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往復書簡シリーズ 設計未来 : ポスト情報化社会を展望する

山口 浩×渡辺智暁

集合知の未来
ネットの知からみんなの力へ

渡辺智暁/第1信 (2)

2011年3月7日

オープンであることのリスク

もちろん、こういうオープンなアプローチにはリスクがあります。有害な投稿であってもウィキペディアのサイト上に一時的には掲載されることになります。ソフトウェアが自動的に却下するような仕組みは、皆無ではないものの、ほとんどありません。

参加者の中には、自分がかつて関わったページや、よく知っているページの動向を見守っていて、何かおかしなことが起こるとそれを訂正する、というような人もいます。あるいは、新しく参加した人の行動を見て回って、いたずらを繰り返す人やウィキペディアの主旨や仕組みを大きく勘違いしている人がいないかチェックするような人もいます。あるいは、特に問題がおきやすいページ(例えば政治的論争の種になりやすい主題を扱うページ)の動向をチェックする人もいます。こういった品質管理は管理者の担当ではなく誰でもが自発的にできるようなことですし、そのためのツール・機能もサイト上で提供されています。おかしな投稿があれば、その投稿をした人が過去にどういう投稿をして来たかを調べることもできます。あるページの過去のバージョンを遡って、どの時点で間違った記述が紛れ込んだのか(それを投稿したのが誰なのか)を調べることもできます。

このような事情があってウィキペディアのアプローチは「案外」うまく行くのだと思います。ウィキペディア英語版と、一般向け百科事典や、特定分野の百科事典を比較した調査などでも、それほど正確性に遜色がない、同等であるという結果が出ることが多いようですが、そこからも、こうしたアプローチの持つ可能性を感じられます。(ただ、既存の調査は、サンプル数が少ないなどの事情があるため、ウィキペディア英語版全体に敷衍することも難しいと思いますし、日本語版にあてはまらない点もあるでしょう。)

ただ、いろいろと課題があることも確かです。厄介なのは、例えば、ある程度知識を持った人が見ないと間違いであることに気づきもしないような記述です。そういう間違いが、特に少数の人にしか関心をもたれない話題について存在している場合、長い間発見も修正もされないままになることは十分ありえます。そういう間違いはあまり多くの読者に影響を与えることもないために問題になりにくいという面はあるものの、オープンであるだけではうまく片付かない問題があるということを示してもいるといえるでしょう。

もっとも、学術論文や学術出版の世界でも、細かな問題を発見・修正することは簡単ではありません。投稿者はより狭い範囲の専門家に限られているため、初歩的な間違いは少ないものの、剽窃やデータの改ざん、利益誘導に都合の悪い知見の隠蔽、情報操作など発見しづらい問題が学術の世界にも多く存在していることは、時々浮上するスキャンダルや、こうした問題に関する研究からも伺えるところです。

全員参加の弊害と、少数によるコントロール

もう少し抽象的な議論にひきつけつつ整理してみます。全員参加は弊害を招く可能性があるのではないか、という問いかけに対しては、参加者に機会を提供しつつも参加を強制はしない、という「オープン」なアプローチであればそのような弊害は避けられるのではないか、というのがウィキペディアの示唆するところのひとつだろうと思います。

一方で、計画経済的なアプローチ、特定少数の決定権限を強くしておくようなアプローチは集合知の利点を活かせなくなるのでは、という問いに対しては、ウィキペディアではかなり権限が分散されていて、そういうことはあまり起きていない、という風に言えそうです。権限を分散して多くの参加者が結果を左右できるようにしておくとどうなるか、というと、有益な貢献と有害な行動とのバランスが有益側にどの位傾いているかによって、そのような制度はよい結果を生むことも、悪い結果を生むことも、その中間に位置することもあるのだろうと思います。ウィキペディアは「案外」うまく行っています。

