「システム/360」を発表した1964年、2回目はマイクロソフトが「Windows95」を発表してインターネットが本格的な普及段階を迎えた1995年とみている。「ITパラダイム」を「人々が共通して抱いているIT(1990年代前半までは主にコンピュータ)に対する認識やイメージ」と定義すると、図に示すように、約30年を一区切りとする「計算機」「情報処理」「オープンネットワーク」の三局面で捉えることができると思うからだ。

<図 コンピュータ産業の歴史とITパラダイム> 図1.jpg

第一の局面は、コンピュータが計算のための機械(計算機)とみなされていた時代で、当初は軍事目的の科学技術計算のために開発された。また、事務計算分野では第二次世界大戦以前から会計や統計用にパンチカードシステム(PCS)が普及していたが、その代替となる初期の事務用コンピュータの開発が戦後活発になった。

第二の局面は、コンピュータはもはや単なる計算機ではなく文字や図形など多種類のデータを扱う情報処理のための機械であるとみなされた時代である。IBMが「システム/360」を発表した1964年を起点として、コンピュータが企業や官公庁などに本格的に普及していった1990年代前半までを指す。そして、コンピュータがスタンドアロンで使用された第一局面とは違って、通信の結合したオンラインシステムが開発されて普及していった。

むろん、この30年間にもオライリーや公文が指摘しているようにミニコン、パソコンなどの小型コンピュータが普及して、IT市場には大きな変化が起こっている。それを本稿でパラダイムシフトとみなさなかったのは、第一にメインフレームの存在を前提としたうえでの分散処理の普及でありIT市場のリーダーはIBMであり続けた、第二にITユーザーは個人よりも組織が中心であり利用目的は効率化や生産性向上などの主に経済的側面にあった、という二つの理由による。IT市場ではたしかに分散処理という大きな変化が進行したのだが、それによってIT産業もIT利用産業もともに産業構造が根本的に変化するまでには至らなかったのだ。したがって、1970年代から80年代にかけての分散処理の普及はパラダイムシフトとみなさずに、「情報処理」パラダイム下で約10年をひと区切りとして、(1)集中的な情報処理(メインフレーム)、(2)分散的な情報処理(ミニコン、オフコンなど)、(3)個人による情報処理(パソコン)の三つ時期にさらに分けて考察したほうがいいと思われる。

第三の局面は、コンピュータと通信が融合するインターネットの時代で、もはやITは機械ではなく人びとを結びつけるためのオープンなネットワークであるとみなされるようになった。1995年は、「Windows95」の登場だけでなく、ヤフーとアマゾンが誕生した年でもある。コモディティでありオープンであることがITの主流となり、組織よりも個人のユーザーが前面に出てくるようになった。それにともない経済的側面よりもむしろ社会的側面に重心が置かれたITの応用が拡大している。と同時に、IBMは市場リーダーの座をマイクロソフトへ譲り、IT産業はもとよりIT利用産業においても産業構造の変化が進んでいる。

近年、ITの技術開発の経緯をアンバンドリングとモジュール化の視点から分析した研究*6が成果をあげているが、これは第三局面の「オープンネットワーク」パラダイムを創発させていくプロセスとして理解できるだろう。そして、もし第三局面も第二局面と同じようにほぼ10年単位でIT市場に大きな変化が起こると仮定すれば、それはオライリーが「web1.0」から「web2.0」*7への移行と呼ぶようなものになるのかもしれない。すなわち、ネットスケープが切り開いたブラウザーとホームページの時代から、ブログやソーシャルネットワーキングサイト(SNS)、P2Pなど個人のコミュニケーションの世界をより一層拡大する新しいサービスの時代への移行である。

また、「コンピュータと通信の融合」が第二局面とともに始まり約30年を経て完全に実現した。これを踏まえて未来を大胆に予測するならば、第三局面への移行とほぼ同時期に始まった「放送と通信の融合」は両者の結合をしだいに強めていき、20年後には完全な融合の時代を迎えるといえるかもしれない。

米国IT政策「国防総省モデル」の日本的展開

ITのパラダイムシフトを先導してきたのは常に米国だった。第二次世界大戦後にコンピュータの商用化にいち早く着手したのは米国だったので、第二局面への移行で米国がリーダーシップをとったのは当然といえる。しかし、1960年代後半からは日本、欧米、アジアの国々が次々と自国のIT産業育成に乗り出し、とくに日本は1980年代初頭に米国へキャッチアップしたかに見えたにもかかわらず、IT産業の構造変化を第三局面へと導いたのはやはり米国だった。これは、なぜだろうか。

米国が一貫してIT産業で国際的なリーダーであり続けた背景には、さまざまな要因が重なっていたと考えられる。アナリー・サクセニアンが指摘したように、IT企業の集積地がIBMやディジタル・イクイップメントの本社があった東海岸と、サン・マイクロシステムズやアップルの拠点がある西海岸とりわけシリコンバレー周辺とに分かれ、それぞれ異なる地域文化を背景とした技術開発が行われたことも重要な要因だろう*8。クレイトン・クリステンセンが主張するように、ITのイノベーションにおいては、線形的で漸進的な技術進歩だけでなく、しばしば予測不可能な破壊的技術が登場して急激に市場を変化させる可能性があるからだ*9。

そのなかでも、もっとも重要な要因のひとつと考えるのが米国政府のIT政策である。一般的に、日本では1980年代までコンピュータ企業と通商産業省が一体となってIT産業の発展に力を尽くしたが、米国ではそのような政府の関与はなく民間主導でIT産業が成長したと考えられている。たしかに米国政府は日本のような産業振興を目的とする強力な政策を展開したわけではない。しかし、ITの基礎研究や技術開発の促進で米国政府が果たしている役割はひじょうに大きく、米国IT産業の競争力維持に多大な貢献をしている。

