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政治経済システム転換に必要な不可避的コストと意志
加藤創太(GLOCOMフェロー)
S大学のゴルゴ13が日本で見た真夏の白昼夢
アメリカに住んでいると車で十分圏内にいくらでもゴルフ・コースがあるのに、なかなか行く気がしない。留学当初にサマースクールに通っていた時分、貧乏人の悲しい性で、「これは割得、やらねば損」とばかりS大学所有のコースに毎日通い詰め、キャンパス越え(!)の1番ホールで、キャンパス内を朗々と闊歩する罪のないサマースクール留学生たちをドライバーで乱射(=OB)し恐怖させたものだが、それ以来、とんとご無沙汰している。ゴルフ自体に愛想が尽きたのかと思いきや、久々に日本に戻ってみるとけっこうな頻度で通うようになっているからそうでもないようだ。どうやら、「ゴルフ=高い、予約が取れない、気合いを入れねば、面白いはず」というバブル期のすり込みが生きていて、いまだに日本に戻ると古傷のように疼きだすという構図のようである。
さて、このコラムでは、先日ちょっと華やかなゴルフコンペで、狙っていたブービー賞を惜しくも逃し、最下位に終わった負け惜しみを、日本経済、経済政策論と強引に関連づけて書こうと思う。ホールが進む中、暑さと驚異的な高スコア(=打数が多い)と美しい女性たち(繰り返しになるが、華やかなコンペだったのだ)に目がくらんだ私には、決して見栄えが良いとは思えないフォームで手堅くスコアをまとめる年輩の方々と、タイガー・ウッズばりの豪快なスウィングで隣、時には隣の隣、さすがに隣の隣の隣はなかったな、のホールのプレーヤーやキャディを脅えさせるS大学サマースクール卒の孤独なスナイパーとの違いが、今の日本政治経済を象徴しているかのように見え始めたのである。
こっちの方がフォームは「良い」のに! 「きれい」なのに! グローバル・スタンダード(死語?)なのに!
もちろん、正義は私=孤独なスナイパーの方にあった・・・。
二つの仮処分申請
真夏日が延々と続いたこの夏、今後の企業経営、ひいては日本経済にとって大事な意味を持つ二つの差し止め仮処分申請が出された。一つは、UFJホールディングスに対して住友信託銀行が起こした、UFJホールディングスと三菱東京ファイナンシャルグループの信託部門の統合交渉差し止め申請であり、もう一つは、CSKがベルシステム24に対して起こした新株発行差し止め申請である。前者は地裁では仮処分が認められたものの、高裁では一転して仮処分が取り消され、最高裁も抗告を棄却した。後者は地裁・高裁双方とも申請が棄却された。
経済政策立案の現場に実際に立ち会った経験から言うと、政策立案に携わる政治家や官僚は「カタチ」になるものを創ることに躍起となる性向がある。そしていったん「カタチ」を創り上げると、新たな「カタチ」の構築へと猛進していく。なお、ここで「カタチ」とは、最近よく言われる「ハコモノ行政」の「ハコモノ」のみを指しているのではなく、より幅広く、法律やガイドラインや予算等々をも含む概念である。
無論、法律や予算などは政策遂行の手段として非常に重要な要素ではあるが、それらだけで目的が達成されるほど経済や市場というのは甘いものでも単純なものでもない。慣習や規範などの各種制度、政治システム、ある程度以上の規模を備えた市場、信頼や中間組織、人的資本やノウハウ、情報仲介機関など、長年の歴史的経緯を経て社会に蓄積される種々の要素がお互いに絡まりあいお互いに補完し合うことで、企業や人間の行動は規律される。
そういった各種の制度やその運用の中で、特に重要な意味を持つのが司法制度とその運用形態である。企業や人間が「限定合理性(bounded rationality)」しか持たないという現実的な前提に立てば、あらゆる事態に対応できるような法律をあらかじめ制定しておくことはできない(逆にそのような法律を無理に創ろうとすると柔軟性に著しく欠ける不当な事態が多発しかねない)。その時々の状況によって、企業や人間の行動を「規律し直す」ことが必要になってくる。その手段として従来多用されていたのが、経済官庁による「事前行政」であるが、九〇年代の官僚制批判などにより、「事前行政」に代わり、経済官庁だけでなく裁判所も加わった「事後行政」の時代がやってきたと言われる。実際、旧大蔵省主導の護送船団が順調に航行している時代であれば、大手信託銀行がメガバンク(UFJ)の行動の差し止め仮処分を裁判所に申請する、などという今回の事態は想定し得なかっただろう。旧大蔵省銀行局内の会議室で、すべては事前に調整されていたはずだ。
