成熟する「近代」をどうとらえるか
公文俊平
聞き手: 鈴木 健GLOCOM主任研究員 ┼ 庄司昌彦GLOCOM研究員


「まとも性」を獲得するバーチャル世界

鈴木 健(以下,鈴木)─── 今回の『智場』の特集では「情報社会研究のフロンティア」と題して,ここ2,3年,特にめまぐるしい展開を見せている情報社会の動きの一端を,個別の研究テーマを通してとらえようと試みています.
 公文先生の書かれたものを読むと,昔から基本的な部分は変わっていません.基本的な理論に,日々,他の分野を含む最新の研究なり理論を取り込みながら進化させているという印象を受けます.今日はまず,公文先生自身の言葉で情報社会をどうとらえているのかをお聞きしたい.そのうえで最近,公文先生が取り入れた差分について,それから,ここ2,3年の動きをどうとらえているか,この3点を柱として聞いておきたいと思います.
 早速ですが,ここ2,3年で特に注目しているというか,面白いと思った動きはありますか. 公文俊平

公文俊平(以下,公文)─── 一番面白いと思うのは「セカンドライフ」です.SNSについていろいろ言われていたけれど,もう一段進めるとバーチャルなコミュニティができます.それは,リアルなコミュニティと連動して裏表のような関係になるでしょう.そのバーチャルなコミュニティは,結局はリアルなコミュニティそのものであって,そこで作られたたくさんのバーチャルグッズは,リアルマネーでトレードされることも充分ありえます.そこは人間の新しい活動領域なのです.これまで創作に無縁だった人々が音楽や文学をやるようになって,それが資本主義社会ではビジネスにもなってきました.そこにリアルな実態があるかというと,「ない」と言えばない.しかし,「ある」と言えばある.これとまったく同じことです.

鈴木─── 今となってはみんな音楽や文学にはリアルな実態が「ある」と言うようになったけれど,昔は誰も「ある」とは思っていませんでしたね.

公文───  そもそも,まともな人間のやることではないと思われていたふしがある.

鈴木─── 丸山茂雄さん(元ソニー・ミュージックエンタテインメント代表取締役社長)によると,昔は,音楽はまともなビジネス世界でやることではないと思われていたとか.

公文───  文学は良家の子女の読むものではないとかね.それと同じような意味で,オンラインゲームのキャラクターの世界や冒険は,まともな社会活動とはみなされていなかったけれど,だんだん「まとも性」を獲得し,もしかしたら非常に高級なものであると認識されるようになるかもしれない.普通の日常生活よりもはるかに充実していて意味があって,場合によってはお金にもなるし,名声の種にもなる.そういう可能性が開けつつあって,それが一体どこまでいくだろうかというのが気になります.「セカンドライフ」は来月から日本語化されますね.

「セカンドライフ」の身体性

鈴木─── 昨年11月に「セカンドライフ」を運営するリンデン・ラボに行ってきましたが,面白い会社でしたね.まさに公文先生がおっしゃられたようなことを,本人たちも意識的にやろうとしている.「セカンドライフ」という名前自体がいいですね.

公文─── そのうち「ファーストライフ」になったりするかもしれない(笑).そこにカリフォルニア大学とか,大学がたくさん進出していますね.

鈴木─── そうです.70ぐらいの大学が出ていると言っていました.

公文─── 大使館も出たし,企業がたくさん支店を出している.先日,新聞に「三井住友銀行がドバイに支店を出しました」という全面広告があったけれど,そのうち「NTTはセカンドライフに支店を出しました」という広告が出ても一向におかしくない.

庄司昌彦(以下,庄司)───  mixiは出しました.求人をやっていますね.

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鈴木─── 公文先生が『情報社会学序説』 *1 などで展開されている三段階の世界観で言えば,「セカンドライフ」のような3D仮想世界はどういう位置づけになるのですか.

公文─── 私の言う近代社会の成熟局面としての情報社会そのものです.情報社会とはどんな社会かと聞かれると,産業社会で富のゲームが普及したのに対して,情報社会では智のゲームが普及するだろうと言ってきたわけですが,では,智のゲームとは具体的にはどんなものかというと,なかなかわからない.いわゆる評判ゲームだという見方もあるし,ことによると「セカンドライフ」のようなところで人々がある種,競争的に社会的な相互作用を展開していって,そこで名声を獲得したりビジネスを立ち上げたりするということが,広い意味での智のゲームと言えるのかもしれない.それだと,智のゲームの定義を少し訂正しなければいけないかもしれない.単純に「説得力」を獲得しようとするゲームだという定義ではなくてね.
 富のゲームが盛んになれたのは,商品が安く大量に生産できるようになったからです.そうすると,智のゲームでそれに似たようなプロセスを考えると,デジタル化した世界で,デジタルな情報あるいは智が非常に安く大量に産出されるということが考えられます.それらの智は,これまで考えられてきたような科学的・情報的な知識ではなくて,バーチャルな世界におけるエンティティの形̶̶もちろん思想でも芸術でもいいし,建物でも島でも山でも,世界でもいい̶̶をとるようになるのではないでしょうか.

