« 2006年05月 | メイン | 2006年08月 »

2006年07月 アーカイブ

2006年07月20日

第17回: オンラインゲームの現在 ―拒否されるゲームジャーナリズム―

 井上明人 (国際大学GLOCOM研究員)

1.オンラインゲーム

 オンラインゲームというものをご存知だろうか。

 インターネットに接続した複数の人々が一つのゲームを一緒になってプレイするゲーム―――それがオンラインゲームである。

 コンピュータ・ゲームそのものについて日本は世界的に最高水準にあるが、ことオンラインゲームとなると日本ではあまり知られていない。ゲームに疎い人にとってはほとんど想像のつきにくい世界かもしれない。だが、韓国、中国などをはじめ世界的には2000年前後から爆発的に普及しはじめており、特に韓国では日本における1980年代半ばのファミコンブームを彷彿とさせるほどにオンラインゲームが爆発的にヒットし広く大衆化して受け入れられている。*1

 今回、とりあげたいのはこのオンラインゲームで起こったある事件と、それについてのインターネット上での世論についてである。

 なぜ、オンラインゲームについてとりあげるのか?単にオタク趣味のことを論じたいからではない。コンピュータ・ゲームはこの30数年の間に爆発的な発展を遂げてきたメディアであるが、この発展はコンピュータの発展や、社会の情報化とパラレルになって進行した現象でもある。コンピュータ・ゲームを語ることは情報社会を語ることに深くつながっている。

 そして、ゲームのインターネット化と、それに伴う言説をとりあげるということは近年のブログに関わる議論にもつながることだが、インターネットの到来によって言説の世界の何がかわっていくのかを論じていく上でも興味深い側面を提示できるはずだ。

2.オンラインゲームのプレイヤーの多様性

 具体的な事件の詳細について語る前に、オンラインゲームについての一般的な認識から確認しておこう。

 ただ一口にオンラインゲームとは言っても、そこには多様なプレイヤーが存在している。プレイヤーの多様性を整理して語ったものとしては、初期のオンラインゲーム開発者であるリチャード・バートルによる四分類が有名である。*2

彼の分類ではプレイヤーの性質は1.達成者(Achiever) 2.探検家(Explorer) 3.社交家(Socialiser) 4.殺し屋(Killer) 四種類に分けられる。彼の言葉をひきながら四種類のタイプを説明しよう。

・Achiever:達成者は、ゲームの枠組みの中で強くなりたい人々。彼らはゲームの中の世界で強くなったり、お金儲けに邁進する。

・Explorer:探検家は、探検するためのゲームのようにしてオンラインゲームを遊ぶ人々。自分でゲーム世界の地図を作ったり、戦闘やスキルについて詳しくなったりする。

・Socialiser:社交家は、オンラインゲームをプレイする他の人々との交流を楽しむ人々。

・Killer:殺し屋は、他のプレイヤーとオンライン上で戦ったり、他人と競争することを好むような人々。彼らは総じて無口である。

 以上はオンラインゲームが世界的に本格的ブームになるよりも少し前の1996年に発表された分類だが、現在もそれなりに有効なものとしてオンラインゲームを語る際にはしばしば引き合いにだされている。

 細かい分類をすべて頭に入れていただく必要はない。ここで覚えておいてもらいたいことはオンラインゲームのプレイヤーには、こうした形でさまざまな遊び方を好むタイプのプレイヤーが存在する、ということだ。

 次にとりあげる事件の舞台となったアクティブプレイヤー数55万人*3を超える人気オンラインゲーム『ファイナルファンタジーXI』では、こうしたプレイヤーの多様性がどのようにあらわれるのだろうか?  ファイナルファンタジーXIのようなオンラインゲームを遊ぶ際には、ほぼ毎回、他のプレイヤーと一緒になってモンスターを倒す冒険の旅に出る。このとき一緒になって冒険する一時的な仲間グループのことを「パーティー」と呼ぶ。そして、その仲間グループ「パーティー」に属した人々の中では様々な役割が発生するようになっており、ゲーム内では誰もがなんらかの特徴をもった「職業」に就いている。例えば「戦士」という職業は前線に出ていってモンスターをおびきだし、仲間を攻撃から守る盾となり剣となる前衛としての能力をもつ。「戦士」の職業の人は「達成者:Achiever」や「探検家:Explorer」の人が多いかもしれない。他に「白魔道士」という職業はグループにおける補給担当のような役割として前衛で傷ついた戦士などを補助する後衛の能力をもつ。他人との交流が欠かせないこの職業には「社交家:Socialiser」が多いかもしれない。そして、前衛でも後衛でも役にたつことのできるオールマイティな能力をもっている代わりに、前衛では戦士ほどの能力はなく、後衛でも白魔道士ほどの能力を持たず遊び手の使い方次第で幅のある遊び方ができる「赤魔道士」という職業などもある。

