2008年06月27日
匿名レベルの設計に向けて
折田明子 国際大学GLOCOMリサーチアソシエイト
インターネットを介したコミュニケーションは,しばしば匿名性の高いものとして扱われている.1990年代よりインターネットと匿名性に関する数多くの研究がなされてきたが,匿名性についての議論の難しさは,それが「匿名性は善か悪か」という是非論に陥ってしまうところにある★1.ユーザーの多くがインターネット上では「匿名」を指向している現状では,むしろ目的に応じた匿名レベルの設計が必要であろう.
1. 匿名利用の傾向
インターネットを介したコミュニケーションにおいて「匿名」を利用する意向が強まっている.
『インターネット白書2007』によれば,オンライン・コミュニティ参加者の実名利用状況は,「すべて匿名で参加している」と答えたユーザーが60.9%を占めており,また22.7%のユーザーは「実名と匿名を使い分けている」と答えている.コミュニティに参加する時の意向では,匿名で書き込めることを支持するユーザーは62.7%に上るが,実名での書き込みを支持するユーザーは5.2%にとどまる★2.ただし,この調査において,匿名とはどのような状態を指すのか,継続して用いる仮名と,一度で書き捨てる名前(「通りすがり」「名無し」など)の違いは分類されていない.
一方,2004年3月ブログサービスの一つである「はてなダイアリー」[http://d.hatena.ne.jp/]に対して実施された調査では,実名でブログを開設しているのはユーザーの12.17%であり,残りのユーザーはハンドルを用いているという結果が出ている★3.実名を利用する割合が低いことは,ブログ作成の際に用いる名前にも匿名レベルの設計に向けて表れている.gooリサーチによる「Blog定期リサーチ」の結果からも,ブログ作成に実名を使用する割合はわずか6.5%という結果があり,その理由には,本名を知られることへの抵抗感や,身近な人に知られることへの抵抗感があるという★4.ブログは記事を蓄積していくために,ここで使う名前は継続して用いられているものと判断できる.
こうした状況を踏まえると,匿名 vs. 実名,という議論は現実的ではないといえるだろう.むしろ,匿名という言葉でひとくくりにされていたインターネット上のユーザーのふるまいやつながりの作り方を整理する必要がある.
2. 匿名性に対する過信と不信
匿名性が是非を問う議論に陥りがちな理由は,第一には匿名性という言葉の多義性,第二には匿名性に対する過信および不信から発生していると考えられる.
匿名という言葉が何を表すか.辞書によれば,「自分の名前を隠して知らせないこと.また,本名を隠してペンネームなどの別名をつかうこと」(『大辞泉』)とある.英語anonymousの語源は,ギリシア語の「an-(=without)+onymous(=name)」であり,名前がない(=nameless, unnamed),署名がない(=unsigned),特徴がない(=unremarkable),不明な(=unidentified)といった意味で用いられる.また,コミュニケーションにおける匿名性について,Anonymous★5は論文の中で「コミュニケーションの参加者が,メッセージの出所を不明・不特定なものとして知覚する度合い」と定義★6しているほか,Nunamakerらの論文では匿名は二元的にオン・オフにできるものではなく,程度を持つ連続的な変数と定義されている★7.すなわち,コミュニケーションにおいては,匿名性は「性」という言葉で示されるように度合いを持つ変数であると理解できる.
インターネット上の匿名性といった場合,さらに視覚的匿名性という意味が含まれる.インターネットを介したコミュニケーションは,相手の顔が見えない,すなわち視覚的に匿名性が高い状況(visual anonymity)にある.CMC(ComputerMediated Communication)分野においては,視覚的匿名性に基づいて多数の実験研究がなされている.Joinsonは,CMCにおいて,匿名性という言葉は通常は相手に対する識別性の欠如を表すが,コンピュータを媒介した場合にはむしろ相手のハンドルやメールアドレスを識別できると指摘し,インターネットがもたらす視覚的な匿名性に着目している.現在,インターネットを介したコミュニケーションが匿名ということの意味は,実名を秘匿したコミュニケーションが可能なことと,視覚的な匿名性を前提としている.