つまり、いくら政治家や官僚や審議会の面々が法制度制定に腐心しても、事前にすべての事態に対応できるようなものを創ることは不可能であるし合理的でもない。しかし、事後行政の時代に法制度の運用と解釈に多大な影響力を与えるのは、政策立案を行う国会・経済官庁に加えて、裁判所など別の組織であり、そこで働くのは、経済官僚などとは全く異なる職務トレーニングを受け、異なるマインドセットを持つ裁判官、検察、弁護士などの法曹関係者である。そうなると、例えばある経済学的理念に基づいて経済政策が立案され、関連する立法がなされたとしても、その理念が事後的な行政の一翼を担う裁判所などと共有されていなければ、その経済政策はまったくちぐはぐな結果しかもたらすことができないだろう。また、政府による経済政策を観察し適応して活動する企業にとっても、政策決定権者と司法関係者との思想的・事務的連携がちぐはぐであれば、自分たちがどのような行動を取れば良いのかわからなくなり、不安にさらされることになる。そういう企業にとっての不確実性は、コスト増となって投資活動を減退させ、企業だけでなく社会全体に対する負のコストとしてはねかえってくる。
このように事後行政の時代においては裁判所、その中で活動する裁判官、検察、弁護士が経済政策に「事後的に」影響力を持つようになる。したがって今後、経済政策の適否を考える際には、汚職議員や悪徳官僚や利益誘導団体やブラック企業やハゲタカファンドやならず者外資だけではなく、裁判官による事後的判断にも監視の目を光らせなければならない。また、政策決定権者、立法権者との健全な連携が取られているかについても常に吟味しなくてはならない。今までの日本では「司法の独立性」を拡大解釈しているのか、マスメディアや世論は裁判所の判断に対する批判を自己抑制する傾向が見られた。しかし、最高裁の違憲立法審査権などごく一部の例外的領域を除けば、「独立」と「連携」(さらに「批判」)が決して矛盾するものではないこと、特に経済的な領域において「連携」はむしろ奨励されるべきことを、われわれは「中央銀行の独立性」という概念に振り回された最近の苦い経験からもよく理解しているはずである *1 。
さて、今回の二つの差し止め請求に対する決定のうち、政策決定権者、立法権者、そして司法組織の不整合がより顕著に現れているのは、ベル24増資に対する地裁・高裁決定である。早稲田大学の上村達男教授はこの決定が「既存株主の利益保護を目的とする商法の基本原理に反するきわめて不当な決定で、国際的にも全く通用しない見解」「欧米では、恐らくは信じがたい判断」「旧態依然たる法人中心の企業社会にどっぷりと浸かった司法に、これからの企業社会のあり方に対する洞察はない」(日経金融新聞)と酷評しているが、これはここ十年ほどの商法改正やそれに関連した政策立案に携わった者たちに共通する見解であろう。しかし、一橋大学の服部暢達客員助教授に言わせれば、今回の「裁判所の判断は過去の判例に忠実な結果」(同前)だそうである。
日本経済が低迷を続けたこの時期、商法を含む企業法制度は過去とは比較のならない頻度と深度で大幅な改正を繰り返した。その一連の作業を行う際、経済産業省、法務省などで政策立案や立法作業を担当した政策実務家、各種審議会の委員、改正法を国会で審議・議決した議員、などの念頭に一貫してあったのは、「株主によるコーポレート・ガヴァナンスの強化」である。しかし、この高裁による「事後行政」は、その抜け道を丸々認めてしまっている。なにせ既存株主の支配が気に入らない経営者は、資金調達の途さえあれば、いつでもその支配から逃れられる、と、この高裁決定は実質的に述べているのだから。これでは、せっかくの政策立案・立法作業が「経済の素人による」「事後行政」で台無しになった、と憤慨する者だって出てくるだろう。
もちろん、地裁・高裁決定を行った裁判官にも言い分はあろう。特に、企業の経営判断に司法や行政が口を挟むのはなるべく避けるべきだ、という論理は、初歩的な経済学だけ学んだ者からすればもっともらしく聞こえるかもしれない。しかしこの事案は、経済学的には中級の教科書なら載っている「エージェンシー問題」が生じる典型的な事案であり、司法や行政の介入が認められてしかるべきものである。介入手段も法律に埋め込まれている。
