« 2006年11月 | メイン | 2007年04月 »

2007年01月 アーカイブ

2007年01月11日

第21回: 韓国でグーグル(Google)が存在していないのはなぜか?

 濱野智史 (国際大学GLOCOM 研究員)

韓国におけるGoogleの不在

Googleが情報社会の命運を握る存在と目されているということは、枚挙に暇がない。IT系ニュースサイトでGoogle関連の記事を見ない日はなく、ブログを見れば次々とリリースされるGoogleの新製品についての噂やレビューで持ちきりである。また昨年出版されたジョン・バッテルの『ザ・サーチ』(日経BP社)を皮切りに、今年は梅田望夫の『ウェブ進化論』(ちくま新書)、佐々木俊尚の『グーグル Google』(文春新書)と、Google関連の書籍は相次いで出版されている。『ウェブ進化論』で紹介されている逸話に、「世界政府っていうものが仮にあるとして、そこで開発しなければならないはずのシステムは全部グーグルで作ろう」という言葉があるけれども、まさにGoogleは「地球智場」の中心的存在としてみなされている。

だがそのGoogleが、まったくといっていいほど存在感を発揮していない国がある。それは隣国の韓国のことだ。ここでIT界隈の事情に詳しい方であれば、こう指摘されるかもしれない。「実は日本でも、Googleは抜群でトップというわけじゃないんだよね」と。たしかに2006年5月時点主要ポータルサイトのページビュー・ランクによれば、GoogleのランクはYahoo Japan、楽天、mixiに続く4位につけている*1。また中国でも、一時期Googleは中国政府による言論統制の観点から、中国国内でのサービス提供に制限をかけられていたこともあってか(現在は中国政府の規制を受け入れるかたちでサービスを開始している)、「百度(Baidu)」という中国ローカルの検索エンジンがシェアトップを占めている。とりわけ東アジア諸国において、Googleはそれほど他を圧倒するほどの存在感を誇っているわけではないのである。  それにしても、韓国におけるGoogleの「不在感」は群を抜いている。韓国検索ポータルのページビュー・ランクを見てみると、驚くべきことに、Google Koreaはそもそも総計13位のランキングにすら上ってきていないない。これはどういうことなのだろうか。これまで韓国といえば、いち早くブロードバンド・インフラの普及を達成した情報化先進国として注目されてきた。その韓国において、なぜGoogleは受容されていないのか。本稿では、このいささか逆説的な事実に注目してみたいと思う。

韓国ブロードバンド化と検索エンジン「Naver」の成功

なぜ韓国ではGoogleが成功していないのか。その理由について、韓国を代表する著名なIT評論家キム・ジュンテ氏の分析を紹介してみたいと思う。それは一言でいえば、「韓国では情報化がいち早く進んだがゆえに、Googleは成功しなかった」というものなのである。

日本でもよく知られているように、韓国では政府の情報化推進政策によって、早い時期からブロードバンド通信網の普及に成功したという経緯がある。さらにキム氏が注意を促すのは、もともと韓国ではパソコンの普及率も高く、2000年1月の段階で、約500万から600万人のパソコン通信ユーザーが存在していたという事実だ。だが、2000年末には一挙に360万世帯が高速通信網の利用者となり、さらに2002年にはこの数字が1000万世帯を超えることになった*2。韓国の人口が約4500万人であることを考えると、この急速なブロードバンド環境の浸透は、ほぼすべての世代が大量にネットワークに参入したことを意味している。すなわち韓国のブロードバンド化とは、若者中心であったパソコン通信ユーザーに加えて、相対的にITリテラシーの少ない層(子供から高齢者まで)の利用者が急増した点に、その特徴があるといえる。

こうした状況を受けて、韓国のポータル各社は、大量に増加したITリテラシーの低いユーザーを対象に、学習不要で便利なサービスと、画像や動画を中心としたコンテンツ(芸能ニュースなど)を次々と提供するようになった。しかし、当然ながら、動画や写真といったコンテンツは、そのままではテキストで検索することはできない。また動画間のハイパーリンクなどは基本的に存在しないため、GoogleのPageRankのような検索アルゴリズムは有効に機能しない。そこで現在の韓国検索市場のトップシェアである「Naver(ネイバー)」は、初心者のための検索サービスとして、「知識iN」というユーザー間のQ&Aコミュニティサービスを提供することになった。

これが「初心者向けの検索」というのはどういうことか。たとえば「ワールドカップでジダン選手が頭突きをしたシーンの動画ニュースが観たい」という人がいたとしよう。これは有名なシーンなので、初心者であっても目的の動画にたどり着くことはできるだろう。しかし、「ジダンに頭突きをされたマテラッツィが、イタリア本国で退場させられたシーン」となると、これは(初心者でなくとも)見つけるのに苦労するはずだ。そもそもその試合がいつ行われたのか、どこと対戦したのか、検索の鍵となる情報がそもそもわからない以上、検索条件を絞りにくいからだ。そこでQ&Aコミュニティサービスは、わざわざ機械的に検索をするのではなく、「どなたかジダンに頭突きをされたマテラッツィのイタリア本国で退場させられたシーンを教えてください」というように、サッカーに詳しいネット上の誰かに直接聞いてしまおう、という仕組みを提供するのである。ちなみに日本の類似したサービスとして、「人力検索はてな」などが挙げられるが、「人力検索」とはまさに的確にこのサービスの特徴を表現しているものといえるだろう。

まとめよう。韓国ではブロードバンドが急速に普及したことで、初心者ユーザーと同時に動画などのコンテンツが増大した。その結果、Googleのような検索アルゴリズムは使い物にならず、初心者向けの検索サービスであるNaverのQ&Aコミュニティが大きく利用者を伸ばした。つまり、Googleは韓国情報社会という環境には適さず、独自進化したNaverが大いに受け入れられたというわけである。

