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chikyu_chijo - March 1, 2006

第12回 : 情報通信ジャーナル:教育情報化の課題と展望

March 1, 2006 [ chikyu_chijo ] このエントリーをはてなブックマークに追加

豊福晋平(国際大学GLOCOM主任研究員・助教授)

政策立案レベルと実際の現場対応に乖離が生じるのは、別に教育に限った話ではないが、学校教育分野の情報化はその傾向がやや極端かもしれない。政策レベルでは、すでに整備計画も予算措置が終わっているのに、各自治体の水準が目標に達していなかったり、高価なインフラや機材がやっと整備されても、現場ではあまり利用してもらえなかったりという関係者の愚痴をよく耳にする。このような時のマスメディアの反応は、たいがい決まって整備を進めない自治体や、利用しない学校や教師の批判に終始するものだが、各方面の話を聞く限り、マスメディアが言うほど話は単純ではないようにみえる。

この2~3年で浮き彫りとなった「遅々として進まない教育情報化」の原因は、実は、突き詰めればこれまでの情報化議論の文脈が、学校の存在意義を脅かすことになるからに他ならない。本稿では、情報社会学的観点から学校教育情報化議論の文脈を整理考察し、おぼろげながら見えてくる次の教育の姿を論じることにしたい。

1.遅々として進まぬ教育情報化何が問題?

特にネットワークインフラ整備は、2000年前後の国際競争に伴い国策として強力に推進された経緯もあって、実態としては利用現場での直接のニーズや目的をとりあえず棚上げにして進められる傾向が強かったように思われる。つまり、手段としてのインフラ整備が自己目的化してしまうという現象である。教育もその例に漏れない。

教育でのネットワークインフラ整備において、その性格を最もよく示すケースは「ネットディ」である。これは学校のネットワーク敷設をボランティア参加と教育向けディスカウントで安価に行うユニークな地域イベントとしてすっかり定着したが、主たる目的はあくまで地域の学校参画やネットワーク敷設工事自体であって、敷設後の利用活用や継続的関係構築にまで深く切り込んだケースはあまり多くない。敷設後の利用はあくまで学校側の考え方次第である。

1996年、ネットディの先駆けとなった米国カリフォルニア州のキックオフイベント直後、偶然企画事務局を訪れる機会を得たのだが、IT企業の積極的参加もあって通常導入コストの約3分の1で実現した、と担当者は胸を張って答える一方、学校での具体的な利用場面や授業のプランについては明確な返事が得られなかった。教育委員会によっては、ネットワーク接続回線が整備されてもコンピュータが手に入らないとか、学校側にはまだ活用プランがないところが多いのだが、ただでさえ整備が後回しになりがちな教育機関に対して、とりあえず当時のインターネットフィーバーの波に乗ってしまいたい意図さえうかがえるものであった。

さて、教育用コンピュータやネットワーク回線整備を主とした日本の教育情報化は、主に文部科学省(文部省)が整備計画として積算根拠を作り、これを総務省(自治省)が地方交付税交付金として措置するトップダウンで進められてきたのだが、各自治体や学校側のニーズが必ずしも伴わない状況にあるために、結果として様々な課題を生むことになった。

文部科学省が公表した2005年3月時点の数値によると、教育用コンピュータの学校当たり平均設置台数は40.0台(前年度36.5台)、教育用コンピュータ1台当たりの児童生徒数は8.1人/台(前年8.8人/台)、普通教室のLAN整備率は全体で44.3%(前年37.2%)、インターネット接続率は99.9%(前年99.8%)、うち400Kbps以上の高速回線は全接続校中81.7%(前年度71.6%)となっている。

これら数値を見る限りは、漸増傾向で一応の成果は上がっているようにみえる。だがこの数字を冷静に読めば、一般的な学校規模の児童生徒にとってはせいぜい週に1回程度コンピュータ教室の割り当てが回ってくる程度の状況であって、すべての授業でITを利用するという目標には遠く及ばない。