こうした匿名性の解釈は,匿名に対する過信と不信感につながっている.
顔が見えないという視覚的匿名性.本名を隠し,自分が誰であるかを特定されないという「安心感」.匿名だから安心,と反社会的な行為を書き綴った結果,蓄積された日記や人間関係から本人が特定されるという事象が発生している.特にSNSでは人間関係から実名を関連付けることが比較的容易なため,個人情報が次々と結び付けられている.顔写真や実名を秘匿することを過信するあまり,自分の生活や人間関係についてより詳細に記述し,意図せぬ情報の関連付けを招くことは考慮すべきだろう.
一方,実名で書かなければ書いたものは無責任とされかねないという「不信感」も,情報の関連付けという視点から問い直す必要がある.たとえば,実名を検索しても現れることがない名前で,ネット上に何かを書き込んだとしても,その名前が実名であるかの判断は必ずしもつけられない.逆にあるユーザーが仮名でなんらかの書き込みをした際,検索によってそれまでの投稿履歴やプロフィールが結び付けられるならば,仮にその書き手の実名や社会的ポジションがわからなくとも一個の書き手として評価の対象となる.アルファブロガーのすべてが実名ではないし,信頼されるクチコミを投票しているユーザーも,必ずしも実名を明らかにはしていない.
3. 匿名性の3要素
こうした混乱を避けるために,本稿では匿名性を三つの要素によって整理したい.
(1)匿名性のレイヤ:誰にとっての匿名性か
(2)本人到達性:個人を特定できる度合い
(3)リンク可能(不能)性:同一人物なのかどうか
(1)匿名性のレイヤ
誰にとっての匿名性なのか.飛行機に乗るときのことを例示しながら説明したい(表1).まず,パスポートや身分証で乗客の身元が確認される.次に,航空会社が発券する搭乗券によって,どの座席にどの乗客がいるかが把握される.この時点では,航空会社にとっては,乗客は匿名ではないが,乗客同士ではお互いに誰かは全くわからない,いわば匿名の状態である★8.
インターネットに当てはめると,IPアドレスやプロバイダの支払い情報などが身元確認といえる.Yahoo! IDや楽天IDなどのポータルIDを取得するならば,IDの提供者に対してはIDと身元は関連付けられ,匿名性は失われる.クレジットカードなどの支払い情報が関連付けられているなら,匿名性は完全に失われている.この状態では,先に挙げた乗客同士と同じく,ユーザー同士では互いの身元はわからない匿名の状態である.
ユーザー間では匿名性が高いが,サービス提供者には身元が確認されるという例を挙げよう.代表的なQ&Aサイトである「Yahoo! 知恵袋」[http://chiebukuro.yahoo.co.jp/]のβ版(2005年11月7日に終了,以後正式版へ移行)では,Yahoo! JAPANのIDを取得しなければ書き込むことはできないものの,自分のニックネームを表示するか,もしくは「ID非表示」とするかを選択することができた.ニックネームを表示した際には,それまでの投稿履歴も参照することができるが,非表示の場合には投稿履歴は関連付けられない.ただし,個々の回答に対する評価は「Yahoo!知恵袋」のシステム内でIDごとにまとめられ,「貢献度」というポイントとしてユーザー自身に示された.このサービスはユーザー間では匿名性の高いサービスといえるし,一方でYahoo! JAPANのIDによって身元がある程度特定できることから,匿名性の低いサービスと見ることもできる.このように,匿名性についての議論は,レイヤの違いを明らかにする必要がある.
