佐世保小6女児殺害事件をどう読むか
豊福晋平(GLOCOM主任研究員)
2004年6月1日に起こった佐世保小6女児殺害事件(以下、佐世保小6事件と記す)は、周知の通りマスコミや教育現場を巻き込んだ一大騒動となった。このことに関して気付いた点を2つばかり書こうと思う。
ふつうの子供達が起こす不可解な事件
まず、今回の事件があまりに不可解で、周囲に混乱をきたしているのは、様々な原因背景が問題にされながらも、どれも決定的要因としての説得力を持たないこと、これまで目の敵にされてきた非行型犯罪とは、成り立ちが著しく異なることが大きい。
筆者は少年犯罪の専門ではないので立ち入ったことは述べられないが、ひとつだけはっきりしているのは、今回の事件が皮肉にも、最近過熱気味の少年犯罪に対する厳罰志向の裏をかくような格好になっていることである。
少年犯罪に対する厳罰志向は、もともと非行少年の問題行動に対する社会的抑止や排除の意味合いが強い。非行型犯罪は(実際の背景がどうであるかは別にして)いかにもワルそうな人物が悪事を働くので、見た目に分かりやすい。
しかしながら、神戸の児童連続殺傷事件に始まる最近の少年犯罪は、ふつうの家庭の、しかも一見集団に適応している子供達が突如引き起こす事件である。マスコミ総動員で根掘り葉掘り調べても、原因背景に特殊な要因を見つけることは難しく、事件の不可解さや不気味さばかりが際だっている。特に佐世保の事件は、当事者はどちらも小学生女児であることから、単純に厳罰化で解決できる問題ではなさそうだ、と多くの人が気付くことになった。
具体的にいえば、この課題は我々の日常生活の延長にあって、同じような環境を多くの人が共有しており、社会的排除という手段が積極的意味をなさないということを示している。また、一見社会適応してみえる子供達は、まぎれもなく従来の教育的アプローチの成果であることを考えれば、青少年健全育成や道徳教育といった枠組み自体の限界を考えるべき状況にあるのかもしれない。
誰がネットコミュニケーションを教えるか
また、この佐世保事件は、直接の引き金がホームページやチャットであったことから、当初はITと子供との関わり方が相当問題にされたことも特徴である。
しかしながら、ある程度日数が経って改めて見てみると、「子供に危険なITを使わせるな」といった過激な論調が大勢を占めることはなく、むしろ、ネット社会の経験をどう子供達に伝え導くか、という部分へ関心が集まっているようだ。これは、ITが生活に必要な手段として定着していることの現われである。
図らずも事件によって明らかになったのは、(1)大人の予想以上に子供達のITコミュニケーションが拡大進行していること、(2)大人がそれら実態を十分把握できていないこと、(3)利便性と危険性を併せ持つネットコミュニケーションを適切な形で子供達に与える方法手段が確立していないこと、(4)ネットコミュニケーションを円滑に教え導く担い手が十分存在していないことである。
問題の核心は「誰がどのように教えるか」という(3)や(4)にある。メディア環境の急速な変化と携帯電話のようなコミュニケーションの個別化によって、大人の世代が子供達を十分把握できない状況で、予想される影響は深刻さを増しており、事態は緊急でありながら、有効な対処方法がなかなか見つからない。
実は学校教育では、早くから情報社会の影の部分を扱うべく、情報教育のカリキュラムの整備を進めてきているのだが、教員が日常的に業務でネットワークを使う状況にないこともあって、十分な対応は望めない。かといって、民間主導で進めるのも相当前途多難の印象を受ける。)「意外と不人気? 試行が続く小学生向けネットモラル教室」(http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0407/26/news006.html)の見出しに象徴されるように、ネットコミュニケーションの防犯安全教育を強調すると、ネチケットやセキュリティなど楽しくない話が多くなり、子供達の動機付けや魅力対象とはならないのである。後から取って付けたような対処では、かえって誤った先入観を植え付けることにもなりかねない。
かつてのメディアキッズプロジェクト
小学生でも安心して参加し、共に成長できるような教育モデルの構築は、たぶん学校まかせでも作れないし、民間企業等からサービスとして金で買えるものでもないだろう。むしろ、保護者や地域を巻き込んだ社会的協働によって、これらが形成発展されることを筆者は期待している。