日本のソフトウェア産業の変遷───企業・政府・市場
砂田薫国際大学GLOCOM主任研究員


ソフトウェア産業の分水嶺

 1955年,世界初のソフトウェア会社が米国に誕生した.それから半世紀余りを経て,ソフトウェア市場は激変期を迎えた.パッケージソフトが提供してきた多くの情報処理機能がウェブへ移行し,オープンソースソフトウェア(OSS)が普及期を迎え,新たにSaaS(software as a service:サービスとしてのソフトウェア)が台頭する兆しをみせている.もはや「パッケージか受託開発か」「オープンかクローズドか」「有料が無料か」といった議論を超えて,ソフトウェア産業の存続自体が大きく揺さぶられている.

 はたして,今後もハイテク産業の一分野としてソフトウェア産業の発展は続くのか.それとも,伝統的なソフトウェア産業が衰退し新たな産業が生まれる創造的破壊が起こるのか.あるいは,ソフトウェア産業そのものが消滅し,組み込み型ソフトウェアのように,さまざまな業界で業務プロセスの一つと位置づけられるようになるのか.

 ティム・オライリーは,ソフトウェアの長期的傾向として,①コモディティ化,②ネットワークが可能にするコラボレーション,③SaaS,の3点をあげたうえで,ソフトウェアは「プロダクト(製品)」から「プロセス」になったと指摘した.

 たしかにプログラムやコモディティ化したコンポーネントといったソフトウェア製品は存在する.しかし,コモディティ化しない動的なプログラム言語が光る分野もある.とくに,アマゾンやグーグルのようなユーザーからダイナミックに反応が返ってくるサイトのソフトウェアは,プロダクトではなく「プロセス」である.マイクロソフトのWordは10年後も動くだろうが,インターネット時代においてはアマゾンやイーベイのサイトで常に最新版が入手できるような環境が整っていなくては,アプリケーションはその機能を発揮できない.もともとエンタープライズソフトのビジネスではこのような特徴を備えていたが,これが新しいパラダイムで支配的なビジネスになってきたのである★1.

 一般的に,ソフトウェア産業の歴史はアンバンドリング・モジュール化・オープン化・コモディティ化の進展としてこれまで理解されてきた.しかし,ウェブサイトやSaaSの重要性が高まるにつれて,産業進化の方向に変化が起こりつつある.オライリーの予測はパッケージソフトよりもエンタープライズ向けのカスタムソフトを,モジュール化よりも統合化を得意としてきた日本のソフトウェア産業にとって,朗報なのだろうか.

 本稿では,ソフトウェア産業が歴史的な分水嶺にさしかかっていると認識を出発点として,日米の産業史を「企業と政府の関係」「市場変化」という二つの視点から振り返ってみたい.そして,日本のソフトウェア産業が新たな発展をめざす戦略について考察する.

米国ソフトウェア産業と国防総省

 ソフトウェア会社を「コンピュータのプログラム開発を手がける独立した営利企業」と定義するならば,世界で最初に誕生したソフトウェア会社は,エルマー・クビーとジョン・シェルドンという二人のIBM出身者が1955年に米国で設立したコンピュータ・ユーセージ社(CUC)である.同社は1960年に株式を公開し,1967年には従業員が700人を超える企業に成長したが,1970年代の終わりに財政難に直面し,1986年に倒産した.1956年には,ランド・コーポレーションから独立した非営利のシステム・ディベロップメント・コーポレーション(SDC)とCEIR社が発足した.1959年にはユニバック出身の7人のプログラマーがアプライド・データ・リサーチ社(ADR)を設立した.また航空産業でコンピュータ経験をもつ技術者の二人がコンピュータ・サイエンシズ社(CSC)を同年に設立し,10年後には業界トップの座についた.

 1960年代末,米国では創業資金がかからないソフトウェアのベンチャー企業が続々と誕生し,2000社近くまで急増していた.しかし,年間数十億ドル(推定)のソフトウェア投資総額のうち,市場取引の対象となったのは一部にすぎない.市場プレーヤーのトップはSDCに代表される非営利企業や大学であり,二番目がハードウェアとの一括販売を行っていたコンピュータメーカーだった.独立ソフトウェア会社は市場取引の主役ではなかった.

 転機となったのは1969年である.この年,IBMが司法省との独禁法をめぐる裁判に負けて,ハードウェアとソフトウェアのアンバンドリングを発表した.これによってソフトウェアの有償化が進み,独立した産業として急成長をはじめる.そこで大きな役割を果たしたのが国防総省である.当時の米国では国防総省をはじめとする政府機関がソフトウェア需要の85%を占め,半導体など他のデュアルユース・テクノロジー(軍産両用の汎用技術)と比べても,ソフトウェアは軍需比率が格段に高いという特徴をもっていた.国防総省は,マサチューセッツ工科大学をはじめ大学とも連携して先進的なソフトウェアを開発した.いわば,産学官の強力なトライアングルで先端ソフトウェア技術の開発と独立ソフトウェア産業の育成の両方に力を注いだのである.主な成果には,半自動地上防衛システム(SAGE),各種タイムシェアリングシステム,COBOL言語,BASIC言語などがある.