以上の説明から、なぜ韓国でGoogleが受容されることがなかったのか、その背景を理解することができたかと思う。それでは次に、Naverを頂点にして形成される韓国インターネットの姿を概観してみることにしよう。

韓国検索ポータルに見る「垂直統合」現象

引き続きキム氏の議論に耳を傾けてみると、どうやら韓国のインターネットは、「Web 2.0」と呼ばれる動向に逆行しているとのことである。これはどういうことか。キム氏によれば、Naver(韓国第一位ポータル)やdaum(韓国第二位ポータル)といった韓国のポータル各社は、自サイト内のコンテンツを「独占」する傾向にあるという。ここで独占というのは、検索可能な領域を囲い込んでいるという事態を指している。たとえばGoogleでNaver内のコンテンツを検索しようとしても、検索結果にヒットしない。百聞は一見に如かず。興味のある方は、Googleの検索フォームに「site:blog.naver.com XXX(適当なキーワード)」と入れてなにか検索をしてみてほしい。これは「blog.naver.com(Naver ブログ)以下のウェブページを検索する」という意味なのだが、検索結果は驚くほど少ないことがわかるはずだ。

もちろん「独占」といっても、これは「robots.txt」という検索エンジンロボットの巡回を拒否するファイルを設置しているに過ぎない*3。robots.txtというのは、いわば「紳士的協定」であって(検索エンジンに対して「立ち入り禁止」をお願いする立て札のようなものだ)、Naver内のコンテンツにリンクをしたりすることはできる。しかし、検索エンジンからアクセスできないということは、それは現実的には「存在しない」ということに等しい。ともあれ、これでは韓国でGoogleがほとんど利用されていないという現状もやむなしであろう。

またNaverには、その検索結果がほとんどNaver内部で完結するという特徴がある。まずNaverの検索結果の一番上には、さきほど触れた「知識iN」の検索結果が表示される。その次に「Naver ブログ」「Naver Cafe」(掲示板)「Naver 動画」といった検索結果が続く。いわゆる通常のウェブの検索結果にあたるもの、つまりNaverの外側の検索結果は、ようやく最後に表示されるのである。つまり、Naverで検索をするということは、インターネット全体を検索するのではなく、Naverの内側を検索することに等しいのだ。

このように、韓国検索ポータルは、自サイト内にあらゆるコンテンツを抱え込み、他の検索エンジンを自サイト内のコンテンツから排除しつつ、さらにユーザーをポータル内部に留めて離さないような仕組みを構築しているのである。比喩的にいえば、韓国のインターネットは「検索」から「検索対象」に至るまで垂直的に統合されている状態にあるといえよう。

それにしても、なぜゆえ韓国ポータルはこうした垂直統合の状態に至ったのだろうか。キム氏は韓国検索ポータルに対し、インターネットの「情報のオープンな共有」という理念、ひいては「Web 2.0」という動向に逆行していると批判しているのだが*4、このキム氏の見解に同感する方も多いだろう。というのも、私たちはインターネットにある種の「定説」を抱いており、Naverの事例はそこから顕著に外れているように感じられるからだ。その定説とは、「インターネット上では情報は自由にやり取りされるべきだ」という慣習的理解のことであり、これを経済学的に洗練するといわゆる「マスメディアは垂直統合・インターネットは水平分離」という図式になる。いわゆる「通信と放送の融合」をめぐる議論では、次のようなシナリオが語られている:これまでマスメディアの時代においては、伝送技術や媒体(テレビ・ラジオなら電波)の部分の「希少性(独占性)」によって、メディア(ハード)とコンテンツ(ソフト)は垂直的に統合されてきた。しかしインターネットやデジタル技術は、すべてのコンテンツをデジタル化し、IPネットワーク上で一元的かつ低コストで伝送することを可能にする。このインターネットによって、いまこそメディアとコンテンツの垂直的統合関係を分離(アンバンドル)し、より水平的で自由な競争環境の出現に期待するときなのである、と。

しかし、Naverのケースを理解する上で重要なのは、このインターネットの出現によって「希少性」そのものがなくなるわけではないということだ。かつて経営学者の國領二郎は、情報化によって、希少性は媒体に宿るのではなく、人々の認知能力や情報処理能力の側面に移り変わるだろうと指摘した*5。たしかにインターネットは伝送経路の部分における希少性(独占性)を希薄化する。その結果大量のコンテンツ(情報)がやり取りされるようになると、人々は大量の情報選択の機会にさらされるようになる。すると人々は、いわゆる情報の海に溺れた状態に陥り、かえって自由な情報選択をすることができなくなってしまう。そこで出番になるのが検索エンジンである。検索エンジンは、情報の取捨選択を肩代わりすることによって、「認知限界」という新たな希少性を掴み取る。情報社会において、GoogleやNaverをはじめとする検索エンジンが重要な位置を占めてくるのは、このようなロジックによるのである。

マスメディア化する韓国検索ポータル

マスメディアとは異なる希少性を掴み取った検索ポータルは、いまや韓国における「新たなマスメディア」とでもいうべき存在になった。Naverニュースやdaumニュースは、いまや韓国で最も読まれる新聞だといわれており、その一週間あたりのユニークアクセス数は1000万に及ぶという。ポータルは、各新聞社などから記事コンテンツを購入することでニュース欄を充実させており、「ポータルさえ見ればあらゆる新聞の記事が見られる」とあって大量の読者を集めているようだ。こうしてアクセス数で韓国の各新聞社を大きく上回るようになった韓国ポータルは、購読数の減少によって収益源を脅かされた新聞社から、完全にメディアとしての主導権を奪い取ってしまった。これは裏を返せば、新聞社はポータルに記事を販売提供する「通信社」の地位に繰り下がってしまったということだ。まさにネットによって新聞が「殺された」とでもいうべきか。

