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chikyu_chijo - August 29, 2006

第19回:通信・放送の「融合」論に懐う 

August 29, 2006 [ chikyu_chijo ] このエントリーをはてなブックマークに追加

 公文俊平 (国際大学GLOCOM 代表)

「行為」でみる融合論議がいま必要だ

通信と放送の「融合」をめぐる議論が盛んである。たしかに、同じデバイス、たとえばパソコンやケータイで、電話もメールもできればテレビもみられるようになるとか、同じ「パイプ」、たとえば光ファイバーや電波で、電話の信号も放送の信号も送られるようになるという事態は、容易に想定できるし、現実にそうなりつつあることも疑いない。しかし、事業者のレベルで、NTTが「放送」(IPマルチキャストも含めて)を始めることはまだしも考えやすいが、NHKが電話や郵便事業に乗り出すことなどまず考えられない。

それでは、「行為」のレベルでの通信と放送の融合はありうるだろうか。このレベルに注目した議論はそれほど見当たらないが、これも十分考えられる。というか、ここにこそいま起こっている変化の本質があると私は思う。

たとえば、多数の人々が――インターネットの上で――お互いに情報をやりとりしているという状態が、「コミュニケーション」の一番普通の形になるという事態がそれである。私は、それを「グループ・コミュニケーション」と呼んできた。 その場合には、「マス・コミュニケーション」と呼ばれる1対多の放送や出版型のやりとりや、「パーソナル・コミュニケーション」と呼ばれる1対1の電話や会話型のやりとりは、それぞれ、「グループ・コミュニケーション」のうちのある特別あるいは極端なケースだとみなすことができる。そうだとすれば、そのようなケースのために、「放送」とか「電話」、あるいは「チャット」などという分類枠をわざわざこしらえてやる必要も、あまりないのではないか。

とまで言ってしまうと、極端なのはお前の議論の方だと言われるかもしれない。しかし、人々の間の「コミュニケーション」を「メディア」などと呼ばれる特別な事業体の「サービス事業」、それも有料のサービス事業として仲介してもらうのではなく、なんらかの公共的なインフラとプラットフォームの上で、誰でも好きな時に好きな形のグループ・コミュニケーションができるようになったとしたらどうだろう。それも、マス・コミュニケーションやパーソナル・コミュニケーションをもそれに包摂させる形で、できるようになったとしたらどうだろう。

通識化で意味を失う情報の受発信

つまり、特別な免許や技術や高価な装備などは必要なしに、そうした多様なコミュニケーションが自力でできるようになれば、「放送」や「電話」という言葉は残るとしても、「事業」としての「放送」や「電話」、「事業体」としての放送会社や電話会社は、存続する余地がほとんどなくなりはしないか。ただし、そこであらためて、旧NTTと旧NHKを融合させて、公共的な情報通信インフラの構築・運用と公共的な放送コンテンツの提供とに特化した「通信・放送公社」に、一定の限定的で補完的な役割を果たさせるという構想は、十分考えられるところではあるが。

それはともかくとして、まぎれもない事実は、前世紀の最後の十年間に、社会的なコミュニケーションの主流が、「メディア」が媒介するものから、人々が自前で行うものへと変わったという事実である。その基盤になったのが、いうまでもなく、その間に爆発的に成長・普及したインターネットであり、その担い手になったのが、知的に「エンパワー」された人々、つまり、私のいう「智民」たち、英語で言えば「ネティズン」たちだったのである。

そこで、やや強引な議論になるのを承知で言えば、インターネットの世界では、情報の「受信」・「発信」というコンセプトは意味を失ってしまう、と私は言いたい。情報社会における最も典型的な「情報」とは――その厳密な定義の試みはあきらめてごくアバウトに言うならば――人やモノに付随しているなにかであり、人やモノが生み出してその周辺に置いてあるなにかである。わたしたちはそれを、基本的には自分で探し出してとってくる(「プル」する)。ごく特別な場合に、これまた基本的には相手の許可がある場合に限って、それを特定の相手に届ける(「プッシュ」する)こともできる。