米ソ冷戦下の米国では国防総省の技術政策が民間の産業にも大きな影響を与えた。国防総省は 半導体やコンピュータなどIT関連の先端技術の研究開発を助成しただけでなく、大規模な調達を通じてIT産業にとっての大口顧客ともなっていた。コンピュータソフトウェアを例にとると、1960年代末には全米需要の85%を国防関係の政府機関が占め、また産学官の強力なトライアングルを形成して先端ソフトウェア技術の開発に力を注いでいた。その結果、世界に先がけて米国で独立ソフトウェア産業が誕生したのだった。米国のIT政策は、政府予算で産官学連携による技術開発を助成するだけでなく、政府調達を通じて政府自らが新たな応用分野を開拓すると同時に、民間企業に最終需要を保証し、技術開発への投資を促す役割を果たしてきたのである。

通商産業省は1960年代後半、このような「国防総省モデル」とでも呼べるような米国のIT政策をいかに国防需要のない日本で展開するかについて検討している。結果として日本では、日本電信電話公社(現NTT)が先端技術の共同開発と調達を通じてコンピュータメーカーの育成に貢献し、1970年設立の情報処理振興事業協会(IPA)が開発資金の助成を通じて独立ソフトウェア産業の発展に寄与するという役割分担が実現した。

一方、通商産業省は技術政策と産業政策を一体化させた日本独自の包括的な情報政策パッケージを立案・実施した。そして、富士通・日立製作所・日本電気・東芝・三菱電機・沖電気工業のコンピュータメーカー6社に開発資源を集中させることで、1970年代に日本のコンピュータ産業を米国に次ぐ世界第二位へと成長させた。この戦略は、海外から「通産省モデル」として注目されたほどである。

省庁間連携でイノベーション・パイプラインの構築を

これまで述べてきたように、米国は国防総省、日本は通商産業省が中心となって情報政策を担ってきた歴史をもつが、現在は日米ともに省庁間連携をさらに強化する方向へむかっている。

米国の場合、国防総省モデルの時代も連携が重視されていたが、ITの主要国家プロジェクトが「高性能コンピューティング/通信イニシアチブ(HPCC)」から「ネットワーキング/情報技術研究開発プログラム(NITRD)」へ移行するにしたがい、先端的な研究開発における省庁間連携および役割分担がほぼ確立してきた。米国のIT政策は、省庁の共同出資によってコアテクノロジーの開発を推進し、さらに研究開発から市場化に至るまでのイノベーション・パイプラインの創造・維持・拡大という役割を政府が果たしている点が大きな特徴となっている*10。たとえば、図の「オープンアーキテクチャーの系譜」を見ればわかるとおり、「情報処理」パラダイム下であっても、いわば潜流として、まったくそれとは異なる発想の技術開発が行われていたことがわかる。米国ではタイムシェアリングから始まってVLSI、データベース、インターネットに至るまで、多様なITの技術革新を複数の政府機関が継続的に助成し、イノベーションを促進させてきた。これが、ITのパラダイムシフトを先導できた理由となっている。それに対し、「通産省モデル」とはIBMキャッチアアップに資源を集中させた戦略であり、技術開発の方向性も焦点が絞られた。

2001年1月6日の中央省庁再編によって、内閣に高度情報通信ネットワーク社会推進戦略本部(以下,IT戦略本部)が設置され、日本の情報政策は省庁間連携時代へと移行したばかりである。日本は「仕切られた多元主義」とか「官僚制多元主義」*11と言われるように政府も民間も縦割構造を特徴としているが、もはや縦割の利点は有効に機能せず、弊害ばかりが拡大するようになってきた。とはいえ、コンピュータでは沈んでもブロードバンドで世界の先進国になったように、複数の縦割組織によって多様な技術開発を助成して促進させる仕組みは維持したほうがいいのではないかと思われる。

問題の本質は、情報政策の権限と責任が分散されていることではなく、企画・立案から予算措置、実施、評価にいたるまで政策ライフサイクルの全体をひとつの省庁内部で実行して完結させてしまう点にある。この問題を解決するには、複数省庁による共同出資プロジェクトに優先して予算をつけるとか、具体的な施策の立案・実施の責任を負う組織と、政策の始点(企画)と終点(評価)を担当する組織を分けるといった、新たな情報政策マネジメントを導入すべきだろう。従来の縦割りを維持したまま政策評価を導入しても根本的な解決にはならないと思われる。むしろ、それよりもイノベーション・パイプラインの構築という視点からの情報政策の見直しを優先すべきではないだろうか。

参考文献

*1 Cusmano,Michael[1991]Japan’s Software Factories, Oxford University Press。コンピュータプログラムをあたかも工業製品のように捉えて、大規模で高品質の生産を可能にする「ソフトウェア工場」を建設したのが日本の特徴と指摘している。

*2 Gilder, George[2000] Telecosm , How Infinite Bandwidth Will Revolutionize Our World, George Borchardt,Inc(ジョージ・ギルダー著、葛西重夫訳[2001]『テレコズム』ソフトバンクパブリッシング)

*3 "The Commoditization of Everything. Roxane Googin Describes the Impact of Open Standards on the Mature IT and Telecom Industry - Linux, Web Services and Need for Interoperability Spell Trouble for Microsoft,"Cook Report, July-Sept. 2003

*4 O’Reilly, Tim [2004] The Open Source Paradadigm Shift,  http://tim.oreilly.com/lpt/a/4868