単に多くの読者を獲得しただけではない。韓国ポータルの社会的な成長は、「犬糞女事件」と呼ばれる、2005年に韓国社会を騒然とさせた事件にまつわるエピソードからも窺い知ることができる。まず、犬糞女事件の顛末を簡単に紹介しておこう:ある日地下鉄の電車内で、とある女性がペットの糞を始末せずに放置して電車を降りた。その一部始終はたまたま携帯機器でビデオ撮影されており、これがネット上にアップされた。この女性の不道徳ぶりに憤慨したネティズンたちは、いわば「魔女狩り」のごとく、ネット上で情報交換を交わしあって、その女性の個人情報を白日の下にさらけ出してしまった。この事件は、インターネットが市民の市民による「監視と私刑」の装置にも転化しうるという意味で、韓国社会はもちろん、英語圏からの注目も集めた。

こうした魔女狩りの作業を中心的に担ったのは、「dcinside」と呼ばれる画像掲示板サイトのユーザーたちだったといわれている。dcinsideはいわば日本の「2ちゃんねる」に相当する韓国の巨大掲示板と呼べるサイトで、実際日本の2ちゃんねるでも、「犬糞女」のような事件は頻繁に起こっている。さて、ここで想像してみてほしいのだが、日本でこうした事件が社会的論議の的になったとすれば、おそらく「2ちゃんねるという匿名空間が、無責任で非道徳的な行為を助長している」という支配的な論調になることは間違いないと思われる。しかし、韓国はそうではなかったのである。むしろ非難の矛先を向けられたのは、2ちゃんねる的存在のdcinsideで(、)は(、)なく(、、)、Naverなどのポータルだったという。つまり、ポータルはこの魔女狩り騒動において、その存在を社会に広く公知するというかたちで「火に油を注いでしまった」のであり、その責任を負うべきだというのが韓国社会の認識なのだ。ここでは、日韓どちらの認識が正しいのかという問題はあまり重要ではない。この事実が示しているのは、いまや韓国ポータルが、事件を社会に広く知らしめる影響力――メディア研究の言葉を使えば「アジェンダ・セッティング(議題設定)」の力――を持ち始めているということではないだろうか。

韓国社会は「遅れている」のか?

まとめよう。韓国における「ポータル強大化」という状況は、筆者の考えでは、「インターネットがマスメディアを凌駕した」と理解するのではなく、むしろ「ポータルが新たなマスメディアとなった」と理解するほうが正確ではないかと思われる。経済学的には、韓国ポータルは認知限界という新たな希少性を捕らえ、ある種の垂直統合的な形態を取っているということ。メディア論的には、韓国社会に対するアジェンダ・セッティングの力を持つまでになったということ。経済学的、メディア論的という二つの特徴から見たとき、Naverはむしろマスメディアの延長として捉えるほうが自然なのである。

しかし、だからといって、韓国情報社会を「古臭くて、後進的なもの」とみなすことはできないことは強調しておくべきだろう。「韓国ではブロードバンド化が早急に達成されたために、かえって韓国ローカルの検索エンジンはマスメディア化した」という逆説を裏返してみれば、とりわけ米国を中心にGoogleが成功した理由も逆照射されてくる。というのもブロードバンド・インフラの整備で遅れを取った米国では、ブログをはじめとする「テキストを中心としたネット文化」が隆盛(、、)せざる(、、、)を(、)得ず(、、)、それゆえにこそGoogleのようなテキスト対象の検索エンジンが利用者を多く集めたといえる。いいかえれば、いま私たちが当然視するGoogleを中心とした情報社会の姿とは、ある種の歴史的偶然の産物に過ぎず、地球智場に向けた「唯一普遍の経路」では決してないのである。韓国情報社会をめぐるケーススタディは、こうしたある種当然だが忘れがちな事実に気づく機会を与えてくれるといっていいだろう。



*1 ネットレイティングス調べ。国内の家庭用PCからの総ページビューの調査に基づく。参照した記事は以下。「mixiのページビュー、Yahoo!・楽天に次ぐ3位に」(ITMedia, 2006年06月28日, .)

*2 データは韓国情報通信部の調査による。本書が参考にしたのは以下の文献である。廉宗淳、『「電子政府」実現へのシナリオ―「ネット先進国」韓国に学ぶ』、時事通信出版局、2004年.

*3 興味のある方は、「http://blog.naver.com/robots.txt」などとブラウザのURLフォームに打ち込んでみると、その存在を確かめることができる。

*4 さらにキム氏はNaverのWeb 2.0に対する不適応の例として、「知識iN」に関するAPI機能を公開するものの非商用利用に限定されている点を挙げている。

*5 國領二郎『オープン・アーキテクチャ戦略』(ダイヤモンド社、1999年)

プロフィール
satoshihamano.jpg

<くはまの・さとし>
1980年千葉県生まれ。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了(政策・メディア)。2005年より現職。研究領域・専攻・関心は、①情報社会論の理論構築。②ブログ・SNS・P2Pといったソーシャルウェア(ネットコミュニティ)の動向分析。情報技術から文化に及ぶ、情報社会論の学際的なアプローチを模索中。

第22回: 民営化の「あだ花」、ブラジルの無料ISP

 上村圭介 (国際大学GLOCOM 主任研究員)

