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Center for Global Communications,International University of Japan

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情報社会で人が死ぬとき

石橋啓一郎(GLOCOM研究員)

 

 死んだり去ったりして、人間はいつか必ずいなくなる。そのとき残された情報はどうなるのか。最近、今まで自 分が考えてきたことを少しずつblog(「くまをとる」<http://ishbash.blogtribe.org/?bid=ishbash>) に書きためているのだが、そのうちにふと、大学時代に知人が亡くなったことを思い出した。その当時、「その知人の持っていたデータはどうなるのか?」とい うことを友人と議論した記憶がある。僕のいたキャンパスは当時すでに活動の多くをコンピュータに依存していて、レポート作成もメールのやりとりもほとんど の学生が大学の公共端末の上で行っていた。従って、彼の生活の多くは大学のコンピュータ上に残されていた状態だった。

 

死して後にコンピュータの上に残るもの

 情報社会になると、人間は日々活動するにつれ、いろいろな記録を電子的な形で残すことになる。例えば前述の 彼は、大学のコンピュータ上にレポートのために作成したファイルを残しているだろうし、個人宛のメールも残しているだろう。個人的なメモも残っているかも 知れない。あるいは、昔の恋人とのチャットのログも残っているかも知れない。また、彼が個人でインストールしたソフトウェアや、商用データベースからダウ ンロードした情報なんかもあるかもしれない。人間がコンピュータ上にデータを蓄積する理由は様々だろうが、主として後に本人が参照するためであり、その情 報の中には死後に公開することや人に渡すことは想定していないものがたくさんあるに違いない。

さて、大学生がある日突然事故かなにかで死んでしまったとする。残ったデータはどうなるか。いくつかのパター ンが考えられる。

  1. 大学が引き継ぐ
  2. 遺族が相続する
  3. 大学が引き継ぐが遺族にコピーを渡す
  4. 消去する

 そのコンピュータそのものは大学のものだから、遺族に渡されたりはしないだろう。しかし、その人が持ってい た情報はその人のものだという考え方をすれば、データについては遺族が相続するという考え方もそんなにおかしいものではないだろう。

残念ながら、彼の情報がどう処理されたのかを僕は知らない。

 

情報は誰のものか

 そもそも、情報については「誰のものか」という定義が非常に難しい。もちろん著作物については著作権があ り、この権利は相続できるから、その大学生の著作物の権利を引き継ぐ意味で遺族がそれを受け取るということは十分考えられることだ。

 一方で、残されたデータの中には本人の著作物以外のデータも多く含まれていることだろう。ソフトウェアの使 用権は相続を前提としているだろうか。その学生が有料データベースから引き出したデータについてはどうか。これらの情報は利用するときに使用許諾に同意す るという形で権利関係が生じている場合が多いだろう。しかし、それは死んだ本人だけが承知していて、残されたデータを見てもわからないかも知れない。

 さらに、プライバシーの問題だってある。その大学生が残した情報は、必ずしも遺族に見られることを意図した ものばかりではあるまい。

 

新しい情報

 今やわれわれは身の回りに様々な情報を電子化して置いている。その多くは、情報化以前にはそもそも存在して いなかったものだ。例えば、われわれが道で立ち話をするとき、そこで交わされた会話はその場にいた人たちの脳にだけ記憶され、その人たちが死ねば灰にな る。あるいは、僕が昨日の17:00にどこにいたかということなど、特別に日記に書いてでもいなければどこにも記録に残らず、数年すれば自分だって忘れて いるだろう。

 しかし、僕が昔の立ち話と同じ感覚で交わしているメッセンジャーを使った会話は、記録に残すことができる。 関東で使えるJRのICカードであるSUICAとそのシステムには、いつどの駅を利用したかという記録が残っている。僕が普段どんな作業をしているかとい う情報だって、ソフトウェアやOSの履歴の中に残っている。

 作業環境や個人情報、作業のために一時的に手元に置いた情報などすべてが電子化されていて、普段は「自分の もの」だと思って利用している。これほどあらゆる情報が保存・複製可能な形で蓄積されているというのは、これまでになかったことだ。しかし、そこにはさま ざまな種類のものが混在していて、どの情報が自分のものか、死んだときに相続されるべきものはどれかということになると、わからないことの方が多いという ことに気づく。

情報社会で死ぬということ

 情報化以前の社会では、情報が人々の間で形を変えずにやり取りすること自体が非常に少なかった。わずかに本 や新聞などの印刷物や、日記や手紙などの個人が意図して書き留めておいた情報だけが、形を変えずに受け渡し可能なものだった。しかし、こうやって「自分が 死んだとき何が起こるか」ということを考えていくと、われわれの社会は「情報の受け渡し」についての社会的枠組みをあまり持っていないことに気づく。

 その中でも、「財産」つまり経済的価値と直結するような知識や情報についての制度は、それなりに整備されて きた(それも情報技術が進むにつれていろんな矛盾と問題をはらんでいるが)。今はいろんな事件を通じて、「プライバシー」に関する情報について、ようやく 真剣に議論され始めており、制度も一部整備され始めているところだと言えよう。しかし、「財産」にも「プライバシー」にも属さないような情報が急速に増え ており、これらの扱いについてはまだ俎上にも上っていない。この話について考えていくと、誰かが亡くなったときの相続に関することばかりではなく、情報社 会の根幹に関わる問題のような気がしてくる。考えてみれば、「人の死」くらい社会にとって基本的なことが、まだほとんど考えられていないということは不思 議なことだ。どんな情報がどんな形で誰に属するのか、情報社会で人が死ぬということはどういうことなのか。全体像を見渡しながら議論してみるべきではない か。