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chikyu_chijo - March 3, 2006

第15回 : エストレマドゥーラ州の情報化戦略~地方政府が展開するフリーソフトウェア戦略~

March 3, 2006 [ chikyu_chijo ] このエントリーをはてなブックマークに追加

山根信二(GLOCOM主任研究員)(併任)

 情報化の進度や情報化政策の熟度を把握する時に、我々はしばしば他国との 比較を行う。たとえばe-Japan戦略も、もっぱら韓国や米国、主要欧州国との 比較の中で政策評価や軌道修正が行われてきた。しかしこの時に、中央政府だ けを見て地方政府を見逃さないように注意する必要があるのではないか。なぜ なら地方分権の進んだ国では、州首相や地方政府が野心的なプロジェクトを実 行に移し、それを本国に先駆けて他国の中央政府がとりいれるという事態もし ばしば見受けられるためである。本稿で扱うのもそうした一例である。

 昨年4月、愛知万博のスペイン館において、あるソフトウェアの紹介とプロ グラミング講習が行われた。このソフトウェアはスペインのエストレマドゥー ラ州政府が無償で配布しているもので、そこにはいくつかの先駆的な試みをみ てとることができた。本稿ではこのソフトウェア戦略をとりあげながら、情報 社会を支える智民と地方政府との関わりについて考えたい。

 エストレマドゥーラ州が位置するスペインとポルトガルの国境地帯は、ヨー ロッパ連合(EU)でも最も貧しい地域の一つである。スペイン国内で1番目と2番 目に大きな県を抱えるにもかかわらず、エストレマドゥーラ州の総人口は100 万人あまりで、人口10万人を抱える自治体は州都バダホスだけ[1]ということ からも、同州が開発からとりのこされた地帯であることが伺える。このエスト レマドゥーラ州は、かつてヨーロッパで初めてLinux を大量導入した自治体と して世界的に注目された[2]。そして愛知万博に合わせて日本で開催された同 州のプロモーション[3]によって、日本でもその成果を知る人が増えている。

 エストレマドゥーラ州の情報化戦略の特長は、単なるIT製品の配備を越えた 州政府による強力な社会設計にある。エストレマドゥーラ州が自治権を持つ自 治州となったのは、フランコ独裁政権後の民主化が進展した1983年のことであ る。さらに予算配分の権限も拡大したことで、自治州の首相は日本の県知事と は比較にならない強い権限を持つことになった。エストレマドゥーラ州の情報 化戦略も同州政府の強いリーダーシップによって推進されている。情報インフ ラの整備は、教育・医療福祉・行政・市民参加・地場産業振興といった縦割り の予算配分で進められることが多いが、同州は強いリーダーシップと以下に述 べる「自前主義」[4]によって集中的であると同時に異業種を連結した情報イ ンフラ投資を可能にしている。

 同州独自の情報化政策の起源は「オープンソース・ソフトウェア」以前にさ かのぼる。ソフトウェアビジネスで「オープンソース」という言葉が作られた のは1997年頃だが、本誌でも指摘されているように[5]、そのソフトウェアや ライセンスは1980年代半ばから「フリーソフトウェア=自由なソフトウェア」 と呼ばれて流通していた。その提唱者であるリチャード・ストールマンは、 「ソフトウェアは誰もが自由に使うことができねばならない」という自身の思 想を貫徹するべく、必ずソースコードを提供しなくてはならないという利用条 項を加えたGPLというライセンスを開発し、GPLを適用されたソフトウェアをフ リーソフトウェアと呼んで公開したのである。のちにオープンソース・ソフト ウェアとして知られるソフトウェアの大半には、このストールマンのライセン スがいまでも適用されている。

 こうした思想的な背景を踏まえて、エストレマドゥーラ州政府はストールマ ンを招くなどして「自由なソフトウェア」(スペイン語では「ソフトウェア・ リブレ」)を広めてすべての人に自由と平等を実現しようとしている。この方 向性を決定づけたキーパーソンとして、1990年代にエストレマドゥーラ州の教 育科学技術大臣に任命されたルイス・ミジャン・バスケス・デ・ミゲルをあげ ることができる。州政府のフリーソフトウェアの採用は当初「州民100万人に アクセスを提供するにはフリーソフトウェアを採用するしかない」という経済 的な見方をする報道が多かった[2][6]。しかし、「市民の自由と平等を推進す るには、人類の財産である知識を、誰かが独占するのではなく、すべての人に 届くものにしてくれるような技術の革新を導入することこそが政治のとるべき 道である」[7]と大臣自らが自由と平等の理念を説くことで、州政府はコスト 削減以外の理念を持っていることが徐々に認識されるようになってきた。この 理念に沿って、同州の情報インフラ投資は集中化された。