はじめに

ブラジルと言えばサッカー大国である。今年夏のワールドカップでブラジルは惜しまれる間もなくトーナメントを去ったが、ちょうどその頃、筆者は同僚と一緒にワールドカップの熱狂に包まれるブラジルを訪問した。開催地はドイツであったので、ブラジル人はテレビなどで試合を観ていたのにすぎないが、現地は「サッカー大国」という決まり文句では形容し難いほどの熱狂に包まれていた。筆者たちも「ブラジル戦があるから」という理由で、あるアポイントを断られてしまった。今後ワールドカップの時期にブラジルに調査に行かれる際には試合日程に十分留意されることをお勧めする。

ところで、ブラジルのインターネットではしばらく前から面白い現象が起こっている。それが今回ご紹介する無料ISPである。無料ISPとはその名の通り、無料で利用できるISPのことである。これらのISPは、利用者から加入料も利用料も一切徴収しない。なぜそういうことが可能なのだろうか、本稿ではその背景について迫ってみる。

ブラジルの情報通信

このようなブラジルの情報通信の普及状況はどのようなものだろうか。図1は2001年から2005年の5年間の固定電話、携帯電話、インターネットのそれぞれの加入数の変化を示したものである。固定電話の加入数はこの5年間では13パーセント程度しか増えていないが、携帯電話は200パーセントの増加、約3倍に拡大している。2002年には加入数では携帯電話を固定電話が上回っていたが、2003年にはその関係が逆転した。携帯電話の加入数はその後も急増し、現在では携帯電話の加入数は8,621万となっており、ブラジルの人口の約半数にまで普及している計算である。

ブロードバンドについてはどうだろうか。ブラジルの調査会社E-Consultingによると、ブラジルのブロードバンド普及数は、2006年末で410万人に達すると見られている*1。これは1億8,000万のブラジルの人口の2.3パーセントだが、インターネット利用者全体に占める割合は約13パーセントにすぎない。

一方、収益を比較すると、インターネット事業の収益全体の75パーセントが13億ドルがブロードバンド・サービスからもたらされているという。残り25パーセントの「ブロードバンド以外」の利用者からの収益が極めて少ないというのはどういうことだろうか。「ブロードバンド以外」の利用者には、職場や学校だけでインターネットに接する利用者や、途上国で見られるテレセンターからの利用者も含まれるとしても少ないように思える。

いま風に言えば「ロングテールの法則」ということになるのかもしれないが、実は、ここにはブラジルのISP業界の特殊事情も絡んでいるらしい。というのも、ブラジルの多くのISPはダイアル・アップを無料で提供しているのである。したがって、ブラジルのインターネット利用者の90割近くを占めると思われるナローバンド利用者は、ほとんど料金を払わずに(といってもダイアル・アップの通話料は負担するが)インターネットを利用できてしまう。中には料金を払わずにすむどころか、利用実績に応じてキャッシュ・バックを受けられるところさえある。

図1 固定電話・携帯電話・インターネットの利用者数

無料ISPの出現とその浮沈

無料ISPという発想自体はブラジルに限られたものではない。思い返せば、日本でもアメリカにも、利用者が料金を払わずに利用できる無料のダイアル・アップ接続サービスがあった。代表的なところでは、1996年4月にアスキーインターネットフリーウェイ(AIF)が利用料無料のサービスを開始した。その後、1998年8月に当時のライブドアが無料ISPサービスの提供を開始した。しかしどちらも長くは続かず、ところが、AIFは1997年12月にサービスを終了し、ライブドアも2002年10月に経営破綻し、事業を当時のオン・ザ・エッジ(現在のライブドア)に譲渡した。その新ライブドアも2005年には無料ISPサービスを終了することになった。

ブラジルにおける最初の無料ISPは、1999年12月にブラジル最大の銀行Bradescoが同社の顧客向けに提供したのが最初だと言われるが、専業ISPとしては、2000年1月に無料サービスを開始したiGが最初である。その後、時をほぼ同じくして他のISPも同様の無料サービスを開始したがiGの無料サービスはひと足早くブラジルのインターネット利用者に浸透し、無料サービス開始10か月でユーザ・シェアで業界最大手の地位を築いた*2

しかし、ブラジルでもこの時期の無料ISPサービスは長続きしなかった。iGに続いて無料サービスを開始したSuper11は、1,000万ドルの投資を受け事業を開始し、iGに次ぐ数の利用者を集めたたものの、2000年9月には早々と事業から撤退してしまった。その他の無料ISP事業者も同様に、利用者数の獲得に失敗し、収益が上がらないと見るや早々に撤退してしまった。2001年までにはほとんどの無料ISPの姿は消えてしまった。

それが現在、再び無料ISPブームが加熱しているのである。代表的な無料ISPとしては、Oi Internet、iG、iBest、Pop、iTelefonica、Click 21、Inteligweb、Orolixなどがある。また、Yahoo!Brasilなど、国内の主要ポータルも「無料」をうたい文句にしたISPサービスを提供している。

中でも異色なのはOrolixである(図2)。Orolixは会員に対してISPサービスを無料で提供するだけでなく、現金と交換可能なポイントを利用実績に応じて付与している。電話の通話料が格安になる夜間・休日料金時間帯に1日1時間使用した場合、会員には月に7.20レアル(約350円)相当のポイントが付く。また、日中料金時間帯であれば14.40レアル(約700円)相当のポイントが付く。日中時間帯は通話料が従量制でカウントされるため、1日1時間の通話を30日にわたって行なうと57.00レアル(約3,000円)の通話料が発生するが、夜間・休日料金時間帯なら、1通話あたり0.15レアル(約7.5円)で何時間でも通話できるため30日でも4.50レアル(約225円)で済む。