さらに、これらの数値をもう一段詳細な自治体間の数値で比較してみると、極めて格差が著しい。たとえば、教育用コンピュータ1台当たりの児童生徒数では、普及度上位の岐阜県・山梨県が8.1人/台に対し、最下位の神奈川県では12.7人/台であり、普通教室のLAN整備率では、上位の岐阜県が88.6%に対し、最下位の東京都はわずか12.5%に過ぎない。こういった自治体間格差の問題は、しばしば地方交付税交付金制度の弊害として語られるが、自治体の認識によって整備状況にも大きな差が出るという実例を示すものである。

一方、教師のコンピュータ活用等の実態では、コンピュータを操作できる教師が94.9%(前年93.2%)に対して、コンピュータで指導できる教師は68.0%(前年60.3%)と伸び悩んでいる。操作できる教師の割合が学校種別でもほとんど差がない(90.3~100%)のに比べ、指導できる教師の割合は小学校が80.1%に対して、中学校60.5%、高等学校55.1%と低くなる傾向がみられる。つまり、たとえ個人的にはコンピュータ操作に何も不安がなくても、授業にコンピュータを持ち込むことについては慎重であり、中高等学校になるほどその傾向は強くなることが分かる。

授業以外の側面も問題である。先のコンピュータ整備は授業用途に限ったものであり、教師や職員の事務用途は想定されていない。業務で使う機材であるにも関わらず、文部科学省も自治体も積極的にケアをしてこなかったのである。各地の学校を訪れると分かるが、教師がコンピュータを職員室に持ち込むのが半ば当たり前で、管理上の理由から私物を泣く泣く学校寄贈にして設置させてもらっているケースもある。また、学校現場での全職員へのメールアドレス付与はいまだに3割に届いておらず、自治体職員と比べても劣悪なIT労働環境に置かれているといえる。

2.現場でICTが普及しない単純な理由

教育現場でICT(Information Comunication Technology)が普及しない1つの例をあげよう。先に示したコンピュータで指導できる教員の統計についてだが、文部科学省によれば2005年度末までにこの数値を100%にすることが目標とされ、特に2002年以降は盛んに教師向けの研修が実施された。教師のICTスキルの未熟さが原因という認識があっての対策である。しかしながら値はいまだ7割に届いておらず、年度末までの目標達成はほとんど絶望的である。

公表された数値を学校種や教科別に分けてゆくと、小学校よりは中高の数値が低く、コンピュータを専門的に扱う教科とそれ以外の教科での格差が著しい。これは教師の操作技能の問題というよりは、むしろ、カリキュラムとミッションの問題を疑わせるものである。

はっきりしているのは、ほとんどの授業は黒板とチョークの従来スタイルで十分実行可能なように組まれているということである。つまり、ICTは授業成立の前提条件ではなく、追加要素として教授効果を高めたり、効率化したりする選択肢のひとつに過ぎない。

担任が大半を取り仕切る小学校では、教師の裁量でICTを有効に用いるために授業をある程度組み替えることも出来るが、中高は教科担任制が原則であり、時間割拘束が厳しい。さらに、内容的にも一時間当たりの情報量が多く余裕がない。コンピュータの割り当ては不十分なうえに、機械トラブルで授業進行に支障をきたす可能性もある。

教師のミッションは、所定時間で最大の教育効果を与えることであるから、毎回の条件が厳しいものであれば一番確実な方法を選択するのはごく当然であって、ICTのリスクをとるのは、よほど腕に自信があるか、野心のある教師ということになるだろう。つまり、コンピュータを用いて指導できる教師が中学6割・高校5割という数字は、決して教師の怠業ではなく、極めて現状合理的な判断であると読むべきなのである。

