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2007年06月 アーカイブ

2007年06月15日

第27回: 教育再生・学校不信は本当か?

豊福晋平  (国際大学GLOCOM准教授・助教授)

はじめに

このところ学校教育関連では、ゆとり教育の見直し、いじめ自殺、単位未履修とホットな話題に事欠かない。安倍内閣発足後に教育再生会議が設置され、世間の教育議論は盛り上がる一方である。

だが、教育にかかわる人々はこの急激な動きに戸惑いを隠せない。そもそも教育の「再生」とは、前提とする崩壊を既成事実化するものだ。教育の課題山積は多くの人が納得自覚するところだが、もちろん、あちこちで学校運営が頓挫するような滅茶苦茶な状態ではない。にもかかわらず、まるで教育業界全体に無能の烙印を押し、他分野からの精神注入が必要だとも言いたげな議論は、国の意志決定にかかわる首相官邸らしからぬ強引さといわねばなるまい。

しかしながら、このような教育再生会議が拙速な議論でガタついてもなお、世間や教育業界から、それほど大きな反対が起こらない背景の方が、実はもっと深刻な課題である。それは社会に棲みついてしまった学校不信という亡霊である。

亡霊という以上、正体もオチもある。本稿で筆者が主張したいのは、学校不信が実はフィクションであり、憑きものを落とすための方法を見いだそうという、いたって真っ当な話である。

火のないところに煙は立たぬというが

筆者は教育工学の研究者だが、学校べったりという関係でもない。一般社会人の教育に対する意識も共有できれば、教育現場の声にも比較的アプローチしやすいという中間的な立場にある。そもそも、筆者の研究(後ほど述べる)題材は、もとといえば、世間の学校不信を出発点にしたもので、学校に対するふがいなさや、批判的な感情が相当含まれていると自覚している。

だが、教育現場をよく知るほど、不信のタネとは、実は単なる洋服のボタンの掛け違いではなかったか、としか思えなくなってくる。教育現場でのヒアリングや各種統計をみても、急激な学校教育の崩壊を裏付けるような結果は容易に見つからないし、いつも不信や批判の矢面に立たされる教育現場は、生真面目ゆえの不器用さ、萎縮や混乱といった側面が目立つからである。現場に漂っているのは、「これだけ誠心誠意子どもたちを相手に頑張っているのに、なぜ?」という無念さや理不尽さであり、訳もわからず荒れ狂う社会の嵐に対して身をかがめ、ひたすら守りの体勢になっているようにも見える。

学校不信はなぜ起こるのか

では、学校不信はどのようなメカニズムでここまで大きくなったのか。原因は以下の4点にまとめることができる。

1点目は、保護者・地域市民の潜在的欲求と学校側対応との不均衡である。

特に年少児童の保護者にとってみれば、自分が直接ケアできない学校での時間、わが子の様子がどうであったか知りたいと願うのはごく自然な気持ちである。しかし、保護者や地域市民が「学校の日常をよく知りたい」という素朴な欲求に対して、学校側は真摯に応えているとはいえない現実がある。防犯安全対策の影響もあって、学校側は外に対して守りを固める傾向が強くなり、このことがかえって周囲からの不透明感を募らせ、風評を生む原因となっている。

2点目は、マスメディアによる非日常事象の日常事象化錯誤である。

マスメディアはマス(大衆)を対象に、注目を集めるような話題(イベント・ゴシップ・事件・不祥事・課題)を伝えるのが仕事であるから、実際には滅多に起こらない非日常事象をいかにセンセーショナルに扱って目を惹くかが競われる。ひとたび事件や不祥事で世間の関心が集まれば、それまでは埋もれていた類似事象までが引っ張り出され、連日のようにラベル付けが強化されるような情報操作がなされる。これは一種のメディアスクラムである。

一般に、公務員・教職員・警察といった職業に対する社会の倫理的要求水準は高く厳しい。教職員のゴシップ・不祥事は世間的に「あってはならない」たぐいのものとされているがゆえに、事件が起これば記事は破格の扱いを受ける。

このようなマスメディアの作用が重なると、今度は非日常的な事象が日常であると誤解されるようになる。その結果、まるで全国の学校すべてが病んでいるかのような危機的イメージが植え付けられるのである。