こうして、会員は無料ISPを使うだけで毎月1.70レアルを手に入れることになる。1日1時間程度では大したポイントにはならないが、接続時間に応じてポイントが加算されるため、長く使えば使うほどポイントを稼ぐことができる。また、会員本人がISPサービスを利用した場合だけでなく、その会員の紹介でOrolixに入会した会員が同社のサービスを利用した場合にも、その時間に応じたポイントが付与される。

図2 Orolixのウェブ・サイト

無料ISPの新たな収益源

日本でもブラジルでも、初期の無料ISPは広告収入やオンライン販売の手数料を収益の中心に据えていた。ブラジルの最大手無料ISPであるiGの場合には、広告による収益に加えて、同社のショッピング・サイトでの販売手数料やブランド料を収益の柱として位置づけていた。2000年5月に同社が手始めに手がけた生花販売のiGFloresは、販売数だけでみれば当時ブラジルで最大の花屋となったという。その他、iGブランドによるピザの宅配や携帯電話販売にも乗り出した。

しかし、このような収益をベースにISPのサービスを無料で提供するというモデルによる経営は長続きせず、日本やアメリカでは無料ISPは姿を消して行った。それでは、ブラジルの無料ISPはなぜ今でも生き残っているのだろうか。実は、そこには電気通信の民営化と規制緩和のすき間に生まれたからくりがある。

ブラジルでは1998年まで、電気通信事業は、政府がコントロールする持株会社Telebrásを通じた独占事業だった。1998年7月に電気通信事業の民営化が実施され、政府はTelebrás傘下の電話会社を三つの地域電話会社と一つの長距離・国際電話会社の再編と株式の売却を行なった。また、新規事業者(「ミラー会社」と呼ばれる)が参入し、市場競争を開始した。民営化に際して、電話会社間の相互接続が義務化され、発信側の電話会社が着信側の電話会社に対して相互接続料を支払うというルールが導入された。

このルールの下では、二つの事業者(大抵は旧Telebrás系事業者とミラー会社)が相互接続する際、両者は相互接続点までの回線コストを按分するほか、発信側の事業者から受信側の事業者へのトラフィックの量に応じて相互接続料を精算する。簡単に言えば「より多く電話をかけた側の電話会社が相手方の電話会社に対して相互接続料を支払う」ということである。

じつは無料ISPのからくりはこの相互接続制度と関係がある。競争が始まったといっても、旧Telebrás系電話会社とミラー会社では加入者の数に圧倒的な差がある。国内の電話加入者の圧倒的多数は旧Telebrás系電話会社に加入している。一方「利用料無料」をうたうISPの多くはミラー会社の顧客である。したがって、無料ISPの利用者のほとんどは旧Telebrás系電話会社からミラー会社にあるISPのアクセス・ポイントに電話をかけることになる。その結果、旧Telebrás系電話会社はミラー会社に対して相互接続料を支払わなければならない。ISPを利用する際の通話は長時間にわたるため、旧Telebrás系電話会社からミラー会社へのトラフィックは一層不均衡な状況になる。

結局、ミラー会社は旧Telebrás系電話会社から多額の相互接続料を受け取ることになり、無料ISPにはミラー会社が受け取る相互接続料の一部が還流するという構図になっている。そして、無料ISPは還流した相互接続料を元手にISP事業を運営するわけである。先ほど紹介したOrolixの場合には、現在の収益の99パーセントが相互接続料からの還流だという。

じつは、このような歪んだ相互接続料の実態はブラジルに限られたことではなく、アメリカや他の国にも見られたものである。日本でも状況は異なるが、無料ISPがNTT以外の事業者のネットワークにダイアル・アップのアクセス・ポイントをおき、利用者が払うアクセス・ポイントへの通話料の一部を受け取っていたケースがある。しかし、ブラジルの場合、設定された事業者間の相互接続料が他国と比較しても高額で、それが無料ISPの出現を促している。

このような無料ISPが成立する背景にはもう一つのトリックがある。旧Telebrás系電話会社には全国一律にサービスを提供する義務とあわせて、深夜・休日時間帯割引の設定が義務づけられている。深夜・休日時間帯では、市内通話は時間単位課金ではなくて通話単位課金とされ、1度かけたら深夜・休日時間帯である限り何分話しても料金は一定である。しかし、相互接続料の精算は通常通り時間単位で行なわれる。トラフィックはさらに不均衡になり、ミラー会社にはさらに多くの相互接続料がもたらされる。旧Telebrás系電話会社にしてみれば、加入者から市内通話料金を取ることができないばかりか、ミラー会社への多額の相互接続料を支払わなければならないことになっているのである。

無料ISPの将来

旧Telebrás系電話会社もミラー会社に相互接続料を掠めとられているばかりではない。今では旧Telebrás系電話会社も無料ISPを買収するなど、無料ISPを取り込み始めている。今では電話会社と無料ISPの多くが資本関係をもっている。そうすることで他社に流れるトラフィックを少しでも減らし、相互接続料の精算額を圧縮するのに役立つからである。

このような形で無料ISPが維持されることは、電話会社間の競争を歪める結果となる。政府も一時期は電話会社とISPの間の利益共有の禁止や、相互接続制度の見直しについての検討を行った。しかし、相互接続制度の矛盾は、携帯電話会社と地域電話会社の間の料金設定においても見られることや、相互接続制度を逆用しているのは無料ISP以外にもコール・センターや音声情報サービスなどがあり、その影響が無料ISPだけにとどまらないなど、業界の反発もあり、結局は無料ISPについての規制は行なわれなかった。

現在では旧Telebrás系電話会社とミラー会社の両方に無料ISPが設置され、一時期見られたような極端なトラフィックの偏りがなくなったため、この問題は解消したというのが政府の立場である。このような歪んだ競争は望ましいことではないが、言わば政府も黙認する状態が続いている。

