山口 浩/第2信 (3)
2011年12月31日
「輿論」をいかに集めるか
もう少し受け入れやすい表現をしましょう。ご存知の通り、今、「世論」ということばは「せろん」とも「よろん」とも読みます。しかし、かつて「せろん」は「世論」、「よろん」は「輿論」と表記され、この2つは別のものを指していました。前者は世間一般の人々の浅薄な意見であるのに対し、後者はより深い思考に基づく主張であって、より重要なのは後者であるという含意です。よりよい集合知を得るために、世論よりも輿論を重視すべきである、という表現であれば、それほど違和感はないのではないでしょうか。
こんなことを考えるのは、今の社会が、かつてないほど「世論」の影響を受けやすくなっているようにみえるからです。技術の発達によって、情報発信のコストが劇的に下がったため、「世論」の可視化が進み、これまでよりはるかに大きな存在として意識されるようになりました。「声なき民」の声が届きやすくなるわけですから、本来これは歓迎すべきことであるはずです。しかし、合理性を要求されるところで必ずしも合理的ではない考え方に影響されたり、明らかに矛盾した意見が併存したりする状況があるように思われ、手放しで歓迎とはいいづらいところです。
たとえば、東日本大震災後、マスメディアや、ツイッターなどのソーシャルメディアを通じて、原発事故による放射性物質の拡散状況やその健康への影響、必要な対策等について、多くの専門家の見解とは異なる非科学的な言説が多く流されており、少なからぬ影響力をもっているようです。もちろんこの領域は、まだわかっていないことも多くあるため、それらがまちがいだといちがいには言い切れないのでしょうが、だからといって科学的な知見が無視され、代わりに非合理的な主張が取り入れられて、ムダに予算が使われた場合、他の有用な対策にしわ寄せがいき、結果として社会全体が悪影響を被ります。
民主主義の政治は、多くの社会で、間接民主制を採用しているわけですが、それは、移ろいやすく、しばしば方向を誤る世論を受けながら、ときにそれを改変したりスルーしたり、いわばうまくいなしつつ、その中から輿論を抽出し政策に反映していく作業といえるでしょう。しかし最近は、世論の影響力が強くなりすぎて、しばしば押し流されてしまっているのが実情ではないかと思います。もしそれが適切な見方であるとすれば、政治の領域でも、現在のやり方を少し変えた方がいい、ということになるのかもしれません。
その意味で、今私が持っている問題意識は、世論の中から輿論をどのようにして発見したり集約したり、あるいは醸成したりするのか、またそのためにどんな技術やメカニズムが必要なのか、という点です。予測市場をはじめとする集合知メカニズムに着目したのも、同じ理由で、市場メカニズムを使って、情報に重み付けをすることはできないだろうかというわけです。しかし、上記の「能力と意欲による壁」は、ここにも存在します。もともと人が興味を持ちやすいテーマならいいのですが、そうでない場合、集合知を活用したいと考えたら、「能力と意欲の壁」をどのように乗り越えるか、いかにして有益な「群衆の叡智」(輿論と呼んでもいいでしょう)を集まるかを、真剣に考えなければならないということです。
その観点で、渡辺さんにご意見を伺いたいことがあります。ウィキペディアにおいて、現在の運営方法がうまくいっているとのことでしたが、そのようなアプローチは、他の領域で集合知を活かそうとする際に、どの程度の応用可能性を持っているとお考えでしょうか。たとえば、ウィキのアプローチで教科書を作ろうという「ウィキブックス」というプロジェクトがあるかと思います。現在どのようになっているのか詳しく知りませんが、少なくとも、ウィキペディアのような成功は収めていないようにみえます。なぜなのでしょうか。
その他の領域、たとえば政策形成のようなものは、同じようなプロセスで可能だとお考えでしょうか。現在の政治システムとウィキペディアとでは、集合知のあり方はどうちがうのでしょうか。あるいは逆に、よりよい集合知を形成するため、現在のウィキペディアのやり方に、改善の余地はないのでしょうか。他の領域から参考になるものはないのでしょうか。
質問ばかりで申し訳ありません。よろしくお願いいたします。
2011年12月31日
山口 浩