つまり、インターネットに象徴される情報社会では、情報は、それを見つけた人やモノが勝手にとっていくことができる(堅苦しくいえば自由に「通有」できる)ものになる。私は、そのような情報のことを「通識」と呼んでいる。 もちろん、なんらかの理由で、他人や他のモノに見つけられたり取っていかれたりはされたくない情報も当然ある。いうならば「プライバシー情報」がそれだが、「通識」になることが情報社会での情報の本源的なあり方になるとすれば、それを「プライバシー情報」にしたいと思えば、そう思う側が、特別な秘匿の努力をしなくてはならない。もちろん、他人がプライバシー情報にしたいと思っている情報については、そうした他人の意図を尊重して、むやみに探し回ったり取っていったりしないようにすべきだという社会的規範が成立するのは、それ自体として好ましいばかりか、秘匿の努力のコストが下がるという意味でも歓迎すべきことである。他方、だからといって、どんな情報であれ、私が秘匿したいと思うものはすべてプライバシー情報にすることができ、他人は私の意図を尊重すべきだという主張を、そのまま各人の権利として無条件に認めるわけにはいかない。それは逆に、どんな情報であれ、私が見つけたいと思うものはそれを探す権利があり、見つけたら取ってくる権利があるという主張も、無条件に認めるわけにはいかないのと同じことである。「通識」と「プライバシー情報」をめぐる権利・義務関係をいかにバランスのとれたものとして設計し制度化していくかは、これからの情報社会における「情報権」にかかわる、最も重要な社会的課題だろう。

可見性の出現とその本質

ところで、ほとんどあらゆる情報が「通識」として公開されるようになる社会、つまり、情報への「アクセシビリティ(近づきやすさ)」が当然の前提となる社会、しかしそう言いながらも無差別闇雲にそれらの情報を他人に対して「プッシュ」することは控えるべきだとする規範が力をもつようになる社会では、膨大な情報の中から自分の欲しい情報を的確に見つけ出すことが、そこに生活する人々が最初に直面する大きな問題になる。言い換えればそれは、情報の「ファインダビリティ(見つけやすさ)」をどう確保するかという問題である。わたしたちは、必要とする情報(たとえば肺ガンの特効薬に関する情報)をもれなく見つけ出したいと思う。見つけてきた情報のできるだけ多くが必要を満たす情報であること(たとえば別の種類のガンの特効薬ではなく他ならぬ肺ガンの特効薬の情報であること、肺ガンの情報でも放射線療法に関する情報ではなく、特効薬の情報であること等々)が望ましいと思う。見つかった必要な情報が、信頼のおけるものであること(たとえば、その特効薬はたしかに特効があることが証明されている)や、使える情報であること(たとえば、その特効薬はどこで、いくらで手に入るかもわかること)を期待する。これらは、情報の「ユーザビリティ(使いやすさ)」の問題だということができよう。 「情報アーキテクチャー」という新しい専門分野の第一人者といわれるピーター・モービルは、その近著 で、こうした問題に正面から取り組んでいる。

まず「ファインダビリティ」とはなにかだが、モービルによれば、この言葉には、
1)その位置がわかる、あるいはそこへの到達経路がわかるという性質
2)特定の対象の発見や位置決めのしやすさの度合い
3)システムや環境が到達経路の決定や検索を助けている度合い

という三つの意味がある。だとすれば、それをやや堅苦しい日本語になるが、「可見性」と言ってみてはどうだろう。この意味での「可見性」は、特定の事物(や情報)の性質であると同時に、それらの事物(や情報)を含むシステムや環境が備えている性質でもある。一冊の本に収められている多様な情報は、適切な表題や目次、索引等によって、その可見性を高める。ウェブのページは、さまざまなキーワードを盛り込んでいることで、検索のさいの可見性を高める。図書の標準的分類方式や図書館のカード目録、ウェブの検索エンジンなどは、すぐれた可見性がシステムに作り込まれている例である。