そもそも無料ISPはダイアル・アップ時代の「あだ花」である。無料ISPで相互接続制度があってこそ成立するモデルであって、ブロードバンド接続が主流になれば、この問題はいずれ解消されるか、少なくとも無視できる範囲のレベルにまで収斂するはずである。

無料ISP側も、いつまでも相互接続料の「おこぼれ」に預かろうと考えているわけではない。先ほど紹介したOrolixは、無料ISPの会員紹介制度を活かしたSNS型の会員コミュニティを形成し、コンテンツ投稿サイトなどの消費者生成型サービスを提供し始めようとしている。Orolixの狙いは無料ISPではなく、ユーザがインタラクションするためのプラットフォームを提供することであると同社のCEOであるNagib Mimassiは筆者に述べた。

このような動きを見ていると、無料ISPは今でこそ「あだ花」であるが、近い将来には、SNSとの連動など、新しいサービスの発信源となるという期待がもてそうである。

*1 "Brazil Broadband Users To Hit 4.1 Mln End-2006", Latin America News Digest(2006年8月1日付)

*2 Salesmen in Cyberspace - Latin America's E-commerce.

プロフィール
kmmr <かみむら・けいすけ> 1972年生まれ。97年大阪大学大学院文学研究科博士前期過程終了。同年より国際大学グローバルコミュニケーションセンター(GLOCOM)に勤務、主任研究員。これまで、マルチメディア・マークアップ言語に関する標準化、インターネット・アプリケーションの分析、ブロードバンドの普及動向・政策に関する調査、ネット・コミュニティに関する調査研究、ソフトウェア・プログラムの多言語化の社会言語学的分析などに従事。共著書に「ブロードバンド国家戦略」(NTT出版、2003年)、「デジタル・ツナガリ」(NTT出版、2004年)、「クリエイティブ・コモンズ デジタル時代の知的財産権」(NTT出版、2005年)などがある



第23回: ケータイが侵食するインターネット~異なる文化の邂逅によって生じるトラブルへの対処を~

 鈴木謙介 (国際大学GLOCOM 助手・研究員)

軽視される「ユーザーの情報」

インターネットが、再び注目を集めている。主として米国で影響の強かった「ネットバブル」以来、数年ぶりに、ネットの光と影が話題になっているのだ。その詳しい内容は、本稿のテーマではないので触れないが、簡単に言うならば、「光」とは「新たなビジネスの可能性」であり、「影」とは「新たな社会問題の登場」ということになるだろう。その意味で、光の面と影の面は、必ずしも互いに対応関係を結んでいるわけではない。

だがもちろん、新しいビジネスに、まったく影が差していないということはない。特に最近で言えば、ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)の最大手、「mixi」を巡る問題が、マスコミをも巻き込んだ形で浮上しつつある。

その内のいくつかは、「プライバシー」に関わる重要な問題を提起している。たとえば2005年の春には、変死事件の被害者となった女性のmixi日記がテレビなどで報道された。むろん女性はその時点で既に亡くなっているので、日記の「公開」が、彼女の意に沿うものであるかどうかは確認されていないはずだ。他にも、mixi日記の記述が2ちゃんねるなどに転載され、当該ユーザーが「炎上」したとか、P2Pで流出した情報を元にmixiのアカウントが検索され、出身高校などの個人情報が「晒し」を受けた、などの事例がある。

こうした「mixi経由でのプライバシー情報流出」に対しては、おおむね二通りの反応があるようだ。ひとつは、ネットでの流行を「ネタ元」として安易に流用するマスコミへの批判。もうひとつは、不用意に個人情報をネットに掲載するユーザーの「リテラシーの低さ」や「危機意識の欠如」に問題があるとするものだ。

前者については、私自身も他の場所で何度か批判してきた。ただし、ネットから「ネタ漁り」をするマスコミだけが責められるものでもあるまい。この件については、およそ二つの要因を指摘できるだろう。まず、ユーザーの情報を預かるサービス提供側が、規約その他を通じて、サービス内のコンテンツをどのように利用するかについてのガイドライン等を定めていないことは重要だ。

というのも、CGM(Consumer Generated Media)という概念が暗に示しているとおり、サービス事業者にとってユーザーがやりとりする全ての情報は、ユーザーのものであると同時に、事業者にとっては、自信のサービスのブランドを左右する、重要な属性なのである。その情報の二次利用、特に他の事業者がそれを商用利用する際の規約やガイドラインが明確にされていないのであれば、それはサービスブランド全体を大きく左右する要素のコントロール権を、事業者が事実上放棄していることになるはずだ。

この点について興味深いのは、「2ちゃんねる」における同様の事例への対処だろう。『2ちゃんねるで学ぶ著作権』(牧野和夫、西村博之著、アスキー、2006年)という本がある。同書は、著作権についての解説書として読むこともできるが、むしろ私が注目したのは、2ちゃんねるがかなり早い段階から、その中に書き込まれた情報のコントロール権を保持するために多様な取り組みをしていたことが読み取れる点だ。その意味で同書は、CGM時代に、事業者がいかにして自らのコンテンツをコントロールするかという点に関する有益なビジネスケースでもあるのだ。ブログなども含め、マスコミによる「ネット情報の二次利用」が相次いでいるのは、事業者が、ユーザーの発信する情報の価値を「舐めている」ことの現れと言ってもいい。

もう一つの要因は、マスコミ側の理屈に関わる。知人の記者によると、ここ数年で、マスメディアが何らかの情報を報じる際には、事前に必ずGoogleで検索することが定着しているという。これは法律用語で言うところの「公知の事実」、すなわち誰でも知っている事実を確認する手段が、ネットになっているということなのだが、この理屈に従うならば、mixiで「全体に公開」されている情報は、事実上の「公知の事実」であるということになり、SNS内部の情報であっても、報道可能であるということになってしまう(ただし、名誉毀損については「公知の事実」であっても成立するようだ)。