*5 公文俊平[2001]『文明の進化と情報化』NTT出版、同[2004]『情報学序説』同、を参照。

*6 ソフトウェアのアンバンドリングは1969年にIBMが独占禁止法をめぐる司法省との争いに敗れたことが契機となって始まった。コンピュータのモジュール設計は1964年のIBMシステム/360が最初と言われ、IT市場ではハード、ソフト、サービスの主要な構成要素のアンバンドリングとモジュール化が進行した。青木昌彦・安藤晴彦[2002]『モジュール化:新しい産業アーキテクチャの本質』東洋経済新報社、カーリス・ボールドウィン&キム・クラーク著・安藤晴彦訳[2004]『デザイン・ルール:モジュール化パワー』東洋経済新報社、を参照。

*7  O’Reilly, Tim [2005] What is web2.0 ? http://www.oreillynet.com/pub/a/oreilly/tim/news/2005/09/30/what-is-web-20.html

*8 Saxenian, A [1994] Regional Advantage : Culture and Competition in Silicon Valley and Route128, Cambridge, Mass. And London : Harvard University Press (大前研一訳[1995]『現代の二都物語』講談社)

*9 Christensen, Claton[1997] The Innovators Dilemma, President and Fellows of Harvard College(クレイトン・クリステンセン著、伊豆原弓訳[2000]『イノベーションのジレンマ 技術革新が巨大企業を滅ぼすとき』翔泳社)

*10 米国の省庁間連携に関する記述は、財団法人日本情報処理開発協会先端情報技術研究所[2003]『米国の連邦政府R&D計画における省庁間の役割分担と連携の仕組み』から引用した。

*11 青木昌彦[1999]「官僚制多元主義国家と産業組織の共進化」、青木昌彦・奥野正寛・岡崎哲ニ編著『市場の役割 国家の役割』第1章、東洋経済新報社。

プロフィール
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<すなだ・かおる>
国際大学GLOCOM主任研究員・助教授。多摩美術大学(情報論)、国士舘大学(国際情報論・情報政策論)の非常勤講師を兼務。1979年、千葉大学理学部物理学科卒業。1997年、東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了(社会学修士)。2002年、同博士課程満期退学。
1980-2003年、IT関連の雑誌出版・執筆活動。2003年GLOCOM入所。主な著書に、『起業家ビル・トッテン』(コンピュータ・エージ社/2003)。訳書に、ウィリアム・H・ダットン『情報通信テクノロジー4:情報ネットワーク社会の理想と現実』(共訳/富士通経営研修所/1998)、エリ・ノーム他『テレコム・メルトダウン』(共訳/NTT出版/2005)。

2006年03月03日

第14回 : 情報技術が促す社会道徳観の変化の考察

中島 洋 (国際大学(グローコム)主幹研究員)

1.非人格的な不正行為の監視

1.1 「キセル乗車」撲滅が象徴すること

 社会体系への情報技術の高度な浸透は不正行為の防止に大きな効果を発揮してきた。

 最近の最も顕著な例は鉄道改札の電子化に伴う不正乗車の激減である。ここでは関東地区だけで例を挙げる。JR東日本がネットワークとRFIDを基礎技術に始めた「Suica」、私鉄が共同で利用する「パスネット」や電磁カード式の定期券など、方式は異なるが、鉄道会社と乗客には同様の効果をもたらした。

Suicaを例に挙げると、RFIDを埋め込んだカードを改札口の指定部分に触れさせると、乗客の入場情報、あるいは出場情報がネットワークを通じてデータベースに記録される。本来の目的は、改札の無人化による人件費の抑制や乗客の移動の状況をトレースすることによって、マーケティングに利用する大量の統計情報を得ることである。情報システムによる「業務の効率化」と事業戦略・戦術の展開に必要な顧客情報の入手だったが、同時に、Suicaは乗客の入出場情報を取得することによって「不正乗車の防止」という思いがけない効果を挙げた。

乗客は不正乗車を断念した。乗車券やカードに記録された電子的、電磁的データを改札機械が読み取って、乗車地点、降車地点と、提示された乗車や乗車カードで経由できる経路とを比較して正規の条件であればゲートが開いて乗客を通し、不正規であればゲートが閉じて乗客を通さない。乗車駅、降車駅を乗降する権利はあっても、途中の区間は無賃で乗車する「キセル乗車」が、この情報ネットワークシステムでは不可能になった。従来の人間の監視の仕組みでは鉄道走行中に「検札」と称して車掌が乗車券や定期券を点検し、この不正乗車を摘発してきたが、この仕組みには大きな漏れがあって、検札に出会う確率が少ないため、極めて広範にキセル乗車は横行していたと推測される。それが、ほぼ全面的に抑止され、「絶滅した」と言うに近い状態となった。

 乗客は「キセル乗車」にそれほど強い不正の意識を持っていなかったが、摘発されたときに犯罪者扱いされる恥辱は耐え難いものである。高い遵法精神からキセル乗車をせず、正当な高い乗車賃を最初から迷うことなく支払う乗客もいたが、多くの乗客は検札で捕まって犯罪者扱いされるのを恐れるものの、当日の検札係が回ってくる確率を予想しながら、危なくないと判断して不正乗車に傾くことが少なくなかった。JR東日本によるとSuica開始後、不正乗車による売り上げの逸失が減り、その効果によると思われる利益が800億円程度に上ったというから、キセル乗車が普通の行為だったことが推定できる。

