山口 浩/第1信 (2)
2010年11月29日
選挙制度とWikipediaに潜む困難
集合知についてよく、「みんな」の知恵を集める、といった表現をします。「みんな」というと聞こえはいいのですが、本当に「全員」が力を合わせなければ意味がないような場合はまれで、実際にはたいてい「一部」の人の集まりです。人間の知識の傾向や量はさまざまですから、どの「一部」を集めるかによって、集められる「知」の内容や水準がちがうのも当然でしょう。また、「集合」についても、よりよいやり方があってしかるべきということになるはずです。
1つ簡単な例を挙げます。ネットとは直接関係ありませんが、選挙というのは、集合知を社会の中に制度として実装した典型的な例の1つかと思います。以前、選挙の際、有権者が「寝ててくれればいい」と発言して批判を浴びた政治家がいました。発言自体は民主主義の精神に悖る不見識なものですが、実際のところ、重要な問題を含んでいると思います。この政治家のいわんとするところは、世論の支持を受けていないことを前提として、投票率が上がれば、何があっても自陣営候補に投票してくれる熱心な支持者だけでなく、浮動票とか無党派層とか呼ばれる層の人たちも投票に行くため、敵対候補への投票が増えて、結果として選挙に負けてしまうかもしれない、という意味でしょう。この理屈はともかくとして、有権者の間で政治参加の意識に差があるのは事実です。意識の高い人は、多少天気が悪かったりしても選挙に行くでしょうが、そうでない人はあまり行かないかもしれません。投票率が上がるということは、何かあったら選挙に行かないかもしれない人たち、言い換えればあまり政治に関心のない人たちがたくさん投票するということですから、集合知による選択としての選挙の結果が、必ずしも賢く選択されたものでなくなるおそれが増える、という懸念は、それなりに根拠のあるものではないかと思われます。
同じようなことが、ネットでの集合知の場合にもいえるのではないか、と思いました。もちろん、選挙とネットの集合知はいろいろな面でちがいます。何より選挙は、主権者たる国民が文字通り「全員」(子ども等の例外は除き)が参加できるものであるということで権力の正統性が担保されるわけですから、「みんな」であることは選挙にとってまさに根幹をなす要素です。このような場合は、ネットでは必ずしも多くないかもしれません。しかしこれを、期待される層と異なる人たちが集まってしまったり、期待される層の人たちが集まらなかったりするといったような、期待と実態の齟齬といった概念で抽象化すれば、けっこうよくあることなのではないかと思います。
たとえばということで、渡辺さんが詳しいWikipediaについてはどうでしょうか。Wikipediaはよく、集合知の代表的な事例として引き合いに出されます。誰でも記事を書いたり編集したりすることができ、それらの総体が巨大な「知」を形成しています。しかし、詳しく知りませんが、聞くところによると、実際に「誰もが」執筆まで行うわけではなく、利用者の大半はただコンテンツを閲覧するのみだそうですね。また、参加するかどうかが任意であるため、ジャンルによって記載の水準や濃淡、量はさまざまで、有償の百科事典に勝るとも劣らない項目もあれば水準の低い項目や誤りを含んだ項目があったり、記載自体がない項目も数多くみられたりします。さらに、たとえば日本ではアニメ、ゲーム、マンガ等の項目が異様に詳しく書きこまれているなど、内容の偏りもみられますし、書き手の中には、通常の考え方と異なる独自の見解を示したり、ひどい場合には誹謗中傷の道具としてWikipediaを使う人もいると聞きます。
もちろん、こうした事態がまったく放置されているということはないでしょう。Wikipediaには、それぞれのジャンルで管理者が任命されているそうですね。Wikipediaの掲げた理念に従って編集がなされるよう、編集をロックしたり記事を削除したりすることを含む強い権限を与えられていると聞きました。