表1:誰にとっての匿名か
| ユーザー | 乗客 | ユーザー |
|---|---|---|
| サービス提供者 | 航空会社 | 書き込み用ID |
| 身元確認 | パスポート | IPアドレス,支払い情報 |
出典:筆者作成
(2)本人到達性
本人到達性とは,実名,基本四情報(氏名・住所・性別・生年月日)などによって個人を特定できる状態である.具体的には,支払いや訴えに対する責任がとれる状態である.一般には,本人到達性が満たされていれば「実名」「匿名ではない」とされ,本人到達性が満たされていなければ「匿名である」ととらえられている.ネットが匿名性の高い場と考えられているのは,コミュニケーションを図る相手のこうした情報が必ずしも明らかではないためだといえる.
(3)リンク可能(不能)性
複数のセッション(書き込み,ダウンロード等)が行われたときに,それが同一人物によるものかどうかの関連付け(Link)が可能であるかどうかは,匿名性の程度を決める重要な要素である★9.たとえば,掲示板に複数の書き込みがあった際に,これが同一人物によるものであるとわかれば「リンク可能」であり,同一人物とわからなければ「リンク不能」な状態である(図1).さらに具体的にいえば,「名無しさん」「通りすがり」といった書き込みが並んでいると,それらが同一人物なのか違う人物なのかわからないため,リンク不能であり,ハンドル(仮名)ごとの書き込みが識別できるのであれば,リンクが可能である.リンクが不能であれば,リンクが可能である状態よりも匿名性は高い.情報が関連付けられない――リンク不能なためである.
リンクが可能であり,仮名の属性や履歴が蓄積されるなら,個人を識別するための情報は増大する.つまり,それぞれの行為や断片的な属性が集められ組み合わせられることで,実名を隠していたとしても,どこの誰かがわかってしまう可能性があるわけだ★10.もちろん,情報がリンクされることによるメリットも多い.発言,背景,人となりを関連付け(リンクさせ)ることは,より日常生活での人間関係にも近い状況がネット上でも作り上げられる可能性につながっていく.ただし,こうしたリンク可能性・リンク不能性に無自覚でいることが,匿名性への過信や意図せぬ情報流出を招くという危険性は自覚すべきだろう.
図1:Linkability と Unlinkability
出典:Baker, Wayne [2000] p.138.
4. 多様な匿名レベル
これらの三つの観点から,現在展開されているサービスを見ていこう.
(1)2ちゃんねる
「2ちゃんねる」[http://www.2ch.net/]は,インターネット上の匿名性の代名詞として挙げられる.匿名性が高く危険視されがちであるが,実際にはID制などの導入によって,匿名性を保ちつつもコミュニケーションの荒れを防ぐ仕組みが作られている.
掲示板書き込みにおけるなりすましを発覚しやすくするために,24時間以内の同一IPアドレスによる投稿には,IPアドレスと時刻を暗号化したIDがそれぞれの書き込みに付与される.このため,複数の書き込みは時限ではあるもののリンク可能となり,同一人物によるマッチポンプである「自作自演」は発覚しやすくなった.IDシステムはすべての掲示板で導入されているわけではないが,荒らしや誹謗中傷が発生しやすい掲示板に導入されている.2007年現在,掲示板全体の約7割でID表示が導入されている(筆者調べ,図2).
「2ちゃんねる」の書き込みには別途IDを登録する必要はなく,表示されるIDによってリンク可能性̶̶同一人物であるということは明らかになるものの,ユーザー間において本人到達性はない.このことが,「2ちゃんねる」が匿名性が高い場だと考えられている大きな理由だろう.だが,「電車男」をはじめとした「固定ハンドル」を名乗る投稿は,リンク可能であるためにしばしば「まとめサイト」にアーカイブされる.リンク可能な投稿内容がまとめられ一覧されるということは,書き込みをした本人が意図する以上の状況が明らかになることを意味する.実名を秘匿していることに対する過信が,意図せざる情報の蓄積や本人特定につながるという危険性を示唆する一方で,実名を秘匿した書き手が「固定ハンドル」によって一貫したストーリーを示すことで,匿名で発信される情報に対する不信感を覆す可能性も残している.