90年代のコーポレート・ガヴァナンスや商法改正を巡る議論においてはまさに、こうした「エージェンシー問題」をいかにして低減できるか、というのが主要な論点の一つだった。しかし、すでに見たように、立法・政策立案段階における長時間の議論や政策理念と「事後行政」を担当した裁判官との連携が取れていたとは思えない。その一方で、裁判所は「エージェンシー問題」が起こっていたとは考えられないバブル期の不動産投資で、大口株主などの異論もなかった当時の経営判断を、バブル後に事後的に厳しく断罪する判決をいくつも出している。こうした一連の裁判所の判断を見る限り、「企業の経営判断と司法介入」という重大な判断事項について、裁判所は体系的な理論的根拠なしに、また政策立案者・立法者との理念的連携なしに、迷走しているようにしか私には思えない。
さらに言えば、ベル24の増資計画にたとえ経営判断として合理性が強く認められるとしても、あるいは裁判所は経営判断には一切口を挟まないという立場をとったとしても、多少なりともファイナンス理論・実務をかじった者ならば、その資金調達を一部上場企業であるベル24が100%エクイティ・ファイナンスで行う、という点に大いなる疑念を感じるのが普通であろう。しかし、果たしてファイナンス理論を多少なりとも知っている裁判官はいったいどれくらいいるのだろうか?
なお、住友信託銀行とUFJの事案については、与えられた分量を超過していること、最終的な決定(最高裁)は穏当なものと思われることから、ここは詳細を省くが、問題は仮処分を棄却した高裁決定である。この高裁決定による「事後行政」には、およそ経済官庁などの政策立案者、経済学者などとの理念的連携が全く見いだせず、もしこのような「事後行政」が通るならば、今後の政策理念、立法理念は大幅な転換が求められかねない。むろん高裁決定の理由部分は最高裁で覆されたが、そのような「事後行政」が高裁レヴェルで行われるところに、政策決定過程の理念的な不整合が露呈されたとも言えよう。
再びS大学のゴルゴ13
さて、再び孤独なスナイパー、あるいは、負け惜しみ君へ話を戻そう。
乱射を続ける孤独なスナイパーの前で、決して見栄えが良くないフォームで手堅くスコアをまとめるオジサマたち。彼らのフォームには、ゴルフスクールなどで「悪い」とされる要素がてんこ盛りになっていたりする。「スウィングのときには頭を動かすな!」「左手を曲げるな!」「右手で打つな!」「腰の右側で壁を作れ!」等々、レッスンプロにどやしつけられる要素をすべて備えながら、(自分の主観では)「良い」フォームの孤独なスナイパーを好スコアで置き去りにしていくのである。
狙っていたブービー賞が遠ざかったところで泣きっ面のスナイパーがふと考えたのは、もし彼らの「悪い」要素のうちの一つを「良い」ものに変えたらどうなるだろうか? ということである。たとえば、スウィングの際にぐらぐら揺れる頭を上から押さえつけるとか。この先は想像だが、そうやって「良い」要素を強引に入れようものなら、彼らのスコアは大幅に落ちるのではないか。なぜならもともと彼らのフォームには、頭をぐらぐらさせるという「悪い」要素を補完し中和するために、腰をぐらぐらさせるなど、なんらかのさらなる「悪い」要素が加わっていると考えられるからである。そのとき、頭だけが強引に固定されれば、腰の動きだけが残ってしまい、スコアは大幅に落ちるだろう。
あるいは、かつてテニスプレーヤーから転身したプロゴルファーが、どうしても利き腕の力が強すぎて大きくスライスしてしまうので、アドレスを思いっきり極端に(=「悪く」)してボールが正面に飛ぶように補整した、と聞いたことがある。そうやってなんとかフォームを補整した彼に、「利き腕に力を入れるな」というゴルフスクール的に「良い」要素を強引に入れれば、極端なアドレスだけが残ってスコアは落ちてしまうだろう。
そう、ゴルフのパフォーマンスというものは、身体の一部一部の動きの組み合わせによるトータル・パッケージによって決まるものなのである。「悪い」要素も、それを補完し補整する「悪い」要素と組合わさることで、トータルではそれなりに良いパフォーマンスを生み出すことができる。逆に、タイガー・ウッズや丸ちゃんの「良い」部分を真似たり、レッスンプロから教わった「良い」要素を部分部分取り入れても、その組み合わせがうまく行っていないとろくなスコアは出せない。ゴルフに限らず、何らかのスポーツを真剣にやっていた者なら、必ず思い当たる節があるだろう。