 しかし、情報ネットワークによる監視は乗客を犯罪者扱いにはしない。不適切な乗車券やカードによる改札口の通過はうっかりした行為(過誤)に基づくものと同等に対応し、比較的丁寧に取り扱って正規の料金を徴収するように誘導するのである。それとともに乗客側はすでに不正乗車は不可能と判断して、不正乗車の方法を案ずることもなく、遵法行動をとるように導かれている。そのうちに「キセル」という言葉も死語になるに違いない。

 情報システム、情報ネットワークを高度に利用する社会はこれまで横行していた小さな不正行為を防止し、不正を減少させる効果を発揮する。  

1.2. 工場の現場、小売現場での監視  

情報システムとRFIDによる「非人格的監視」(システムによる自動監視)はJR東日本のSuicaと同様の効果を生み出している。  

最先端の情報技術を利用することに熱心な企業の工場では、工場内部の作業工程の流れを掌握するために使用する部品や仕掛かりの半製品などにRFIDをつけて無線で在庫の位置や組み立てラインのどこを流れているかを情報システムやネットワークで管理する仕組みを構築してきた。部品の流れの時間、手順、ボトルネックの存在の把握などが自動的に行われ、大量のデータ収集と処理によって管理が精緻化してきた。  

このシステムによって組立工程のどこに非効率の原因があるかが明確になる。部品在庫の適正水準がさらに高度に計算できるようになる。適正在庫水準との乖離を測定しながら、部品の手当て、他の製造ラインへの指示の適正化、さらに、工程の組み換えや人員の配置の適正化などを高度に実行することができるようになって、業務効率の向上によるコストダウンやスピードアップによる競争力強化につなげている。  

しかし、もっと大きなところに隠れた効果が現れている。これまで頻々と起きてきた在庫部品や在庫製品の紛失が激減したことである。RFIDの付与によって、移動させるとそれが追跡されるために、手順に則っていない移動は「異常」として直ちに検知され、摘発できるようになった。元々は業務効率向上が目的で、不正摘発のために構築したシステムではないが、副次効果として不正防止につながることになった。先進的な工場では従業員による不正行為がシステム的に抑止できるようになった。  

同じことは小売店店頭での万引き防止のシステムにも起きている。  

書店、ビデオレンタル店、各種量販店などでは、RFIDを利用した万引き防止のシステムが働いている。商品はレジで代金を払ってもらった後、信号解除の手続きを行わなければ、出口を通過する際に警告音が発せられ、店員が駆けつけることになる。この装置が働いていることを知ると、万引き行為をする人はその不正を断念せざるを得なくなる。システムが犯罪行為を未然に防止したことになる。店は被害を防ぎ、市民は犯罪の誘惑に駆られることがなくなってしまう。

2.無自覚的正当行為の道徳性と無道徳性

 1項で述べた事例は、ここ数年、日本で起こっている情報技術をベースにした監視システムの浸透とそれに伴う不正行為の減少の典型的なものである。現実に、JR東日本での増収効果がそのことを立証している。小売店頭での万引きの発生とその処罰の件数などは、店頭の当事者間で示談にしてしまうことがほとんどなので、件数の推移は掌握できないが、監視カメラだけの時代よりも、無線タグの利用によるシステム的対応によってはるかに未然防止の効果が現れていることは想像できる。

 しかし、これは乗客や買い物客が道徳的に高い段階に入った、というわけではない。ソクラテスの言うように、道徳的に高い人間の行動とは、良いことと悪いことの区別が付いた上で、悪いことの魅力に誘惑されることなく、辛く苦しいことでも良いことを選択して行うことである。JR東日本の乗客の例では、キセル乗車が不可能に近くなったのでキセルをやらなくなったのであって、キセル乗車が不正な行為であると判断して自己の行為を抑制しているのではない。道徳的に高い行動とは、良い行為を行え、という内面の声に応じて良いことを行うことである。JR東日本の乗客のように、行動を規制する外部の仕組みに沿って無自覚的に良い行動を行っているのは、ソクラテスの言う意味での「道徳的行為」とは言えない。

 このような人々は、監視や規制の仕組みが十分でないところでは、金銭的に有利なことがあれば、不正と知りつつもそれに手を染めてしまう可能性がある。道徳は、いかなる場合にも、内面の良心の声に導かれながら、正義と信じる行動を選択するように人々を導くのである。

 ここでのポイントは、①システムの監視と抑制でメンバー(乗客、買い物客、従業員など)はシステムに順応して、これまでは犯罪意識が薄くなって犯してきた不正行為を行わなくなった、②これは一見して道徳的に高い段階に至ったと見えるが、実は、内面の声によったものではなく、無自覚的なものなので、本質的なところから行為を道徳的なものに変えたとはいえない――というところに尽きる。

3.SOX法の及ぼすビジネス活動の遵法化と道徳性

 情報技術をベースにしてビジネスマンを一見、「道徳的行動」に導く新しい仕組みが「SOX法」によって生じようとしている。

 SOX法は、企業の不祥事多発を契機に株式市場から投資家が撤退する気配になったため、資本主義経済の危機を感じたグループによって緊急に成立した企の内部統制強化を促す法律である。企業のビジネスプロセスを管理可能な仕組みに再編成して、経営者がこれを監督して、企業の収益力向上の対策を講ずるとともに不正の発生を早期に発見、抑止してゆく責任をもつように課することがその内容になっている。