 このようにして、プレイヤーの多様性は、「職業」というゲームシステムによって支えられ、多様な遊び方をする人々が、そのときどきで一緒の街で交流したり、モンスターを倒したりして好きな遊び方が幅広くできるゲーム、それがオンラインゲームの世界である。

3.ででお事件

 さて、それではここから具体的な事件の内容についてみていこう。

 ことの起こりは、日本で最大のゲーム情報誌として全国40万部前後を売り上げるという雑誌『週刊ファミ通』(以下、ファミ通)の2003年6月*4に、ファイナルファンジーXIについての次のような対談形式のゲーム攻略記事が掲載されたことだ。(一部のみ引用)

太田:いつも俺にグチ言ってこないっけ?パーティー組ながら。

ででお:違うって!ただ、回復しない赤とかが多くて最悪って思うくらいですよ。赤だけかな最悪は。

太田:赤なめんな!赤はオールマイティなジョブなんだよ!

井手:でも、なんでもできるがゆえに、なにしていいかわからずに、見当違いの行動をし始める赤って、わりと多いよなぁ・・・。

ででお:っていうか、そういう赤しか見たことないです。いままで。

 解説すると、ここで言われている「赤」とは前節で説明した「赤魔道士」という職業のことだ。一言で言えば、これは「オールマイティ志向の能力を身に着けたプレイヤーと一緒に仲間グループを組むとあまり効率的にゲームを遊べない」ということをしゃべっているだけの会話である。リチャード・バートルの分類に沿って言えば、彼らは「探検家」として遊ぶ際に、どういった能力が優秀で、いっしょに遊ぶ相手として最適なのか、ということを語っているだけだ。

 だが、この記事に対してインターネット上の巨大掲示板「2ちゃんねる」の一部で、ファイナルファンタジーXIについての話題を扱っている人々から猛烈な反発が巻き起こった。

 2ちゃんねる内で「祭り」として盛り上がっただけでなく、事件の経緯をまとめる「まとめサイト」が登場したほか、ファミ通を発行する株式会社エンターブレインの出版物への不買運動も提唱され、メールでの抗議文を送るものや、電話での直接抗議を行うものさえ現れた。こうしたやりとりを経て、この騒ぎが起こった翌月にはファミ通本誌に謝罪文が掲載されるまでに至る。「たかがゲームの遊び方のことで、そんなに事件になるものか」と思われる方が多いだろうが、抗議しているプレイヤーたちの口調は驚くほど真剣だ。

 行われた電話抗議の内容を、当時の事件の「まとめサイト」*5から引用しよう。(括弧内は筆者)

Q.(読者の抗議)

(「ででお」氏の主張は)スタイルの強制に思える。もう少し他PCに配慮した記事作りをしてほしい。できれば謝罪やいきすぎにたいする訂正を。 しゃれに受け取らないものもすくなからず読者にはいるはず。

A.(ファミ通編集部からの回答)

紙面の都合もあり訂正をするわけにはいかない。 攻略記事なのだからもっとも効率を重視した戦略、ありかたを考えるとああなった。 自由なスタイルを推奨してしまうと攻略記事のつくりようがない。

 このやりとりは、この事件の構造をよくあらわしてもいる。おそらく、ファミ通の編集部のこの回答はごく正直なものだ。ファミ通編集者はファイナルファンタジーXIのプレイヤーにゲームの遊び方の強制をするつもりはなかっただろう。彼らは、単にファイナルファンタジーXIというゲームの中で「探検家」として最適な遊び方について気軽に語った雰囲気の記事を掲載したに過ぎない。

 にもかかわらず、なぜプレイヤーたちはこれほど強く反発したのか?