また、「アンビエント」とは、
1)取り囲んでいる
2)完全に包み込んでいる

といった意味の言葉だという。だとすれば、「アンビエント・ファインダビリティ」を強いて日本語に訳せば「総可見性」とでもいうことができそうだ。これは、梅田望夫氏が『ウェブ進化論』(ちくま新書、2006年)の中で使っている「総表現社会」という言葉にヒントをえて考え出した言葉だが、わたしたちは「総表現社会」としての情報社会の積極的・能動的なメンバーとして活動するようになる一方で、「総可見性社会」としての情報社会の中で、可見性を当然のこととしてもつばかりか、ますますその度合いを強めていくありとあらゆる情報や事物に囲まれて暮らすようにもなるのである。

21世紀社会の主役は「智民」である

情報社会の「智民」とこれまでの産業社会での「市民」との大きな違いは、その能動性、積極性、自前性にある。20世紀の産業社会では、人々は勤労者として生産活動に参加してはいたけれども、それとは分離された形で、「消費者」としての側面をももっていた。消費者としての市民たちは、産業企業が商品の形で提供するありとあらゆる便益の享受者であると同時に、マスメディアが一方的に提供する娯楽やニュース情報の享受者でもあった。さらに言えば、行政府がこれまた一方的に提供するさまざまな行政サービスの享受者でもあった。市民たちは、享受者としては徹底的に受動的な存在であり、その積極面は、たかだか企業に苦情を言ったり、新聞に投書したり、さまざまな「要求」を行政につきつけたりするところにしか現れなかった。

しかし、情報社会の「智民」は、さまざまな面でこれまでの「市民」に比べるとはるかに積極的な存在になる。自分でウェブのサイトを作ったり、ブログを書いたりする。さらにこれからは「テレビ番組」を自力で制作して「放送」したりすることもできるようになっていくだろう。自治体や企業と共働して、自分たちの住む地域に高速無線のメッシュ型ネットワークのようなインフラを作ることさえ、するようになるかもしれない。今回の小論で言及した情報の「アクセシビリティ」、「ファインダビリティ」、「ユーザビリティ」などの言葉は、英語の他動詞から作られた名詞であって、その後ろには、情報源に積極的に「アクセス」し、自分のニーズに合う適切な情報を「ファインド」して取得し「ユーズ」する主体としての智民がいるというか、主役は智民たち自身なのである。

メディアの独立不羈は守れるか?

ここでもう一度、通信と放送の「融合」論議に話を戻そう。そこでの大きな論点の一つに、NHKの改革問題がある。さまざまな不祥事件が発覚したNHKの経営体制にはきびしくメスを入れる必要があるのは当然だが、だからといってNHKの公共放送としての役割、とりわけ「不偏不党」のあるいは「独立不羈」のメディアとしての役割まで否定すべきでないといった声も強く残っている。これはなかなか重要な論点だと思われるので、これまで述べてきた「智民」のパワーの増大という観点から、この問題を見直してみよう。

大組織の時代ともいわれた20世紀の産業社会を動かしてきたのは、ますます巨大化する政府と企業だった。この二つの巨大権力に対する対抗力として期待された「市民」ないし「国民」のパワーは、選挙という特別の機会を別にすると、現実にはほとんど機能しなかった。そこで、政府と企業の行動を監視したり、それに掣肘を加えたりする役割をになう「第三権力」――あるいは「第四権力」 という言い方も広くされているが――として期待を集めるようになったのが、それ自体もまた巨大組織となった新聞社や放送局だった。20世紀の新聞社や放送局(の少なくとも良質の部分)が、みずからの行う報道の姿勢や提供するコンテンツの品質を、そうした期待に答えられるだけのものにしようとして、プロフェッショナルな努力やイノベーションを積み重ねてきたことは確かである。その中で、それなりの高い成果が生まれ、それが伝統や歴史となって定着すると共に、プロフェッショナルにふさわしい高い標準や職業倫理も形作られてきたのである。だがすべての新聞社や放送局が、そうした理念や努力を共有していたわけではないし、良質な部分といえども、一貫して「独立不羈」や「不偏不党」を貫けたわけではない。むしろ汚辱にまみれた歴史も少なからず残してきたと言わざるを得ない。

