山口 浩/第2信 (2)
2011年12月31日
「ジェダイの騎士」と集合知の「不都合な真実」
にもかかわらず私がこの点にこだわるのは、集合知を語る際、情報技術の進展やそれによる個人のエンパワメントといった要素を強調しようとするあまり、つい「オープン性」とか「誰でも参加可能」とかいった、いわば耳ざわりのいい概念にとらわれてしまいがちになるからです。
集合知の話をするときに私はよく、集合知を制度化した事例の1つである政治の話になぞらえてみます。ツイッターは、参加者の発言が、大小はともかくダイレクトに反映されるという意味では、直接民主制に近いものと考えることができるでしょう。書きたいことを自由に書けるのはいいですが、全体を集約して一定の方向性を出すことは難しいですし、誰かが全体をコントロールすることはさらに困難です。
これに対して、ウィキペディアの場合は、利用者の中のごく一部の「優れた」能力と意欲をもった人々が、知の形成のために奮闘している、ということになるのでしょう。前信で使った「計画経済」という表現が悪い印象を与えるのでしたら、映画『スターウォーズ』に登場する「ジェダイの騎士」と呼んでもいいかもしれません。ジェダイの騎士は、銀河共和国の民主主義的な統治機構(古代ローマの元老院をモデルにしています)の上位に立ち、卓越した叡智と超能力によって共和国が「衆愚」に陥るのを防ぎ、宇宙の平和を守ってきたと描かれているエリート集団です。そこになぞらえれば、彼らの活躍によって、ウィキペディアという「宇宙」も一定の秩序と比較的高いレベルのサービスが保たれているというわけです。
しかし、たとえ集合知のためのオープンなしくみを作ったとしても、実際には、オープンであれば誰でも参加するというわけではありませんし、皆が参加すればいい結果が得られるというものでもありません。その前には能力と意欲による「見えない壁」があるわけです。ではその壁が悪い効果を生んでいるかというと、少なくともウィキペディアの場合は逆に、いい効果を生んでいるということになるのでしょう。つまり、よりよい集合知を集めるためには、オープンであることもさることながら、能力と意欲を備えた参加者が集まっているということの方がより重要なのかもしれません。
このような考え方は、政治の分野でいえば、ある種のメリトクラシーになるのでしょう。また経済の分野でいえば、市場における参加者間の力の差をより積極的に許容する考え方に近いかもしれません。いずれにせよ、集合知をどこかで「開放」「平等」のイメージをもって見ている人々にとっては、あまり居心地のよくないものであろうと思います。