3.非日常と授業に偏った導入

コンピュータはもっぱら授業用途に導入されていると先ほど述べたが、普及啓蒙の方法にも問題がある。通常、学校教育のICT導入のテストベッドは、大半が研究指定校・モデル校・授業研究・公開実験授業といったスキームで進められ、テストベッドの成果をもとに一般学校への適用が計られるという段取りがある。教師にとって実験授業とは1時間だけの非日常的晴れ舞台であって、授業指導案を完璧に作り、場合によっては子供相手にリハーサルまで行って臨む。だが、どんなに優れた授業であっても、準備に半年もかかるような大事を毎日繰り返すことはできない。テストベッドの非日常・コスト度外視的発想が、かえってICTを用いた授業を非日常化し、一部の教師や学校をスターにしてしまい、結局普及拡大の障害になるという皮肉が生じている。また、これらテストベッドは属人的要素が大きく、担当教師や管理職が異動した途端、元の普通の学校に戻ってしまうことが多い。

4.そもそも何のために使うのか議論が固まっていない

教育のICT適用は古くから検討されてきたが、各論者の専門領域や信念が影響して、相互の意見が全くかみ合わない場面にも良く遭遇する。比較的新しい領域でありながら技術革新やその周辺課題が急速に変化しているため、横断的な検討がなされているとは言い難い。

教育のICT適用は大雑把に分けても次の6つの文脈がある。紙面が限られるのでごく簡単にまとめると、1) 計算機科学や情報理論を背景とした専門家・エンジニア養成 2)学習心理学を背景とした学習最適化 3)視聴覚教育を背景とした学習効果の最大化 4)オフィスオートメーションを背景としたOA実務研修 5)パソコンホビーから始まった個人の知的エンパワメントツールとしての利用 6)Unix文化を背景とするネットワーカーの養成がある。さらに今後は、ICT自体が透明になって日常に埋没した時に問われる知識スキルも重要になるだろう。

これら文脈のたびたび議論が錯綜するのは、各論者が議論全体の構造を全く理解していないうえに、各文脈と母集団の読み違いがあり、さらに、ICT特有の陳腐化の課題が存在しているからである。たとえば 1)の専門家・エンジニア養成では2進法・論理回路・プログラミングの必要がよく説かれるが、実際にこれらの知識を必要とする人は一部に過ぎない。同様に、OA実務研修的な発想では社会人になるまでの時間が長期となり、技術が陳腐化してしまう。むしろ、時代の流れとしては5)以降に焦点が移っており、カリキュラムへの適用が急がれる。

5.情報化が学校を不要にする?

先の文脈で、実は一番厄介なのは、2)の学習最適化である。近代国家の成立過程における学校とは、民に国家意識を植え付け、あるいは、均質な労働者を供給するために、多くの人数を一度に集め、貧しいメディア環境にありながら効果的に情報伝達を行う手段として位置付けられた。1900年代画期的と言われたテイラーのScientific Managementが教育にも援用され、現在の学校運用スタイルがほぼこの時期に確立された。いわば産業社会教育である。

ICTによる学習最適化は個別学習の完全かつ効率的コントロールが目的であり、その究極はe-learningによる在宅個別学習である。乱暴な言い方をすれば、学習のための知識伝達意義のみ考えれば、学校はすでにその意義を失っていることになる。実は、学校不要論自体1960年代のCAI(Computer Assisted Instruction)の時代から繰り返し論じられてきたテーマでもあった。日本では行政が多くの教職員、大量な教科書・副読本・資料メディアのコストを支払うことについて聖域のごとく誰も疑問をはさまないが、米国の場合、教師の質的問題をICTのドリル学習で補ったり、児童生徒にノートパソコンを支給する代わりに教科書や図書館書籍購入の予算を大幅にカットするといったドラスティックな対応を行っている教育委員会もある。ICTを拡大活用すれば、合理化の問題はかならず後から付いてくるだろう。

6.効率化か新たな側面の開拓か

企業情報化がそれなり順調であるのに、なぜ学校教育の情報化が進まないのか、という疑問はよく聞かれるのだが、先のICT学校不要論をさらに踏み込んで考えてみよう。

一言でいえば、これは目標設定と効率化最適化との課題である。 目標が所与のものとされると、効率化最適化だけが懸案になる。先に述べたように学校教育では、目標を達成するための環境・人材・メディア・児童生徒配置の最適化は近代教育制度の確立と精緻化によってほぼ完成され、制度上・カリキュラム上の大きな課題はほぼ解決されている。ICTを用いなくても必要な情報伝達を行い、十分な教育効果を上げることが出来るとすれば、むやみなICT適用の議論は米国のような極端な合理化に結びつく可能性がある。

