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「社会」と「学問」のあいだで――ised@glocomの可能性
東浩紀主幹研究員がディレクションをする「情報社会の倫理と設計についての学際的研究 Interdisciplinary Studies on Ethics and Design of Information Society」プロジェクト(略称「ised@glocom」プロジェクト)の第一回研究会となる、「情報社会と倫理」研究会(通称「倫理研」)が、先日10月30日に行われた。研究会ではまず、筆者が今後の研究会の方針の基軸となる基調報告を行い、それに続いて委員の方々との討議が行われた。全体で数時間に及んだ研究会の内容は、ised@glocom webサイト(http://www.glocom.jp/ised/)にて公開されるが、ここでは、もう少し広い視点からこの研究会の可能性について考えてみたい。
現在、大学教育を含めた専門知のあり方は、大きな変革を迫られている。その理由は大きく言って三つある。ひとつは、少子化と生涯教育推進の流れの中で、専門教育がより大衆に開かれたものとなる必要が生じたこと。もうひとつは、冷戦体制の崩壊と21世紀に入っての国際社会の動揺を踏まえ、寄って立つべき視点を求める声が高まっていること。そして最後は、そうした「大衆に求められる知」から、とりわけ人文諸科学の成果が乖離し、抜け落ちつつあるということだ。
倫理研の問題意識は、特に三番目の論点に関わっている。すなわち、情報社会化が進展する中で、人文的知がいかにしてその意義を提示しうるのかという問題だ。というのも、人文的な知の蓄積、とりわけ近代社会に対する考察の中では、想定しうる枠組みとしての「国家」はほぼ自明なものと見なされてきたのだが、もはや現実の国家にはそのような包括的な力を期待することは難しくなっているからだ。
人々の生活から、大枠としての国家が退潮していくとき、二つの流れが生じる。一方は、「世界の中の個人」として、世界に起こりうる様々な問題やリスクに対処する能力を身につけ、国家に頼らず独立独歩して生きていこうとする動き。もう一方は、国家的な利害の名の下に圧殺されざるを得なかった特殊な利害や関心へとコミットし、限定された価値世界の中で主観的に幸福な生を送ろうとする動き。社会学的には、前者を「ネオリベラリズム」ないし「グローバリゼーション」と呼び、後者を「コミュニタリアニズム」ないし「ローカリゼーション」と呼ぶ。
グローバルなものと、ローカルなものに引き裂かれていく私たちの生活は、そこで必要とされる知のあり方をも一変させる。グローバル化する社会の中で必要とされる知とはすなわち、予測不可能なものを予測させるに足る「具体的な」知であり、観念の世界ではなく、現実の世界を扱うと見なしうる知識だ。いわゆる「理系」の知や、そうしたものを取り入れつつ発展する金融工学をはじめとする経済学、国際関係を明確に把握するための現代的な政治学などがそれにあたる。また、ローカルな領域での生活に必要とされるのは、自己のコミットする価値を体現する「感性的な」知であり、美学やサブカルチャー、およびそれをとりまく情報のデータベースがその資源となる。
こうした社会の中では、国家や政治や人間の生や社会の持つ特性を一般的に語りうるような理論的アプローチは、誰にとっても必要なものではなくなる。さらに、こうした専門的な研究を行う研究者と、一般の人々とのインターフェースであるマスコミも、大きく変質せざるを得ない。というのも、情報化を含めて社会がドラスティックに変化する現代においては、「大衆」へと向けられるマスコミの言説は必然的に、「社会の変化にまだ付いていけない大勢の人々」を対象としたものにせざるを得ず、思考と理解を必要とするような「難しい話」は、報道から排除されることになるからだ。
求められることも、伝えられることもない人文的な知の衰退は、例えば「文学部廃止論」のような形で具体的に現れている。福田和也氏は著書『イデオロギーズ』の中で「思想なんか勉強して、何になるのですか」と聞いてきた学生の話を挙げ、「おまえみたいなバカにならずにすむ」と言ってやりたかったと書いているが、おそらくそうした声が学問に携わる人間以外に届く可能性は、今のところきわめて低い。
では、もはや人文的な知とは、ある種の趣味人だけが共有すればよい「過去の遺物」なのだろうか。第一回研究会において私が報告の中で強調したかったのは、実際には思想史の中で数百年の蓄積があるような事態が、情報化によってあらためて生起しつつあることを指摘することで、こうした知のなし得る可能性について考慮する必要性であった。同時に、そうした知を学問の領域に閉じこめることなく、「社会」の側に受け取られる言葉として発信していく可能性を模索するというのが、筆者にとっての本研究会の意味でもある。
ised@glocomは、今後も「情報社会と設計」研究会と共に毎月開催され、その内容も随時Webサイトで公開されていく予定になっている。単に「社会」におもねるのでもなく、といって「学問」の蓄積を殊更に強調するのでもなく、「社会」と「学問」の間で知的な実践を試みることがこの研究会の目指すところであり、その成果は、まさにこれから問われていくことになるだろう。