3点目は、マスメディアが「学校の現実」を構成するということである。

マクルーハンらのメディア研究を継承するメディア・リテラシー*1は、重要な原則の一つとして「メディアは現実を構成する」という一文を掲げている。この文の意味する現実とは、個人の経験や記憶に基づくものだが、実際の経験以上にメディアからの情報接触が過多になれば、メディアが伝える観点や主張がそのまま個人の現実に置き換わってしまう危険を述べたものだ。一般に、教育現場に日常身を置く人々とそうでない人々との間に著しい学校イメージのギャップが生じやすいのは、ひとえに依拠する現実感の違いによるもので、学校外部の人々が、いかにマスメディアの作るイメージに誘導されやすいかを示している。

4点目は、記憶の中の学校イメージと、「危機的学校イメージ」との対比から生まれる現状批判である。

教育社会学の専門家である広田照幸*2,*3は、学校のいじめ報道に関して、大人たちはかつて自分の身の回りで起こった軽微ないじめを、マスコミが大々的に書き立てる現在の極端ないじめと比較し、「昔の子供たちは限度をわきまえていた」と思わせ、ともすれば、懐古主義に走らせてしまうメカニズムについて述べている。

人にもよるが、自身が体験した学校の記憶の大半は、平凡で淡々とした学校の日常であって、事件や不祥事はほとんど起こりえない。一方で、マスメディアが報じる危機的学校イメージは、非日常的な極端な事象であるにもかかわらず、現実感を伴っているがゆえに、同列に比較されてしまう。このため、「昔の学校はもっと平穏だったのに、今の学校の荒廃はけしからん」という批判に転じやすくなる。

学校不信を利用する人々

学校不信が単なる話題ですまされないのは、社会の学校不信を逆に利用して、学校教育の立場を脅かす動きが最近目立つことである。

一つは、教育基本法改正を筆頭とする、政治や国の介入である。

ちなみにOECD(経済協力開発機構)の「教育指標の国際比較」によれば、わが国の国内総生産(GDP)に対する公財政支出学校教育費の割合は加盟国の平均以下である。誤解を恐れずに言えば、現状学校が抱える課題について、教育予算を倍増し必要な人材を手当てすれば、解消できることはたくさんありそうだが、議論は実質的な現状把握や予算検討よりは、むしろ、何でもいいから抜本改革ありきとインパクト重視に傾いており、学校関係者をスケープゴートにこらしめと尻たたきの方法ばかりが求められているようで、およそ建設的でない。

もう一つは、公教育を消費サービスとして読み換え、規制緩和や競争原理導入とともに教育の市場化を加速させようともくろむ動きである。

それぞれのニーズに応じたOne To One教育サービスを提供することが究極であると仮定すれば、教育はオーダーメイドのサービスになり、数多くの学校は不要になる。だが、このような発想を突き詰めれば、金で買えるサービス以外は得られなくなり、格差はおのずと拡大し、地域やコミュニティの要素は排除されてしまう(学校には、サービス価値以外に、共に汗を流して地域教育を作る価値があると筆者は考えている)。

先に述べたように、学校現場が十分検証されることなく、現状教育の全否定と教育再生という決めつけから、なりふりかまわぬ改革が行われることになれば、社会に対する長期的なダメージを被る危険性が高い。

少なくとも正常で健全な教育議論が行われるには、膨れあがった学校不信から脱却し、あらためて教育現場の実態を直視するための具体的解決策が求められていると言えよう。

学校自身が情報源になること

では、学校不信を乗り越えるには、どのようにすればよいだろうか。

小学生の誘拐殺人事件が世間を騒がせていた頃、小学生の子をもつ親からこんな事を言われた。「小学生の誘拐殺人事件は自分にとって他人事ではないので、報道されれば食い入るように見てしまう。ただ、悲惨な事件現場を何度も放映することや、遺族の心情に踏み込むことは、けっしてわれわれが望んでいることではない」と。マスメディアはセンセーショナルな報道を好むが、半当事者の保護者の立場からすれば、身の回りの状況について、もっと現実的な教訓、課題、対処方法を知りたいと思う。つまり、マスメディアの情報は、身近な生活情報の置き換えには絶対なり得ないのである。