先生はこんな風にも書かれています。『ポイントはここです。全体からみればごく少数の人間がもし、特定の考え方に従って知の集め方をコントロールするようなやり方をとっているとすれば、それは果たして集合知と呼んでいいものなのでしょうか。』これは僕も突き当たったことのある疑問です。ウィキペディアは、たとえ特定少数の人が何かを決めた場合でも、後から異議を申し立てることができたり、決定プロセスに介入することができたり、他人の影響力から遮断されていないことが多いため、そのようなコントロールはあまりないように思うのですが、集合知として扱われている事例の中にはこういうコントロールの働いている例が存在しています。そこで、ウィキペディアを離れてそれらについて少しとりあげつつ、議論してみます。

制度設計者の影響力と集合知

たとえば、ジェームス・スロウィキーの『「みんなの意見」は案外正しい』の中には、沈没した潜水艦(スコルピオン号)の行方を突き止めようとする元海軍士官の話が出てきます。この軍曹は様々な専門家の意見を聞いて、それらをベイズの定理を応用して組み合わせて、ほぼ正しい位置を当てることができたのですが、その位置は彼に意見を述べた人々のどの予想とも予想しないのです。これは集合知と呼べるでしょうか? たった一人が恣意的に様々な意見を集約していることを考えると、ちょっと違うような気もします。ですが、ベイズ定理をこのような場面で援用するという決定が、多くの人が支持するようなものであるなら、それは彼個人の恣意的な決定ではないとも考えられそうです。

つまり、あまりに特定少数の人が強い影響力を持っている場合には「集合」知という呼び方はふさわしくないものになる一方、その特定少数の者が制度の設計者のような存在で、その他大勢からのインプットによって結果が大きく変わってくるような制度をデザインしていたとしたら、その設計者が結果を決めていると言える度合いは低く、「集合」知らしくなるのではないでしょうか。

これは、Googleの検索エンジンのような例にもあてはめられそうです。Googleはウェブページの間のリンクの構造の解析に基づいてウェブページのランク付けをしますが、個々のリンクを張る人たちは必ずしも検索エンジンでの重みづけを変動させるためにリンクを張るわけではありません。ここで、いわば集計者にあたるGoogleが恣意的にランクを決めるのではなく、様々なインプットに応じてランクが決まるアルゴリズムを使っているところが、「集合」知的なのだと思います。逆に、Googleが「どのようなアルゴリズムを導入したら特定の結果が出せるか」、ということを念頭において集約の仕方を絶えず変更していたりすれば、それはGoogleの決定であり、集合知らしさが失われる、という風にも言えるでしょう。

もう少し抽象的には次のように言えそうです。複数の情報源からの情報なり意見なりを集約して何かの知見を生み出すような仕組みは、その仕組みを設計する人の恣意性に大きく左右される余地があります。設計者が大いに恣意性を発揮して、自分の望む結果なり、その他の特定の結果が出るように設計した場合には、その仕組みを通じて生み出された知見は「集合」知的とは言えないでしょう。そのような恣意的な知見が質的に劣っているという保証があるわけではありませんが、劣っているにせよ、優れているにせよ、それは「集合」性によるものではなく、設計者によるものと言えるでしょう。逆に、優れた知見を生み出すことを念頭において設計をしている場合、多くの人が合意するであろう設計にしている場合などであれば、設計者の影響力は恣意的には発揮されなかったし、その仕組みを通じて生み出される知見は、よくも悪くも「集合」的な仕組みの産物だと言えそうです。

集合知の未来
ネットの知からみんなの力へ

プロフィール写真:渡辺智暁
渡辺 智暁
(わたなべ・ともあき)
国際大学GLOCOM主任研究員。専門は情報通信政策と情報社会論。米国の通信インフラ政策、コンテンツ産業と著作権関連政策などを研究するほか、クリエイティブ・コモンズ・ジャパンのスタッフやウィキペディア日本語版での管理者ボランティアなどの経験を持つ。2008年よりGLOCOM研究員となった。
プロフィール写真:山口浩
山口 浩
(やまぐち・ひろし)
1963年生まれ。駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部准教授。専門はファイナンス、経営学。コンテンツファイナンス、予測市場、仮想世界の経済等、金融・契約・情報の技術の新たな融合の可能性が目下の研究テーマ。著書に『リスクの正体!―賢いリスクとのつきあい方』(バジリコ)がある。