HOME > COLUMN > chikyu_chijo > January 11, 2007

chikyu_chijo - January 11, 2007

第23回: ケータイが侵食するインターネット~異なる文化の邂逅によって生じるトラブルへの対処を~

January 11, 2007 [ chikyu_chijo ] このエントリーをはてなブックマークに追加

 鈴木謙介 (国際大学GLOCOM 助手・研究員)

軽視される「ユーザーの情報」

インターネットが、再び注目を集めている。主として米国で影響の強かった「ネットバブル」以来、数年ぶりに、ネットの光と影が話題になっているのだ。その詳しい内容は、本稿のテーマではないので触れないが、簡単に言うならば、「光」とは「新たなビジネスの可能性」であり、「影」とは「新たな社会問題の登場」ということになるだろう。その意味で、光の面と影の面は、必ずしも互いに対応関係を結んでいるわけではない。

だがもちろん、新しいビジネスに、まったく影が差していないということはない。特に最近で言えば、ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)の最大手、「mixi」を巡る問題が、マスコミをも巻き込んだ形で浮上しつつある。

その内のいくつかは、「プライバシー」に関わる重要な問題を提起している。たとえば2005年の春には、変死事件の被害者となった女性のmixi日記がテレビなどで報道された。むろん女性はその時点で既に亡くなっているので、日記の「公開」が、彼女の意に沿うものであるかどうかは確認されていないはずだ。他にも、mixi日記の記述が2ちゃんねるなどに転載され、当該ユーザーが「炎上」したとか、P2Pで流出した情報を元にmixiのアカウントが検索され、出身高校などの個人情報が「晒し」を受けた、などの事例がある。

こうした「mixi経由でのプライバシー情報流出」に対しては、おおむね二通りの反応があるようだ。ひとつは、ネットでの流行を「ネタ元」として安易に流用するマスコミへの批判。もうひとつは、不用意に個人情報をネットに掲載するユーザーの「リテラシーの低さ」や「危機意識の欠如」に問題があるとするものだ。

前者については、私自身も他の場所で何度か批判してきた。ただし、ネットから「ネタ漁り」をするマスコミだけが責められるものでもあるまい。この件については、およそ二つの要因を指摘できるだろう。まず、ユーザーの情報を預かるサービス提供側が、規約その他を通じて、サービス内のコンテンツをどのように利用するかについてのガイドライン等を定めていないことは重要だ。

というのも、CGM(Consumer Generated Media)という概念が暗に示しているとおり、サービス事業者にとってユーザーがやりとりする全ての情報は、ユーザーのものであると同時に、事業者にとっては、自信のサービスのブランドを左右する、重要な属性なのである。その情報の二次利用、特に他の事業者がそれを商用利用する際の規約やガイドラインが明確にされていないのであれば、それはサービスブランド全体を大きく左右する要素のコントロール権を、事業者が事実上放棄していることになるはずだ。

この点について興味深いのは、「2ちゃんねる」における同様の事例への対処だろう。『2ちゃんねるで学ぶ著作権』(牧野和夫、西村博之著、アスキー、2006年)という本がある。同書は、著作権についての解説書として読むこともできるが、むしろ私が注目したのは、2ちゃんねるがかなり早い段階から、その中に書き込まれた情報のコントロール権を保持するために多様な取り組みをしていたことが読み取れる点だ。その意味で同書は、CGM時代に、事業者がいかにして自らのコンテンツをコントロールするかという点に関する有益なビジネスケースでもあるのだ。ブログなども含め、マスコミによる「ネット情報の二次利用」が相次いでいるのは、事業者が、ユーザーの発信する情報の価値を「舐めている」ことの現れと言ってもいい。