 最大の理由は、双方のディスコミュニケーションだろう。抗議する人々が掲げた理由は「オンラインゲームにおいて個々人の遊び方は、それぞれ重宝されるべきであって、特定の職業=遊び方を貶めるな!」というものである。つまり、ここで行われた「いかなる遊び方がこのゲームにとって効率的か」という記事は、ファイナルファンタジーXIの「探検家」ではないタイプのプレイヤーによって単なる攻略記事ではないのだ。攻略という観点によって、ある特定の遊び方が推奨されなかったりするということ自体が「ゲームプレイの自由が侵害するもの」であるとして受け止められてしまった。しかしながら、当のファミ通編集部は、問題となった記事が「問題」になるという構造そのものがほとんど理解できない。

 また、ファイナルファンタジーXIのプレイヤーたちにはファミ通のこうした記事を通してゲームプレイのマナーを知らない、「行儀の悪い連中」がファミ通を通してファイナルファンタジーXIの世界にあふれるのではないかという危惧もあっただろう。

 抗議の際に、抗議者たちは「ゲーム業界における朝日新聞のようなメディア」という比喩を用いてファミ通を非難しはじめた。そうしてこの問題は単なる自由の侵害ではなく、巨大出版メディアからの横暴という対立構図も加わりファイナルファンタジーXIの世界では事件から3年を経たいまでも語り継がれる大きなものになっていったのだ。

4.オンライン化と言説形態の変化

 この事件の一体何が重要なのだろうか。

 一つには、この事件は旧来的な権威を持った出版マスメディアであるファミ通 vs インターネット発の世論対立、新旧メディア対立という構造が露わになった事件として捉えることができる。

 ファミ通の記事に関する不満としてはいままでよくあるものとして、新作ゲームを10点満点で評価していく「クロスレビュー」コーナーでの評価がゲームファンや開発者などから「その点数はおかしい」と、不満を表明されることはよくあった。だが、作品そのものの価値を論じるような部分とは無縁な、「ゲームをどうやれば効率的に遊べるか」という攻略記事では、通常は批判そのものが起こらない。1986年に創刊してから、20年近く家庭用ゲームに関する情報を扱い続けてきたファミ通の感覚としては先に引用したファイナルファンタジーXIの攻略対談記事は掲載しても問題ないものだと思われていたはずだ。旧来のゲームについての記事の多くはゲームをいかに効率的に「探検」していくかという内容のもであり、それについて語ることはそれまでファミ通がごくごく普通に繰り返してきた日常業務である。

 しかし、オンラインゲームのプレイヤーたちはファミ通のこの日常業務に対して、強い不快感を表明したのだ。ファミ通編集部にとっては「攻略記事」であり、抗議する人々にとってはそれが「オンラインゲームの自由を疎外するもの」とうつってしまった。ファミ通の編集部はこうした反応が起こることを予想すらしていなかっただろう。問題としたいことはファイナルファンタジーXIのプレイヤーたちの抗議活動と、ファミ通の記事のどちらが態度としてまっとうかということではない。問題は、既存メディアであるファミ通編集部は、オンラインゲームのプレイヤーたちがこの記事を載せたら猛反発するかもしれない、ということがわからなかったということであり、その感覚にまったくキャッチアップできていなかったのだという事実だ。オンラインゲームのプレイヤー達の抗議は、ファミ通編集部の日常的理解の外側にあった。

 また、このディスコミュニケーションは、出版メディアとネットメディアの対立であると同時に、家庭用の一人向けゲームと、オンラインゲームの対立でもある。繰り返すが、ファミ通は家庭用ゲーム機の雑誌である。ファイナルファンタジーXIというゲームは、家庭用ゲーム機の世界の中に有名だったシリーズがオンラインゲーム化したものだ。家庭用ゲームとして最大売り上げ300万本以上を誇るブランド力を持つファイナルファンタジーシリーズのオンラインゲーム化を、家庭用ゲーム雑誌としては扱わないわけにはいかない。そのような経緯の中、家庭用ゲームを扱うフレームによって、オンラインゲームが扱われた際に発生したディスコミュニケーションでもある。家庭用ゲームについて話す上では問題なかったはずのことが突如として「問題」化されて、出てきてしまったのだ。

5.まとめ

 インターネットの世界によって世論発信のあり方が変わるというタイプの議論は近年のブログの議論*6を参照せずともインターネットの登場から常に言われ続けてきた。

 ゲームのオンライン化は、ただ単にゲームそのもののアーキテクチャとしてイノベーティブだっただけでなく、ゲームに関わる言説の方向性までをも変えてしまった。その点では、「インターネットによって世論が変わる」という例の一種でもある。