以上のような点から、私は、ネット経由の個人情報流出や、マスコミによる「報道被害」について、それを全て「リテラシーや危機意識の足りない個人の責任」に帰することは妥当ではないと考えている。むろん現状のサービスに存在するリスクを認識した上で、ユーザーに広く危機管理意識を啓蒙することは求められてよいが、「ネタ元」にされたサービス事業者の対応も必要になるところであろう。ユーザーにリスク認識を求めるだけでは、ユーザー側の過剰負担が避けられなくなり、結果としてサービスの価値を著しく減じることになるからだ。

ケータイ文化のネットへの侵食

このことは、ネットワークサービス、なかんずくSNSのようなものに対するニーズの実質を読み解くことの必要性を示唆している。既に述べたとおり、ネット経由の個人情報流出については、「情報を掲載した個人に責任がある」とする自己責任論が一定の支持を得ている。私も(全ての事例に当てはまるものではないが)、こうした主張にはある程度同意する。その上であえて、次のように問うてみたい。

なぜ人びとは、自分の個人情報をわざわざSNS上に晒してしまうのだろう?

その要因はいくつか考えられるだろうが、ここでは以下のような仮説に絞って分析してみたい。すなわち、ネット上で個人情報を公開してコミュニケーションすることについて、これまでの「ネットの常識」が通用しない層が、ネットに参入してきたことで、ルールが変わり始めているのではないかというものだ。 特に私が注目したいのは、携帯電話からのネットアクセスだ。総務省の『平成18年版情報通信白書』は、インターネット利用者8529万人のうち、パソコンからアクセスしているユーザーは6601万人、携帯電話などの移動端末からの利用者は6923万人となり、はじめて移動端末からのユーザーがパソコンからのユーザーを上回ったと発表した。特に移動端末のみを利用しているユーザーは、全体の2割を超える1921万人にのぼるという。

このデータから結論を短絡することはできないが、少なくとも「ネット」と呼んでいる場所に、ケータイからアクセスする領域が、無視できない規模に広がっていることは確かだろう。そしてそのことは、同時に以下の二つの考えを導くことができる。すなわち、ひとくちに「ネット」と言っても、ケータイからしかアクセスすることのできないウェブサイトやサービスと、パソコンからアクセスするそれとの間に、技術やデザインのみならず、コミュニケーションの面でも大きな溝が存在するということ。そして、パソコンとケータイのどちらからもアクセスすることのできる領域において、二つの異なるコミュニケーション様式が邂逅することがあり得るということだ。

上記の二点は、いまのところあくまで経験的に導かれた仮説に過ぎない。だがそれが正しいとするならば、より重要になるのは後者の方だろう。たとえば、SNSのような「オンラインコミュニティ」について考える場合、それが、パソコン通信から掲示板、個人ページを通じて醸成されてきたものであるのか、ケータイ的なものの延長にあるのかという「ルーツの違い」によって、求められるあり方は大きく異なるのであり、それゆえ様々なバッティングが生じるのではないかと予想できるのだ。

特に私はここで、ケータイ的なノリが、いわゆるパソコンからアクセスすることを前提としている「ネット」に持ち込まれるケースについて考えてみたい。そこには、どのような価値やスタイルが侵入しているのだろう?

紙幅の関係から結論を先取りすれば、そこに存在するのは、「選択性の高い、ゆるやかに開かれた友人関係」だろう。ゆるやかに開かれているとはどういうことか。携帯電話を手にした若者たちの人間関係は、一方で、簡便な連絡手段を手に入れたことによって互いの関係を密にする機会を多く持つことができるようになった反面、それまでであれば連絡を取り合うこともなかったような相手とも「繋がり」を保持しておかなければならなくなった。こうした傾向が生じたのは近年のことであるが、その結果、彼らの中で「他人」とも「友達」とも異なる関係の領域、いわゆる「知り合い」と呼ばれるような人間関係の管理・維持が重要なタスクとなった。

むろん、「知り合い」と「友達」との関係は、必ずしも固定的な境界線を保っているわけではない。というよりも、「知り合い」として連絡先を交換した人どうしが、何かのきっかけで仲良くなるというプロセスを通じて「友達」になるというのが普通だろう。ただ、「知り合い」から「友達」への定義変更が、その境界線と同じくらい曖昧に行われるということは指摘しておく必要がある。つまり、たとえ「知り合い」であっても、相手との関係は、ある程度「友達」への可能性を含んだものや、「友達の友達」としての尊重を含んだものでなければならない。「知り合い」にならなければ、そして「知り合い」とうまくやっていかなければ、「友達」すら作ることができない以上、若者たちにとって人間関係の管理に関わる負荷は、かつてより重くなっていると見ることもできる。

対人関係を切り替えるケータイ文化

こうした人間関係の管理のために一般的に行われているのは、メールアドレスや電話番号の変更による「関係の整理」だろう。若者たちの間では、意外にも連絡先の変更というイベントが、彼らにとっての関係の「整理」を行うためのよい機会となっている。たとえば定期的にメールアドレスを変更することで、彼らは、「アドレスの変更を通知するか否か」を基準とした、人間関係の選別を行っている。電話番号の変更についても同様である。

このことが示唆するのは、携帯電話に相手の情報を登録する/しないということが、自分に対する相手の距離を決定するのに、重要な意味を持っているということだろう。じじつ彼らは、ことあるごとに携帯電話のアドレス帳を眺めては、しばらく連絡を取っていない相手、何かのきっかけで登録してしまったあまり親しくない相手をピックアップし、登録を解除することがあるという。それが進むと、複数の電話番号やメールアドレス(あるいは複数のSNSアカウント!)の「使い分け」という手段を用いる人も出てくる *。ここには「友達」や「知り合い」ですらない、赤の他人という関係すらも、携帯電話のアドレス帳に登録するか否かということで、コントロールしようとする彼らの志向が見えてくる。そのことを表現したのが以下の図1である。