 米国政府は,1960年にCOBOLが開発されると,翌年には政府調達の条件にCOBOLを含め,コンピュータ企業に製品化を急がせた.COBOLは事務処理用の標準言語として全世界に普及した.米国政府は技術の開発だけでなく普及および利用にも大きな役割を担ったのである.米国のソフトウェア産業にとって,国防総省をはじめとする政府機関は今もなお大口需要者であると同時に,デファクトスタンダードの決定や新しい応用分野の開拓にも影響力をもつ存在であり続けている.

日本製ソフトウェアと電電公社

 日本では米国より11年遅れて最初の独立ソフトウェア会社が誕生した.大久保茂が1966年8月に設立したコンピュータ・アプリケーションズ ★2である.2カ月後の10月には富士通・日立製作所・NEC・日本興業銀行の共同出資による国策ソフトウェア会社の日本ソフトウェアが設立された.1969年になると,日本EDP,日本コンピュータ・システムなどの独立系に加え,コンピュータメーカー系のソフトウェア会社も次々と設立された.

 当時,独立系ソフトウェア会社上位8社の売上高総額に占める政府関連は6割弱だった.しかも,このうちの大半が1966年から1971年にかけて実施された最初の大型プロジェクト「高性能電子計算機開発」の仕事で,これを除く純粋な政府需要の比率は25%程度しかなかった.日米の政府需要には大きな開きがある.

 日本で大口需要者の役割を担ったのは1968年に「DIPS」コンピュータプロジェクトを開始した日本電信電話公社(以下,電電公社)だった.プログラム発注先はソフトウェア会社ではなく,DIPSの研究開発を共同で進めたNEC・富士通・日立製作所が中心となっていた.電電公社のプロジェクトは国産のハードだけでなくソフトの技術力向上にも貢献した.カスタムメイドのため技術内容は公表されていないが,「データベースの原型となるファイル管理技術などはすでに米国と同水準だった.日米の格差をほとんど感じなかった」と富士通でソフトウェア事業部門の創設に関わった中村洋四郎氏(元同社システム本部担当取締役)は証言している.

 コンピュータメーカーがソフトウェア開発力を高める一方で,国策ソフトウェア会社は失敗に終わった.政府は日本ソフトウェアに6年間で30億円の補助金を支給し,助成終了後はソフトウェアの外販で独立採算の会社運営を期待していた.しかし,労使紛争が深刻化し,大型プロジェクト終了後の資金難も追い討ちをかけて,1972年12月に解散するという結末をたどった.日本の初期の政策は,米国と違って,独立したソフトウェア産業の育成よりもコンピュータメーカーの技術力向上に焦点が当てられていた.

通商産業省のソフトウェア産業政策

 通商産業省で独立ソフトウェア産業が政策対象となったのは1970年である.7月に同省の電子工業課は,コンピュータ産業担当の「電子政策課」とソフトウェア産業担当の「情報処理振興課」に分離された.また,IPA法★3が公布され,10月にはIPAが発足した.とはいえ,当時はIBMへのキャッチアップが最重要課題だった.1971年の「特定電子工業および特定機械工業振興臨時措置法(機電法)」の制定を受けて,6社を,富士通と日立製作所,NECと東芝,沖電気工業と三菱電機の3グループ体制に分け,5年間で約650億円の資金援助を行って国産機開発を急がせた.1974年に国産機が完成すると,外国コンピュータ企業の資本・貿易自由化を急速に進め,1976年にはソフトウェア関連資本を含め完全自由化へと踏み出した.

 1977年11月,IBMに8年遅れて国産6社もハードウェアとソフトウェアのアンバンドリングを発表した.1978年には「機械情報産業高度化促進臨時措置法(機情法)」が制定され,6月には汎用ソフトウェアの有償化と流通促進を目的に「ソフトウェア流通促進センター」が発足している.しかし,日本ではなかなか汎用ソフトの流通が進まなかった.メインフレーム用パッケージソフトでは,大半が海外製品の輸入で,国産製品で売れたのは富士写真フィルムが社内利用を目的に開発し,後にソフトウェア・エージー★4が商品化した自動運用管理ソフト「A-AUTO」くらいだった.日本のソフトウェア産業はメーカーの下請け的なプログラム開発が多いのが特徴で,パッケージの輸入販売,ましてや自社開発・製品化は非常にわずかだった.