 問題は、巨大化した企業組織を管理監督することが経営者に可能かどうか、である。

 結論を先に言えば、それは可能である、ということだ。企業組織を管理する道具として情報システムが登場し、その能力が急速に向上したからだ。ビジネス活動を情報システムと連動したビジネスプロセスで再定義し、ビジネスプロセスを情報システムによって実行する仕組みを構築し、情報システムの中を流れるデータをシステムによって自動監視するのである。データをさまざまな観点から集計してその変化を可視化して、設定した範囲の中から逸脱した場合には異常値として警告を発するようにする。警告を発する範囲は常時見直して、改善を進めるような「学習」の仕組みが設定できる。

 異常値が出て警告されるのは、もちろん不正の可能性がある場合だけではない。ビジネスを円滑に遂行するためにネックとなる問題点の発掘ができる。ビジネスプロセスの改良すべき問題箇所の摘出が本来の機能である。あるプロセスでの異常値は、次のプロセスの実行の効率を下げる問題の発生を意味している。この原因を突き止めて解消するためのモニタリングが本来の機能である。この改善を繰り返し、さらに、異常値設定の精度を上げてゆければ、継続的なビジネスプロセス革新の仕組みが出来上がる。

 ビジネスを遂行してゆく上での異常値の一つが不正の発見の端緒になる。本来なら、起こるはずがない事象が起きているので、その原因を分析すると、そこに不正が発見されるのである。たとえば、ある案件での収入支出とのアンバランス。異常値を示しているのを分析してゆくと、正当なビジネス行為で利益率が高いのであれば、このビジネスモデルを他の部門でも学習し、全社的に収益力の高い企業構造に改善できる。

 ただ、その過程で法的に問題がある行為が含まれていれば、現場に対して法務担当から改善指示を出して不法行為を停止させることができる。場合によっては重大な支出の見落としがあったかもしれない。会計上、後で大問題になる可能性のあるポイントを情報システムによって事前にはじき出すことができる。

 逆に収益力が低いか赤字の案件についても詳細な分析を加えて支出項目の洗い直しによる収益改善の対応策を早めに打ち出すことができる。収入額決定の過程を見直して、赤字になりそうなことがいつの時点で判明したかの分析などを通じて、契約決定手順の改善に着手できるだろう。その手順の検討によって、契約行為が正当な手順を踏んでいるのかどうか、会計上に問題のある契約が含まれていないかの点検を同時に実行することができる。

 いずれにしても情報システムを通じてビジネスプロセスを可視化して、企業の状況、役員や従業員のビジネス活動をいろいろな側面から「見える化」し、企業経営の効率化、競争力強化を進めるとともに不正を摘発し、予防する「コンプライアンス経営」を同時に実現することが重要なのである。SOX法が投げかけた問題はここにある。

 このように、本来は、企業がSOX法に正しく対応することと経営高度化のために情報システムを利用した企業組織にビジネスプロセスを作り変えるということは同じことだった。SOX法に対応するための情報システム化は「企業経営全体の情報システム化」に包み込まれるサブシステムの一つだと言える。

観点を変えて言えば、企業経営のための情報システムの高度化は企業内部のビジネスプロセスを明確にし、役員や従業員が不正を行うことを防止、抑制する装置になる、と言える。情報システムは企業の中の遵法活動、不正を行うことを抑止する仕組みになるのである。それはSuicaによって乗客はキセル乗車をあきらめてしまったように、仮に、企業内に小さな不正行為が充満していたとしても、情報システムによる「非人格的監視」による監視とプレッシャーによって、その不正行為は急速に減少することになろう。

もちろん、このことは企業を実効ある「コンプライアンス経営」に導くだろうが、企業の役員や従業員各人が「道徳的になった」というのとは意味合いが異なる。しかし、だからといって従業員が知らず知らずにでも遵法的行動をとるようになることに意味がないわけではない。習慣化された遵法行動は、いつか、遵法的精神に止揚されないとも限らないのである。

4.内面からの行動規律は有効か?

 情報システムによる外部からの規制が果たして「道徳的」といえるのかどうか。

 道徳は心の内面からの行動規律である。感性による行動の規律は道徳的には初歩の段階である。精神の内面からの道徳的判断による規律がより上位の倫理観である。何も考えずに社会的に善とされる行為を行うよりも、まず、社会的に悪だと知った上で悪をなす行為のほうが道徳的に優越している、というのがソクラテスの道徳観である。「善と悪」の区別がついていることは、真理を知っているかいないか、という判断基準からすれば、真理を知っているという点でより道徳的である、というわけである。

 高度に情報システムが発達した時代には、このような悠長な価値観が有効かどうかは十分に検討する必要があるだろう。われわれの観察によれば、情報技術の高度化によって、個人個人が社会に対して及ぼす影響力は短期間に極端に肥大化している。個人の能力を高める「エンパワーメント」は、その半面で、社会に害を及ぼす能力の肥大化ももたらすのである。

情報技術によって高いレベルに達した社会の成員にとっては、社会に与える被害についてのイマジネーションを働かせる、つまり、行為の善悪について吟味して、マイナス要因があれば抑制力を働かせるという行為が必要だが、実際にはそれよりも早く、社会に与える被害の大きさを認識する前に、実際の行動を起こしてしまうことが珍しくなくなる。あるいは、より強く衝動的に湧き起こる「秩序を破壊したい」とする欲求が強まり、肥大化した情報技術の能力を利用して、実際に破壊的行為を起こすことがたびたび起こっている。こういう環境下では、個人個人の精神の中から自発的に「善悪」の区別を知るまで保護者たちがじっくり耐えて待つ、という忍耐力が果たして有効かどうかが疑問である。