もう一つの要因は、マスコミ側の理屈に関わる。知人の記者によると、ここ数年で、マスメディアが何らかの情報を報じる際には、事前に必ずGoogleで検索することが定着しているという。これは法律用語で言うところの「公知の事実」、すなわち誰でも知っている事実を確認する手段が、ネットになっているということなのだが、この理屈に従うならば、mixiで「全体に公開」されている情報は、事実上の「公知の事実」であるということになり、SNS内部の情報であっても、報道可能であるということになってしまう(ただし、名誉毀損については「公知の事実」であっても成立するようだ)。

以上のような点から、私は、ネット経由の個人情報流出や、マスコミによる「報道被害」について、それを全て「リテラシーや危機意識の足りない個人の責任」に帰することは妥当ではないと考えている。むろん現状のサービスに存在するリスクを認識した上で、ユーザーに広く危機管理意識を啓蒙することは求められてよいが、「ネタ元」にされたサービス事業者の対応も必要になるところであろう。ユーザーにリスク認識を求めるだけでは、ユーザー側の過剰負担が避けられなくなり、結果としてサービスの価値を著しく減じることになるからだ。

ケータイ文化のネットへの侵食

このことは、ネットワークサービス、なかんずくSNSのようなものに対するニーズの実質を読み解くことの必要性を示唆している。既に述べたとおり、ネット経由の個人情報流出については、「情報を掲載した個人に責任がある」とする自己責任論が一定の支持を得ている。私も(全ての事例に当てはまるものではないが)、こうした主張にはある程度同意する。その上であえて、次のように問うてみたい。

なぜ人びとは、自分の個人情報をわざわざSNS上に晒してしまうのだろう?

その要因はいくつか考えられるだろうが、ここでは以下のような仮説に絞って分析してみたい。すなわち、ネット上で個人情報を公開してコミュニケーションすることについて、これまでの「ネットの常識」が通用しない層が、ネットに参入してきたことで、ルールが変わり始めているのではないかというものだ。 特に私が注目したいのは、携帯電話からのネットアクセスだ。総務省の『平成18年版情報通信白書』は、インターネット利用者8529万人のうち、パソコンからアクセスしているユーザーは6601万人、携帯電話などの移動端末からの利用者は6923万人となり、はじめて移動端末からのユーザーがパソコンからのユーザーを上回ったと発表した。特に移動端末のみを利用しているユーザーは、全体の2割を超える1921万人にのぼるという。

このデータから結論を短絡することはできないが、少なくとも「ネット」と呼んでいる場所に、ケータイからアクセスする領域が、無視できない規模に広がっていることは確かだろう。そしてそのことは、同時に以下の二つの考えを導くことができる。すなわち、ひとくちに「ネット」と言っても、ケータイからしかアクセスすることのできないウェブサイトやサービスと、パソコンからアクセスするそれとの間に、技術やデザインのみならず、コミュニケーションの面でも大きな溝が存在するということ。そして、パソコンとケータイのどちらからもアクセスすることのできる領域において、二つの異なるコミュニケーション様式が邂逅することがあり得るということだ。

上記の二点は、いまのところあくまで経験的に導かれた仮説に過ぎない。だがそれが正しいとするならば、より重要になるのは後者の方だろう。たとえば、SNSのような「オンラインコミュニティ」について考える場合、それが、パソコン通信から掲示板、個人ページを通じて醸成されてきたものであるのか、ケータイ的なものの延長にあるのかという「ルーツの違い」によって、求められるあり方は大きく異なるのであり、それゆえ様々なバッティングが生じるのではないかと予想できるのだ。

特に私はここで、ケータイ的なノリが、いわゆるパソコンからアクセスすることを前提としている「ネット」に持ち込まれるケースについて考えてみたい。そこには、どのような価値やスタイルが侵入しているのだろう?