 バブル崩壊後の1992年,日本のソフトウェア産業の危機感はいっきに高まった.通商産業省の委員会★5は同年12月に「緊急提言:ソフトウェア新時代」を発表し,ハードウェア重視の従来の方針を早急に改め,情報サービス産業の構造転換を促すべきだと強調した.技術者の人月単位の労働でソフトウェアを取引する状態から脱するために,パッケージソフトやシステムインテグレーション(SI)サービスの育成を目的とした政策が強化された(図1参照).しかし,それから15年を経て,産業の構造転換は進まないまま現在に至っている.

図1:日本のソフトウェア産業政策の変遷
sunada1.jpg

市場変化と日本の戦略

 ソフトウェア市場では過去半世紀にわたってモジュール化が一貫して進展してきた.カーリス・ボールドウィンは,IBMが1964年に発表したシステム/360をモジュール設計された最初のコンピュータであると指摘している.それは,図2で示すように,初めてオペレーティングシステム(OS)の概念を採用するなど「メインフレーム中心の時代」のコンピュータの要素技術を定義したからである.ただ,モジュール間インタフェースはまだ企業内の各部門間で共有されるにとどまっていた.ところが,「パソコンとインターネットの時代」になると,プロセッサはインテル,OSはマイクロソフト,データベース管理システムはオラクルなど,モジュールごとの専門企業が台頭し,IT産業自体がモジュール構造へと変化していった★6.

図2:IT市場におけるモジュール化の進展
sunada2.JPG

 この変化に乗れなかったのは日本企業だけではない.「メインフレーム中心の時代」はIBMやDECなど,米国では東海岸が技術とITビジネスの発信地だった.しかし,「パソコンとインターネットの時代」になってそのリーダーシップは西海岸とくにシリコンバレーへ移った.IBMは1990年代初頭に大規模なリストラを余儀なくされ,DECはコンパックに買収された.IBMキャッチアップ路線でメインフレームへの依存度を高めた日本のコンピュータメーカーは,1990年代に軒並み業績を悪化させた.

 モジュールごとに専門企業が存在し,企業間でインタフェースが共有される設計のコンピュータシステムは,特定メーカーがユーザーを囲い込めないので「オープンシステム」と呼ばれた.IBMは市場がオープンシステムに変化したことでリーダーの座を奪われた.ところが,IBMはアウトソーシングサービスで復活を遂げる.その過程でLinuxへの10億ドルの投資や自社ソフトウェア特許500件のオープンソース化など,ライバルに先駆けてオープンソースに力を入れている点が注目される.企業内から企業間連携へ,さらには技術者個人を中心とするオープンソースコミュニティへと,イノベーションの震源が移行しつつあることを重視したのだろう.

 それに対し日本企業は,昔から優れたソフトウェア技術が存在し,現在でもまつもとゆきひろ氏が開発した「Ruby」のように世界的なプログラミング言語まで登場しているにもかかわらず,新しいビジネスを創出できず,技術者を消耗させるような状態が続いている.特許を保有する既存技術については,保守コストの節約と技術継承の両面からもっとオープンソースにすることが検討されていいだろう.オープンソースコミュニティからのフィードバックは技術開発における貴重な資源となりつつある.

 同時に,オライリーの予測をあらためて考えてみる必要がある.エンタープライズ向けカスタムメイドという日本が得意とする技術を新しいビジネスへと発展させていく道筋を考えることも重要である.日本の製造業はプロダクト・イノベーション(新しい概念の製品の創造)よりもプロセス・イノベーション(工程革新)に強いという特徴を持っている.ソフトウェアのサービス化を推進し,プログラムをプロダクトからプロセスへ変化させる動きを先導していくこと.それが日本のソフトウェア産業に有利な戦略となるだろう.


参考文献

★1── O'Reilly, Tim [2004] The Open Source Paradigm Shift(http://tim.oreilly.com/lpt/ a/4868)から要約・引用.
★2── 現シーエーシー.
★3── 情報処理振興事業協会等に関する法律.情促法ともいう.
★4── 現ビーコンIT.
★5── 産業構造審議会情報産業部会政策小委員会.委員長は今井賢一氏.
★6── モジュール化については,青木昌彦・安藤晴彦[2002]『モジュール化:新しい産業アーキテクチャの本質』(東洋経済新報社)および,カーリス・ボールドウィン&キム・クラーク著・安藤晴彦訳[2004]『デザイン・ルール:モジュール化パワー』東洋経済新報社,柴田友厚・玄場公規・児玉文雄[2002]『製品アーキテクチャの進化論』白桃書房,を参照した.