渡辺智暁/第1信 (3)
2011年3月7日
集合知としての金融システム、金融危機
さて、ここまで第一信の問題提起によりかかってお返事を書いてきましたが、最後に僕からもひとつ話題を提起させて下さい。うまく噛み合うことになるかはわかりませんが、都合がよければ拾っていただければと思います。(そうでなければ、無視して頂いて、その続きはまた別の機会にでも。)
山口先生もおそらく何か考えていらっしゃることでしょうが、集合知との関連で興味を持っているのは、2008年からの金融危機やその他のバブルの問題です。これは単に僕が想像しているだけかも知れませんが。バブルは、集合知的な仕組みがあってもそれが優れた判断や結果を保証しないことの例ではないかという気がするのですが、いかがでしょう。もしそうだとすれば、集合知を研究する上でどのような示唆が得られるのでしょうか?
金融危機に関して僕は、日ごろ接することが多い米国のメディアやブログなどを通じて断片的に情報を受け取っている程度です。ただ、多様なプレイヤーが互いに想定外の行動をとったことが積み重なってこれだけ大きな被害をもたらしたような印象を持っています。
金融システムを集合知に見立てるとすると、その目的はさしづめ「リスクとリターンを考慮した資本の効率的な配分」あたりだろうと思うのですが、金融危機は様々なプレイヤーがリスクの見積もりを大きく間違え、それらが相互依存的に脆弱な状態を作ってしまったことで生じたようです。サブプライムローンの当事者は無責任なローンを組み、そのリスクをコントールするはずのCDOが広域的で一様なリスクに弱かった、また、CDOの市場を過大化させるようなオペレーションをしていた機関があったためにバブルが長引いたという報道もされています。レーティング機関もそれを考慮に入れられなかった。CDSのようなデリバティブを通じて、広くリスクが連鎖していたようです。その中には、レバレッジを利かせたハイリスク・ハイリターン狙いの投資も相当混じっていたようです。
そのような脆弱性の存在を見抜くとか、危機を事前に予測することは簡単ではなさそうです。また、これは誰か影響力の大きなプレイヤーが失敗したこととか、誰か特定の制度設計者が多くのプレイヤーを一定方向に導いたことの結果とも言いづらいように思います。集合知のプロセスでは、少しぐらい極端な意見を持つプレイヤーがいても、極端に振れる方向がまちまちであれば互いに打ち消しあって全体として妥当な線に落ち着く、ということがしばしば起こると期待されていると思うのですが、僕から見える限り、金融危機の発生プロセスがそういう形になっていないのは興味深いことです。
金融危機から得られる示唆
ウィキペディアについて指摘したようなオープン性の話につなげると、集合知の仕組みがうまく働くようにするためには、少なくとも透明性を強化し、他のプレイヤーを欺くインセンティブがあるプレイヤーについては監視や監査のようなメカニズムを強化した方がよいのではないか、と僕は感じています。この監視は、透明性を確保して不特定多数に任せられるとよいのですが、公開できない情報もあるでしょうから、立ち入り検査的なスキームも必要になるでしょう。
ただ、そうした情報流通の促進と、相互監視のような路線だけでは今回の問題を防げなかったという意見も思い浮かびます。たとえば貪欲さに駆られて不道徳な行為や違法な行為を行うプレイヤーが蔓延し過ぎたことに根本的な問題があるというような議論を耳にします。これは7つの大罪のひとつを犯したために罰が下ったのだ、という宗教的な発想に根ざす部分もあるでしょう。同時に、取引が非常に複雑になるにつれてお互いに相手を騙すことも容易になりますし、いくら透明性を強化し、監査を強化したところで人間が処理できる情報には限界がありますから、悪質なプレイヤーや行為を発見できない可能性はだいぶ残りそうだとも思います。そこで、道徳を強調することや、複雑な金融スキームに強い制限をかけるという発想は、合理的な面もあるようにも見えます。実際、ウィキペディアがオープンなアプローチを採用しても「案外」うまく行っている背景には、ウィキペディアにとって有害な動機を持った参加者の数が少ないという事情もあります。制度の裏をかくようなプレイヤーは検索エンジンにとっても厄介な存在ですし、金融危機においても少なからぬ被害をもたらしていたようです。もっと端的な例は、米国では対テロ対策にも見ることができると言えるかも知れません。参加者に対する信用が成り立つかどうかは、設計者と並んで集合知にとっては大きな問題、とは言えないでしょうか。
もっとも、金融危機については、特定の方向からのプレッシャーがあったためにああいう問題が生まれたのだという議論もあります。Fannie Maeなどを通じて返済が困難な貸付けを助長するような政府の介入があった、という批判はその典型だと思います。市場に任せておけば危機はおきなかったはずだ、という主張だと言ってもいいでしょう。
集合知の課題
さて、既に予定よりだいぶ長くなってしまいました。簡単にまとめてご返信とさせて下さい。山口先生は、全員参加による弊害と、特定少数の影響力が大きいことによる弊害を指摘されました。ウィキペディアに関しては、全員参加ではないものの広い範囲の人が参加できるオープンな状態にしておくことで、問題を小さく抑えることができるように思います。もちろん、オープン化の弊害は数多くあり、ウィキペディアの参加者の間でも、どこをどの程度オープンにするべきかについて、様々な議論があります。
ただ、オープンなアプローチが「案外」うまく行く例はこれからも見られるのではないかと思います。人はオープンなアプローチのメリットを過小評価しやすい傾向があるようで、ジェームズ・ボイルはそれを「文化的広場恐怖症」と名づけています。オープンなアプローチというのは、何かをオープンにする局面を考えれば、他人に決定権の一部を委ねること、他人の影響に身を晒すことにつながっていることが多く、確かに恐怖症の対象になりそうに思います。
同時に、インターネットをはじめとする情報通信技術の発展がまだ新しいことにも起因しているのではないかと思っています。集合知的な仕組みは古くからあり、その成功も失敗もまた同様ですが、情報通信技術は情報の流通や複製、解析、といった行為を高度に効率化・低コスト化しています。そのお陰で、共同作業や、関連のある情報を収集するためのコストが下がります。
これは、既に集合知的な仕組みになっていたものを高度化する効果も持つでしょうが、同時に、特定少数に任されていたプロセスを不特定多数に開いていくとか、一緒に取り組めそうな特定の他人・集団を探すといったオープン化のメリットを高める効果も持つことになると思います。物事にどの程度他人を巻き込むか、物事をどの程度他人にゆだねるか、どの程度公開するか、といったことについての最適解をオープン側にシフトさせた、と言ってもいいでしょう。だから「これまでの常識」に照らして考えれば「案外」と形容したくなるようなアプローチでうまくいく例がいくつも起こっているのだろうと思います。百科事典の編纂というのは、そのようなもののひとつであり、ウィキペディアがそれなりの規模や質-――質についてはまだまだ課題がありますが――を達成してきたのは、巨視的に見ればそういう事情によるとも見られるのではないかと思います。
技術的にはメモリーやプロセッサーや、通信速度などの効率化・低コスト化はまだ終わっていないようです。そうすると、オープン化の余地もまだ残っている、ということになると思います。
ただ、それも信用があってのことであり、透明性や相互監視のような仕組みだけでは、かなり効率の悪い仕組みになってしまうのではないか。抽象的ですが、自分の中にあるそんな問いで、ご返信を結ばせて頂きます。
2011年3月7日
渡辺智暁