(2)SNS
SNSは,人間関係に基づく紹介や支払い情報によって,サービス提供者レベルのみならず,ユーザー間でも本人到達性を確保している.実名登録を条件とするSNSでは,先に挙げたレイヤすべてにおいて基本的に匿名性は失われている.
わが国のSNSの中でもっとも利用率が高いmixi [http://mixi.jp]の場合,当初は実名での登録を推奨し,すべての参加者に公開されていたが,現在では実名の公開範囲を設定できるため,ユーザー間では実名と匿名が混在している.ただし,日記およびコミュニティにおける投稿にはニックネームのリンクによってプロフィールが関連付けられるため,同一人物であることの判定̶̶すなわち,リンク可能性は保たれている.地域SNSや職業別SNSといった利用目的に応じて,ユーザー登録を前提としながらも,ユーザー間の本人到達性の開示範囲,またリンク可能な投稿履歴を一覧させるか否かを変更するといったカスタマイズが可能であろう.
(3)ブログ
米国では仕事目的の実名ブログが主であり,日本ではハンドルを用いた日記としてのブログが多いという傾向があるといわれる.ブログを開設するためには,有料または無料のサービスをレンタルするためにIDを登録するか,もしくは自分の所有するサーバスペースにパッケージをインストールする必要がある.サービス提供者のレイヤにおいて無料ブログをレンタルし,フリーメールを用いるならば本人到達性は低くなり,匿名性が高まるが,有料ブログや自分のサーバを運営する際には,支払い情報の登録によって匿名性は失われる.
ユーザー間,すなわち読者との関係において,ブログ内に記事が蓄積されること出典:筆者作成は明確である(リンク可能)が,実名や他のサイトとの関連付け(リンク可能性)を持たせるかどうかで,ブログを発信する際の匿名性を変化させることが可能となる.
(4)クチコミサイト
商品やサービスの購買経験を共有するクチコミサイトの多くは,書き込みの際にユーザーIDの取得が求められている.代表的なクチコミサイトとして「価格.com」「フォートラベル」「アットコスメ」「Amazon.co.jpレビュー」などがあるが,これらのサイトではID登録によってサービス提供者とユーザー間では本人到達性が確保されているものの,ユーザー間での匿名レベルは多様である.
たとえば宿泊施設のクチコミを見る場合,「楽天トラベル」ではクチコミを投稿したユーザーのIDは表示されず,ユーザー間ではどれが同一人物によるものかどうか判定できない̶̶リンク不能な状態であって匿名性は高い.だが,サービス提供者のレイヤでは,楽天トラベルを通じた宿泊者かどうかの確認がなされており,無責任な書き込みを管理する仕組みが担保されている.一方,「フォートラベル」では,すべてのクチコミはユーザーのIDに関連付けられてリンク可能であり,さらに一覧できる.しかし,サービス提供者のレイヤでは,フォートラベルを通じた宿泊ではないために,宿泊経験の真偽までは担保していない.
これらのクチコミサイトにおいては,クチコミの数を増やすか,質を確保するかといった目的によって,サービス提供者,ユーザー間それぞれにおける本人到達性とリンク可能性を設計することが考えられる.
図2:「2ちゃんねる」カテゴリー別ID率(2007年6月筆者調べ)
5. おわりに
本稿では,匿名性を三つの視点から整理することにより,これまで混同されて扱われてきた匿名性に対する分類を試みた.匿名性によってどのような「つながり」を築いていきたいのか.実名vs. 匿名という論争を超えて,用途や目的に応じた匿名性の設計を考えるべきであろう.
註
★1── 2007年初頭には毎日新聞による「ネット君臨」にて匿名性の是非を問う記事が連載され,2008年に入ってからもJ-CASTニュースをめぐって実名制と匿名の議論が繰り返された.
★2── 財団法人インターネット協会(監修)[2007]『インターネット白書2007』インプレス
★3── 山下清美,川浦康至,川上善郎,三浦麻子[2005]『ウェブログの心理学』NTT出版
★4── gooリサーチ「Blog定期リサーチ(25)」,全国のインターネットユーザー1,068名対象,2006年5月.