図1 連絡手段の整理による関係性の選択

このとき重要になるのは、「他人」「知り合い」そして「友達」という関係の境界は、非常に緩やかで曖昧なものであるということだ。ここでそれを、本稿の主題であるSNSと絡めて考えるならば、日記やプロフィールを「友人(の友人)まで公開」にするか「全体に公開」にするかという選択は、まさにこの「ゆるやかさ」を担保するための重要な手段になりうる。言い換えれば、そこで要求されているのは、ある程度まで情報をオープンにしておくことによって、未来において友人になりうる人間を排除しないでおくということなのだろう。むろんそれは、その関係がケータイ的に「嫌になったら切ってしまえる」というコントロール性を持っている、という前提においてのみ通用するものなのであるが。この部分が、「選択制の高さ」という点に繋がっているといえよう。

ゆるやかな関係の広がり

ただし、ここで「選択」されている関係が、あくまで自分に近い、友達とも呼びうるものであることには注意が必要だろう。先ほど若者が「それまでであれば連絡を取り合うこともなかった相手とも『繋がり』を保持しておかなければならなくなった」と述べたが、では、知り合いや他人の中から、連絡手段の切り替えによって選択される友人以外との関係は、どのように維持されているのだろう。

興味深いのは、携帯電話用のメーリングリストの活用のされ方だろう。たとえば、大学生だと、サークルやゼミの情報を管理するのに携帯電話のメールだけでなく、携帯向けメーリングリストを活用することが多くなった。こうしたメーリングリストによる、ゆるやかな仲間内の形成は、どうやら「知り合い」程度の関係を継続・維持するのに、非常に役立っているようだ。

というのも、メーリングリストであれば、登録メンバーどうしで個人的に連絡先をやりとりするプロセスが省略されているため、お互いの間での心理的負荷が相対的に少なくなるからだ。「連絡先を交換する」という振る舞いは、互いの関係を接続するきっかけとして欠かせない要素だが、そのことはかえって、相手との心理的距離を縮めてしまう結果をもたらす。メーリングリストであれば、ある程度の距離を保ったまま、コミュニケーションを行うことができるわけだ。

むろん、こうした関係のゆるやかな関係の広がりを、携帯電話によって管理するというスタイル自体、あらゆるところで採用されているわけではないだろう。だがここから私たちは、ケータイ的なものがネットに侵食することの意味を読み解く可能性を得ることができるのではないか。おそらく、SNSのようなサービスも、ケータイと同じく、ゆるやかに「知り合い」や「他人」に開かれた連絡手段として認識されているのではないだろうか。私がインタビューしたある若者は、SNSに対して次のようなイメージを持っていると語った。「SNSが友達だけの連絡手段だっていうのは(年が)上の人の考えだと思う。プロフィールは公開しておいて、色んな人と知り合えるようにしておきたい。嫌な奴からメールが来るかもしれないけど、そんなのはスルー(無視)すればいいし。」

インターネットに何を求めるか

本稿で展開してきた議論は、仮説的ではあるが、「ネット上に個人情報を出すのは危険であり、無意味だ」という批判に反対するものだ。むろん私も、既に述べたようにそうした批判に基づき、ユーザーに個人情報の管理を求める啓蒙活動は、必要なことだと考えている。だが、そのことをもって、「ケータイ的なもの」に侵食されつつある現在のネットを、否定していいものだろうか。

私が述べてきたようなコミュニケーションスタイルは、安直に言ってしまえば「自分にとって都合のいいコミュニケーションや相手だけを選び取る」ようなものである。それを倫理的な立場から、あるいはこれまでの「ネットの常識」に則って、「ムシがよすぎる」と非難するのはたやすい。しかし考えてみればこれは同時に、現状においてまだ満たされていないニーズが、ユーザーの間に広く存在することを示唆するものである。だとすれば、このことが、「mixiのひとり勝ち」と言われている現在のSNS業界地図を塗り替える鍵にさえなると見ることができるのではないか。

「安心・安全」がインターネットに求められている、という決まり文句は、それが繰り返されるほどに、現在のネットの「危険・不安」を露わにしている。冒頭に述べたサービス事業者側の管理体制やマスメディアの姿勢も含め、ユーザーに対して、いたずらに「自己責任」を求めない形でのサービス展開が議論されてもいいはずだ。

* ただし、携帯電話による通話とメール通信では、「関係の切り替え」との関連性に相違があるという結果も報告されており、この記述についてのより詳細な整理は必要であろう。


プロフィール

鈴木謙介<すずき・けんすけ>国際大学GLOCOM助手・研究員。1976年福岡県に生まれる。東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。著書に「暴走するインターネット」(イースト・プレス)、「カーニヴァル化する社会」(講談社現代新書)、共著に「21世紀の現実(リ
アリティ)」(ミネルヴァ書房)、「地域情報化」(NTT出版)、「バックラッシュ!」(双風社)などがある。専攻は理論社会学。広く社会時評はもとより、最近ではネット文化や若者の内面についても社会学的な立場から積極的に発言、気鋭の若手研究者として注目を集めている。TBSラジオの「文化系トークラジオLife」(土曜日20:00~21:00)のメインパーソナリティとしてもただいま人気急上昇中。また、宮台真司氏の弟子としても知られている。

About 2007年01月

2007年01月にブログ「column」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2006年11月です。

次のアーカイブは2007年04月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。