民間企業の情報化が教育のそれと異なるのは、効率化最適化が一度達成されても、それが引き金となって今度は目標設定自体が高次へと引き上げられるからである。たとえば、米国企業の不正監査事件をきっかけになって進められるようになった企業コンプライアンスと監査外部透明性の確保は、情報化によってすべてのビジネスプロセスが瞬時に把握できるようになり、不正の検知が容易に可能になった背景が目標自体を引き上げた好例である。

7.変わる情報社会の学校教育

学校教育でも実は同様のことが言える。本格的な教育情報化の取り組みが始まれば、教育の目標は多様化高度化せざるを得ない。すでに、文部科学省が進める自治体への権限委譲、特色ある学校づくり、学校の自律化は、全国一律の産業社会的品質管理から、より地域や保護者に密着した分散自律を目指すものへと方法が変化したことを示している。では、智場を前提とする情報社会の学校教育はどのような姿になってゆくのだろうか。

留意すべきは、情報化は産業社会的な文脈にも貢献するということである。現状顕わになっている情報化適用のケースの大半は、実は産業社会的文脈に依拠するものである。一方で個人主義と競争が鼓舞され、個人や学校の序列化が加速し、学校教育は相対化され、教育の市場化・私事化が著しく進むことになる。また、形式知の市場化パッケージ化が進むことで、教育コンテンツの過当競争が引き起こされ価値は今よりもさらに下落するだろう。

情報社会の学校教育とはこれらの動きとは異なるものである。そしてその全貌は未だ知り得ない。ひとつのキーワードは、イリイチが主張するような共愉的学習共同体である。自分のあずかり知らぬところから知識が降ってくるのではなく、生活やコミュニティとともにあるという感覚である。

知識伝達部分を仮にICTに任せるとすれば、学校は次の目標として、(形式知の価値下落と相反して)生身の人間が一堂に会し、同じ時間と場所を共有し、残すことに最大価値を置くようなありかたを模索することになるだろう。このとき、情報源となり学校と協働するのは、まぎれもなく保護者や地域市民であって、学校と社会との関係性もまた変化し、学校が評価される軸も学力一本から多様化する。

たとえば、昨今の一部の学校サイトにその動きを読み取ることができる。閉鎖的で何も周知してこなかったはずの学校が、サイトを通じて毎日のように行事や教育活動の詳細を記録し公開するようになる。普段は知ることのない校長の信念がエッセイを通して伝わってくる。このような地道な活動が、直接関係する教職員・保護者・児童生徒のみならず、卒業生や地域市民、あるいは転入学を考える保護者にまで広く伝わるようになると、学校は不信の対象から信頼と誇りの対象へと変化してゆく。そこであらためて学力だけではない、学校の魅力が問われることとなるだろう。

参考文献

(1)文部科学省:学校における教育の情報化の実態等に関する調査結果 http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/17/08/05080101.htm

(2)全日本小学校ホームページ大賞 http://www.j-kids.org/

プロフィール

<とよふく・しんぺい>
北海道生まれ。1992年、横浜国立大学大学院教育学研究科(学校教育心理学専攻)修士課程修了。1995年、東京工業大大学院総合理工学研究科博士課程中退。1996年から現職。2003年から全日本小学校ホームページ大賞実行委員。2004年、社会経済生産性本部情報化推進国民会議「住基ネット専門委員会」委員。関心分野は、情報社会における教育工学、教育情報化。
主な著書:『ITと文明』(共著/NTT出版/2003)、『IT2001なにが問題か』(共著/岩波書店/2000)、『インターネットはじめの一歩』(共著/あゆみ出版/1997)。