★5── Scott, C. R. はしばしば “Anonymous” という著者名で論文を発行している.
★6── Anonymous [1998] To reveal or not to reveal: A theoretical model of anonymouscommunication. Communication Theory, Vol.8, pp.381-407.
★7── Nunamaker, J. F. Jr., Dennis, Alan R., Valacich, Joseph S. and Vogel, Douglas R. [1991]Information Technology for Negotiating Groups: Generating Options for Mutual Gain.Management Science, Vol.37, No.10, October 1991, pp.1325-1346.
★8── 隣の人とパスポートを見せ合うことはほとんどないし,搭乗券も席の間違いがあった際には見せるが,名前というよりは座席番号の確認である.
★9── Unlinkabilityの訳語は他に「連結不能性」「データ(非)結合性」がある.
★10──「 2ちゃんねる」ではこうした状態は「特定した」と呼ばれている.
投稿者 noc : 18:10
ネットワークの理論――――「つながり」の最前線
対談:増田直紀×井庭崇
司会:庄司昌彦
ダイナミクスに向かうネットワーク研究
庄司昌彦(以下,庄司)──今日は,複雑ネットワークの研究をされている増田さんと井庭さんに,ネットワーク理論の最新の研究動向についてうかがいたいと思います.増田さんは今,特にどういうことに関心を持って研究をされていますか.
増田直紀(以下,増田)──私の関心は二つあって,「脳」と「人の社会行動」です.この二つのテーマはつながっている面もありますが,今回は後者を中心にお話しします.私はネットワークに関することには何でも興味がありますが,なかでも特に人間に関心があります.人のつながり方は,他のネットワークと共通している部分と,そうではない部分があります.個人情報の問題などからデータの入手が簡単ではないので,シミュレーションや数学や物理の式を使ってできることが中心ですが,式の世界にしか興味がないというわけではないので,機会があればデータの解析もします. 分野全体の動向の説明にもなるのですが,スモールワールド★1やスケールフリー★2など,私たちの身のまわりにあるネットワークの構造は,それなりにわかってきました.ただ,ネットワークについて人々が関心を持つのは,おそらく,その上で人がコミュニケーションをしたり,お金のやり取りをしたりというダイナミクスです.なので,私は,ネットワークの形を見るだけではなくて,ネットワークの機能を知ることにつながるような研究をしています.世界的な研究動向も同様で,たとえばインターネットはスケールフリー・ネットワークの有名な例ですが,それはもうわかったので,今度は,その上でパケットが流れたり,Eメールが流れたりといったようなダイナミクスがテーマになってきています. 具体的なテーマとして,私は,病気や情報の伝播のダイナミクスに取り組んでいます.たとえば,Eメールのアドレスリストを通じて広がるコンピュータウイルスは,スケールフリー・ネットワークの上では広がりやすいです.そこでハブに警告してウイルスを止めるにはどうすればいいのか.また,インターネット上にウイルスが出てくるとアンチウイルスのようなものが立ち上がって,免疫の抗原抗体反応のような仕組みで抑えるという種類のウイルス対策ソフトのスキームも研究しています. それから,これはインターネット上ではありませんが,病院の人的ネットワークの解析をしています.SARS(重症急性呼吸器症候群)では香港の病院の中で感染が広がり,それが世界に広がったという事例もあり,院内感染は大きな問題です.院内感染では,健康な医師や看護師では罹患しても症状が軽く,抵抗力の弱った患者が感染すると重症化してしまう,ということが多くあります.しかし,病気を運んでいるのは医師や看護師であることが多く,そういう場合は,病室を個室化して患者同士の接触をなくしても解決しません.医師や看護師の動きをうまく抑えなければいけない.患者を守るために医師や看護師に投資する価値がある,ということです. ここで扱っている伝播ダイナミクスのモデルは,ある程度一般性があるので,いろいろな現象に応用できます.たとえば情報の伝播や人の協力行動です.人が利己的に動く動機が強いときに,みなが利己性を抑えて利他的に振る舞うと社会全体として得になる,という囚人のジレンマは,経済学や心理学などでよく調べられています.このような現象は実際には人がつながったネットワークの上で起きていることもある.しかし,ネットワークの上の囚人のジレンマはよくわかっていないので,理論的に調べています.
