山口 浩/第2信 (1)
2011年12月31日
渡辺智暁さま
お返事がすっかり遅くなってしまい、大変申し訳ありません。
私からの第一信へのお返事をいただいたのが3月7日、東日本大震災の直前のことでした。それから、あまりにもたくさんのことがいっぺんに起き、この国をかたちづくってきたものの多くが、大きく変わってしまいました。私自身が被災したわけではないのですが、この経験はやはり大きかったと思います。
もちろん、この往復書簡のことを忘れていたわけではなく、むしろあれ以来、いろいろ考えこんでおりました。それらを踏まえた上で、もう一度気を取り直して、この往復書簡を再開したいと思います。
よろしくお願いいたします。
ウィキペディアにおける「2つの見えない壁」
まず、ウィキペディアへの私の疑問に対するお答えについてです。私の疑問は、
- (1) ウィキペディアは管理者中心の計画経済のようなものになってしまわないのか?
- (2) あるいは逆に、開放的過ぎて質の悪い投稿が質のよい投稿を無駄にしてしまうようなことが頻発しないのか?
といったものでした。これは、ウィキペディアそのものに対する批判ではもちろんなく、集合知とは何なのかという、私が以前から考え続けている問いを、ウィキペディアに即して言い換えたものです。これに対する渡辺さんのお答えは、勝手ながらまとめさせていただきますと、
- (1)’ ウィキペディアの運営はオープンに行われており、誰でも参加できることから、計画経済のように少数者に牛耳られているわけではなく、少数者ゆえに起きる失敗は起きない。
- (2)’ ウィキペディアでは、自らの意見を押し通したり、質を下げようとしたりする投稿者よりも、皆の議論を通じて記事の質を高めていこうとする投稿者の方が相対的に多い。
といったところになりましょうか。つまり、オープンなしくみで形成される集合知は、一般的な懸念に反して、意外にうまくいく、少なくともウィキペディアではうまくいっている、という趣旨かと思います。
ただ、反論するわけではないのですが、私の疑問は、上記の通り、集合知全体にかかる、もう少し大きな文脈でのものです。端的にいえば「集合知を担うのは誰か」、集合知を「みんなの知恵」と呼ぶなら、そこでいう「みんな」とはいったい誰なのか、ということです。
ウィキペディアの場合、実際の執筆や編集に参加している人がその利用者全体のうちどのくらいの比率なのかはよく知りませんが、おそらくごく小さな割合なのではありませんか?多くの人が関わるとはいっても、項目ごとに分かれた小さな記事の集合体である「オンライン百科事典」の各項目単位でみれば、書いているのはごく少数、ニッチな項目であれば1人であることも珍しくないのではないかと思います。
誰でも参加できるのに、なぜ少数の人しか編集に参加しないのでしょう。そもそも、「オンライン百科事典」の執筆というのは、当該項目に関してそれなりの知識が必要なだけでなく、それを適確に表現できる文章力も必要であり、はっきりいって、誰にでもできるものではありません。またこの作業に報酬はないわけで、そうした高度な作業を無償で行うというのは、かなり強いモチベーションを持っている人のはずです。そして、そうした人は、相当限られた層ということになるでしょう。つまり、かたちとしてはオープンで誰にでも開かれているウィキペディアの編集という作業は、実は、能力と意欲という、2つの見えない壁によって、一般から隔てられた領域で行われているのではないか、と私には見えます。
比較のため、たとえばツイッターのようなサービスを考えてみます。そこでの「知」の形成のしくみは、ウィキペディアとは大きくちがいます(もちろん「知」の内容や水準もウィキペディアとは大きくちがうのでしょうが)。ツイッターの場合も、書き込みの多くはごく一部のユーザーによってなされていますが、まったく書き込みをしないユーザーが圧倒的多数を占めるという状況ではないでしょうから、利用者全体の中で書き込みを行う者の割合は、ウィキペディアよりはるかに高いでしょう。また、たとえ発信力、影響力の強いユーザーがいたとしても、他のユーザーの書き込みを直接書き換えてしまうようなことはできません。
全員参加ではないから集合知とはいえないとか、そのような集合知に意味はないとかいう主張ではありません。もともと集合知とはそもそもそういうものでしょうし、集合知の形成過程において、貢献度が人によって異なることも当然想定されているはずです。「可能性」としてすべての人に開かれているからといって、実際にすべての人がその機会を利用するわけではありません。