 政治が技術革新を通じて「民主的で公平で自由な知識社会」を実現するとは どういうことか。具体的に検証したい。まず、州政府はEUの補助金を使って、 州内に点在するの全教育施設と公共施設を繋ぐ高速ブロードバンドの地域イン トラネットを構築し、さらに州の人口の大部分が住む農村部を中心に情報教育 センターを設立した。エストレマドゥーラ州では各教育施設は独自のサーバを 持ち、全ての中等教育施設には、サーバのメンテナンス及び教師に対するテク ニカル・サポートとして、1人の技師が配置されている[8]。それぞれのPC教室 では、中等教育以上では生徒2人につき1台、初等教育では6人につき1台の gnuLinEx搭載コンピュータを設置している。その総数60,000台。総人口100万 人代の田園地域とはいえ、生徒2人につき1台のPCという割合はEUでも最高の数 字である。そして、この割合も知識社会の理念にもとづいたものである中等教 育以上のカリキュラムはコンピュータを「二人一組」で使うように設計されて おり、自分の知識をコンピュータを使って表現し、その成果を共有することが 目指されている。近年この協働作業形態は「ペアプログラミング」として企業 のソフトウェア開発にもとりいれられており、1990年代にこのような制度設計 を行った洞察には驚かされる。

 そしてエストレマドゥーラ州の自前主義の象徴とも言えるのが、全州民のた めのソフトウェアである。同州はフリーソフトウェアであるLinuxを独自にカ スタマイズしたスペイン語版Linuxパッケージ「gnuLinEx」(ニュー・リネッ クス)を配布する。このソフトウェアは再配布・改変・販売も可能な「自由な ソフトウェア」であり、エストレマドゥーラ州では実際に小学校から情報教育 センター、そして大学から企業にいたる幅広い社会活動をgnuLinExでカバーし ている。(伝票管理・会計処理・POS システムといった企業向けパッケージも 改変自由・再配布自由なライセンスで配布されている。)こうしてgnuLinExシ ステムだけをインストールした数万台のPCがネットに接続され、州全域での運 用がはじまった。

 教育現場でも州独自の試みが行われた。教員にはgnuLinExを使った教育実習 およびネットワークを使った通信教育によるトレーニングが用意され、 gnuLinExを配備したコンピュータ教室は、古典ラテン・ギリシャ語から体育・ 造形美術までカリキュラム全般で使われている。そしてこの教材もまたネット ワーク上の教員チームで共有されている。

 gnuLinEx上には教材ツールとしてフリーソフトウェアの Squeak(スクイー ク)がインストールされているが、これもコンピュータ教育としては野心的な 試みである。Squeakは子供向けのeToysから通信教育、マルチメディア作品の 作成、さらに上級者向けの高度なSmalltalkプログラミングに至るまで、さま ざまな知識を表現することができるフリーソフトウェアである。ちなみに Squeakプロジェクトのリーダーであるアラン・ケイはストールマンと並ぶコン ピュータの思想家であり、現在私たちが利用しているパーソナルコンピュータ や「アイコンをクリックするとファイルを開く」といった仕組みを開発したこ とで知られ、コンピュータで知識を記述するソフトウェア思想の重要人物でも ある。

 また学校教材らしい工夫としては、gnuLinExのマスコットキャラクター「リ ネックス・トレミックス君」が登場するアニメーションやコミック書籍も配布 されている[9]。その決めぜりふは「法律を守ってコピーするならLinEx!」 (Be Legal, Copy LinEx!)というもので、初等教育から合法コピーと異法コピー についての意識づけを行う配慮もなされている。

 こうして導入に成功したエストレマドゥーラ州政府は、gnuLinExの共有を通 じて、スペイン国内だけでなく全世界の利用者に対して知識社会への参加をひ ろく呼びかけている。たとえば州政府が継続的に開催する国際会議[10]ではア ルゼンチンやニカラグアなどのスペイン語圏諸国の政府による導入事例が報告 されている。また、ブラジルでのポルトガル語版gnuLinExの開発もはじまり [11]、遠くはマレーシアの政府も「エストレマドゥーラ・モデル」の採用を検 討している[12]。これらの国境を越えた展開により、今後gnuLinExというアー キテクチャを介してグローバルなノウハウやプログラムの共有が進展すること が期待される。

 ここまでエストレマドゥーラ州の情報化戦略をたどってきたが、エストレマ ドゥーラ州が採用した技術は、実のところ日本でも利用できるものばかりであ る。たとえば、学校インターネットも学校向け日本語LinuxのCD-ROMもすでに あり、Squeakを教育現場に導入した学校も存在する。そして地域イントラネッ ト[13]やオープンソースの公共システムを配備した公的機関も出現している。 しかし国内ではそれらを統合するような強力な理念がなく、IT投資は散発的に 展開された。また理念に乏しい導入はどうしても技術主導型の展開になりがち である。教育現場にコンピュータを導入することは技術的な挑戦にこそなれ 「何のためにコンピュータを使った授業をするのか」という意義を教員が見出 せないという問題も日本国内でも起こっている[14] 。