 いままでのインターネットと世論をめぐる議論は、一つにはインターネットによって人々がどのように積極的になるかというような市民メディアとしての可能性や、インターネットによって人々の議論の仕方が偏向していくことを指摘する北田暁大による2ちゃんねるをめぐる議論などがあった*7。ここで見られている事件の構造は北田の指摘した状況と基本的にはパラレルである。だが、この事件が面白いのはファミ通に抗議するプレイヤーたちが、もはや韓国との国際関係や、リアルワールドの事情をめぐる価値観にすら拘りあっていないという点だ。プレイヤー達は、ゲームのなかにつくられた社会における慣習をめぐって必死に争っている。その点で、この事件は2ちゃんねるにおける朝日新聞批判や、嫌韓の問題よりもより徹底した側面をもっている。

 ここでは論じる対象となるそもそもの世界自体がコンピュータを通して成立している場所であるからこそ、議論の基本となる基準点から議論が根底的に変わってしまっているのだ。

*1 韓国での普及過程については、魏晶玄『韓国のオンラインゲームビジネス研究』東洋経済新報社、2006年 に詳しい。

*2 Richard Bartle"HEARTS, CLUBS, DIAMONDS, SPADES: PLAYERS WHO SUIT MUDS"1996   http://www.mud.co.uk/richard/hcds.htm

*3 2004年9月に発表された数字。また同時にゲームに参加をしている「同時接続者数」では17万人を数えている。http://www.playonline.com/ff11/

*4 『週刊ファミ通』2003年6月13日号 103~105ページ

*5 http://web.archive.org/web/20031008133602/http://www.geocities.co.jp/Playtown-Toys/6058/dedeo.htm

*6 例えば、ダン・ギルモア著 平和博訳『ブログ 世界を変える個人メディア』朝日新聞社、2005年など

*7 北田 暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』NHKブックス、2005年

プロフィール
akit_inoue_face.jpg

<いのうえ・あきと>
1980年生まれ。国際大学GLOCOM研究員。慶応義塾SFC研究所上席研究員(訪問) 2003年慶應義塾大学総合政策学部卒。2005年慶應義塾大学院 政策・メディア研 究科修士課程修了。2006年2月より現職。大学在学時の2002年より、個人でのゲー ム研究/評論サイト "Critique of Games"を運営し、好評を博す。コンピュータ ・ゲームをめぐる言説史を専門的に取り扱っている。  2006年より、RGN(Research on Game design and Narrative=コンピュータ・ ゲームのデザインと物語についての研究会)を主催し、代表をつとめる

第18回:ADOC:ソフトウェアとコンテンツの幸せな関係

 鈴木健 (国際大学GLOCOM 主任研究員)

 梅田望夫氏の「ウェブ進化論」が30万部を突破し、話題になっている。梅田氏が、シリコンバレーでの長い在住経験の中で最も驚いたのが、オープンソース運動であったという。この本で取り上げられているウェブ世界の新現象に名づけられたWeb 2.0の多くも、このオープンソースの思想を受け継ぎ、ソフトウェア以外の世界に展開しようという運動だといっていいだろう。

【オープンソースソフトウェアからオープンソースコンテンツへ】

 オープンソースソフトウェアは、この5年間でエンタープライズの世界においてもネットサービスの世界においても、しっかりとした信頼を確立したようだ。

 オープンソースの本質は、よく言われるようなソフトウェアが無料で利用できるということではなく、世界中の会ったこともない人々がネットごしに共同作業を行い、成果物を作り出すという新しい生産プロセスにある。新しいとはいっても、内面的な起源を辿っていくと科学者コミュニティの倫理に行き着く。『オープンソースは,情報と知識を自由に共有するという西洋科学が「ギリシャ時代から」踏襲してきた伝統の延長線として位置付けられるべきだ』とLinuxの作者のリーナス・トーバルズ氏も言う。

 科学の世界では、実験データや文献などの証拠が公開されていないと、その真偽を検証しようがない。ソースが公開されていることは、健全であるための必要条件なのである。ソースが公開された科学の世界においては、リファレンスさえしっかりしていれば、他人の知恵や知識を借用して新しい知識を生み出すことは、奨励されることはあっても疎外されることはなかった。