庄司───つまり,1990年代後半に進展したネットワーク理論は,構造に関する研究から応用的な研究に移ってきているということですか.
増田───そうですね.今でも新しい構造が発見されますが,大体落ち着いてきています.ここで応用には二つの方向があって,一つはダイナミクスへの応用の話,たとえばネット上でクリックしながら情報にたどり着く過程をランダムウォークというモデルで解析するといった抽象レベルの理論的な応用です.もう一つは,先ほどの病院の例のような,現場での適用を考えた応用です.
ネットワーク科学はそろそろ終息する
庄司──井庭さんのご関心はいかがですか.
井庭崇(以下,井庭)───私も二つあります.一つは商品市場をネットワークとしてとらえることで,特に書籍やCD,DVDの商品と商品の関係性からネットワークを構成して,その特徴を理解するということをやっています.これらはもともとネットワークとして存在しているものではないのですが,個々の関係性をつないでいってネットワークとしてとらえるわけです.たとえば,ある人が買った物同士はその人にとっては関係性があるものとして,リンクでつなぐ.個々の関係には個別性がありますが,それを抽象化して同じだとみなした場合に,市場全体としてどんなネットワークができるのかということを見るわけです. 商品市場,たとえば書籍の販売量はいわゆるロングテールになると言われていますが,実際のデータで調べても,売上冊数を順位で並べたものは,やはりベキ乗分布でした.その月に販売されたものをグラフに描いてみると,毎月,ベキ乗分布が生成されているんです.これは,ベキ乗分布という,ある種の秩序を絶えず生み出すシステムが市場の中に埋め込まれていることを示しています. かつてバラバシ★3がウェブの全体地図を作ろうとしたように,現象をネットワークとしてとらえるということは,全体像を見るということです.私も世界の新しい地図を作るという気持ちで,いろいろなものをネットワークとしてとらえていきたいと思っています.これが,企業との共同研究などで行っている,今のネットワークの理論を生かした応用的な研究です. もう一つは,増田さんの言う「抽象レベルでの理論的な応用」という話に近いですが,ネットワーク自体の変化のダイナミクスに興味があります.私は,今のネットワーク科学はそろそろ終息すると考えています.というのは,ネットワークの構造的な秩序を見るというスナップショットの話が多い.これは,構造によって機能や振る舞いが決まるという構造主義的な考え方です.それはある程度行くところまで行っていて,5年ぐらい前から,「次はダイナミクスだ」としばしば言われるようになりました. でも,ダイナミクスの話に行った途端,リンクやノードとして抽象的にとらえているところを,具体的な仕組みに踏み込まなければならなくなる.たとえば,リンクがどう張られるかというときに,ノードの特徴やノード間の関係性を特定して考えなければならない.それはおそらく人のネットワークと脳のネットワークでは違うだろうし,情報のネットワークではまた違う仕組みになっているでしょう.それぞれを具象化していくと,もはやノードとリンクでとらえるネットワーク科学とは呼べない.もう一度,システム科学というか複雑系科学に戻って,システムの中でのネットワークの理解,つまり,どのような機能や振る舞いがどのような構造を作り,そしてそれが機能や振舞いにどう影響するのか,という一連のシステムの研究になっていく.そう考えています.
庄司───システム科学や複雑系科学に戻る,というのは,個別具体的な話と抽象的なネットワーク科学の中間的な位置づけになりますか.それはどのような研究でしょうか.