 それに対して、エストラマドゥーラ州の情報化戦略の特徴は、まず「すべて の人が知識を共有できる社会」という情報社会の理念を建てたことにある。そ して「コンピュータを使って知識を表現し共有することはすべての人にとって 学ぶべき価値がある」という信念のもと制度設計を行い、学校でも社会でも自 由に使えるgnuLinExという知識インフラを配備した。こうしたエストラマドゥー ラ州の「理念ありきの制度設計」というアイデアは、フリーソフトウェアを世 に問うたストールマンから連綿と受け継がれた思想といっていい。ストールマ ンは、単にソフトウェアを開発するだけではなく、「誰もが自由で平等に使え る」という社会的な価値をライセンスに埋め込んだ。そしていま、その価値が 国を超えて伝播しているのである。

 日本でも、ストールマンたちの理念は知られていたが[15]、社会的な伝播力 を持つに至っていない。それはなぜか。この問いは関係する要因があまりに多 いため、即答は難しい。ただし見落としがちだが重要な点を補足しておけば、 今回のスペインの例では、中央政府がこの価値をトップダウン式に採用したの ではなく、貧困問題に直面するエストレマドゥーラ州から立ち上がったという 点だろう。もしこれが中央政府が駆動したプロジェクトだったとしたら、果た してソフトウェアの自前主義を貫けくことができただろうか。

 来たるべき智識文明は単一の形態とは限らない。また、そこに至る道筋も一 つではなく、おそらく理念も一つではないだろう。そのとき、我々はどのよう な戦略を建てることができるだろうか。エストレマドゥーラ州が先導し、ヒス パニック世界へとひろがりつつある取り組みは、これから日本発の情報社会を 構想するにあたって参考となるだろう。



参考文献

[1] Extremadura Regional Government: "About LinEx", Online document in English (2003). http://www.linex.org/linex2/linex/ingles/index_ing.html

[2] J. Scheeres: "スペインの自治州、ヨーロッパで初めて公立学校にリナックス導入", Hotwired Japan (2004). http://hotwired.goo.ne.jp/news/business/story/20020425105.html

[3] 鈴木裕信:"スペイン・エストレマドゥーラ州プレゼンテーションセミナー参加報告", Online document (2005). https://members.fsij.org/portal/Members/hironobu/2005-04-21-report/

[4] 丸田一:"智民論: 地域情報化にみられる新しいアクティビズム", 情報通信ジャーナル, 23, 6 (2005). 情報社会学シリーズ“地球智場”の時代へ 第6回. http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/

[5] 森亮二:"オープンソース・ソフトウェアの法律問題", 情報通信ジャーナル, 23, 10 (2005). サイバースペース法律相談所 第18回.

[6] R. A. Ghosh: "European politics of F/OSS adoption", Politics of Open Source Adoption, SSRC Social Science of Information Technology Programs, Social Science Research Council (2005). Version 1. http://www.ssrc.org/wiki/POSA, Section 2.4.

[7] Luis Millan Vazquez de Miguel: "Regional strategy of the information society in Extremadura", IST at the service of a changing Europe by 2020: Learning from world views, Publishing House of the Romanian Academy, pp. 132--147 (2005). http://fistera.jrc.es/pages/books/content%20FFC%20book/articles/10Millan%20Vazquez.pdf

[8] エストレマドゥーラ州政府:"エストレマドゥーラ: テクノロジーとフリー・ソフトウェア", 愛・地球博 出展用 DVD-ROM (2005).

[9] "Linextremix" http://www.linextremix.com/ (2004).

[10] "Conferencia Internacional de Software Libre (Open Source World Conference)", http://www.opensourceworldconference.com/ (2004).

[11] D. Rapisardi: "gnuLinEx: Foundation for an information society", Linux Journal, 128 (2004). http://www.linuxjournal.com/article/7790

[12] Open Source News: "State of Malaysia is following Extremadura’s Open Source way", Online article (2005). http://europa.eu.int/idabc/en/document/4001/469

[13] 石橋啓一郎:"情報通信インフラ整備論: 通信インフラ整備の行き詰まりをどう打ち破るか", 情報通信ジャーナル, 23, 7 (2005). 情報社会学シリーズ“地球智場”の時代へ 第7回. http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/

[14] 豊福晋平:"パソコンで指導できる教員が増えないのはなぜか", 智場 101 pp. 71--76 (2005). http://www.glocom.ac.jp/j/publications/chijo/200506/pc_education.html

[15] リチャード・ストールマン:フリーソフトウェアと自由な社会: Richard M. Stallman エッセイ集, アスキー (2005).

[著者紹介]

山根 信二 Shinji YAMANE

 東京大学大学院学際情報学府博士課程に在学中。2005年より国際大学GLOCOMの研究員を併任している。 専門は、情報セキュリティ、STS、コンピュータ倫理。共著書に『Internet Ethics』(MacMillan, 2000)など。 2002年には、コンピュータ専門家による国際NGOの先駆けであるCPSR (Computer Professionals for Social Responsibility = 社会的責任を考えるコンピュータ専門家の会)の日本支部設立にたずさわり、初代チェアマンをつとめる。