鈴木─── 「セカンドライフ」の何が新しいのか,根本的に考えてみると結構難しくて,要するに今まであったものが3Dになっただけではないかという話になる.ぼくは,その3Dになったことが実は大事ではないかという気がしています.それが何かというと身体性です.まさにそこで暮らしているような身体の感覚があって,身体感覚にフィットしやすい.たいしたことではないように見えますが,これが結構大きい問題です.「智」と言ったときに,説得のような言語によって構成される近代的な智の形態だけでなくて,いわゆる身体,服を着たり,家に住んだりするのも「智」の形態です.そういう身体「智」や暗黙「智」も含めた智というイメージに,情報社会論の智のゲームの定義が広げられたのではないでしょうか.

公文─── まさにそういうことかもしれませんね.

庄司─── バーチャルなコミュニティというか,生活のありようが,身体性を獲得したということですね.

鈴木─── 身体性を獲得しつつある,最初のきっかけのような状況ですね.ネットオークションで数字を見ながら云々だと,身体性が希薄じゃないですか.「セカンドライフ」の中で洋服を着るということには,若干ですが身体性がありますね.

公文─── イメージが文字ではなくて視覚化された.そのうち触れることができたり,匂いがしたりということになるかもしれない.

鈴木─── ネットの動きでは「セカンドライフ」が一番面白いということでしたが,最近,読まれた本の中で,情報社会論の基礎に取り入れたらいいのではないかという研究は何かありますか.

公文─── 脳の研究をもっとまじめに考える必要がある.養老(猛司)さんが20年近く前に『唯脳論』を書いていますが,あれはすばらしい本です.結局,この世界は脳がつくり出した.肉体が物理的な世界とかかわるためのメディアであるのと同じように,「言葉」というのは,脳がつくったメディア,いわゆる現実と呼ばれている世界とかかわるためのメディアです.そして肉体の延長物としてわれわれは道具を持ち,さらに機械を持つようになったけれど,今度は言葉の延長物としてコンピュータやデジタルな記号が出てきているという関係です.しかしそうすると,そういうことをやっている人間というのはいったい何だろうと思う.訳がわかったようでわからない.

鈴木─── 主観性とか,意識の起源とか.人間自体の探求になってしまいますね.

近代と手段的能動主義

公文─── 主体という概念をもとにモデルをつくるにしても,ただ考えればわかるというものではないんでしょうね.そこへいく前に,もっと基本のところの話と「差分」の話をしておきたい.
 いままで繰り返し言ってきたことですが,私の言う情報社会は,広い意味での近代社会であって,近代社会が軍事社会あるいは国家社会として出現してきて,そして産業社会として突破する.ここで近代が本格的に花開く.そして情報社会として成熟していく.これが私の基本的なビジョンです.その時期は,主権国家の形成が始まったのが16世紀後半ぐらいからです.その約200年後の18世紀後半に産業化が始まり,さらにその約200年後の20世紀後半に情報化が始まります.その三つのそれぞれに,出現・突破・成熟の局面があるとすると各300年になりますから,産業化の成熟は情報化の出現とちょうど重なる.こういう関係になっているというのが基本認識で,最初に考えていたのは,そういう近代化が主として起こったのはヨーロッパであった.そして日本が追いかけた.日本がヨーロッパ的な主権国家形成に乗り出したのは19世紀後半ですから,300年遅れている.ところが産業化を本格的にやりだしたのは̶̶19世紀の後半と言ってもいいけれど̶̶戦後と考えると20世紀の後半で200年遅れです.そして情報化では,ほとんど遅れがないというところに来ています.
 これが基本認識だったのですが,その後でいろいろ考えてみると,もっと枠を広くできるのではないか.つまり近代化というプロセスは,要するに人々のポジティブなパワーを発揮しようという意欲,しかも有効な手段を使ってパワーを発揮しようという思想̶̶村上(泰亮)さんの言葉でいうと手段的能動主義(instrumental activism)ですが―――中心であるとするならば,その意味での近代の開始はもっと早いのではないか.そう思うようになりました.
 手段的能動主義は,手段を蓄積して有効に使いたいという考え方です.そうすれば何ができるかというと,進歩する,世の中がよくなる,あるいは自分の理想や目的が実現できる.これが人間中心的進歩主義で,これも近代の中核的な思想です.この人間中心的進歩主義を支えるのが手段的能動主義なのです.では,どうすれば有効な手段をたくさん手に入れることができるかというと,近代人は「それは自由にしておけばいいのだ」と考えた.思想の自由,行為の自由です.行為の自由を認めると衝突が起こりますから,何をしてもいいというわけにはいかない.一定の制約は必要だけれど,制約はなるべく少なくしておいたほうがいい.つまり進歩主義・能動主義・自由主義が近代の三つの思想的な柱だとすれば,そういうものはかなり古い時代から出てきていたのではないか.日本の場合で言うと,われわれが昔やった日本のイエ社会の研究 *2 がありますが,日本のイエ社会は10世紀ぐらいから東国を中心として形を取り始めてきていたと考えられます.いま思うと,それをそのまま近代化の開始だと考えることができる.なぜなら,人々がそれ以前の京都中心の朝廷のしがらみから自由になって,自立して領地を開拓し,武力を持ち,割拠して封建的,領域的な権力をつくり,それが集権化されていくことによって主権国家になっていく.そうすると10世紀ぐらいからの,いわゆる封建制,中世の始まりは,実は近代の始まりであった.そう考えると,ヨーロッパもそれくらいから,このような広い意味での近代化の動きが起こっていたと考えてもいいのではないか.