紙幅の関係から結論を先取りすれば、そこに存在するのは、「選択性の高い、ゆるやかに開かれた友人関係」だろう。ゆるやかに開かれているとはどういうことか。携帯電話を手にした若者たちの人間関係は、一方で、簡便な連絡手段を手に入れたことによって互いの関係を密にする機会を多く持つことができるようになった反面、それまでであれば連絡を取り合うこともなかったような相手とも「繋がり」を保持しておかなければならなくなった。こうした傾向が生じたのは近年のことであるが、その結果、彼らの中で「他人」とも「友達」とも異なる関係の領域、いわゆる「知り合い」と呼ばれるような人間関係の管理・維持が重要なタスクとなった。

むろん、「知り合い」と「友達」との関係は、必ずしも固定的な境界線を保っているわけではない。というよりも、「知り合い」として連絡先を交換した人どうしが、何かのきっかけで仲良くなるというプロセスを通じて「友達」になるというのが普通だろう。ただ、「知り合い」から「友達」への定義変更が、その境界線と同じくらい曖昧に行われるということは指摘しておく必要がある。つまり、たとえ「知り合い」であっても、相手との関係は、ある程度「友達」への可能性を含んだものや、「友達の友達」としての尊重を含んだものでなければならない。「知り合い」にならなければ、そして「知り合い」とうまくやっていかなければ、「友達」すら作ることができない以上、若者たちにとって人間関係の管理に関わる負荷は、かつてより重くなっていると見ることもできる。

対人関係を切り替えるケータイ文化

こうした人間関係の管理のために一般的に行われているのは、メールアドレスや電話番号の変更による「関係の整理」だろう。若者たちの間では、意外にも連絡先の変更というイベントが、彼らにとっての関係の「整理」を行うためのよい機会となっている。たとえば定期的にメールアドレスを変更することで、彼らは、「アドレスの変更を通知するか否か」を基準とした、人間関係の選別を行っている。電話番号の変更についても同様である。

このことが示唆するのは、携帯電話に相手の情報を登録する/しないということが、自分に対する相手の距離を決定するのに、重要な意味を持っているということだろう。じじつ彼らは、ことあるごとに携帯電話のアドレス帳を眺めては、しばらく連絡を取っていない相手、何かのきっかけで登録してしまったあまり親しくない相手をピックアップし、登録を解除することがあるという。それが進むと、複数の電話番号やメールアドレス(あるいは複数のSNSアカウント!)の「使い分け」という手段を用いる人も出てくる *。ここには「友達」や「知り合い」ですらない、赤の他人という関係すらも、携帯電話のアドレス帳に登録するか否かということで、コントロールしようとする彼らの志向が見えてくる。そのことを表現したのが以下の図1である。

図1 連絡手段の整理による関係性の選択

このとき重要になるのは、「他人」「知り合い」そして「友達」という関係の境界は、非常に緩やかで曖昧なものであるということだ。ここでそれを、本稿の主題であるSNSと絡めて考えるならば、日記やプロフィールを「友人(の友人)まで公開」にするか「全体に公開」にするかという選択は、まさにこの「ゆるやかさ」を担保するための重要な手段になりうる。言い換えれば、そこで要求されているのは、ある程度まで情報をオープンにしておくことによって、未来において友人になりうる人間を排除しないでおくということなのだろう。むろんそれは、その関係がケータイ的に「嫌になったら切ってしまえる」というコントロール性を持っている、という前提においてのみ通用するものなのであるが。この部分が、「選択制の高さ」という点に繋がっているといえよう。

ゆるやかな関係の広がり

ただし、ここで「選択」されている関係が、あくまで自分に近い、友達とも呼びうるものであることには注意が必要だろう。先ほど若者が「それまでであれば連絡を取り合うこともなかった相手とも『繋がり』を保持しておかなければならなくなった」と述べたが、では、知り合いや他人の中から、連絡手段の切り替えによって選択される友人以外との関係は、どのように維持されているのだろう。