学校不信の問題は、一言でいえば、学校教育側から発信される情報よりも、マスメディアの情報量が圧倒的に勝っており、マスメディアが学校の現実を構成しているということであるが、これを逆手にとらえれば、学校教育が直接有力な情報源となって、情報を欲する対象に正確かつ十分な情報提供を行えば、2次情報しか扱えないマスメディアの影響を確実に減らすことができる。これは、地震等被災時に流言飛語被害を防ぐために正確な情報が必要とされるのと同じ理屈である。

問題解決に至るハードル

だが、これにはいくつかの大きなハードルを乗り越えなければならない。

1点目は、メディア(媒体)の問題である。

学校では、「学校だより」を印刷して保護者に配布することが慣例とされており、ほとんどの学校が毎月「学校だより」を発行している。ただし、「学校だより」の伝達範囲は、在籍児童生徒の保護者だけが対象であり、直接プリントを手渡しできない人々には情報を伝えることはできない。

学校自身が広報手段として自律的に活用できるのは、学校ホームページである。ただ、多くの学校や教育委員会はホームページによる情報発信に対して過度に慎重である。これが2点目の問題である。

図1は自治体別に集計した学校ホームページの平均更新率*4である。ネット業界では有名はパレート分布そのものであり、ヘッド部分にあたる一部の熱心な学校が多くの情報を発信している一方で、ロングテール部分にあたる大半の学校ホームページはメディアとしてほとんど機能していない。

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更新頻度の高いサイト運営者に聞くと、「実績が伴わないホームページ開設当初が一番困難」という答えが一様に返ってくる。まず、学校組織内には情報提供に対する動機付けがなく、ホームページは単なる負担増と理解されやすい。外部からの批判攻撃に対して守りの体勢になっているため、隙を突かれるような「余計な」情報を出したがらない。個人情報保護や防犯安全を理由に、教育委員会側から厳しい規制や指導監督を受け、手続きや承認が煩雑になりやすい。さらには、学校に対して不信感を持った保護者から「学校ホームページなどとんでもない」とストップがかかる、といった具合である。

3点目は、教職員が学校広報とマスメディアや宣伝とを混同するという問題である。

学校広報に関していえば、「生徒募集をする必要もないのに宣伝する価値があるのか」という意見を聞くことがたびたびある。たしかに、宣伝と称してある事ない事飾り立てるのは、教職員の倫理に照らしても、受け入れられないだろう。ただ、保護者や地域が知りたいのは、あくまで学校の毎日の「地味でベタな情報」であって、マスメディアのような編集や粉飾が要求されているわけではない。その点が勘違いされると、教職員の意識はネガティブに固まってしまう。

4点目は2点目と関連するが、死のロングテール部分を脱し、自律展開を始めた学校ホームページに対する意義を、他の多くの教育関係者が正当に評価できないという問題である。

学校ホームページの成功例を聞くと、更新頻度がある一定水準を超えると、保護者や地域の反応がまず変わるという。いわば評価の分水嶺である。ただ、保護者の評価が変わっても、周囲の教育関係者の意識を変えるのは難しい。もともと学校も教育委員会も消極的な守りの体勢になっているうえに、概して教員は他教員の業績に無関心で、組織メリットまで考える管理職は希有であるから、せっかく地道に成果をあげても、誰も評価してくれないという状況になりがちである。

学校を外部から応援する

これらのハードルはかなり困難な課題ばかりであるうえに、教育行政内部の改革を待っていたのでは、解決がいつになるかわからない。

そこで、筆者が研究として進めているのは、オープンなホームページという特性を活かし、教育行政組織の外部に学校情報発信の支援・フィードバックの仕掛けを作る試みである。言い換えれば、硬直的な教育ガバナンスに対して、もっともミニマムな学校とステークホルダ*5との関係を外部透明性によって構築し、各地で地道に頑張っている学校を「勝手に」発掘・表彰することで、学校自身の情報発信を促そうとするものである。