報道機関の矜持と客観評価の物差し

 それでは、今後はどうなのか。情報化の進展は、マスメディアがその「本来の」あり方を取り戻したり強めたりするための強力な契機となってくれるのだろうか。必ずしもそうとは言い切れないのではないか。

 身も蓋もない言い方をするのは恐縮だが、今日の「智民」の立場からすると、一つの組織体が「不偏不党」や「独立不羈」を貫くことなどそもそもありえないことだし、だから当然期待すべくもないことなのではないだろうか。なによりも、「不偏不党」のような理念は、それ自体、はなはだ主観的なものにすぎない。「偏り」や「党派性」の有無を客観的に評価することは不可能に近い。同じ報道姿勢や内容が、ある人々からみると「右寄り」あるいは「政府寄り」にすぎるものであると同時に、他の人々からすると「左寄り」あるいは「反政府的」にすぎると見られることは十分ありうる。そうだとすれば、単一の「不偏不党」の報道機関をもつよりは、複数の、いや無数の、偏向した党派性の強い報道機関や報道があって、それらの偏向度や内容の信頼度を、さまざまな基準からさまざまに評価する仕組みが――これまた一つではなく複数個――あるほうが、よっぽどましではないのか。同時に、報道する側は、自分が主観的にもっていると考える偏りや党派性を、失くすのではなく正直に開示する姿勢をもってくれることが望ましい。そうすると評価もしやすくなるだろう。それが情報社会における報道機関の、あるいは個人としての報道者の「アカウンタビリティ」というものだろう。「公共放送」を残すとすれば、なにか別の理由を考えた方がよいのではないか。


1. 公文俊平、『ネットワーク社会』、中央公論社、1988年。
2. 「ネティズン」は、韓国語にもなって、新しいパワーの担い手という意味で広く使われていて、ネティズンさまの怖さは、ジョークのたねにもなっているほどだそうだ。なお、その他に、20世紀のコミュニケーション・サービスの「消費者」たちに代わって、21世紀には、コミュニケーション・システムの「ユーザー」たちが主役の座を占めるようになったという言い方もある。
3.公文俊平、『情報文明論』(NTT出版、1994年)、第九章。
4. ピーター・モービル著、浅野紀予訳、『アンビエント・ファインダビリティ』(オライリー・ジャパン、2006年)。
5.訳文は、必ずしも訳書に従ってはいない。以下も同様。
6. 立法 (政)・行政 (官)・司法 (裁)・報道 (報)、あるいは政治 (政)・ 行政 (官)・経済 (財)・報道 (報) の4 者の権力が、四権と総称されている(ウィキペディア)。


プロフィール
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<くもん・しゅんぺい>
1935年高知県生まれ。68年、米インディアナ大学経済学部大学院よりPh.D取得(経済)。東京大学教授、国際大学教授などを経た後、グローコムの設立に自らかかわり奔走、93年、より第2代所長に就任。今日まで"智業"の先駆けを標榜する社会科学系の研究所として学際的研究活動や提言活動を進め、学のアカデミーとしてのグローコムを牽引してきた。その独自の文明史論的な切り口を交えた現代社会へのアプローチは"公文情報社会学"とも呼ばれ、その業績は世界的に名高い。わが国を代表する"知の巨人"の一人。04年4月より多摩大学情報社会学研究所所長。著書に「社会システム論」(日本経済新聞社)、「文明としてのイエ社会」(共著、中央公論社)、「情報文明論」、「情報社会学序説」(いずれもNTT出版)など多数ある。