井庭───システムとしてとらえる時点で,抽象化はしているわけです.たとえば,SNS(Social Networking Service)上の人の振る舞いを社会学的,行動科学的に見ることはできます.リンクとノードというような抽象的な話よりは細かいメカニズムに踏み込むけれど,具体的な事例に寄り添うまではせずに,抽象的なメカニズムのところで話をするという感じでしょうか. 面白いことに,複雑系科学から派生して発展した研究分野に経済物理学(econophysics)がありますが,そこでは時系列のパターンにベキ乗分布を見るわけです.経済物理学も最近はだいたいやり尽くした感があるようですが,構造を見てきたネットワーク科学と,時系列を見てきた経済物理学,この二つを合わせていくことが今後期待されるところです.その意味で,複雑系科学から始まった二つの分野が,また複雑系科学に戻っていくのではないか. そうしたなかで,私自身興味があるのが自生的な秩序(spontaneous order),すなわちシステムの中でどのように秩序形成が起きているのかというシステム的な理解です.十数年前まで自己組織化というと構造の自己組織化のことでしたが,今はシステム自体の自己組織化を考えることが重要になっています.そういう観点から,オートポイエーシス★4やルーマン★5の社会システム理論がネットワークにどう関係していくかに興味があります. 話が戻りますが,先ほどお話しした商品ネットワークの研究では,市場をネットワークとして可視化することで初めて全体が見えてきます.だだ,可視化したら複雑すぎて全体は見えないという限界も同時に思い知るわけですが(笑).でもまずは,まだ誰も見たことがないので,やってみることに意味があると思っています.マクロ,ミクロという二分法がありますが,ネットワーク科学はそこにメゾを持ち込みました.マクロのように集計量でとらえるのでもなく,ミクロのように要素の理解から始めるのでもなく,その中間のメゾ領域で全体像の把握ができるようになったのは,すごいイノベーションだと思います.その観点から商品市場を見たいんです.そのうえで,どのようにベキ乗分布やスモールワールド,スケールフリーの構造が生まれてくるのか.顧客のどのような振る舞いや相互作用の結果,メゾの秩序が生まれてくるのかを理解する.このように,ネットワーク科学の知見は現実社会の理解を深めるうえでまだまだ応用可能性がありますが,学問における探究としては,複雑系科学への発展解消という方向にシフトしていくと思います.
……続きは『智場』#111で.
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註
★1──
スケールフリー:一部のノードが膨大な本数(次数)のリンクを持ち,多数のノードはわずかなリンクしか持たない,という性質.特徴的なスケール(サイズ)が存在せず,分布が著しく非対称(ベキ乗分布)であるという特徴を持つ.
★2──
スモールワールド:他人同士が共通の知人を見つけて「世間は狭い」と感じるような,ネットワークの性質.ノードが集まって塊(クラスター)を形成しているが,クラスター間をつなぐリンクが存在することで,任意のノード間の距離が小さい.
★3──
アルバート=ラズロ・バラバシ(Albert-László Barabási):1967年,ハンガリー生まれの理論物理学者.米国ノースイースタン大学特別教授.複雑ネットワーク,特にスケールフリー・ネットワーク研究の第一人者.主な著書は『新ネットワーク思考─世界のしくみを読み解く(原題:LINKED: The New Science of Networks)』,青木薫訳,NHK出版,2002年.
★4──
オートポイエーシス:生命システムを特徴づける概念で,システムが自己言及的に自己自身を再生産するメカニズムを意味する.「自己創出」「自己産出」とも表現される.チリの生理学者マツラーナ(H. R. Maturana)とバレラ(F. J. Varela)によって提唱された.
★5──
ニクラス・ルーマン(Niklas Luhmann):1927年,ドイツ生まれの社会学者.社会システム理論の発展に貢献した.主な著書は『社会システム理論(上)(下)(原題:Soziale Systeme: Gurundriss einer allgemeinen Theorie)』,佐藤勉(監訳),恒星社厚生閣,1993・1995年.
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投稿者 noc : 17:38