こういう状況下で、情報技術によって反社会的行為をけん制して、そうした行為を予防する仕組みができるとすれば、社会の側は内面からの自覚を待つのではなく、本人が自発的に(無自覚的に)反社会的行為を行わないシステムを構築することを望むようになるだろう。東京・新宿歌舞伎町の街頭に多数のカメラを設置して通行人の犯罪を監視する仕組みを構築した際には猛烈な反対意見が噴出したのに対し、長崎県の幼児殺害事件が街頭に設置したカメラによる犯人の特定によって早期に解決したことをきっかけに世論は圧倒的に監視を支持、さらに頻発する児童に対する犯罪を防衛するための社会監視の強化を促す声は広がってきた。情報システムは「摘発」という外部からの抑制効果の大きさから、社会秩序を維持する道具として存在が大きくなってきた。  

特に企業内部やクローズドな共同体の中では、共同体の存続を危うくするような外部からの攻撃はもちろん、従業員の不正に対する監視を行う意味でも情報システムの存在は大きくなってきた。  

情報システムは社会の構成メンバーを内面から道徳的にするか、という問いには、答えは「否」である。しかし、社会メンバーや従業員が不正を働き、秩序から逸脱することを最初から断念し、いずれはイメージすらしなくなるだろう、という「効果」を果たすのは確実だろう。このことを前提にして、さらに、共同体メンバーや従業員の不正をけん制する社会制度は情報社会のルールとして多数、登場してくることになろう。

プロフィール
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<なかじま・ひろし>
国際大学(グローコム)主幹研究員。1947年生まれ。73年東京大学大学院(倫理学)修士修了。日本経済新聞記者、編集委員、慶応義塾大学教授(SFC)を経て、国際大学(グローコム)教授。現在、日経BP社編集委員、MM総研所長を兼務。日本経済新聞に原則、隔週日曜日連載中の大型特別企画広告シリーズ「キーワードで読むガイアの夜明け」を監修している。
著書に「マルチメディア・ビジネス」「イントラネット」「エレクトロニックコマースの衝撃」「激動を走る」「勝者のIT戦略」「ユビキタスドキュメントがビジネスを超速化する」「デジタル情報クライシス」など多数。

第15回 : エストレマドゥーラ州の情報化戦略~地方政府が展開するフリーソフトウェア戦略~

山根信二(GLOCOM主任研究員)(併任)

 情報化の進度や情報化政策の熟度を把握する時に、我々はしばしば他国との 比較を行う。たとえばe-Japan戦略も、もっぱら韓国や米国、主要欧州国との 比較の中で政策評価や軌道修正が行われてきた。しかしこの時に、中央政府だ けを見て地方政府を見逃さないように注意する必要があるのではないか。なぜ なら地方分権の進んだ国では、州首相や地方政府が野心的なプロジェクトを実 行に移し、それを本国に先駆けて他国の中央政府がとりいれるという事態もし ばしば見受けられるためである。本稿で扱うのもそうした一例である。

 昨年4月、愛知万博のスペイン館において、あるソフトウェアの紹介とプロ グラミング講習が行われた。このソフトウェアはスペインのエストレマドゥー ラ州政府が無償で配布しているもので、そこにはいくつかの先駆的な試みをみ てとることができた。本稿ではこのソフトウェア戦略をとりあげながら、情報 社会を支える智民と地方政府との関わりについて考えたい。

 エストレマドゥーラ州が位置するスペインとポルトガルの国境地帯は、ヨー ロッパ連合(EU)でも最も貧しい地域の一つである。スペイン国内で1番目と2番 目に大きな県を抱えるにもかかわらず、エストレマドゥーラ州の総人口は100 万人あまりで、人口10万人を抱える自治体は州都バダホスだけ[1]ということ からも、同州が開発からとりのこされた地帯であることが伺える。このエスト レマドゥーラ州は、かつてヨーロッパで初めてLinux を大量導入した自治体と して世界的に注目された[2]。そして愛知万博に合わせて日本で開催された同 州のプロモーション[3]によって、日本でもその成果を知る人が増えている。

 エストレマドゥーラ州の情報化戦略の特長は、単なるIT製品の配備を越えた 州政府による強力な社会設計にある。エストレマドゥーラ州が自治権を持つ自 治州となったのは、フランコ独裁政権後の民主化が進展した1983年のことであ る。さらに予算配分の権限も拡大したことで、自治州の首相は日本の県知事と は比較にならない強い権限を持つことになった。エストレマドゥーラ州の情報 化戦略も同州政府の強いリーダーシップによって推進されている。情報インフ ラの整備は、教育・医療福祉・行政・市民参加・地場産業振興といった縦割り の予算配分で進められることが多いが、同州は強いリーダーシップと以下に述 べる「自前主義」[4]によって集中的であると同時に異業種を連結した情報イ ンフラ投資を可能にしている。

 同州独自の情報化政策の起源は「オープンソース・ソフトウェア」以前にさ かのぼる。ソフトウェアビジネスで「オープンソース」という言葉が作られた のは1997年頃だが、本誌でも指摘されているように[5]、そのソフトウェアや ライセンスは1980年代半ばから「フリーソフトウェア=自由なソフトウェア」 と呼ばれて流通していた。その提唱者であるリチャード・ストールマンは、 「ソフトウェアは誰もが自由に使うことができねばならない」という自身の思 想を貫徹するべく、必ずソースコードを提供しなくてはならないという利用条 項を加えたGPLというライセンスを開発し、GPLを適用されたソフトウェアをフ リーソフトウェアと呼んで公開したのである。のちにオープンソース・ソフト ウェアとして知られるソフトウェアの大半には、このストールマンのライセン スがいまでも適用されている。