 本や論文という公開された知を、フェアユースの範囲内で自由に利用することによって西洋科学は発展してきた。ネットの時代において、大学院から出発したハッカー文化は、メールとソースコード管理システムCVSという2つのソフトウェアを武器にして、ソフトウェアの生産プロセスをオープンにすることに成功した。

 しかし、オープンソースソフトウェアの成功は、この「生産プロセスの革命」のまだ第一段階にすぎない。オープンソースソフトウェアからオープンソースコンテンツへの大きな潮流がいま起きつつある。

【Web 2.0とADOC】

 Web 2.0という言葉が流行しているが、これはソフトウェアが主役だった時代からコンテンツが主役である時代への変化を指し示しているように思える。

 ティム・オライリーは、「Web 2.0:次世代ソフトウェアのデザインパターンとビジネスモデル」で、Web 1.0からWeb 2.0への変化の例を14個指摘しているが、そのうちのひとつに、コンテンツ管理システムからwikiへのシフトが挙げられてる。

図:ティム・オライリー「Web 20.0:次世代ソフトウェアのデザインパターンとビジネスモデル」CNETより 図.jpg

 wikiは誰でも書けるウェブであるが、特定の管理者しか書けないコンテンツ管理システムと、一体何が違うのだろうか。ウェブページを見て、頭に何かが浮かんだとき、それを人に伝える手段は通常限られている。コンテンツ管理システムを使っている作者にメールを書くか、ホームページに付設してある掲示板に書き込むか、その程度だろう。そこまでするための心理コストは大きく、ほとんどの人はふと浮かんだ言葉を心の奥底にしまったまま他のページに行ってしまう。wikiは、その場でコンテンツ自体を書き換えてしまうことを可能にし、この心理コストを限りなくゼロに近づけた。

 wikiを使ったウェブページ編集の作業は以下の通りである。
1.自分が見ているウェブページの上についている「編集」ボタンを押す。
2.編集して「投稿」ボタンを押す

wikiというソフトウェアをはじめて触ったときに人々がもつ、「勝手に人のページを書き換えていいの?」という違和感は、情報の所有権に対する生理学的な反応を示している。幸いなことに、この反応は社会的なコンテクストに依存するところが大きく、歴史の中でいずれ解消されていく問題であろう。

 wikiと同じことを従来のやり方でやると以下のようになる。
1.自分が見ているウェブページをPC上で名前をつけて保存をする
2.そのHTMLを編集する
3.ブラウザでHTMLがちゃんと書けているか確認する
4.メールで、内容を修正したという文面をサイト管理者に送り、HTMLファイルを添付する。
5.ウェブページがその後、管理人によって更新されたかどうかをチェックする  

これだけしてもウェブページに反映してもらえるかわからない。自分が行った行動が無駄になるかもしれないし、かえって管理人を怒らせてしまうかもしれない。wikiはこうした問題を一気に解決した。

 wikiはすばらしいソフトウェアだが、さらにすばらしいのは、wikipediaというキラーコンテンツとめぐりあったことである。wikipediaは、誰でも書ける辞書として、何万人もの貢献者が百万ページを超えるコンテンツをネットに作り出した。alexaのトラフィックランキングによれば、wikipediaは現在世界17位であり、ネットレイティングスによれば、2006年2月度の日本語版wikipediaへの訪問者数が月間700万人を超えたという。このようなたくさんの貢献者とたくさんの利用者が暮らす巨大な生態系を、wikipediaは作り出した。これは百科辞典というコンテンツが、wikiという文体に一番にマッチしたからだろう。ソフトウェアとコンテンツの幸せな関係が生まれたのだ。

 これははじまりにすぎない。

 wikiは、文章を中心とした静的なページづくりというごくありふれたものをターゲットにした。この範囲内でwikiが可能なことはwikipedia自体もやろうとしている。Wiktionary(wikiによる辞書)、Wikibooks(wikiによる教科書や解説書)、Wikinews(wikiによるニュース)はそうしたものである。日本においても、FTEXTのように高校の教科書をオープンプロセスで開発をする試みがはじまっている。

 wikiはwiki記法という独特の文法を覚えねばならないが、リッチなインターフェイスでWYSIWYGで編集できるようにしたNOTAというサービスが永田周一氏によって開発されている。