これには大きく分けて学校ホームページの量的評価と質的評価の2点がある。

ホームページの量的評価アプローチは、全国学校ホームページの活性度評価である。国際大学GLOCOMで1995年から運営されている「i-learn.jp」*6は、学校ホームページの活動状況を集約するサイトとして機能しており、全国34,000件を超える学校ホームページの更新状況を毎日12時間おきに把握している。2000年以降収集された更新履歴情報は、学校別・自治体別に集計されランキングとともにフィードバックされる。

学校ホームページの活動実績は電子情報であるがゆえに埋没しやすいが、第三者としてのi-learn.jpが客観的に実績数値を証明することで、他のホームページ運営者や一般利用者の関心を集めたり、他の教育関係者に説明したりすることが可能になる。

ホームページの質的評価アプローチは「全日本小学校ホームページ大賞*7(通称J-KIDS大賞)」である。このコンテストは、全国17,000以上の小学校ホームページを対象とし、応募不要、社会人ボランティアによる勝手選考、客観的評価指標を特徴としている。

コンテストのための無用な負担を省く代わりに、本来の学校広報活動がしっかり行われているか、一般社会人や保護者の視点から厳しくチェックしていただき、毎年、優れた学校ホームページ400件以上に賞を授与している。受賞するのは、ICTに強いモデル校や大学付属校とは限らず、むしろ、過疎地の小規模校が頑張っているのがわかる。

筆者としては、これら二つの取り組みで発掘された学校(ホームページ)をぜひ一度訪れて欲しいと思う。頑張っている各地の「学校の現実」とはいかなるものか、理解していただけるだろう。そのうえで、学校教育に今必要とされるものは何か、われわれ自身が学校教育に対して何を支援できるか考えてみたい。

学校教育全体の問題から見れば、こんな試みは焼け石に水かもしれないが、巨大な行政組織を相手に「大山鳴動して鼠一匹」よりは、ずっと着実で効果的で、かつわくわくすると思うのである。

*1 カナダオンタリオ州教育省編[1992]『メディア・リテラシー』リベルタ出版

*2 広田照幸[1999]『日本人のしつけは衰退したか~「教育する家族」のゆくえ』講談社現代新書、p.177

*3 広田照幸[2005]『教育不信と教育依存の時代』紀伊國屋書店、p.48

*4 自治体内全学校ホームページの過去90日中更新日数を合算し、学校数で割ったもの。図は学校数3校以上の自治体1,736を対象にグラフ化した。ホームページ設置率が高く、更新頻度が高いほど数値が高くなる。

*5 学校のステークホルダとは、教育関係当事者と保護者・児童生徒だけでなく、地域市民、納税者、卒業生や転入学希望者まで含まれる広い概念である。

*6 http://www.i-learn.jp/

*7 全日本小学校ホームページ大賞(J-KIDS大賞)




プロフィール
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<とよふく・しんぺい>
1967年北海道生まれ。1996年4月より国際大学グローバル・コミュニケーション・センター主任研究員。2002年10月より同センター助教授。専門は教育工学・学校教育心理学。

2007年06月23日

第28回: 社会と企業の対立の系譜―仲介機能を果たす情報技術―

中島洋  (国際大学GLOCOM主任研究員・助教授)

情報通信技術が「内部統制」を企業に促す

たびたび企業の「不祥事」が世間をにぎわす。かつては主たる監視役はマスメディアだったが(労働組合や消費者運動もマスメディアに取り上げられることでその影響力を補強していた)、今日では、インターネットの掲示板やブログなど、影響力を持つ「監視役」は急速に増加しつつある。

企業は生産財、消費財の生産や金融、流通、サービスなどの活動やプロセスにおいて外部(本稿では、これを象徴的に「社会」と呼ぶ)と関係を維持しながら存続する組織体である。社会に役に立つことによって対価を得る。消費者や取引先、近隣の住民などが「社会」である。がまた企業は、従業員に給料を支払う代わりにその行動を一定程度、制約するが、その生活保証や健康維持に対する責任も負っている。これも本質的には外部の資源を企業の中に取り込んで活用する、という意味で、便宜的に「社会」と呼ぶことにする。さらに、企業は利益を上げて、その収益の一部を株主に配当する責任も引き受けている。「株主」も企業にとっては社会の一部である。