興味深いのは、携帯電話用のメーリングリストの活用のされ方だろう。たとえば、大学生だと、サークルやゼミの情報を管理するのに携帯電話のメールだけでなく、携帯向けメーリングリストを活用することが多くなった。こうしたメーリングリストによる、ゆるやかな仲間内の形成は、どうやら「知り合い」程度の関係を継続・維持するのに、非常に役立っているようだ。

というのも、メーリングリストであれば、登録メンバーどうしで個人的に連絡先をやりとりするプロセスが省略されているため、お互いの間での心理的負荷が相対的に少なくなるからだ。「連絡先を交換する」という振る舞いは、互いの関係を接続するきっかけとして欠かせない要素だが、そのことはかえって、相手との心理的距離を縮めてしまう結果をもたらす。メーリングリストであれば、ある程度の距離を保ったまま、コミュニケーションを行うことができるわけだ。

むろん、こうした関係のゆるやかな関係の広がりを、携帯電話によって管理するというスタイル自体、あらゆるところで採用されているわけではないだろう。だがここから私たちは、ケータイ的なものがネットに侵食することの意味を読み解く可能性を得ることができるのではないか。おそらく、SNSのようなサービスも、ケータイと同じく、ゆるやかに「知り合い」や「他人」に開かれた連絡手段として認識されているのではないだろうか。私がインタビューしたある若者は、SNSに対して次のようなイメージを持っていると語った。「SNSが友達だけの連絡手段だっていうのは(年が)上の人の考えだと思う。プロフィールは公開しておいて、色んな人と知り合えるようにしておきたい。嫌な奴からメールが来るかもしれないけど、そんなのはスルー(無視)すればいいし。」

インターネットに何を求めるか

本稿で展開してきた議論は、仮説的ではあるが、「ネット上に個人情報を出すのは危険であり、無意味だ」という批判に反対するものだ。むろん私も、既に述べたようにそうした批判に基づき、ユーザーに個人情報の管理を求める啓蒙活動は、必要なことだと考えている。だが、そのことをもって、「ケータイ的なもの」に侵食されつつある現在のネットを、否定していいものだろうか。

私が述べてきたようなコミュニケーションスタイルは、安直に言ってしまえば「自分にとって都合のいいコミュニケーションや相手だけを選び取る」ようなものである。それを倫理的な立場から、あるいはこれまでの「ネットの常識」に則って、「ムシがよすぎる」と非難するのはたやすい。しかし考えてみればこれは同時に、現状においてまだ満たされていないニーズが、ユーザーの間に広く存在することを示唆するものである。だとすれば、このことが、「mixiのひとり勝ち」と言われている現在のSNS業界地図を塗り替える鍵にさえなると見ることができるのではないか。

「安心・安全」がインターネットに求められている、という決まり文句は、それが繰り返されるほどに、現在のネットの「危険・不安」を露わにしている。冒頭に述べたサービス事業者側の管理体制やマスメディアの姿勢も含め、ユーザーに対して、いたずらに「自己責任」を求めない形でのサービス展開が議論されてもいいはずだ。

* ただし、携帯電話による通話とメール通信では、「関係の切り替え」との関連性に相違があるという結果も報告されており、この記述についてのより詳細な整理は必要であろう。


プロフィール

鈴木謙介<すずき・けんすけ>国際大学GLOCOM助手・研究員。1976年福岡県に生まれる。東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。著書に「暴走するインターネット」(イースト・プレス)、「カーニヴァル化する社会」(講談社現代新書)、共著に「21世紀の現実(リ
アリティ)」(ミネルヴァ書房)、「地域情報化」(NTT出版)、「バックラッシュ!」(双風社)などがある。専攻は理論社会学。広く社会時評はもとより、最近ではネット文化や若者の内面についても社会学的な立場から積極的に発言、気鋭の若手研究者として注目を集めている。TBSラジオの「文化系トークラジオLife」(土曜日20:00~21:00)のメインパーソナリティとしてもただいま人気急上昇中。また、宮台真司氏の弟子としても知られている。