山口 浩/第1信 (3)
2010年11月29日
「みんな」は「一部」にコントロールされる?
ポイントはここです。全体からみればごく少数の人間がもし、特定の考え方に従って知の集め方をコントロールするようなやり方をとっているとすれば、それは果たして集合知と呼んでいいものなのでしょうか。もちろん、少数の管理者がそれほど強大な権限をWikipediaの膨大な記事のすみずみにまで及ぼすことは不可能でしょう。まさか、一般の参加者が、管理者という「雲の上」にいる「神々」の指令に従って黙々と作業するようなものになっているということはないでしょうが、少なくとも大きな方向性をコントロールされているという意味で、いわば一種の計画経済のようなものになっているということはないでしょうか。そしてそれは集合知にとってどんな意味があるのでしょうか。
もしそうではなく逆だとすると、Wikipediaは、上に挙げたような、質の低い書き手や悪意のある書き手に対してこれを排除する力を強くはもっていないということになります。このことが、集合知としてのWikipediaの価値を大きく傷つけることにはなっていないでしょうか。事実、記載内容が学術的に信用できないとして、課題などの調べものにWikipediaを利用してはならないと指示する学校や大学はたくさんあります。だからといってWikipediaに価値がないなどということはありませんが、書き手の中に少なからずいるであろう当該分野で一流の人たちの書いた記事の価値が、他のジャンルでのそうでない書き手の存在によって傷つけられているのはもったいない気もします。
議論のとっかかりを作るため、あえて挑発的な書き方をしましたが、もちろんそれが本意ではありません。ひょっとすると、この論点にピンとこないかもしれませんが、むしろこれらは、私自身も含め、集合知の価値について考える者がつきつけられている共通の課題というべきものだと思っています。
特に、私が今取り組んでいる、予測市場などの集合知的な意思決定メカニズムの分野では、これが大きな問題になりえます。ご存知の通り予測市場は、証券市場のメカニズムを応用して、予測なり意思決定なりといったテーマの帰趨に直接価格が連動するような仮想証券を市場で参加者が取引し、その結果を、参加者の総意としての予測や意思決定とみるものです。Wikipediaのように、個々の知的活動の成果が「加算」されて全体を形成していくタイプの集合知とちがって、予測市場などの集合知的な意思決定メカニズムでは、個々の知的活動の成果が相互に打ち消しあったり平均されたりしながら、1つの成果に「集約」されます。したがって、そこに何らかの優越的立場の存在から誘導を受けたりした場合の影響度も、質の悪いものが混じりこんだ場合の影響度も、大きくなりがちです。一応それなりの対処なり説明なりはあるのですが、実際にはなかなかうまくいかないこともあり、一度きちんと考えてみたいとかねがね思っていました。いい機会なので、お考えをお聞かせください。
よろしくお願いいたします。
2010年11月29日
山口 浩