 こうした思想的な背景を踏まえて、エストレマドゥーラ州政府はストールマ ンを招くなどして「自由なソフトウェア」(スペイン語では「ソフトウェア・ リブレ」)を広めてすべての人に自由と平等を実現しようとしている。この方 向性を決定づけたキーパーソンとして、1990年代にエストレマドゥーラ州の教 育科学技術大臣に任命されたルイス・ミジャン・バスケス・デ・ミゲルをあげ ることができる。州政府のフリーソフトウェアの採用は当初「州民100万人に アクセスを提供するにはフリーソフトウェアを採用するしかない」という経済 的な見方をする報道が多かった[2][6]。しかし、「市民の自由と平等を推進す るには、人類の財産である知識を、誰かが独占するのではなく、すべての人に 届くものにしてくれるような技術の革新を導入することこそが政治のとるべき 道である」[7]と大臣自らが自由と平等の理念を説くことで、州政府はコスト 削減以外の理念を持っていることが徐々に認識されるようになってきた。この 理念に沿って、同州の情報インフラ投資は集中化された。

 政治が技術革新を通じて「民主的で公平で自由な知識社会」を実現するとは どういうことか。具体的に検証したい。まず、州政府はEUの補助金を使って、 州内に点在するの全教育施設と公共施設を繋ぐ高速ブロードバンドの地域イン トラネットを構築し、さらに州の人口の大部分が住む農村部を中心に情報教育 センターを設立した。エストレマドゥーラ州では各教育施設は独自のサーバを 持ち、全ての中等教育施設には、サーバのメンテナンス及び教師に対するテク ニカル・サポートとして、1人の技師が配置されている[8]。それぞれのPC教室 では、中等教育以上では生徒2人につき1台、初等教育では6人につき1台の gnuLinEx搭載コンピュータを設置している。その総数60,000台。総人口100万 人代の田園地域とはいえ、生徒2人につき1台のPCという割合はEUでも最高の数 字である。そして、この割合も知識社会の理念にもとづいたものである中等教 育以上のカリキュラムはコンピュータを「二人一組」で使うように設計されて おり、自分の知識をコンピュータを使って表現し、その成果を共有することが 目指されている。近年この協働作業形態は「ペアプログラミング」として企業 のソフトウェア開発にもとりいれられており、1990年代にこのような制度設計 を行った洞察には驚かされる。

 そしてエストレマドゥーラ州の自前主義の象徴とも言えるのが、全州民のた めのソフトウェアである。同州はフリーソフトウェアであるLinuxを独自にカ スタマイズしたスペイン語版Linuxパッケージ「gnuLinEx」(ニュー・リネッ クス)を配布する。このソフトウェアは再配布・改変・販売も可能な「自由な ソフトウェア」であり、エストレマドゥーラ州では実際に小学校から情報教育 センター、そして大学から企業にいたる幅広い社会活動をgnuLinExでカバーし ている。(伝票管理・会計処理・POS システムといった企業向けパッケージも 改変自由・再配布自由なライセンスで配布されている。)こうしてgnuLinExシ ステムだけをインストールした数万台のPCがネットに接続され、州全域での運 用がはじまった。

 教育現場でも州独自の試みが行われた。教員にはgnuLinExを使った教育実習 およびネットワークを使った通信教育によるトレーニングが用意され、 gnuLinExを配備したコンピュータ教室は、古典ラテン・ギリシャ語から体育・ 造形美術までカリキュラム全般で使われている。そしてこの教材もまたネット ワーク上の教員チームで共有されている。

 gnuLinEx上には教材ツールとしてフリーソフトウェアの Squeak(スクイー ク)がインストールされているが、これもコンピュータ教育としては野心的な 試みである。Squeakは子供向けのeToysから通信教育、マルチメディア作品の 作成、さらに上級者向けの高度なSmalltalkプログラミングに至るまで、さま ざまな知識を表現することができるフリーソフトウェアである。ちなみに Squeakプロジェクトのリーダーであるアラン・ケイはストールマンと並ぶコン ピュータの思想家であり、現在私たちが利用しているパーソナルコンピュータ や「アイコンをクリックするとファイルを開く」といった仕組みを開発したこ とで知られ、コンピュータで知識を記述するソフトウェア思想の重要人物でも ある。

 また学校教材らしい工夫としては、gnuLinExのマスコットキャラクター「リ ネックス・トレミックス君」が登場するアニメーションやコミック書籍も配布 されている[9]。その決めぜりふは「法律を守ってコピーするならLinEx!」 (Be Legal, Copy LinEx!)というもので、初等教育から合法コピーと異法コピー についての意識づけを行う配慮もなされている。

 こうして導入に成功したエストレマドゥーラ州政府は、gnuLinExの共有を通 じて、スペイン国内だけでなく全世界の利用者に対して知識社会への参加をひ ろく呼びかけている。たとえば州政府が継続的に開催する国際会議[10]ではア ルゼンチンやニカラグアなどのスペイン語圏諸国の政府による導入事例が報告 されている。また、ブラジルでのポルトガル語版gnuLinExの開発もはじまり [11]、遠くはマレーシアの政府も「エストレマドゥーラ・モデル」の採用を検 討している[12]。これらの国境を越えた展開により、今後gnuLinExというアー キテクチャを介してグローバルなノウハウやプログラムの共有が進展すること が期待される。