【情報共有できるAJAXの出現】

 wikiが切り開いた情報共有を前提とした知識の生産プロセスは、他の分野にも飛び火するかもしれない。われわれが普段使っているオフィス系のソフトのサービス化も始まっている。Wordの代替となるのが、writelyやajaxWriteなどのサービスである。通常、Wordなどのオフィス系のソフトウェアはクライアントPCにインストールをして使う。しかし、writelyやajaxWriteは、AJAX(Asynchronous JavaScript + XML)と呼ばれる技術を用いることにより、PCに標準でインストールされているブラウザ上でWordと同様のことを実現してしまう。ファイルを保存すると、それはPCのハードディスクの中に保存されるのではなく、サーバー上に保存される。

 情報共有が叫ばれる中で、PCの中で作られたWordなどのファイルをサーバーにアップロードしたり、逆にサーバーからダウンロードする手間は次第に増大している。これらのAJAXアプリを用いれば、最初からサーバーに保存されるために、共有するための作業はかなり少なくなる。

 Wordだけではなく、Excelのような表計算ソフトやPowerpointのようなプレゼンテーションソフトの代わりになるようなソフトウェアも、も次々とAJAXサービスとして公開されている。まだどのサービスが優勢ということは決まっていないが、この上で、膨大な数のコンテンツが共有される時代もすぐに来るかもしれない。それを見越してか、Googleはwritelyをすでに買収している。Googleのベータサービスとして提供される日も遠くないだろう。

 オフィス系の世界で、100%近いシェアを持っているMicrosoftも、ソフトウェアのサービス化の流れに乗ろうとしており、Windows Liveというサービスのベータ版を発表している。ソフトウェアのサービス化がなぜ要請されるかというと、結局のところソフトウェアを開発するよりもコンテンツをつくるほうがコストがかかり、コンテンツをいかに集めるかを考えるとソフトウェアをサービスとして提供する他ないからだ。

 このような流れはオフィス系のサービスだけではない。デザイナーが使うようなドロー系のIllustratorやラスター系のPhotoshopのようなイラストソフトも、ネットサービスとして提供されつつある。はてなの開発者、神原氏が個人的に開発しているFlashベースのwillustratorは、ウェブでIllustratorと同様な機能を実現しようとしている。ソースが最初からサーバーにアップされているので、人がつくったイラストをさらにコピーして改変していくということが非常に簡単にできる。

 人が書いたイラストを派生させて、新しいイラストを作るというのは、アートの世界ではすでに行われている。コンピュータ・アーティストの安斎利洋氏が10年以上前から行っている連画というプロジェクトでは、100回以上もワークショップを行い、ネットワーク的に画が派生していく様子を見ることができる。

 wikiとwikipediaにみられるような、アプリケーションとオープンソースコンテンツの蜜月関係は、ADOC(Application Driven Opensource Contents) と呼ばれる新しい潮流を生み出すだろう。コンテンツはそれ自体が自生的にできるというものではなく、すぐれたアプリケーションの登場によって促進される。逆にアプリケーションは常にキラーコンテンツを求めている。互いにキラーアプリケーションとキラーコンテンツであるような関係が望まれるのである。

【オープンソースコンテンツの再利用性のために】

 オープンソースソフトウェアが強力な再利用性をもたらしたのと同様に、オープンソースコンテンツも新しいレベルの再利用性を促進することが期待される。再利用性を促進するためには、ADOCには2つの機能が備わっていなければならない。ひとつは原著作者によるオープンソースライセンスの指定であり、もうひとつは検索である。

 そのコンテンツを再利用するときに、改変が許されるのか、自由に商用利用してよいのかをわざわざ確認するのはかなり大変な作業だ。wikipediaはGNU FDLというライセンスを利用しているが、最近はCreative Commons(CC)の利用も盛んである。Creative Commonsでは、ライセンスの種類を組み合わせで指定できるので、原著作者の多様なニーズに沿うように工夫されている。ブログの標準的な管理ツールであるMT(Movable Type)は、コンテンツに対してCCライセンスをつけることができる。米国の代表的な写真共有サイトであり、最近Yahooに買収されたFlickrでもCCのライセンスを簡単につけることができるので、利用者はどの写真をどの程度再利用してよいかがわかる。日本のFlickrともいえるフォト蔵も、CCライセンスで写真を公開することができるようになっており、すでにかなりの数の写真が公開されている。