企業はこうした関係者(英語ではステークホールダーと呼ぶ)との相互依存関係の下に事業を続けることができる。企業の側からの側面を取り上げてみると、ステークホールダーへの責任と義務を負っている、と言える。06年5月1日施行の新しい会社法や08年度から上場企業に適用される日本版SOX法(金融商品取引法)において、その責任は一段と明確になっている。特に、「内部統制」という言葉で、企業は経営者から従業員に至るまで、ステークホールダーに対する責任を果たすように組織体制を構築することを義務付けられた。

本稿では、こうした内部統制の動きが、実は情報通信技術の進展によってもたらされたものであることを提示したい。情報通信技術が高度に発達してきた結果として、企業は内部統制が可能になり、それが可能になったが故に、法律・制度は企業に対して内部統制の質を上げ、厳格に組織を運営することを要求することになったのである。特に、会社法や日本版SOX法で、このことは明白になった。

日本版SOX法の制定過程の議論で際立ったのは、「日本版SOX法は企業経営を萎縮させ、過度の負担を企業に課す天下の悪法である」という主張だった。この主張は無知に暴論か、あるいはこの法律の不備な部分を過度に拡大させて全体の効果を減殺させようとする「ためにする議論」の類である。特に後者の場合には、内部統制の質が向上した結果、従来、隠れて行ってきた「不都合なビジネス活動」が白日の下にさらされることを恐れた意図的な妨害活動も混じっているかもしれない。情報通信技術がもたらした「透明性向上」の猛威を恐れたものといえる。

しかし、残念ながら、すでに情報通信技術の「透明性向上」の動きはスタートしてしまった。社会全体に浸透するには時間はかからない。情報社会はそういうものであることを確認して、ビジネス活動の心構えを新しい時代に合わせたものに切り換えることである。

企業の歴史は事業活動の制約強化の歩み

日本版SOX法への不満の一つに「なぜ突然に企業活動はこんな制約を受けなければいけないのか」「企業活動はもっと自由であるべきだ」などというものがある。しかし、これは全くの歴史認識の錯誤である。企業の歴史は、社会に害悪を流していることの顕在化とその対応策としての企業活動制約の繰り返しである。企業はその活動の影響力が大きいので、予測を超えて社会に害悪を与えることが明らかになって、それを事後的に制約し、規制を加える、という連続である。そのたびごとに企業にとってはコスト負担の大きな「理不尽な規制」と映じるが、その規制が定着すればそれが新しい常識となる。

古くは足尾鉱毒事件や水俣病、イタイイタイ病、四日市喘息など、工場から出る廃水や煙突から出る排煙による周辺住民の健康破壊事件があった。その結果、企業が工場から出す廃液や排煙には厳しい制約が課せられた。もちろん、企業側からは厳しい規制に反対論が噴出した。「こんなに厳しい制約を課せられては国内で操業できない」と海外に工場を移転する企業まで出た。

さらに自動車から出る排煙が大気を汚すことが顕在化して、エンジンの性能や排気装置の機能にも規制ができた。ずっと後になるが、事業所が使用するエネルギー・資材や排出する廃棄物が地球環境に負荷を与えるとして、廃棄物に対する規制、使用するエネルギー・資材が地球の炭酸ガスを増加させないようにする企業活動への規制もできた。企業活動は決して自由ではないのである。

粉ミルクに猛毒の砒素が混入した、あるいは、毒性の強いPCBが食用油に混入して消費者に犠牲者が出る、などという消費者に対する「企業犯罪」も起きた。腐敗した牛乳による中毒事件も起きた。食品衛生管理の規制はそのたびごとに厳しくなってきたし、運用管理も厳しさを増してきている。アレルギーを起こす食材に対する表示義務、あるいは、アスベストなどの建材など、相当に普及してから規制をかける、などというケースもある。いずれも企業がその責任を問われる可能性が出たケースである。

さらに従業員に対して、企業は労働基準法を遵守した勤務体制、パワーハラスメントやセクシャルハラスメントを防止するための企業内の組織体制の義務付けなど、企業に課せられる義務は増大して行くばかりである。

そして、現在、日本版SOX法によって今度は株主に対する責任が明確になった。財務報告の適正化の要求である。単なる精神規定ではなく、企業内部に財務に影響するようなミスや不正が起こる可能性がないか、具体的に点検して起こらないような仕組みを構築すること、さらに、その仕組みが効果的に運用されているかどうかをチェックすること、こうした活動を企業トップ自らが確認して、株主に報告するのを義務付けたのである。これに違反した場合には懲役刑が待っている、という厳しい法律である。

