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「反・私的所有」の思想
鈴木謙介(GLOCOM研究員)
「共有」は悪か?
「ファイル共有」という事象について、私たちはどのように考えるべきか?私たちの通常の理解は今、ファイル共有を犯罪に類する振る舞いとして捉えるようになっている。むろんそれはWinny事件を契機にした単なる誤解であり、ファイル共有自体には可能性があるのだと主張する立場もある。こうした問題について考えるに当たって、私たちが考えなければならないことはたくさんあるのだろうが、とりわけ重要なのは「なぜ共有によって罪が問えるか」であろう。
共有が罪になるのは「他人のもの」を勝手に公開するからだ。つまり「共有」が、「購入」という振る舞いによって「売った人」と「買った人」の間に生じていた排他的な権利関係を崩壊させるがゆえに、それは罪になるのだ。「他人のものを勝手に持っていったら泥棒になる」というわけだ。
アナーキズムの思想史的意義
ところで、かつて「所有とは盗みである」と言った人がいる。19世紀のフランスの思想家P.J.プルードンだ。当時「所有権」は自然権の一部に数えられる重要な権利であり、何人も犯すべからざるものだと考えられていた。しかしながらプルードンは、その前提となるJ.ロック流の「労働-占有」モデル、すなわち自分が働いて得たものは自分のものだ、という所有権の根拠付けを批判する。というのもロックが主張する所有権の不可侵性を可能にするためには、誰のものも奪わずに労働し、所有できるような無限のフロンティアが想定されているからだ。
しかし、実際には、近代社会に生きる私たちは、リソースが限定されているが故に一人で商品を生み出すことなどできないし、その意味であらゆる生産物は労働者によって「共有」されたものに他ならない。それを私的に所有することは、所有権の侵害=盗みと呼ぶべき出来事なのだ、とプルードンは考えた。
実は、プルードンをはじめとするアナーキズムの思想家たちの中には、こうした「私的所有批判」という性格を持つ人たちが非常に多い。というのも、そもそもこうした所有権=自然権の保護という発想が、当時勃興しつつあったイギリス中産階級の財産保護を念頭に置いたものであり、具体的には「国王によって不当に課税されない権利」を守るための議論という、一種の階級的前提があったからだ。
現代によみがえるアナーキズム?
また、興味深いことに彼らの思想は、今であれば地域通貨やシェアリングといった「新たな左派理論」の中で語られているアイディアに非常に近い。プルードンの場合であれば、後に彼は「交換銀行」あるいは「人民銀行」と呼ばれるシステムを通じて、資本主義社会における「所有」のはらむ問題を解決しようとした。これは「交換券」を用いることによって貨幣の流動性を下げるという実践で、地域通貨、エコマネーのはしりだとみなすことができるし、資源の有限性を認識し、「所有」ではなく「共有」によって全体の財を有効活用しようとする発想は、ワークシェアなどに直接結びつく議論だと言えよう。
また、アナーキズムは実はインターネットとも親和性が高い。上記のような実践と情報技術は密接に結びついているし、20世紀まではまったく経済学的根拠を持たないと批判されていたアナーキズム的実践にも、大きな実現可能性をもたらしたとも言えるだろう。
こうした傾向がなぜ生じたのかはよく分からない。一説には、まだコンピューターが今より高価で希少だった時代、限られたリソースは研究者にとって完全に「共有物」だったからだという。何にせよ、アナーキズムの思想が電子の世界で再び注目を集めている技術や実践と非常に近いところにあるのは間違いない。
「共有」をむやみに批判するのも結構だし、それに逐一反論をするのも大事なのだが、共有にまつわる実践がそもそも何を目指しているのかについて、一度腰を落ち着けて考える必要があるのではないだろうか。