10世紀に始まる広義の近代

庄司─── 封建制の始まりが近代の始まり,ということですか.

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公文─── はい.そうすると,その次のメルクマールは,ここ十数年,日本史の研究者の間では通説になりつつあるようですが,15,16世紀というのが一つの大きな転換期であった.九州にいる渡辺京二さんがうまくまとめていますが,15世紀からの戦国時代は百姓が武士化した時代だった.つまり,それ以前の10世紀ぐらいからの武士,天皇家から別れた清和源氏や桓武平氏などの子孫たち,あるいはその周りにいた家人たちがつくり上げた鎌倉や室町の武士の政権とは違って,地域的に言うと中心は中部地方,濃尾平野,要するに信長,秀吉,家康たちが活躍したあの地域です.あの地域で農業生産性が上がって,人々がある程度豊かになり,自分も武士になって権力を得たい,出世したいと考え始める.つまり,下克上の時代です.古い武士支配の体制を破壊して新しい武士支配の体制をつくる.しかし,そこには農民的要素も入っているそうです.徳川政権の行政機構,合議制や輪番制には,農民流の集団主義的な考え方が取り入れられているらしいのですが.とにかくその意味では,10世紀に始まった社会変化の流れに,15世紀ごろ一つの大きな転換があって,出現・突破・成熟という言葉を使うなら,日本の近代はそこで突破をした.つまり戦国時代になって,そこで全国的な集権化がなされて,まさに近代的な主権国家と言いたいような徳川の国家ができた.信長が生きていればさらに違った形の国家をつくったかもしれませんが,結局そうはならなかった.

鈴木─── 戦国時代は半農半士の形で,農業をしながら農閑期になると戦争をしていた.織田信長はそれをサラリーマンにしたわけですね.

公文─── それはもちろんあるのですが,ヨーロッパと違うところは,農民と武士が完全に切り離されたわけではなくて,身分の差はつけたけれど,武士が農民を全面的に支配するというのでもない.一方では,農民が武士の身分に上がることのできる道もある程度開いているし,他方では,農村に対して非常に大幅な自治を認めている.司法権,警察権,それから徴税権まで,村が責任をもって請け負うという仕組みをつくっているわけです.ですから,徳川国家は,自分たちが出てきた農民的ルーツをある意味ではとても大事にしている.

鈴木─── 自治が認められているということは,近代の一つの重要な柱である自由主義とかかわってくるのですか.

公文─── 関係してくる可能性がありますね.武士の手段的能動主義も当然そこに入ってくる.徳川時代は江戸の文明をつくり,産業革命と違った意味での生産性革命を達成した.これを経済史学者は勤勉革命と呼んでいます.機械は使わなかったけれど,自分たちの身体と心,そして土地を上手に使うことで生産性をあげた.そういう意味では,ヨーロッパと並行して経済の発展も進んでいた.政治的には,主権国家を超えた,いわば個々の主権国家を統合したある種の連合国家,あるいは連邦国家のような形を徳川政権はつくった.つまり,徳川政権に対して,相当自由な行動の範囲を残した外様の大名が周辺に配置されていたわけです.これも非常にユニークな形の国家です.

鈴木─── ヨーロッパ的な意味での主権国家の概念は,一つは対外的なレベルでウェストファリア条約があります.もう一つ,内部的な統治の技術として,社会契約論が出てきて,王が統治するのではなくて,神を通さずに国家というものは民衆が持っているものである,統治者は代理人であるというような考え方に変わったということです.その二つがヨーロッパにおける主権国家の考え方だと思います.今の話で日本の近代と言うとき,これとどう整合性をとればいいのでしょうか.