事業継続への要求

もちろん、企業と社会の関係の再構築作業は、ここで終わるわけではない。日本版SOX法以降では、取引先に対する製品やサービスの安定供給の責務が強化されようとしている。BCP(事業継続計画)の策定である。何かの災害や事故によって、商品やサービスが長期間、ストップすることがないように企業組織を整備することの義務化である。

消費期限切れの食材を使って菓子を製造した企業が操業停止処分を受け、製品供給先の多数の菓子小売店が長期間、閉店するという事件があったが、企業が事業を中断することは「取引先」という「社会」に大きな損失を与えるのである。地震で電子部品工場が被災し、専用部品の供給がストップして、あるメーカーの携帯電話の製造が長期間、全面的に停止してしまったことがある。取引先への部品供給を継続するために、どこまで対策が施されているか。台風で自動車道路が寸断されて、これは短期間だが自動車部品の供給が停止して、1週間程度、アッセンブリー工場の操業が停止したケースもある。産業構造が階層化されて原材料や部品、製品など、供給元となる川上部分への依存が強まれば、供給側の事業継続への責任は重くなっている。

こういう中にあって、情報システムの継続性の責任はとりわけ重大である。企業活動が情報通信システムに依存する比率が高まるにつれて、事業継続には情報システムのデータの保存、バックアップ体制による情報システム運用の継続の保証が求められるようになる。情報社会が高度に進展するにつれて情報システムの無停止、あるいは短期間での修復が求められるようになる。これも企業のコスト負担を強いられるものだが、しばらくすれば、それが常識として定着してしまうだろう。事業活動のインフラとして情報システムは中断なく、あるいは中断期間を最小化しながら運転することが要求されるようになる。

事業継続の前提条件としての「情報システムの運転の継続」の要求は偶然に出てきたものではない。情報システムの運転の継続性が高度に保証できる仕組みが可能になったために、その上に構築する事業継続が実現できる可能性が見えてきたのである。安価で大容量伝送が可能な高速通信網の発展によって、遠隔地でバックアップができるディザスターズリカバリー(DR)サイトがそれだ。ここ10年は、DRサイト建設の時代だろう。DRの装備は常識となり、その準備がない企業は社会から認められなくなる。

トレイサビリティと可視化と透明性

ミスや不正をなくして企業や経営トップが社会に対して責任を果たすことを可能にする情報通信技術がすでに準備されたといえる。

上述してきた不祥事のケースを元に考えてみよう。まず、洋菓子会社はなぜ、消費期限切れの食材を工場現場で使用するのを抑止できなかったのか。経営トップが、こうした不適切な行為を抑止する仕組みがなかったからである。これは同義反復の言葉遊びをしているのではない。かつては、工場で起きている事象を経営トップが監視するということは、ほとんど不可能だった。「わが社の社員には不適切な行為をする者はいない。仕事に誇りをもつように従業員教育は十分に行っている」という自信たっぷりの自慢話で不適切行為がないことを主張して済ませていた。しかし、現実には、不適切な行為は行われ、経営トップが気付いていなかっただけなのである。あるいは、経営トップもうすうす気付いていたが、証拠がつかめないので知らないフリをしていただけかもしれない。

この不適切行為の抑止を可能にするのが情報通信技術である。一般的に「可視化」と呼ばれる技術だが、本来は、プロセスの進行状況を直感的に把握できるようにし、生産性能向上や適切な意思決定を下すことを目的にしたシステムだが、同時に、違法行為や不適切な作業行為を抽出する機能にも転用できる。

対応策の一例を考えてみよう。原材料には製造過程や食品成分、消費期限などのデータを書き込んだ電子タグを付けて、作業者は作業の際には必ず、作業者のID、投入する原材料の電子タグを読み込ませて、次の行動に移るビジネスプロセスを構築する。この一つ一つの作業は省略できない。省略すると次のプロセスに進めないようにする。