一国の経済、そのパフォーマンスにも似たようなことが言えるのではないか。
例えば、経済官庁の頭でっかちな若手官僚が、留学時に見たアメリカ経済の隆盛ぶりに感銘して、自分や経済学者の多数派が「良い」と思う株主主体のコーポレート・ガヴァナンスを徹底させた制度を日本に輸入したとする。しかし、たとえその制度自体が理論的に「良い」ものだとしても、その「良い」要素に他の要素がついていかなければ、その「ゴルフと同様に、経済パフォーマンスは良くなるどころか一時的に悪くなるかもしれない。
具体的には、若手官僚が先導したコーポレート・ガヴァナンス関連法制の「事後行政」を担当する司法(特に裁判所)が、今回の二事案への決定で露呈したように、過去の「悪い」制度の補整的思考に囚われ新しい制度に対応しきれなければ、経済システムは全体としてちぐはぐになり、全体のパフォーマンスは落ちるかもしれない。だったら「良い」法制に対応させて、司法もすぐに「良い」要素に変えればいいじゃないか、という上村教授的な反論もあるかもしれないが、半年もかければ成立させることができるコーポレート・ガヴァナンス関連法制と違い、「事後行政」に必要な大量の法曹人口の養成、裁判官への経済学的トレーニングなどには、膨大な手間と時間がかかる。その間、経済は全体としてちぐはぐなままだ。ゴルファーと違って経済の場合、脳みそ=意志決定機関が一つとは限らないから、つまり、司法・立法・行政・企業などそれぞれの意志決定機関が異なり、お互いになかなかうまく連携が取れないから、新たな整合的な組み合わせを完成させるのはさらに困難となる。
「悪い」要素が巧妙に組み合わさってそこそこ良いスコアを出す中年ゴルファー。しかし「悪い」組み合わせにはやはり限界があり、スコアは壁にぶち当たっている。彼が、スコアの飛躍的アップを図って、プロゴルファー並みのフォーム、つまり「良い」要素を取り入れようとすれば、短期的にはスコアは必ず落ちるだろう。そうなると、フォームの抜本的改造を諦め、「悪い」要素の組み合わせに戻して、スコアを再び上げようという誘惑にも駆られるだろう。
日本経済が行き詰まった九十年代、そして今。改革派と抵抗勢力の関係も、浅薄な善悪二元論ではなく、水戸黄門的な視点ではなく、ロード・オブ・ザ・リングスのエルフや人間(なぜか全員白人)から見たオークではなく、ゴルフのフォーム改造に悩むこの中年ゴルファーの気持ちになれば、より良く理解できるのではないだろうか。「良い」要素を取り入れたとしても、それが他の「良い」要素と組合わさり、熟成するまで膨大な時間や手間がかかる。その間、パフォーマンスは以前の「悪い」組み合わせのときよりも落ちかねない。それでも改革に邁進すべきか、後戻りすべきか――。簡単な選択ではない。
一国の経済、政治、社会は独立した個別要素の集合体ではなく、それらの相互補完的な組み合わせである。トータル・パッケージである。一部を「良い」ものに改革しようとすれば、他の部分も改革しなければ全体のパフォーマンスは上がらない。各部分の改革に要する時間には大きな差があるから、改革の途上では、各部分の連携のちぐはぐな状態が続き、整合的な組み合わせが完成し熟成するまで、つまり全体の改革が完了するまで必然的に多大な時間がかかる。その間、フォーム改造中のゴルファーと同様、全体のパフォーマンスは以前の「悪い」組み合わせよりも落ちてしまうかもしれない。システム転換には不可避的なコストがかかるのだ。そこで元に戻って「そこそこ良い」パフォーマンスを確保すべきか、前に進んで見果てぬ夢を追求すべきか。その判断は改革にかけるわれわれ国民の意志の問題でもある。
孤独なスナイパーはそんな屁理屈をこねながら、見果てぬ夢を追って、再び恐怖の乱射を続けたのだった。
*1
: ここで詳論するのは避けるが、制度の存在意義に立ち返って考えれば、経済政策的な分野においては「日銀の独立性」に比べても「司法の独立性」はより低い次元に位置づけられるべきものである。なお、裁判所もこの点はある程度認識しているようで、それは最高裁の違憲判断における「二重の基準」論などに反映されている。