公文─── 日本は,戦国大名たちがまさに主権国家だったと思えばいいでしょう.もちろん,宗教的な自立性も持っていました.それ以前の律令制国家の鎮護を中心とする仏教とは違う,新しい仏教を信じるようになっていく.そしてその領域的な「国家」の主権性を制約して,「天下」という大きな連合国家,「公儀」という超国家的な統治の体制をつくったのが,徳川幕府です.その意味では,日本がつくりあげたのは一種の国際社会だったといえるでしょう.

鈴木─── 司馬遼太郎が指摘しているような,明治維新になるまで日本という概念がなかったという話ですね.

公文─── 言葉も通じなかったから,謡曲の言葉で語ったと司馬さんが書いていますね.そう考えると,大きな意味での近代化は,10世紀に出現し,15世紀ごろに突破が始まって,まさに20世紀後半ぐらいからが成熟ではないか.こう考えると,日本でもヨーロッパでも,10世紀ごろから並行的に始まった近代化のプロセスが20世紀以降に成熟していくと言えるのではないか.

世界同時並行に起きた近代の萌芽

鈴木─── ヨーロッパでもそうなのですか.

公文─── つまり,ヨーロッパのいわゆる近代化と呼ばれた過程は,先ほどの広義の近代化の考え方で言うと,真ん中のところ,つまり15世紀からの突破に対応するわけです.それ以前の封建化と呼ばれる過程は出現に対応する.そう考えると,乱暴な推論ですが,日本の近代化は最初,関東で始まり,次に中部に来た.それなら次は九州じゃないでしょうか.もともと大和朝廷が南から来て,だんだん東北へと支配を広げていった.今度は逆に軍事力や経済力の面で東北の強い影響下にあった関東から中部に来て,さらに南に行ってアジアに向かうという流れが見て取れるのではないか.
 これは余談ですが,転換点になった10世紀ごろというのは非常に面白い.私が長年疑問だったのは,坂東武士のルーツです.坂東武士は開発領主と呼ばれた開拓農民である一方,弓馬の術が達者で,巻狩りが大好きでした.巻狩りというのは,大々的,組織的な狩猟です.たとえば富士の裾野で,たくさんの勢子を使って山を取り巻き,獣を追い出して網や矢でとらえる.これはそのまま,組織的な軍事行動にも結びつく.とすると,彼らを単なる農民とは考えにくい.別の要素がある.軍事的には弓だけではなく刀も使っていて,その刀身が反っています.それ以前の大和朝廷の刀はまっすぐで,これでは馬に乗って斬れない.馬に乗って斬撃力をつけるためには刀身が反っていなくてはならない.それがどこから来たかというと蝦夷の「蕨手刀(わらびてとう)」なのだそうです.どうやら坂東武士は,弓と馬だけでなく刀も,ついでに言うと金も,東北からもらっている.その東北は,東北アジアとの交易や人の移動があり,これらの文明はそこから入ってきたものです.つまり,大和朝廷が南方から来たものであるとすれば,武士の力は北方から来たということのようです.私はそれを,とても興味深いことだと思うようになりました.
 そう考えると,遅れて近代化した日本がヨーロッパに追いつき追い越す,という見方ではなく,近代化はもともと両地域で,いやことによると世界のさまざまな地域で,同時並行的に起こっていたという見方がとれる.そして,20世紀以降の近代の成熟は,グローバルな意味で近代文明が大きく高揚する時期であり,近代化がグローバルに広く進むことを意味する.今,中国,ロシア,インドその他の国々が本格的に近代化を進めています.20世紀前半までは,そういうところでは近代化は起こらないというのが常識で,日本が非ヨーロッパにおける近代化成功の唯一の例だといわれていたのですが,どうもそうではなかった.それ以外の地域でも,近代化は十分起こりうる.でも10世紀から15世紀にかけて起こった近代化の最初のプロセスはヨーロッパと日本にしか見られなかったのかというと,そんなことはないのではないか.同じころ,中国にも,アフリカ,アラブ世界にも,いっせいに近代化は始まっていたのではないか.それこそカンブリア紀の多様な生物種の大発生のように,世界中いろいろなところで,ある種の自立的で能動的な生活形態や社会組織形態を探る試みが,多種多様な形でいっせいに行われたのではないか.

……つづきは智場109号で

*1 : 公文俊平[2004]『情報社会学序説̶ラストモダンの時代を生きる』NTT出版
*2 : 村上泰亮・公文俊平・佐藤誠三郎[1979]『文明としてのイエ社会』中央公論社