 ここまでエストレマドゥーラ州の情報化戦略をたどってきたが、エストレマ ドゥーラ州が採用した技術は、実のところ日本でも利用できるものばかりであ る。たとえば、学校インターネットも学校向け日本語LinuxのCD-ROMもすでに あり、Squeakを教育現場に導入した学校も存在する。そして地域イントラネッ ト[13]やオープンソースの公共システムを配備した公的機関も出現している。 しかし国内ではそれらを統合するような強力な理念がなく、IT投資は散発的に 展開された。また理念に乏しい導入はどうしても技術主導型の展開になりがち である。教育現場にコンピュータを導入することは技術的な挑戦にこそなれ 「何のためにコンピュータを使った授業をするのか」という意義を教員が見出 せないという問題も日本国内でも起こっている[14] 。

 それに対して、エストラマドゥーラ州の情報化戦略の特徴は、まず「すべて の人が知識を共有できる社会」という情報社会の理念を建てたことにある。そ して「コンピュータを使って知識を表現し共有することはすべての人にとって 学ぶべき価値がある」という信念のもと制度設計を行い、学校でも社会でも自 由に使えるgnuLinExという知識インフラを配備した。こうしたエストラマドゥー ラ州の「理念ありきの制度設計」というアイデアは、フリーソフトウェアを世 に問うたストールマンから連綿と受け継がれた思想といっていい。ストールマ ンは、単にソフトウェアを開発するだけではなく、「誰もが自由で平等に使え る」という社会的な価値をライセンスに埋め込んだ。そしていま、その価値が 国を超えて伝播しているのである。

 日本でも、ストールマンたちの理念は知られていたが[15]、社会的な伝播力 を持つに至っていない。それはなぜか。この問いは関係する要因があまりに多 いため、即答は難しい。ただし見落としがちだが重要な点を補足しておけば、 今回のスペインの例では、中央政府がこの価値をトップダウン式に採用したの ではなく、貧困問題に直面するエストレマドゥーラ州から立ち上がったという 点だろう。もしこれが中央政府が駆動したプロジェクトだったとしたら、果た してソフトウェアの自前主義を貫けくことができただろうか。

 来たるべき智識文明は単一の形態とは限らない。また、そこに至る道筋も一 つではなく、おそらく理念も一つではないだろう。そのとき、我々はどのよう な戦略を建てることができるだろうか。エストレマドゥーラ州が先導し、ヒス パニック世界へとひろがりつつある取り組みは、これから日本発の情報社会を 構想するにあたって参考となるだろう。



参考文献

[1] Extremadura Regional Government: "About LinEx", Online document in English (2003). http://www.linex.org/linex2/linex/ingles/index_ing.html

[2] J. Scheeres: "スペインの自治州、ヨーロッパで初めて公立学校にリナックス導入", Hotwired Japan (2004). http://hotwired.goo.ne.jp/news/business/story/20020425105.html

[3] 鈴木裕信:"スペイン・エストレマドゥーラ州プレゼンテーションセミナー参加報告", Online document (2005). https://members.fsij.org/portal/Members/hironobu/2005-04-21-report/

[4] 丸田一:"智民論: 地域情報化にみられる新しいアクティビズム", 情報通信ジャーナル, 23, 6 (2005). 情報社会学シリーズ“地球智場”の時代へ 第6回. http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/

[5] 森亮二:"オープンソース・ソフトウェアの法律問題", 情報通信ジャーナル, 23, 10 (2005). サイバースペース法律相談所 第18回.

[6] R. A. Ghosh: "European politics of F/OSS adoption", Politics of Open Source Adoption, SSRC Social Science of Information Technology Programs, Social Science Research Council (2005). Version 1. http://www.ssrc.org/wiki/POSA, Section 2.4.

[7] Luis Millan Vazquez de Miguel: "Regional strategy of the information society in Extremadura", IST at the service of a changing Europe by 2020: Learning from world views, Publishing House of the Romanian Academy, pp. 132--147 (2005). http://fistera.jrc.es/pages/books/content%20FFC%20book/articles/10Millan%20Vazquez.pdf

[8] エストレマドゥーラ州政府:"エストレマドゥーラ: テクノロジーとフリー・ソフトウェア", 愛・地球博 出展用 DVD-ROM (2005).

[9] "Linextremix" http://www.linextremix.com/ (2004).

[10] "Conferencia Internacional de Software Libre (Open Source World Conference)", http://www.opensourceworldconference.com/ (2004).

[11] D. Rapisardi: "gnuLinEx: Foundation for an information society", Linux Journal, 128 (2004). http://www.linuxjournal.com/article/7790

[12] Open Source News: "State of Malaysia is following Extremadura’s Open Source way", Online article (2005). http://europa.eu.int/idabc/en/document/4001/469

[13] 石橋啓一郎:"情報通信インフラ整備論: 通信インフラ整備の行き詰まりをどう打ち破るか", 情報通信ジャーナル, 23, 7 (2005). 情報社会学シリーズ“地球智場”の時代へ 第7回. http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/

[14] 豊福晋平:"パソコンで指導できる教員が増えないのはなぜか", 智場 101 pp. 71--76 (2005). http://www.glocom.ac.jp/j/publications/chijo/200506/pc_education.html

[15] リチャード・ストールマン:フリーソフトウェアと自由な社会: Richard M. Stallman エッセイ集, アスキー (2005).

[著者紹介]

山根 信二 Shinji YAMANE

 東京大学大学院学際情報学府博士課程に在学中。2005年より国際大学GLOCOMの研究員を併任している。 専門は、情報セキュリティ、STS、コンピュータ倫理。共著書に『Internet Ethics』(MacMillan, 2000)など。 2002年には、コンピュータ専門家による国際NGOの先駆けであるCPSR (Computer Professionals for Social Responsibility = 社会的責任を考えるコンピュータ専門家の会)の日本支部設立にたずさわり、初代チェアマンをつとめる。

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