例外的に「省略」のプロセスをとる際にはその記録は複数の上司に自動的に通知され、原因を確認する作業が要求される。また、消費期限切れ、あるいは不適切な成分が入っている食材は、警報が鳴り、プロセスが自動停止する。その作業者の行動を監視するカメラが作動して、責任者のモニターに映し出される。そこで責任者との会話が行われて、新たに作業指示が出され、適切な行動に移ることになる。もちろん、このプロセスは記録され、必要に応じて再生されて行動が適正かどうか、点検される。

警報が鳴ったケースはいつでも上位の立場の人間は点検できる。ネットワークを通じて、遠隔地の作業現場で起きているデータを集計し、経営トップも不審がないかどうか、いつでも点検できる。データの統計処理によって、不審な作業プロセスを抽出し、安全が確認できない箇所の絞り込みができる。経営トップは、こうした不審なプロセスを点検して安全を最終確認する。こういう情報通信システムの利用によって、経営トップは確信をもって「弊社の製品の品質は安全である」と主張できるのである。

さらに、経営トップが見ることができるデータを、取引先からもアクセスできるようにシステムを構築すれば一段と前進する。取引先は、供給元が事業継続できるような内部統制の仕組みを運用していることを確認できるのである。

事業所内のプロセスが適切に運用されていることを確認するシステムの一部を取引先に開放する、というアイデアは、もっと一般的に企業と社会の間の緊張関係を緩和することに役立つかもしれない。すでに、消費者が手元にある商品の製造プロセスや成分をネットワークで確認する仕組みは一部で利用されている。トレイサビリティシステム(生産履歴情報管理システム)である。また、公害防止対策の状況を工場周辺の住民に確認できるように一部のデータを開放することもネットワークを通じて可能である。情報システムを通じて住民が従業員の活動の監視役となるのである。

企業活動の「透明性」を向上させる仕組みである。同様の仕組みは株主に対しても構築できる。不正やミスを防止するための企業会計のチェック項目ついて、経営トップがアクセスできる監視システムを株主もまたアクセスできるように仕組みを作ることも考慮に値するだろう。利害関係のある外部の人は真剣に点検する。アナロジーで言えば、スーパーやコンビニのレジで、レジ係りが入力している金額を買い物客にも見せているあの仕組みである。監視役は上司ではなく、買い物客(取引先や株主)である。それで完全にミスや不正がなくなるわけではないが、抑止力としては効果が大きいだろう。

情報通信システムで可能なことはルール化せよ

情報社会の進展によってこれまでの社会ルールは変更を余儀なくされる。情報システムによって企業内部で行われている作業プロセスの可視化が進み、透明性が高まるならば、経営トップは企業内部のミスや不正を抑止する道具を手に入れることができる。そうならば、経営トップに企業内部のミスや不正を防止する義務を課すことは、それほど過酷な要求とは言えないだろう。

もちろん、これまでの仕組みに慣れて、情報通信技術を活用した新しい仕組みへのイマジネーションをもてない経営者やビジネスマンにとっては、新しいルールは厳しすぎるものと感じられるかもしれない。しかし、それは情報通信技術に対する無知である、と断定しても良い。

情報通信技術によってトレイサビリティ、可視化、透明性が高められた社会では、新しい行動ルールが次々と登場するのである。

プロフィール
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<なかじま・ひろし>
1947年生まれ。東京大学大学院(倫理学)修士修了。73年日本経済新聞社入社。産業部で24年にわたり、ハイテク分野、総合商社、企業経営問題などを担当。この間、雑誌『日経コンピュータ』『日経パソコン』の創刊を担当。1988年から編集委員。97年~2002年慶應義塾大学教授。現在、日経BP社編集委員、MM総研所長、国際大学教授、首都圏ソフトウェア協同組合理事長。情報化推進国民会議専門委員会委員長、未踏ソフトウェア創造事業審議委員などを務めている。主な著書に、「デジタル情報クライシス」「激動を奔る~伝説の営業マンからのメッセージ(編)」「アクセンチュア」「勝者のIT戦略」「ユビキタス・ドキュメントはビジネスを超速化する」「イントラネット」「マルチメディア・ビジネス」「エレクトロニック・コマースの衝撃」「インターネット就職」。監修に「BAM~可視化経営の実践~」(日経BP企画)など多数。

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