 もうひとつ重要なのは、ライセンスを検索条件に指定しながら検索エンジンから検索が可能であることだ。自由に利用できる素材がほしいと思ったときに、その素材を入手し、自分なりの改変をほどこして利用すると共に、その改変後の素材も自動的に公開されている、という状態を実現する最初の一歩は、その指定したライセンスで多様なコンテンツが検索にヒットすることである。たとえばGoogleにおいては、ライセンスをオプション指定した検索は可能だが、画像や動画について検索をすることはまだできず、課題となっている。

【最後に】

 オープンソースの本質は、ソースが公開されることによって生産プロセスがオープンになるということである。これは古くは古代ギリシャにはじまり、科学コミュニティを経て、ソフトウェア開発の世界に至った。Web 2.0は、その潮流が、あらゆるコンテンツに波及することを示すひとつの象徴的なキーワードである。

 非公開が前提でボタンを押すと公開にできる世界と、公開が前提でボタンを押すと非公開にできる世界は、ほとんど一緒のように見えるが、かなり異なった様相であろう。それは、コンテンツをつくり、編集するときのわれわれの内部で起こる内面的な変化に表れてくるかもしれない。生活の活動時間の多くをそうしたコラボレーションに人々が費やすのであれば、生活様式全体の変化をもたらし、われわれの社会観、地球観を変容させるかもしれない。

 世界で生産されるコンテンツの5%が現在公開されているとして、逆に95%が公開されている世の中に変化するとしたら、そのときに登場する新しいフィールドをなんと名づければよいのだろうか。

 公文俊平は、公開が前提とされた智が集積し流通するフィールドを地球智場と名づけた。それはもうまもなく実現するかもしれない。このフィールドの登場は、単にネット世界で情報がやりとりされるというだけではなく、産業社会や民主主義社会のあり方自体も次第に変えていくことだろう。それはちょうど、グーテンベルクの活版印刷が、長期的に見れば宗教革命や資本主義革命に影響を与えたのと同様である。

 しかし、本論では先を急がずに、オープンソースコンテンツの指数関数的増大を引き起こすための材料が、現時点でそろい始めていることを指摘しておくにとどめよう。これから数年のうちに、第二のwikipediaが続々と登場していくことが予見される。

 ただ今度の波においては、日本の開発者やサービス提供者も、この潮流を推し進めるサービスの開発をはじめており、単に海外からパラダイムが輸入されてくるという状況ではなく、逆に世界に輸出していくことになるかもしれない。だが、これは既存の輸入=輸出概念に収まるものではなく、まさに地球智場が形成されることによって、全く新しい世界概念の中で人々が生産活動をはじめたことの証なのかもしれない。

【参考文献・サイト】

ティム・オライリー「Web 2.0:次世代ソフトウェアのデザインパターンとビジネスモデル」2005年 http://japan.cnet.com/column/web20/story/0,2000055933,20090039,00.htm http://japan.cnet.com/column/web20/story/0,2000055933,20090424,00.htm

Wiktionary http://en.wiktionary.org/wiki/

Wikibooks http://en.wikibooks.org/wiki/

Wikinews http://en.wikinews.org/wiki/

FTEXT http://www.ftext.org/

NOTA http://nota.jp/

writely http://www2.writely.com/info/WritelyOverflowWelcome.htm

ajaxWrite http://www.ajaxwrite.com/

Willustrator http://wi.sappari.org/

連画 http://www.renga.com/

GNU FDL http://www.opensource.jp/fdl/fdl.ja.html.euc-jp

Creative Commons http://www.creativecommons.jp/

公文俊平「情報文明論」NTT出版 1994年

プロフィール

<すずき・けん>
1975年長野県生まれ。国際大学GLOCOM主任研究員。東京大学大学院総合文化研究科博士課程満期退学。2003年、情報処理振興機構(IPA)未踏ソフトウェア創造事業で天才プログラマー/スーパーくりえーたーに認定。専門は複雑系の認知科学・ソーシャルウェア・情報社会学。共著書に『NAM生成』(大田出版)、『進化経済学のフロンティア』(日本評論社)。

About 2006年07月

2006年07月にブログ「column」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2006年05月です。

次のアーカイブは2006年08月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。